http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット
製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット
撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット
原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館
評価:☆☆☆☆
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http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット
製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット
撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット
原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館
評価:☆☆☆☆
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「洞窟演劇」と予告されていた。洞窟で演劇だって!?
もうこれだけでどんなものを見せてくれるのだろうかと心が浮き立つではないか。公演会場までの行き方の案内は、平原演劇祭の公式twitterアカウント@heigenfesにあった。雨具と懐中電灯持参とある。
場所は東武佐野線の終着駅からさらに町営バスに乗り、山の中に入ったところだ。
東京都練馬区にあるうちからは約3時間かかった。まず池袋まで有楽町線、それから宇都宮線で久喜駅まで行き、そこで東武伊勢崎線に乗り換え館林駅まで行く。館林駅から東武佐野線に乗って終着駅まで。
初めての路線に乗って、初めて行く場所と言うことで、旅行気分も盛り上がる。
降りた駅は特徴らしい特徴がない田舎町だ。そこから町営バスに15分ほど乗る。バス停のある道のそばにある木の緑濃い丘を登ったところが、公演場所の洞穴だった。
開演の前に洞穴の中を一通り回った。中にはいくつかの空間があったが全体としてそんなに巨大な洞窟ではない。15分もあれば一通りみて回ることができる広さだ。観光のためわざわざこの洞窟を訪れるのはよっぽどの洞窟マニアではないだろうか(そのわりには洞窟演劇終演後に家族づれがこの洞窟の見学にやってきたのだが)。洞窟の管理は近所の住人に委ねられているらしい。鍵の開け閉めと洞窟内の電灯をつけるのが主な管理業務らしく、自由に出入りできる。
[開演前に出演女優三名の写真を撮らせてもらった]
この洞窟演劇を見るためにやってきた物好きな観客は十数名いた。その多くは中高年男性で、女性の観客は一人だけだった。
開演は正午と予告されていたが、開演時間直前に洞窟内に入った一般客が一組あったので、その退場を待っての開演となった。
オープニングは戸外で始まる。
緑の木々にかなり急な傾斜の斜面から、三人の楽人たちが歌を歌いながら、洞穴前の広場に上ってくるのだ。樹々の濃い緑の中に現れる異装をなしたる三人の少女の登場であたりは一気に異世界に変貌する。印象的な素晴らしいオープニングだった。
オープニングの後、洞穴内に観客たちは誘導される。洞穴に入ると、洞穴内の道は軽い傾斜となりすぐに左右に別れる。右手の方から何者かが話している声がする。懐中電灯であたりを照らしながら右手に移動すると、仮面をかぶり、わらじをはいた異形の女がいた。
この仮面の怪物が一人で語っているところへ、異装の若者が現れる。ケルトの若武者のクフーリンだ。彼は不老不死の水が湧き出るという井戸を探し求めている。
イェイツの『鷹の井戸』の内容をここで私はなんとなくではあるが思い出す。仮面女と若武者は言い争いをしているが、その内容は頭に入って来ない。洞窟内という場所の力が強すぎて、セリフが頭の中に入って来ないのだ。
背後から鈴の音、そして獣の叫び声が聞こえた。仮面女と若武者の背後は盛り上がった丘のようになっているのだが、その高みに鷹が現れた。思わずハッとするような印象的な場面となった。
突如現れた鷹に激しく動揺する手間の二人。
鷹の姿が消えると、若武者は槍を手にして颯爽と退場していった。
この退場をもって第一部、洞穴内での『鷹の井戸』が終わる。異世界を描き出す幻想劇でこれ以上の舞台装置はそうそうあるものではない。場のインパクトがあまりにも強いので言葉の内容はその空間の中に溶けてしまい曖昧なものになってしまう。
何も知らない人が洞窟に見学に来て、上演の場面に立ち合ったらさぞかしギョッとするに違いない。幸い上演中に「外部」の人が入ってくることはなかった。
第一部が終わると洞穴の外に出て、少し休憩となる。10分ほどの休憩の後、第二部会場となる洞穴からさらに200メートルほど上ったところにある「展望台」に移動する。この展望台までの上り下りがかなりの急斜面で往生した。
「展望台」といっても周りは緑の木々に視線を遮られ、特に何が見える訳でもない。谷を挟んで向こう側に、セメント用の石灰岩を削り取られ、片面が禿山になっているのが見えるくらいである。
山の斜面の傾斜が幾分緩やかになっているところに観客が誘導され、そこで第二部の『鷹の風呂』が始まった。
『鷹の風呂』は一人語りの芝居だった。この山の斜面と斜面を上ったところにある鉄できた小さなテラスが演技場となった。
寄ってくる蚊を追い払いながらの観劇となった。ここも場所のインパクトが強すぎて、女優が話している内容が断片的にしか頭に入らない。高野竜演出の芝居ではこういうことがちょくちょくある。でもそれで問題かといえば、そうでもない。観劇体験の充実はちゃんと味わうことができている。昨年、北千住のBUoYで上演があった時は二回見にいった。一回目は何がなんやらわからないかったけれど、二回目に見たら戯曲の内容が流石によく頭に入った。やはり複数回見に行くものだなあとは思ったものの、一回目の観劇で不満だったという訳ではない。
『鷹の風呂』は高野による創作劇だ。野外で声が聞き取りにくいということもあって、正直、ほとんど何が話されているのかわからなかった。家に帰ってウェブ上で公開されている戯曲を読むと、「ああ、これではわからなくても如何しようもないわ」と思う。難解だ。でも面白い。テクストとしてその内容を咀嚼していくと、この戯曲は実に味わい深い文学作品だ。イェイツの『鷹の井戸』を出発点に話がどんどん自由に拡散、拡大していく。内容がわかればわかったで面白いのだが、上演中にわからなくても観劇体験としては特に問題ないように思えるが、平原演劇祭の面白いところだ。
観客の「なんじゃこれは?」という表情を受け止めつつ、この厄介なテクストを30分に渡って語り、役柄を演じきった女優はどうかしている。素晴らしい。
『鷹の井戸』『鷹の風呂』合わせて上演時間は90分ほどだった。
終演後は食事が用意されていた。『鷹の風呂』で言及されていたコノシロの酢漬けとスパイスで味付けされたクリームチーズ、きゅうりを、それぞれが自分でフランスパンに挟んで食べるサンドイッチが供された。コノシロの酢漬けのサンドイッチは実に美味しかった。これに加えてアメリカンチェリーとすもも(?)というデザートもあるのも嬉しかった。
演技者だけでなく、観客も芝居が終わったあとは、精力を使い果たしたような状態になる。詩的で混沌とした断片的なイメージの集積が、後半に一気に凝縮され、行き詰まるようなクライマックスがどんどん密度を高め、加速しながら連続する。私がこれまで見たカクシンハンのシェイクスピアはどの作品も、「今」、「ここ」にいる「私」のシェイクスピアであり、400年以上前にイギリスで書かれた戯曲をしっかり読み込んだうえで、その世界を現代の日本に生きる私たちに繋げるための様々な劇的でトリッキーな仕掛けが魅力となっている。
『ハムレット×SHIBUYA』は2012年のカクシンハンの旗揚げ公演で上演された作品であり、カクシンハンの上演作品のなかでは唯一のオリジナル作品だ。タイトルが示す通り、『ハムレット』のセリフや場面が劇中ではふんだんに織り込まれている。しかし場所はAKIHABARAとSHIBUYA、現代の東京だ。
ほぼ一年前に見たカクシンハン『ハムレット』の冒頭の場面を思い出す。あれは確かシブヤのスクランブル交差点の雑踏から始まった。まだ観客席に開演前のざわつきが残っている状況のなか、劇ははじまる。傘をさした多数の人間が舞台上に描かれた横断歩道を横切る。この都会の雑踏のなかに一人の男がうずくまっている。しかし彼に気を留めるものはいない。せりふのない五分ほどの群像劇は『ハムレット』の物語全体の象徴的なレジュメとなっていた。現代を強引にシェイクスピアの時代に結びつけるオープニングの演出は、カクシンハンの演劇美学の高らかなマニフェストとなっていた。原発事故後のフクシマの惨状を『ハムレット』に重ねた昨年の公演はまさに現代のわれわれの作品としてのシェイクスピアの可能性を提示するものだった(ただしそこに「フクシマ」というある意味手垢のついてしまった記号を用いたことは、作品の解釈の可能性を狭めてしまったように思え、私は評価できなかった)。今回『ハムレット×SHIBUYA』を見ることで、一年前に上演されたカクシンハン『ハムレット』の舞台上演の記憶を見たときが蘇ってきた。あの『ハムレット』の印象的なオープニングのあと、舞台上の世界はテープが巻き戻されるように一気に過去の時代へ、シェイクスピアの『ハムレット』で描かれた「デンマーク」へと移行していった。
現代劇として翻案された『ハムレット×SHIBUYA』では時間は巻き戻されない。抽象化され、象徴化された場としてのアキハバラとシブヤが舞台となり、この場所は二人の青年として擬人化される。『ハムレット×SHIBUYA』では、木村龍之介自身の『ハムレット』という作品に対する姿勢や解釈がより直接的に伝えられる。ハムレットに共鳴し、その存在の混沌と闇の中に果敢に身を投じ、格闘する作・演出家自身の姿が晒されているように感じられた。
ギャラリー・ルデコの中央には小さな丸テーブルが置かれ、そこが演技エリアの核となる。客席の椅子はそのテーブルを取り囲む形で、無造作に並べられている。この上演空間は客席を含め、作品の舞台である「アキハバラ」と「シブヤ」のミニチュアとなっていて、あえて殺風景で雑然とした状態で置かれている。リーディング公演ではあるが、俳優たちはテーブルの周りで座ってテクストを朗読するのではない。照明の効果も使用され、ときに俳優が客席のあいだにも侵入する動的でダイナミックな演出となっている。何よりも俳優の演技が発する熱量が圧倒的だ。その激しさにこれがリーディングであることを忘れてしまう。ギャラリー・ルデコの空間全体が象徴的な劇的空間となり、観客もその空間の一部として取り込まれてしまう。
安定していた世界が突然ゆらぎ、崩れてしまったときに、人はどうなってしまうのか。世界と「私」との関係が激しく揺さぶられたときのハムレットの混乱と不安は、断片的な言葉の連鎖というかたちでそのまま伝えられる。断片に解体され、再構成された『ハムレット』は、現代の「アキハバラ」と「シブヤ」という場のなかで徐々に不可解で不気味で怪物的なイメージを形成しはじめる。あらかじめ観客に伝えられる「あらすじ」は奇妙で意味不明の状況しか記しておらず、冒頭の詩的で断片的なモノローグ解読の手助けにはならない。『ハムレット×SHIBUYA』の難解さは、あのハムレットが味わい、作・演出の木村が共鳴した混乱と不安を、観客であるわれわれにも共有させることを意図しているかのようだ。このわけのわからなさは解決されることはない。ハムレットの苦悩は重苦しい闇として最後まで持続する。いやむしろその闇はどんどんと深くなって行った。
上演時間の1/3を過ぎる頃からようやく混沌から抜け出し、それまで提示されていた暗示的な要素が劇的なアクションを形作り、物語が展開し始める。しかしそこから提示されるシーケンスがことごとく濃密で、凝縮された感情が爆発するような激しい場面が最後まで延々と続くのだ。劇中人物に憑依されたかのような俳優の熱演に、観客である私は戸惑いのなか、なんとも抗しがたい強引さで引きずり込まれた。あの荒々しさには現代の日本に生きる自分の物語として『ハムレット』に真摯に向き合ったときに作・演出の木村の中で湧き上がった思いが反映されているに違いない。ハムレットが具現する闇の深さに飲み込まれそうになったとき、恐怖に思わず悲鳴をあげそうになる。その悲鳴を演劇という形式に抑え込むことでなんとか第三者に伝えようとする。『ハムレット×SHIBUYA』では、作・演出の木村と俳優たちが全力で溢れ出る闇と格闘し、それを不器用に表現としてかたちにしようとするさまがむき出しになっている。
クライマックの場面が次々と続くような重量感のあるリーディング公演で、終演後の俳優たちは精力を使い果たした抜け殻のようだった。観客である私も重力から解放されたような虚脱感を覚えた。カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』は、「今」、「ここ」に生きる「私」が『ハムレット』とどう格闘したのかを伝える壮絶な記録であり、『ハムレット』の闇が含みもつ可能性の豊かさを示す舞台だった。[観劇日:5/22]
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カクシンハン『ハムレット×SHIBUYA』2019/05/22@渋谷ギャラリー・ルデコ
http://kakushinhan.org/others/hs
【公演情報】
カクシンハン特別リーディング公演『ハムレット×SHIBUYA─ヒカリよ、俺たちの復讐は穢れたか─』
- 作・演出:木村龍之介
- 原作:シェイクスピア『ハムレット』
- 会場:ギャラリー LE DECO 4
- 2019年5月22日(水)─26日(日)
- 出演:河内大和、真以美、岩崎MARK雄大、島田惇平、鈴木彰紀、椎名琴音
- 映像:松澤延拓
- 照明:中川奈美
- 音響:大園康司
- 美術:乗峰雅寛(文学座)
- 企画・製作:カクシンハン
作・演出・美術:ネビル・トランター Neville Tranter
出演:ネビル・トランター、ウィム・シトヴァスト Wim Sitvast
劇場:プーク人形劇場
上演時間:55分
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とにかく脚本が素晴らしい。こんなリアルで美しい脚本はそう書くことができるものでない。人形劇の特性が生かされた素晴らしい脚本だった。これまで見てきた大人向けの人形劇の多くは脚本に不満を感じていた。日本では大人向け人形劇の観客はきわめて限定されていて、そのほとんどが人形劇の創作に関わっている方でないだろうか。そのためか人形造形の美しさや操演の洗練ぶりなど技術的なところに重点が置かれ、台本は人形を動かす口実、枠組みにしか感じられない空虚で貧弱な内容のものが多いように思っていた。大人のための人形劇はそのあまりに限定されあ観客層ゆえに、操演や人形をいかに見せるかが重視され、人形によるドラマよりもむしろ人形そのものを見るための芝居になっているものが多いように思った。
人形劇の人形は、その空洞性、受動性ゆえに、人間の俳優以上に、観客の感情や願望の受容体となる。生命のない人形はその思いをじっと受けとめることで、各々の観客のもとで生命を持つ自律的な存在となる。私たちは人形に私たち自身の姿を見ている。
生身の俳優によって現実を表象するのではなく、あえて人形が使われる意味はなんだろうか。人形劇を見るたびにこの問は繰り返される。人形は生身の俳優の代理なのであろうか。代理であるなら、どこに人形に俳優を代理させる意味があるのだろうか。人形劇は人間の俳優の演じる演劇の代替ではなく、人形劇固有の世界があるはずだ。それではいわゆる演劇にはない、人形劇固有の表現とはどんなものだろう。
あの残酷さと優しさは、人形という媒介を通してこそ、直視できるものとなる。人形劇は、世界の本質を抽出したうえで、それに具体的なかたちを与えることができる。人形は本質的に象徴的で寓意的な存在だ。本当に必要な要素だけを伝えるそのストイシズムゆえに、人形は私たち観客の様々な思いを受けとめる容器となりうる。
マチルダは介護付き老人ホーム《カーサ・ヴェルデ》で暮らす102歳の老女の名前である。暗い舞台上の中心で彼女は開演前から鉄棒にじっとぶら下がったまま、前方を眺めている。眺めているというはその表情はにらみつけてるというほうが近いかもしれない。55分の上演時間のうちの最初の40分間、彼女は同じ姿勢を保ったまま、動きもしないし、話もしない。不動の彼女の前で、《カーサ・ヴェルデ》の経営陣の二人はどうやって老人たちを食い物にして、さらに大きな利益を得るかという話ばかりしている。老人たちの介護をする男の看護士はいつも不機嫌・無愛想で、老人たちの扱いもぞんざいだ。入居者の一人マリーは看護士の目を盗み、新聞社に電話して《カーサ・ヴェルデ》の劣悪な環境を告発するマリー、ダウン症の老婆ルーシーと彼女にずっと付き添ってきた心優しき兄のヘンリー、ライオンのぬいぐるみを唯一の友とし、狂気と絶望のなかに生きるミスター・ロスト。102歳のマリーは鉄棒にぶら下がったまま、《カーサ・ヴェルデ》の人々の様子を見守っている。
マチルダはこのままずっと最後まで動かないままなのではないかと思っていたら、開園して40分たったころにようやく彼女は動き出す。最初は意味のわからないうめき声をあげて、それが徐々に意味のある言葉になっていく。動けるといっても彼女は鉄棒にぶら下がった状態であり、鉄棒を離れて移動することはできないようだ。彼女が大事にしていた赤毛の女の子の人形が見当たらないとマチルダは当り散らしている。その人形は実は彼女の前においてあるテーブルにぶら下がっているのだが、彼女の位置からはそれを見ることができない。黒いシャツを着た操演者(ネヴィル・トランター)の姿を彼女のは見ることができるのだが、それが誰なのかはわからない。観客にもこの操演者が劇のなかの人物としてどういう役割を果たしているのかわからない。彼女は話し始めたのは、戦争が引き離した彼女の若いころの恋人ジャン・ミシェルのことだ。赤毛の人形はジャン・ミシェルが彼女に贈ったプレゼントだった。しかし彼女が誰に向かってジャン・ミシェルの思い出を話しているのか。マチルダはこの黒シャツの人間に話しかけるのか、独り言を言っている、自分に言い聞かせているのか。
若いときの恋の思い出、これだけが102歳となった彼女の生を支えているように見えた。ジャン・ミシェルのことを語る彼女は、その語りともがくような動きによって、彼女がまさに「生きている」ことを私たちに力強く伝えている。
死の間際の老女が若いころの恋の記憶を再現するという作品などいくらでもあるではないか。確かにそのとおりだ。しかしここで人形劇の特質に立ち返ってみよう。
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濱口竜介監督の『ハッピアワー』は5時間17分の大作だが、神戸を舞台にしたこの作品は私にとっては特別に愛着がある作品で、4-5回見ているはずだ。ここ2年は年末に神戸の元町映画館で『ハッピーアワー』の上映を見るのを帰省の楽しみにしている。
『寝ても覚めても』は濱口竜介の初の商業映画で、純然たる恋愛映画だ。運命的な愛に固執する主人公の女性の姿は、ロメールの『冬物語』(ロメールの作品のなかでも最も好きな作品の一つだ)を連想させた。今、書いて気づいたことだが、心理のゆれの繊細な描写という点で、濱口の作品にはロメールを想起させるところがある。ただロメールの諧謔、優雅さ、軽やかさは濱口には乏しい。濱口の映画の人物は不器用で内省的だ。
濱口の映画で何が感動的かと言えば、彼の映画の人物たちが真実を生きようとするところ、そして彼らの行動に真実を引き受けようとする真摯な覚悟が感じられるところだ。
『寝ても覚めても』の展開や人物の行動には不自然で強引なところはあるし、その台詞はときに過剰に説明的だったり、文学的だったりする。しかしこうしたリアリティからの逸脱は、彼らの真実を映画の物語のなかで引き出すための仕掛けだ。嘘に嘘を重ねることで、はじめて表現可能になる真実というのがある。
真実は他者を傷つけ、自らを傷つける。傷つけ、傷つけられることをまっすぐ受けとめ、自らの責任において引き受ける覚悟をする濱口の映画の人物たちの行動は美しい。
私たちの日常は欺瞞に満ちている。私たちの多くは欺瞞のない世の中の苛酷さにはおそらく耐えることができないだろう。
できる限り正直に生きたいと思っている私は、自分の周りの欺瞞を呪いつつ、それをある種の必要悪として受け入れて生きている。
だからこそ、たとえフィクションのなかであっても、そこで真実が語られていることに激しく心動かされてしまうのだ。
板橋区のゆりの木団地、夏祭り2018。これが毎年、夏の締めくくり。ベーシスト、西村直樹が率いるワイルドグリーンズのライブ。
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東京都板橋区赤塚新町にある光が丘パークタウンゆりの木通北団地の夏祭りに行ってきた。毎年8月の最終週の土日に行われる。板橋区と練馬区の区境にあるゆり北団地は賃貸と分譲が混在する700戸ほどの規模の団地だ。築35年で住民の高齢化はかなり進んでいる。
この団地の夏祭りは団地の自治会の主催になる。団地ができた当初から行われているのだが、櫓を組んでの盆踊りではなく、仮設ステージでの音楽ライブが行われるのが特徴だ。12年ほど前からだと思うが、団地住民ではないが地元在住のベーシスト、西やんこと西村直樹が、彼のバンド、ワイルドグリーンズとともにこの夏祭りに出演するようになった。以後、西やんを中心に夏祭りのライブが年々進化していったのだ。
最初はワイルドグリーンズのライブだけだったのが、西やんが知り合いのミュージシャンに声をかけ、ライブが拡大していった。シャンソン歌手のソワレさんがこの夏祭りに参加するようになったのは、7−8年前からだと思う。そのあと地元のオーケストラが出演するようになり、そのオケが西やんのバンドと部分的に一緒に演奏するようになった。地元のバレエ教室の子供たちをステージにあげ、音楽に合わせて踊らせたときもあった。団地と団地周辺の老若男女たちはこの破天荒で自由なライブに熱狂し、夏祭りは年々盛り上がっていった。
このようにしてゆりの木夏祭りは、団地の夏祭りとしては異色の老若男女を巻きこんでの地域住民熱狂ライブ祭りになっていった。
昨年からは団地住民に夏祭りのためのアマチュア合唱団の結成が呼びかけられれ、オケの指揮者の池田開渡さんが合唱団を指導して、夏祭りでゆりの木スペシャルオーケストラ+西村直樹とワイルドグリーンズ+地元バンド+ゆりの木合唱団の合同演奏で、第九の演奏を夏祭りのフィナーレでやるようになった。これが実に感動的だった。夏祭りの会場は団地の二つの棟の狭間の細長い空間である。そこに押し寄せた聴衆たちの盛り上がりようと言ったら。
今年のフィナーレはこのゆりの木夏祭り第九の第二回となった。昨年より合唱団員の数は増えている。天候にも恵まれ、トリ前の西やんのワイルドグリーンズのライブのころから祭り会場は人でいっぱいになった。
野外、それも団地の建物の間の路上で、フルサイズオーケストラの演奏が行われるなんてそうそうないだろう。聴衆は地域の住民。酒が入った人も多く、はじまる前からかなり盛り上がっている。このゆりの木スペシャルオケに参加する正装の演奏者の顔もなんか嬉しそうだ。こんな環境で演奏する機会は彼らにとってもそうそうない。
オケの準備が整い、指揮者の池田開渡さんが現れると、既に彼はこの夏祭りのスターなわけで、聴衆たちは大喝采を送る。最後の第九演奏の前に、まずオケだけでエルガーの《威風堂々》、ボロディン《韃靼人の踊り》。それから地元のギタリストとトランペット奏者をソリストとして迎えて《アランフェス交響曲》の第二楽章。これはかなり大胆なアレンジが加えられたものだった。
それからワイルドグリーンズ、地元バンドのマヤン&シモベーズ、そしてゆりの木合唱団とゆりの木スペシャルオーケストラによる《ゆり北第9》が始まった。
始まる前からその素晴らしさを予感してどきどきする。写真に写っているビニール傘は、手作りの集音マイク。野外の祭りでの演奏なので、マイクがないと音が聞こえにくいのだ。音響も地元の人間がやる。
合唱隊が登場すると会場は大いに盛り上がる。そして終演時の一体感、盛り上がりと言ったら!こんな親密な雰囲気の演奏会なんてそうそうあるものではない。本当に乳児から老人まで、様々な年齢層の住民がこのライブを心から楽しんでいるのが伝わってくる。
今年はアンコールがあった。エルガーの《威風堂々》のさびの部分がもう一度演奏される。聴衆もハミングで演奏に加わるように指揮の池田さんからうながされる。驚異的なもりあがりと高揚感のなか、祭りは終了。
ゆりの木団地夏祭り2018、フィナーレは《威風堂々》のサビをオケの演奏に合わせて聴衆も合唱。しびれるわ。最高。
私のとなりで立っていたひとが「あー、楽しかった」とつぶやいていた。
東京の端っこにある小さな団地の夏祭り、でもこの夏祭りは本当にすばらしいものだ。最高。