閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ゆきゆきて、神軍(1987)

ゆきゆきて、神軍(1987)

  • 上映時間:122分
  • 製作国:日本
  • 初公開年月:1987/08/01
  • 監督: 原一男 
  • 製作: 小林佐智子 
  • 企画: 今村昌平 
  • 撮影: 原一男 
  • 編集: 鍋島惇 
  • 助監督: 安岡卓治 
  • 出演: 奥崎謙三
  • 映画館:渋谷 アップリンク
  • 評価:☆☆☆☆☆

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1987年にこの作品が渋谷ユーロスペース(当時は今とは別の場所にあった)で上映されたとき、私は大学一年だった。私より前にこの映画を見た同じサークルの友人が憤りながら次のように言っていたことを覚えている。

「あんなとんでもないおっさん初めて見たわ。病気の人間を殴りつけているんやで。もう無茶苦茶な奴だよ」

この特異すぎるドキュメンタリーは公開当時おおいに話題になり、渋谷ユーロスペースは連日超満員だったようだ。

この映画の公開前から、神戸出身の私は奥崎謙三のことは知っていた。衆議院の兵庫一区から奥崎は立候補していて、その選挙活動中に殺人未遂事件を起こしたことは大きく報道されていたからだ。兵庫一区は私が居住している選挙区だった。高校生だった私には投票権はなかったが、選挙報道が好きだった私は、奥崎の奇矯な政治的主張も印象に残っていた。「けったいなおっさんがおるもんやなあ」と思っていたのだ。この殺人未遂事件が、終戦後にニューギニアで部下の処刑を先導した下士官、古清水への奥崎の制裁行為だと知ったのは、この映画を見たときだったが。

ロードショー公開で見て以来、3、4回は『ゆきゆきて、神軍』を見ているように思う。今回はたぶん十年ぶりぐらいでこの作品を見た。すでに何度も見ている作品にもかからず、やはりずんと重量のある鈍器で胸を強打されたような衝撃を受ける。奇跡的な傑作だ。

奥崎のエキセントリックな言動、過剰でえげつない自己演出には辟易としつつも、それでも私は奥崎の戦争に対する責任の取り方、取らせ方、その思想と行動の一貫性、欺瞞の追求態度には、共感するところがある、そして自分がこの映画における彼のふるまいに影響を受けたところがあることを確認し、居心地の悪さを感じた。

私がこれまで見た戦争についてのフィクションやノンフィクションで、『ゆきゆきて、神軍』ほど戦争が人間にもたらす恐怖と無残さとおぞましさをリアルに生々しく感じさせる作品はない。

神戸の下町、板宿の商店街の小料理屋のおやじの告白場面がある。人のよさそうなごく普通の雰囲気のおじいさんだ。彼は奥崎に促されるままに、戦地で飢えた兵士たちが「白豚」、「黒豚」という符号を使って人肉を食べていたことを淡々と語る。南方の戦地で飢えに苦しんだ兵士たちが人肉を食べていたという事実は、大岡昇平の『野火』などのテクストを通しては知っていた。しかしその人肉を食べる壮絶な戦争体験を当事者が自分のこととして語るのを映像で見るインパクトは強烈なものだった。それを語るおやじは、板宿の商店街の小さな店の好々爺といった感じの人物なのだからなおさらだ。

奥崎が追い詰めた元兵士のなかで、もっとも良心的で常識的に思える埼玉在住の山田吉太郎から引き出した告白は、実はもっとも陰惨なものだった。連隊の唯一の生き残りとして日本に帰還した彼は、飢えを満たすために仲間の兵士のなかで「利己的なふるまいをするもの、役に立たないもの」を共謀して一人ずつ殺し、食していた事実を語るのだ。
奥崎の暴力と恫喝を通して、かつての兵士たちは部下の非合法的処刑(戦時の法にあっても)、人肉食といった事件に口を開き、自己弁明を行うが、その様子は、そのような苛烈な追求のなかでもなお語られなかった陰惨な事実を想像させるものだった。自己保身のために過去に自分が関わった行為のおぞましさを、「私だけでない、他の人も傷つけるから」と口のきけない死者たちの名誉を守ることを口実に、封印する行為は、人間的と言えるかもしれないが、卑劣な態度だ。

奥崎は敢えて暴力的な手段を使って、かつての兵士たちの傷をむりやり押し開き、大量出血させる。奥崎に果たしてそういう権利はあるのか。奥崎の言っていることはある意味、正論なのだ。戦場から生き残った者たちは過去のおぞましい行いを明らかにすることで自らを裁き、そのことが今後の戦争抑止につながるであろうという主張である。しかし奥崎独自の正義を掲げつつ行われるカメラという武器を使っての追求は、彼のグロテスクな自己顕示と自己陶酔と表裏一体であることがあからさまであるだけに、見ている私の心はぐらぐらと激しく揺さぶられてしまう。