閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ザカリーヤー・ターミル著・柳谷あゆみ訳『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』

この短編小説集は2018ねん2月に白水社から刊行され。
 
ザカリーヤー・ターミル(1931-)は現代シリアを代表する作家だが、1981年以降は英国に拠点を移し作家活動を行っている。『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』は200年に刊行されたターミル9冊目の短編小説集とのこと。長さの異なる59編の短編小説が収録されている。最も長いものでB5版のページで5ページ、短いものはごく数行しかない。
翻訳者の柳谷あゆみさんとは、早稲田大学文学学術院の講師控室で知り合った。彼女はふじのくに⇄せかい演劇祭2016でレバノンの演劇人、サウサン・ブーハーレドの『アリス、ナイトメア』の字幕操作をしていて、終演後に赤いシャツを着た太った中年男がブーハーレドに話しかけているのを見ていたそうだ。その赤シャツ男が、彼女の非常勤先でもある早稲田大学文学学術院の講師控室でパソコンに向かっていたので、思わず声をかけたそうだ。赤シャツを着ているとこんなこともある。
『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』に収録されている作品の多くは、シリアの架空の街区、クワイク街区を舞台としていて、荒廃、暴力、横暴、悲嘆、諦念が支配するこの貧民街で暮らす人々の生活がリアルに描き出されている。しかし言論や表現活動に厳しい制限が加えられているシリアでは、現状を批判する直截的な表現は注意深く避けなくてはならない。したがって『酸っぱいブドウ (ヒスリム) 』の描写は、生々しくリアリズムを感じさせつつも、寓意的・隠喩的な表現に満ちている。
B5版で71頁ほどの冊子ではあるが、稠密で詩的な描写ゆえに、読む終えるのにはかなり時間がかかった。耳慣れない固有名詞やごつごつとした文体に最初戸惑ったが、しばらくのあいだそれを我慢して読み進めると、シュールリアリズム的ともいえるブラックでグロテスクな幻想が立ち現れ、その世界に入り込んでしまう。短いエピソードの連鎖と語り物を思わせるハードボイルドな文体、そして描き出されたグロテスクは、『アラビアン・ナイト』のような説話集、あるいはオウィディウスの『変身物語』を連想させた。実際、この短編小説集の登場人物はいろいろなものへと姿を変える。暴力的で不条理な社会を生き抜くシリアの住民たちのたくましさには、ブラジルの貧民街のアウトローたちの姿を描いたフェルナンド・メイレリスの映画、『シティ・オブ・ゴッド』を連想した。
奇妙な後味をもたらす面白い小説集だった。苛酷な紛争が続くシリア社会で育まれた屈折した知性による現代暗黒寓話集である。