閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

市原佐都子(Q)『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

 市原佐都子(Q)『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

@愛知県立劇場小ホール
 

市原佐都子作品に対して思うことは、最初に見たときから変わらない。私たちが性を意識しはじめたときに感じたはずの性の奇妙さ、滑稽さ、不気味さをしっかりと見据え、それを奔放な想像力で表現に変換していく。

性衝動に対する戸惑い、恐怖を私たちの多くは思春期が過ぎるとともに「そういうものだ」として受け入れ、性への異物感を日常の奥に押し込んで「忘れてしまった」ふりをする。市原の作品は、思春期に私たちが感じたような性の異物感が、思春期の後もそのまま引き続き育まれ、肥大していった結果が、芸術表現として奔出したかのようだ。その表現は自由で、グロテスクで、あからさまで、ぎょっとさせるような生々しさがある。

あいちトリエンナーレ2019のプログラムの一つとして上演された『バッコスの信女─ホルスタインの雌』は、ギリシア悲劇の形式を借りることで彼女の性的妄想世界がこれまでの作品よりスケールアップした形で展開されていた。

私たちが抱え込み、日常性のなかで押さえつけている性というものが、どれほど奇妙で、滑稽で、不気味なものなのかが、突きつけられたかのような気がする。その突きつけかたには性的存在としての人間へのシニカルな嘲笑、そしてとりわけ男性の性のあさましさと滑稽さへの告発があるような気がして、性に対する意識の自己検証なしに手放しにこの作品を称賛することはためらわれる。

 

作・演出の市原佐都子が若くて美しい女性であり、それゆえに彼女がこれまでさらされてきた性的視線へのコメントもその表現は含んでいるように思えるのだ。彼女の作品の根本にはミサンドリー(男性嫌悪)があるような気がする。しかしそうした批判的視点を内在しつつも、彼女は自身の性的妄想世界を楽しんでいる、面白がっているようにも思える。市原佐都子は、「この人はどうかしているんではないか」と言いたくなるような逸脱のエネルギーを感じせる作家の一人だ。

『バッコスの信女─ホルスタインの雌』はギリシア悲劇の形式に倣い、コロスが登場する音楽劇でもある。音楽は東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるもの。古典劇にふさわしい風格と重厚さをもつメロディーと歌詞のくだらなさのミスマッチが素晴らしい効果を作品にもたらしていた。壮大さと卑小さの二つの極を含有する作品世界を見事に象徴する音楽になっていた。

市原の妄想世界を実現するにあたって、俳優たちに要求される負荷は極めて大きいに違いない。作者の異常な要求を受け止めるだけの体力と度胸が必要だ。主要女優三名は、作品の無茶な要請にそれぞれの個性と能力をもってしっかりと答えていた。

理知的に組み立てられた芝居の兵藤公美、理性的存在である人間の枠組みから抜け出て劇空間をかき乱す永山由理絵、振り幅の大きなエキセントリックな役柄を演じ分け、見事な歌唱力とダンスで観客を圧倒した川村美紀子。どの俳優もみなどうかしていて、作・演出に負けない強靭さを持っていた。

菅生歌舞伎 菅生一座秋祭り奉納公演(2019/09/28)

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/sugao-ichiza/

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東京都西部、あきる野市の菅生歌舞伎を見に行った。二週間ほど前にネット上のニュースでこの地歌舞伎の開催を知った。

簾を使った木造舞台の写真が印象的だった。菅生の組立舞台として東京都が文化財指定しているものらしい。この舞台の実物を見てみたいと思ったのだ。

この木造舞台は明治期から続くもので公演の度に「組立舞台保存会」の「舞台師」が組み建てるそうだ。釘は使っておらず、材料は木材だけ。屋根組には竹が使われていた。実にかっこいいデザインである。

あきる野市は東京西部にあり、菅生は青梅線の小作(おざく)駅からバスで10分ほどのところにある。小作駅については興味深い町歩きレポートが記載されているブログを見つけた。

http://tobanare.com/oumesen-ozaku/

駅からのバスの本数は1時間に三本ほどある。歌舞伎は12時半開演となっていた。12時22分に小作駅西口を出るバスは満席だった。私のように歌舞伎目当ての乗客は5-6名いた。

公演案内ページには「近隣はもちろん町内には店がありません」とあったが、菅生のバス停周辺には確かに何もない。菅生学園という学校の校舎が高台で存在感を出している。組立舞台はバス停のすぐそばにあった。

地域物産の黒にんにくを売っているテントとクジラ肉ホットドックを売っている移動販売が舞台のそばにあった。クジラ肉ホットドックは珍しい。値段は二百円だった。販売している人は、かつて捕鯨船に乗っていたそうだ。スモークチキンレッグも売っていて、それも美味しそうだった。クジラ肉ホットドックの味は普通。美味しいけれど、独特の匂いがある。

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開場が12時半、開演が13時となっていた。バスが到着したのはちょうど12時半ぐらいだったが、客席は空いていた。

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舞台の実物を見ると簾を使った構造がユニークで美しい。

客席前方はゴザ敷だったが、後方にはパイプ椅子の席があり、そこも埋まっていなかった。バスツアーでの歌舞伎見学もあるらしく、パイプ椅子はバスツアー客優先のようだったが、会場案内の人に促されるままにパイプ椅子最前列に座った。公演が始まると徐々にゴザ席も埋まっていったが、最終的な観客数はおそらく70-80名くらいだった。

13時に開演で、終演は16時05分と当日パンフレットにあったが、実際に終わったのは16時20分くらい。5演目が上演されたが、その進行はかなりゆったりした感じだった。

司会の人が軽妙でうまい。あきる野市の市会議員であることがあとでわかる。市の観光事業として菅生歌舞伎をアピールしていこうという姿勢は感じ取ることができた。

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最初の演目は「喜三番叟」。この演目は秩父に伝わる三番叟で、秩父歌舞伎の上演団体から伝授されたとのこと。時間は15分ほど。演じるのは高校一年生だ。三番叟を踊り終えると、彼は客席に酒を注いで回った。

三番叟のあと、主催者挨拶があり、その後に2番目の演目、「傾城阿波の鳴門」の上演があった。母娘の二人芝居だが、母役は成人男性が演じ、娘役は小学五年の女の子が演じた。台本は説経節の経本で、三味線と語りの奏者もいる。野外舞台ということもあり、音声はマイクを使っていた。上演時間は30分ほどだったと思う。動きがない単調な芝居で少し退屈する。見せ場ではおひねりが舞台に投げられた。

演目と演目の間の転換に時間がかかる。司会役がアドリブで間を繋いでいた。「傾城阿波の鳴門」のあとは、組立舞台保存会による舞台機構の説明があり、そのあと二演目の爆笑時代劇 『水戸黄門漫遊記』の上演があった。上演時間は20分ほど。

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水戸黄門漫遊記』には、近隣の町の元町内会長と現町内会長が旅芸人一座の役で特別出演していた。この旅芸人一座に、悪者が因縁をつけた時、水戸黄門の一行が現れて解決という内容。ゆるい時事ネタや地元ネタなどが詰め込まれたいかにも村芝居らしいグダグタの身内芝居で、演者は楽しそうに演じ、観客も喜んでいた。『水戸黄門漫遊記』は菅生一座の定番演目で、長さの違ういくつかの設定のバージョンがあるとのこと。アドリブが暴走しがちで稽古や上演の度に内容が変わってしまうと司会者が言っていた。

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水戸黄門漫遊記』のあとは、七福神の大黒天が舞う大黒舞。最後の方で子供たちが会場に大量の飴や菓子をばらまく。これは10分程度だった。

最後の演目は「曽我の対面」。メイクに時間がかかって開演が10分ほど遅れた。この間を二人めの司会者が即席の手品でしのぐ。

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ゆったりとしたペースでタラタラと上演。上演時間は40分ほどだったと思う。ぎごちなさとテンポのもたつきが村芝居っぽい。カツラや衣装は全て手作りだと言う。

菅生歌舞伎の上演団体である菅生一座のメンバーは子供から大人まで70名ほどいると言う。

のどかな雰囲気の中での村芝居で、芝居があるお祭りっていいもんだなあと思う。昭和20年代には日本の至る所でこんなことをやっていたのだ。公演の規模と比べ観客の数が少ないことが残念だった。あの会場が満員だともっと盛り上がったはずだ。

平原演劇祭2019第7部「宮代町からイエーツへ」

https://note.mu/heigenfes/n/nfe5423385fcd

 

f:id:camin:20190916115304j:plain平原演劇祭、恒例の秋の古民家公演はアイルランドの劇作家イェーツに関わるプログラムだった。

【前半】

  1. 小阪亜矢子:イェーツの詩に基づく歌曲、アイルランド民謡など(歌)
  2. 会場観客から4名:シング「旅人たちの春の夢」(輪読)
  3. 明美・すぎうら君:イェーツ「煉獄教室」(リーディング)

【後半】

  1. 高野竜:ご報告「お隣の異界」
  2. 菊地奈緒アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」(語り)
  3. 空風ナギ(孤丘座)、夏水、チカナガチサト:高野竜「光る土/空の影」。

 上演ジャンルはバラエティに飛んでいるが、全て屋内での公演で、パフォーマンスのためのエリアと観客エリアがはっきり分離した平原演劇祭にしては、静的なまとまりのある公演だった。上演は正午過ぎに始まって、終わったのが午後四時。途中十五分ほどの休憩が一回入った。観客は十五名ほど。

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まずメゾ・ソプラノ、小阪亜矢子の独唱から始まった。アカペラもしくや小型のベルやキーボードを使った最小限の簡素な伴奏で、イェーツとともにアイルランド文芸復興運動に関わったグレゴリー夫人の作品の劇中歌、アイルランド民謡、イェーツの詩に基づく歌曲、即興などを、時折短い解説を挟みながら三十分ほど演奏した。
歌のプログラムの時は、外は曇り空で、古民家の室内の色合いとぼんやりとした明るさとシンプルな音楽がよく合っていた。外から聞こえる蝉の声も音楽と溶け合った。

2番目のプログラムは、イェーツと同時代のアイルランドの作家、シング「旅人たちの春の夢」だが、これは観客参加型プログラムで、四人の観客がぶっつけ本番で戯曲を読見上げるというものだった。登場人物は四名で、旅の鋳掛屋一家(夫と内縁の妻、夫の母)と牧師である。私は読み上げに立候補して、夫の母、アル中のばあさんの役を読んだ。翻訳は 演劇企画CaL 主宰の吉平真優が訳したもので、9/06-08に上野で上演が行われたばかりだ。この公演情報は私は見落としていた。シングの戯曲上演とならば知っていればなんとかして見に行ったはずなのに。演劇企画CaLはアイルランド演劇に特化して上演を行う団体とのこと。これからの活動が楽しみだ。

「旅人たちの春の夢」はその場で翻訳が渡されて、素人が読むわけでが、四十分ほどかけて戯曲全編を読み上げるというかなりがっちりしたプログラムだった。放浪の鋳掛屋一家が司祭をやり込めるという中世フランスのファルスやファブリオを連想させる素朴な風俗喜劇だった。戯曲のテクストを目で追いながら音読している読み手はともかく、素人の読み上げで聞いているだけの人にはちゃんと伝わるのかなとちょっと不安だったが、滑稽なやり取りの場面ではちゃんと笑いも起こっていたので安心した。

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前半最後のプログラムであるイェーツ「煉獄教室」は異色のプログラムで、二日前に初めて会ったという武明美とすぎうら君が、動いて、演技をしながら読むというリーディング公演なのだが、高野竜がその途中で適宜上演をとめて、演出指示を行うというパフォーマンスだった。上演されるのは「煉獄」という父と息子が、過去に遡って、父が自分の父親(息子の祖父)を殺害し、さらに息子も殺害するというよくわからない作品だ。不条理演劇というよりは、時間が行ったり来たりして、肉親殺しが行われる陰惨で不可解な現象を、イエーツは本気で信じていたんじゃないかと思わせるような奇妙な味わいがある。今回上演された作品は、「煉獄教室」というより、「煉獄」教室と書かれた方が適切だったかもしれない。高野竜が気になった箇所でいちいち芝居を停止され、巻き戻されて、修正されるという作業の繰り返しは、芝居の内容の「煉獄」的状況をメタ的に表現しているようにも思えた。イェーツ「煉獄」はむしろこういうやり方で上演された方が、その本質が理解しやすいような気さえした。

 

休憩15分を挟んで後半。薄曇のなか、太陽が照ってきたが、雨上がりで木造で障子を締め切った古民家の室内はジトジトした蒸し暑さが増してきた。後半は高野竜の語りから始まった。

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高野竜の語り芸は絶品だ。特に大きな表情をつけたりせずに、淡々と語っているのだけれど、すっと聞き手の心を引き込んでしまう工夫がある。単なる場つなぎの口上、雑談のようにさりげなく話しながら、その語りの内容は次に続くプログラムへの伏線にもなっている。ケルトの民話の世界のように、彼が今、ここで語っている旧加藤家でも日常と異世界が隣り合っている。語りや芝居はその隣り合った異世界への扉を開く仕掛けのようなものだ、みたいな話を終えかけた時に、アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」を語る菊地奈緒が下手のくぐり戸から入ってくる。

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グリム童話によく割るような姫と王子の物語を菊地奈緒は、古民家の広間を移動し、立ったり座ったりしながら、静かに読み上げた。このアイルランド民話もイェイツが採集し、書き記したものだ。

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小阪亜矢子の歌が入った後、最後の演目、高野竜作の戯曲『光る土/空の影』が始まった。これは今回のプログラムの中で最も通常のいわゆる「演劇」に近い作品だったが、最も意味不明な難解な作品でもあった。

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高野竜の戯曲は情報量が過密で、上演で耳で聞いていても理解できないことが多い。情報量過密であるだけでなく、設定と展開も突飛だ。彼の戯曲はネット上で公開されているので、後で戯曲を読み返してようやくその濃厚な文学性を認識できたりする。

『光る土/空の影』もわからなかった。民家内の湿度が上がり蒸し暑かったし、上演時間も3時間を超えて、すでいかなり朦朧としていたのだ。「師匠」と呼ばれる盲目のエキセントリックな婆さんとその弟子の対話劇だが、セーラー服姿の無言の美少女(彼女は最後の場面で初めてセリフを話す)が時折、この二人の中に介入する。婆さんとその弟子は旅芸人らしい。この二人の会話には、前半に上演された「煉獄」などイェーツのいくつかの作品のモチーフがところどころに挿入されている。イェーツだけでなく、高野が「口上」で話した宮代町の郷土作家の能と歌舞伎と民話がごちゃ混ぜになった奇妙な遺作も組み込まれているようだ。時代は人類滅亡後の世界なのか?

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物語の内容はぼんやりした頭でよくわからない。老婆役を演じた夏水の暴走し、破滅に向かって走り続けているような演技のエネルギーとそれと対照的な無言で小柄なセーラー服の美少女、チカナガチサトの佇まいの対比が印象的だった。

ずっと締め切られていた障子が最後に開け放たれ、開放感を得た。最後の場面では三人の女優が同じ所作でカタバミの葉を部屋中に撒き散らす様子が美しかった。

 

《魂の響き 旋律の鼓動 〜十五夜に寄せて〜》@近江楽堂(2019/09/13)

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観客と対面するのではなく、観客が三人の奏者を取り囲む形で客席が設置されていた。三人の奏者は楽堂の中央に互いに向き合って演奏する。観客に向かって演奏するというよりは、砂漠を移動する隊商の楽師たちが夜にテントの中で音楽を演奏するのを聞いているようだった。歌い手の場所には赤い絨毯が敷かれ、歌っていない時には歌手はそこに膝を崩して座り、他の奏者の演奏に耳を傾けている。パーカッション奏者のエリアにも刺繍の入ったベージュの絨毯が敷かれた。

暗めの照明の加減がよかった。ドーム状になっている近江楽堂の天井に吊るされた照明が演者たちを照らす光は月光を連想させる明るさだった。

ソプラノ歌手の高橋美千子の全身を使ったダイナミックな表現力に引き込まれる。照明の効果と絨毯の色彩とともに、音楽は耳だけでなく、目でも「聞く」ものであることを、彼女のパフォーマンスは伝えている。歌唱とリンクした顔、体、表情などの身体表現は、優れた舞踊的で演劇的な表現にもなっている。

歌手にはこうした演劇的素養は求められるものだし、最近のオペラの演出では俳優並みの劇的表現力が歌手に要求されることも珍しくはないが、実際のところ、卓越した歌唱と演劇的表現を両立させるのは非常に難しい。ナタリー・デセーのように突出した演劇性を持つ歌手もいるのではあるが。

今回のプログラムでは対訳歌詞は配布されなかったので、高橋が歌っている内容は理解できなかったのだが、彼女の劇的な表現は彼女が歌っている言葉と音楽から自然に導き出されたようなものに見えた。彼女のパフォーマンスから連想して思い浮かべたのはジャック・ブレルである。

西欧の歌唱芸術ではパーカッションはあまり出番がない。ソプラノとリュートなどの撥弦楽器という組み合わせならごく普通の組み合わせだが、そこにパーカッションが加わっているのがこの編成の特徴だ。

コンサートの選曲も独創的だ。

ルネサンスバロック期の歌曲、パーカッション即興演奏、リュート、ギター独奏、アイルランド民謡、そしてクルド民謡、スペイン・ロマの歌、さらにグレゴリオ聖歌まで。

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このトリオの演奏ではこの雑多なプログラムの各曲が見事に融和し、統一感のある世界を作り出していた。

非西欧音楽的要素であるパーカッションが、撥弦楽器とヴォーカルと結びつき、効果的に導入されることで(グレゴリオ聖歌もパーカッションとともに演奏された)、地域、時代、ジャンルを超えて共有される音楽の核が演奏から浮かび上がってくるようだった。このトリオでは絶妙なパーカッションの介入が音楽の普遍性を引き出しているのだ。アイルランド民謡もダウランドの歌曲もグレゴリオ聖歌も、パーカッションが入理、この多様なプログラムの中で共存させられることで、全く違った雰囲気の音楽となった。

音楽の悦びの原点が凝縮されたような、小編成ではあるがダイナミックで充実したコンサートだった。

 

 

www.takahashimichiko.com

(ソプラノ)

www.atelierlakko.com

リュートバロックギター、テオルボ)

junzotateiwa.blog76.fc2.com

(パーカッション)

《魂の響き 旋律の鼓動 〜十五夜に寄せて〜》@近江楽堂(2019/09/13)

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観客と対面するのではなく、観客が三人の奏者を取り囲む形で客席が設置されていた。三人の奏者は楽堂の中央に互いに向き合って演奏する。観客に向かって演奏するというよりは、砂漠を移動する隊商の楽師たちが夜にテントの中で音楽を演奏するのを聞いているようだった。歌い手の場所には赤い絨毯が敷かれ、歌っていない時には歌手はそこに膝を崩して座り、他の奏者の演奏に耳を傾けている。パーカッション奏者のエリアにも刺繍の入ったベージュの絨毯が敷かれた。

暗めの照明の加減がよかった。ドーム状になっている近江楽堂の天井に吊るされた照明が演者たちを照らす光は月光を連想させる明るさだった。

ソプラノ歌手の高橋美千子の全身を使ったダイナミックな表現力に引き込まれる。照明の効果と絨毯の色彩とともに、音楽は耳だけでなく、目でも「聞く」ものであることを、彼女のパフォーマンスは伝えている。歌唱とリンクした顔、体、表情などの身体表現は、優れた舞踊的で演劇的な表現にもなっている。

歌手にはこうした演劇的素養は求められるものだし、最近のオペラの演出では俳優並みの劇的表現力が歌手に要求されることも珍しくはないが、実際のところ、卓越した歌唱と演劇的表現を両立させるのは非常に難しい。ナタリー・デセーのように突出した演劇性を持つ歌手もいるのではあるが。

今回のプログラムでは対訳歌詞は配布されなかったので、高橋が歌っている内容は理解できなかったのだが、彼女の劇的な表現は彼女が歌っている言葉と音楽から自然に導き出されたようなものに見えた。彼女のパフォーマンスから連想して思い浮かべたのはジャック・ブレルである。

西欧の歌唱芸術ではパーカッションはあまり出番がない。ソプラノとリュートなどの撥弦楽器という組み合わせならごく普通の組み合わせだが、そこにパーカッションが加わっているのがこの編成の特徴だ。

コンサートの選曲も独創的だ。

ルネサンスバロック期の歌曲、パーカッション即興演奏、リュート、ギター独奏、アイルランド民謡、そしてクルド民謡、スペイン・ロマの歌、さらにグレゴリオ聖歌まで。

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このトリオの演奏ではこの雑多なプログラムの各曲が見事に融和し、統一感のある世界を作り出していた。

非西欧音楽的要素であるパーカッションが、撥弦楽器とヴォーカルと結びつき、効果的に導入されることで(グレゴリオ聖歌もパーカッションとともに演奏された)、地域、時代、ジャンルを超えて共有される音楽の核が演奏から浮かび上がってくるようだった。このトリオでは絶妙なパーカッションの介入が音楽の普遍性を引き出しているのだ。アイルランド民謡もダウランドの歌曲もグレゴリオ聖歌も、パーカッションが入理、この多様なプログラムの中で共存させられることで、全く違った雰囲気の音楽となった。

音楽の悦びの原点が凝縮されたような、小編成ではあるがダイナミックで充実したコンサートだった。

 

 

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リュートバロックギター、テオルボ)

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(パーカッション)

2019年9月1日(日)『川北長治』@高山市荘川町、黒谷白山神社前夜祭


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黒谷白山神社の舞台
 
【2019年8月31日(土)】
中京と北陸を結ぶ東海北陸自動車道のほぼ中央、富山、石川、岐阜の県境をなす白山のふもとに荘川(しょうかわ)という人口1500人ほどの町がある。平成大合併で2005年に高山市の一部となった。郡上八幡、高山、白川郷という有名観光地の間にある荘川は、川沿いに伸びるなんの変哲もない日本の田舎だ。
地域素人演劇研究グループのメンバーである民俗学研究者のHに同行して、荘川の神社で9月のはじめに上演される村芝居の調査に行かないかとグループリーダーのHBNKから問い合わせがあったのは8月の最終週だった。私はHBNKから連絡があるまで、荘川の村芝居どころか、この町の名前さえ聞いたことがなかった。研究グループにはこの村芝居の調査については私より適任者はいるのだけど都合がつかず、予備知識ゼロの私がこの調査に赴くことになった。
 
民俗学者のHは兵庫県多可町の箸荷(はせがい)の素人連中によるヤクザ芝居の上演を継続的に調査していて、昨年秋は研究グループ全員で箸荷に赴き、ヤクザ芝居の上演を見てきた。ヤクザ芝居とは、大衆演劇などでかかる放浪の任侠ヤクザが登場人物の芝居だ。箸荷のある播磨地方は地歌舞伎が盛んなところなのだが、箸荷では歌舞伎ではなく、ヤクザ芝居の上演を行っているのだ。こうしたヤクザ芝居は昭和20年代には、青年団による村芝居として日本各地で上演されていたようだ。私の父の郷里である兵庫県北部の但馬地方の寒村でも、青年団によるヤクザ芝居の上演が年に一度あったと言う。
青年団による農村素人芝居は昭和30年代になると廃れてしまうが、箸荷では長い間行われなくなっていたヤクザ芝居を1993年(平成5年)に復活させ、以後二年に一度、上演を続けている。
 
地歌舞伎の公演は日本のさまざまな場所で行われ、伝統芸能ということで自治体からの保護もあり、比較的よく知られている。しかし任侠ヤクザ芝居を素人が継続的に上演を続けているのは珍しい。箸荷以外にもヤクザ芝居の上演は地方紙などでちらほら報道されているが、継続的に長い期間やっているところはそんなになさそうだ。
昨年、箸荷のヤクザ芝居を見たあと、他にもこうしたヤクザ芝居の上演をやっているところがないかとHが調べたところ、出てきたのが荘川の村芝居だった。歌舞伎や神楽などと違って、ヤクザ芝居は伝統芸能ではないので、研究者や地域自治体の関心も低く、その地域の外に案外情報が出てこないのだ。
 
民俗学者として箸荷のヤクザ芝居を調査してきたHも荘川についてはほとんど知識がなかった。毎年9月はじめに荘川内の4つの神社に日をずらして上演が行われていることはウェブで確認できた。上演日は神社によって毎年決まっていて、週末公演ではない。たまたま今年は最初に上演を行う黒谷白山神社の上演日である9月1日が日曜だったので、それに合わせて荘川に行くことになった。
 
黒谷白山神社の村芝居は、例祭の前夜祭の枠組みのなかで上演される。Hのプランでは例祭前日の8月31日(土)に荘川に入って、前日の稽古を見学し、代表者にできれば取材をしたいとのことだった。取材と言ってもつてがないので、Hは荘川町の観光協会に電話をかけ、村芝居の代表者の連絡先を聞いたそうだ。1日の公演の出演者につないでもらったのだが、祭の前日は大変忙しいため、取材に応じることができるかどう微妙ということだった。とりあえず酒などのお土産ものを持って前日に公演会場に行き、稽古の見学を申し込むということにした。
 
8月31日(土)、関西在住のHとは13時に名古屋駅で待ち合わせ。この日の朝に、芝居の出演者からHに電話があって、頭取から見学の許可が出たことが知らされたとのこと。名古屋からレンタカーで荘川に向かう。荘川までは2時間ぐらいかかった。荘川に行く途中にある郡上八幡に7月はじめにやはり地域素人演劇研究グループで行ったのだが、「小京都」と呼ばれ古都の風情がある郡上八幡とは違い、荘川は本当に平凡な田舎だ。父の郷里である兵庫県但馬地方の山間の村落の風景とよく似ている。とりあえず観光案内所に寄るが、観光案内所は休みだった。荘川の観光地図を貰い、とりあえず芝居会場の黒谷白山神社に向かった。稽古は夜8時頃からと聞いていて、その頃に行くとHは伝えていたそうだが、上演会場の神社の様子を昼間に確認しておき、準備で誰かいれば挨拶しておこうということにしたのだ。
 
黒谷白山神社は、ゆるやかな山の斜面にあった。境内は広めの保育園の園庭ぐらい。高い場所にある拝殿にむかって左手に芝居小屋がある。荘川では四神社で芝居公演が行われるが、いずれも常設舞台で、大きさ作りはほぼ同一のようだった。芝居小屋の舞台は本殿に向き合うかたちになっていて、下手には斜めに花道が設置されていた。芝居小屋の間口は10メートルくらいか。奥行きも同じくらいある。小屋は斜面に建っていて、後方に下階があり、その下階部分が楽屋になっていた。客席は露天だが、巨大なテント屋根で覆われていて雨の日でも観劇できるようになっていた。客席は山のゆるやかな斜面で舞台を見下ろすようになっていて、舞台が見やすい。客席は芝で覆われていて文字通り「芝居」となっている。300人ぐらいの観客収容力がある。
舞台正面は開かれていて、舞台美術が見えた。予想外のしっかりとした作りの芝居小屋を見て、一気にテンションがあがる。若者数名がテント屋根の設営作業をしていた。舞台周りと境内を見学し、作業していた人に挨拶をしてまた夜の稽古時に見学に来ることを告げた。

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黒谷白山神社芝居小屋。後ろ側から。一階部分が楽屋になっている。
黒谷白山神社から宿に戻る道の途中に、黒谷神社の翌日に芝居上演が行われる一色白山神社があるので、そこにもついでに寄ることにした。一色白山神社は田のただ中の平地にあり、背後は高い木々で囲まれている。拝殿の前には、ほぼ能舞台と同じ大きさの正方形の神楽殿(おそらく)があった。芝居小屋は黒谷神社同様、拝殿から見て右手に建っていた。先に述べたように芝居小屋は常設で、その構造、大きさは、黒谷神社と変わらない。こちらには準備の人はいない。舞台も閉じられていて中の様子をうかがうことはできなかった。

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一色白山神社の神楽殿(?)
このあと9月14日に芝居公演が行われる荘川神社にも寄って、芝居小屋を確認した。荘川神社を見たあと、ホテルにチェックインする。

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荘川神社の芝居小屋
 
ホテルの手配もHが行った。荘川町の川沿いを走る国道のそばにある銀花という宿だ。荘川は観光地ではないけれど、宿泊施設は数件ある。楽天トラベルやじゃらんなどのウェブサイトには掲載されているけれどウェブを通した予約はできず、電話で予約をとったそうだ。ここはちょっと奇妙なホテルだった。外装は洋風だがかなり古びていて傷んでいる。パステル調の色合いで壁が塗られているが一昔前の洋風ペンションに和風がかかったような感じだ。入り口の周りは工具などが無造作に置かれていて、見栄えにはあまり気を使っていないようだ
チェックイン時に支払いを求められた。支払いは現金のみ。一泊9000円弱ということで、「お、案外高い!」と内心思ったが、これは朝夕二食付きの値段で、しかもその食事がボリュームがあって美味しかった。中華のレストランもやっている。レストランの名前は《プティ・レストラン ミニオン》とフランス語だ。オーナーが長野県で修行していたレストランがフランス系だったとのこと。ただしレストランで出す料理は中華系が主。オーナーとその娘さんの二人で切り盛りしている。娘さんはまだ若いが2歳の子供のお母さんだ。オーナーも娘さんもニコニコしていておだやかで感じがいい。
宿飯は飛騨牛のすき焼きなど(美味しかった!)や焼き魚など多数のおかずが並ぶ旅館飯だが、ボリュームがあって美味しかった。朝ごはんもがっつり出る。部屋は洋室だったが、絨毯にはしみついた汚れがあり、壁紙も古ぼけている。ベッドの上にはふとんが敷いてあり、浴衣も用意してある。テレビはない。フランスの地方の駅前の安ホテルを連想させる。「カーテンレールに服を吊るさないで下さい」という張り紙があった。この張り紙は廊下にも貼ってあった。風呂トイレは共用だ。風呂はかなり広い。24時間入浴可能。客室は二階だったが、一階に降りる階段の踊り場には、なぜか紀子様の写真が飾ってあった。
 
夜8時頃から芝居稽古が始まるとのことだったので、その15分ほどまえに黒谷白山神社に赴いた。舞台の幕は開いていて、舞台上は照明で照らされていたけれどまだ誰も来ている感じがない。客席から舞台をぼーっと見ていたら、20時過ぎに下から登ってきた人がいたので「今日は見学させてもらいます。よろしくお願いします」と挨拶した。8時20分ごろになっても舞台上で稽古が始まる気配がない。芝居小屋をぐるりと一回りしてみると、舞台奥の舞台からみて一階下にある楽屋に人が集まっている様子がうかがえたので、入り口の板の引き戸をあけて楽屋を訪ねた。楽屋には10人ぐらいの人がいた。

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黒谷白山神社の舞台幕。芝居小屋の名前は開明座。
 
村芝居の上演を取り仕切る頭取がHと私の相手をしてくれた。慌ただしい祭の前日に見ず知らずの人間であるわれわれが突然訪問して迷惑ならないだろうかと恐る恐る楽屋を訪ねたのだが、30代半ばの頭取(見た目はもっと若く20代に見えた)は愛想よく我々につきあい、質問に答えてくれた。向こうもこちらがどのような目的でやってきたのかわからない得体のしれない人間なので訝しく思われたかもしれない。しかしこんなに付き合っていただけるのであればインタビューの準備をもっとしておくべきだったとあとになって後悔する。さっと挨拶するだけであとはじっと稽古を見ているだけになるかなと思っていたので、インタビューの録音もしていなかったし、頭取や「師匠」の写真、楽屋の写真も撮らなかった。
 
記憶に基づく覚書だが、頭取からは以下のような話を聞いた。
  • 芝居は各自神社の若連中によって行われる。人情時代劇と舞踊ショーの二本立て。若連中には女性もいる。
  • 芝居の演目は受け継がれてきたレパートリーがあって、それを回していく感じ。毎年演目は変わる。今年は受け継がれてきたレパートリーではなく、新しい演目に挑戦した。
  • 頭取は芝居を含む黒谷神社前夜祭を取り仕切る責任者。頭取は毎年変わる。
  • 昭和50年(1975)以来の上演演目と出演者の一覧記録があり、撮影させてもらった。大昔は歌舞伎を上演していたらしいが、いつから人情時代劇上演になったかはよくわからないらしい。祭自体は江戸時代から300年近い歴史があるとされる。
  • かつらや刀などの小道具は、「興行」から借りるとのこと。演技の指導も「興行」の人が行うようだ。主演役者は毎年変わる。
  • 芝居の稽古は二週間前から始まる。毎日夜に行う。「師匠」と呼ばれるOBのかたの指導が入る。
  • 若連中は黒谷神社氏子で、だいたい18歳から40代半ばまで。黒谷の氏子全員が若連中として芝居に出るわけではない。声掛けして誘うとのこと。
  • 若連中は勤め人がほとんど。芝居稽古は毎晩仕事が終わってから行う。奉納芝居は日付で決まっているので毎年週末になるとは限らない。仕事より芝居優先で、奉納芝居のときは何日か休みを取る。

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前日稽古風景


このあとの稽古見学や本番を見てわかったのだが、芝居と舞踊ショーのスタイル(演出や音楽の選択や使い方)は、モダン大衆演劇のスタイルを踏襲したものだ。普段の稽古はOBの「師匠」が立ち会って指導が入ることが多いようだが(本番前日の稽古でも「師匠」からはかなり細かい指示が入っていた)、小道具なども借りる「興行」が芝居上演にどのような関わりかたをしているのか、「興行」とはなにか?、荘川の他の集落でも同じ「興行」が入っているのかなど確認しておきたかった。舞踊ショーなどを見ても、大衆演劇スタイルの舞踊の師匠がいて、出演者の多くは稽古事としてふだんから習いに行っているように思われた。
あとはこの村芝居の費用についても聞き漏らした。どれぐらいの予算でやっているのか。芝居は神社の例祭の前夜祭のなかで行われる余興なので、観劇料は取らない。出演者や裏方にギャラは出ないだろうが、それでも設営や衣装、照明などかなりの出費があるはずだ。祭当日にはいろいろなところからのご祝儀の札が貼られたが、そこにある金額を合計すると100万近くにはなっていた。とりあえずこの祭当日のご祝儀だけでやっていっているのだろうか。
村芝居でのヤクザ芝居の上演は昭和20年代にはほうぼうの村落で行われいたようだが、それが継続的に現在まで行われている例はかなり珍しいはずだ。しかも荘川村内にある四集落でである。数年前から高山市の観光局のウェブページなどで荘川の四神社の村芝居の広報が行われ、外にも知られるようになったらしいが、作り手はもちろん、観客もほぼ全てが出演者の知り合い、集落の住民という閉ざされた演劇だ。
 
頭取からは四〇分ほど話を伺った。そのうちに舞台上で稽古が始まったので、楽屋から客席に移動して稽古の様子を見学した。明日の演目は大衆演劇でとりあげられる『川北長治』。前日夜のこの日には通し稽古があると聞いた。しかし主演俳優が仕事のため夜の十時にならないと到着しないと言う。主演役者がいないと通し稽古ができないので、それぞれの役者が自分の出る場面や舞踊ショーの稽古を思い思いにダラダラとやっていた。舞踊ショーで踊る女性が若くて実に可愛らしい。これは人気があるに違いない。踊りも上手だ。音楽はポップス調の演歌で、大衆演劇でよく使われるようなものである。
 
十時すぎに主演俳優が到着。通し稽古がはじまった。一通り通しすが、芝居のリズムはいまひとつぎごちない。台詞がちゃんと入っていない俳優もいた。しかし通し稽古が始まると、それまでの弛緩した雰囲気がさっと改まる。「師匠」が舞台袖からかなり細かい演技のダメ出しをしていた。通し稽古をひととおり終えたあとも、立ち回りの場面やらうまくいかなかったところを中心に稽古が続く。半袖の服装で座ってみていたが夜の野外の冷え込みは思っていた以上だった。ただ稽古の途中で抜けるのは、稽古の熱気に水を指してしまうな気がしてトイレを我慢しながらずっと見ていた。稽古が終了したのは深夜0時を過ぎていた。最後まで稽古につきあったことで、頭取や座員からもちょっと信用されたような気がした。
 
【2019年9月1日(日)】
黒谷白山神社の前夜祭当日で、芝居上演が行われる日だが、前夜祭の開始は19時からとなっていて、日中は予定がない。前夜祭には11時ごろから場所取りが行われると聞いたが、あいにく場所取りようのシートなども持ってきていなかった。混雑の具合がわからないが、11時に神社に行って場所を確保し、それから夜までそこにずっといるのは不毛に思え、日中は荘川近辺を観光して時間をつぶすことにした。
荘川まで来ると車がないとどうしようもない。村内の移動も川沿いに東西に村が長く伸びているので、歩きだと大変だ。今回はレンタカーを利用し、運転はHまかせだ。私も免許は持っているのだが、もう15年以上ハンドルを握ったことがないペーパードライバーで、運転できる気がしない。今回の取材では車移動の利便性をあらためて認識し、自分の役たたずぶりを情けなく思った。ペーパードライバー講習を受け、レンタカーなどを運転できるようになりたいと思った。
荘川から30キロほどのところに有名な合掌造りの集落、白川郷がある。その途中にはダム湖荘川村の数集落が湖底に沈んだ御母衣湖と集落から移植された樹齢400年の荘川桜がある。御母衣ダム建設と荘川桜については、ウィキペディアに詳しい記述があった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0
せっかくここまで来たのだからということで、午前中はこれらの地を周ることにした。白川郷では外国人観光客のすがたが目立った。お土産もの屋が多くてテーマパークのように生活感に乏しく、人工的な風景に見えた。このなかには一般の住居も混じっているらしく、観光客が立ち入ったりすることもあるそうだ。御母衣ダムと荘川桜のそばの山の斜面には、ダム建設の際に作られた電源神社があり、そこにお参りもした。電源神社というのはかなり変わっているなと思ったが、この他にもダム湖の周りにあるそうだ。階段を上ると、物置サイズの祠があるだけ。狛犬はいた。
 
昼飯はダム湖を抜けたところにある蕎麦屋に入った。グーグルマップでの評価が高い。人気のある蕎麦屋で入店待ちの客が数組あった。「ネギ大根劇場」という看板が蕎麦屋の駐車場にあって矢印があるので、一体なんだろうと思って矢印の方向を歩いていくとネギ畑と倉庫があるだけだった。倉庫に「ネギ大根劇場」とペイントしてあったので、倉庫を開けると農機具が入っているだけ。蕎麦屋の親父に「いったいあのネギ大根劇場ってなんですか?」と聞くと、満足げな笑顔で「おお、行ったか。ネギ畑があっただろう。大根は抜いたばかりでないけど。あそこで取れたものを店ではつかっているんじゃ」と言う。「劇場って?」「だからネギ畑と大根畑。ああやって看板出しとくと、何やろう?と興味もって来るやつがいるから。宣伝みたいなもんじゃ。あれで地元テレビの取材も来たんだ」とのこと。そばはもりそば並盛りが1200円、大盛り2000円とかなり高かった。美味しいそばではあったが。
 
昼食後も前夜祭開始時刻まではだいぶ時間がある。9月はじめに奉納芝居が行わる四神社のうち、昨日行くことができなかった。野々俣神社に行くことにした。野々俣は荘川でもかなり山を上った奥まったところにあり、他の集落からは孤立している。奉納芝居・祭礼は9月3−4日だが、昼間の神社には人はいなかった。神社は山の斜面にある。芝居小屋の作りと大きさは他の神社とほぼ同じ。観客席となる部分にはテント屋根が設置されていた。荘川の村芝居はすべて神社の境内に建てられた常設の芝居小屋で行われているというのが驚くべきことだ。芝居小屋は何十年に一回は建て替えられている。維持費もそれなりにかかるにちがいない。一年に一度の奉納芝居のために、常設の芝居小屋を建設し、維持しているというのがすごい。
かつては今、奉納芝居が行われている四神社以外の他の集落の神社でも奉納芝居が行われていたのだろうかというのが気になった。時間の余裕もあったので、荘川町内の神社で祭礼だけが行われる神社も回ってみることにした。荘川の東にある三尾河白山神社と六厩白山神社を訪ねた。どちらの神社の集落も小規模で、神社も祭礼間近にもかかわらず打ち捨てられたような感じだった。奉納芝居が行われないこの二神社には芝居小屋も芝居小屋があった形跡もなかった。しかし六厩白山神社には、昨日昼に訪ねた一色白山神社同様の神楽殿があった。

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六厩白山神社の神楽殿(?)
 
六厩神社のそばにあるくるまーと六厩という駐車場に村の重要文化財という飛騨の匠が作った千鳥格子地蔵堂があるというので見に行ったが、どうってことはなかった。駐車場で存在感を発揮していたバイパス開通記念のモニュメントの巨大石碑を見て、「こんな芸術性も高そうにないモニュメントをバイパス開通したからといって、わざわざ大金をかけて作ろうっていうのはどういう了見なのだろう?」と思う。
そのあと、村を貫く街道沿いにある「日本一の五連水車」(一番巨大な水車が直径13メートル)を見て、ホテルに戻る。
 
ホテルで早めに夕食をとったあと(やはりボリュームがあって、多彩で、おいしかった)、奉納芝居を見るために黒谷白山神社に向かう。午後7時開演とチラシに会ったのでその20分ほど前に行った。神社の横にある公民館のような建物から山車が運び出され、移動していったが、その方向はなぜか神社と逆方向に向かっている。ぐるっと集落を回ってから神社にその山車は運びこまれることがあとになってわかる。
前夜祭の境内には夜店も出ていた。芝生の客席にはブルーシートが敷かれ、その上には場所取りの敷物が置かれていた。私はその敷物が敷かれていない舞台前方に座る。この舞台前方席は実は神社の若連中用だったことがあとになってわかる。まあ一人分ぐらいのいいだろう。
予告されていた午後7時の開演時間になっても始まらない。実際にプログラムが始まったのは午後8時前だったように思う。
奉納芝居と舞踊ショーだけかと思っていたら、そうではなかった。
まず氏子総代の挨拶があった。これはごく短いもの。前夜祭の取り仕切りは、若連中が行うようだ。高山市長代理で来た高山副市長の挨拶がそれに続く。「高山の祭は十月ですが、九月は荘川の祭の月ですから、残りの祭にも来させてもらいます」というようなことを言って、客席から差し出された缶ビールを一気飲みした。観客は300人ほど。もちろん飲み食い自由だ。小さい子供から老人まで。私のいた前方席は若連中たちの場所でもあったため、客席の盛り上がりがすごい。Hは撮影のため後ろの方で見ていたが、舞台から遠い席はそれなりにクールだったとのこと。
 
プログラム構成は挨拶のあとは、まず獅子舞が30分ほど。いくつかの演目が踊られる。獅子が一匹のこともあれば、数匹の獅子が舞台に並んで踊ることも。小さな子どもたち数人が舞台下手の花道のところで、小さな獅子舞を手にして舞台上の獅子の動きを真似していた。ウィキで調べてみると富山、石川、岐阜のこのあたりは獅子舞がとりわけ盛んなところのようだ。荘川では十月に30頭の獅子による連獅子が名物になっている。
獅子舞のあとは舞踊ショーの第一部。第一部は小中学生のソロ舞踊だ。舞踊の音楽と振り付けは大衆演劇の舞踊ショーと同じもの。面白いのは各人の舞踊が終わると、花道からどどどっと数人の子供がプレゼントを渡しに舞台に駆け寄り、演者は抱えきれないほど大量の贈り物を持って舞台から退場するという趣向だ。観客や花道にプレゼントを贈るために待機している子どもたちからの声援も演技中にかかる。照会のアナウンスも実に手慣れた感じで、ユーモラスな修辞と口調で演者を紹介する。5人の小中学生が和装で踊った。

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開明座の幕。明治31年とある。
 
奉納芝居、時代人情劇は舞踊ショーの後にある。上演時間は90分ほどだったように思う。演目は『川北長治』。昨晩の通し稽古では、リズムが悪くもたもたした感じがあったけれど、本番の今日はさすがにきっちり決まっている。観客はつまらないギャグにもことごとく反応するので、役者たちもそれを受けて気分が乗っているのが感じ取られた。客席の反応がいいので、アドリブなどもなめらかだ。でも馴れ合いでぐずぐず芝居を崩したりはしていない。芝居の骨格はきっちり演じ切ろうとしているので、ダレた感じはなかった。昨晩はぎごちなくて何回も稽古していた見せ場の立ち回りも見事に決まった。主演俳優の男っぷりはプロさながら。唯一の女性、茶店の娘を演じた役者も可愛らしかった。

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『川北長治』上演場面

 
前夜祭のメインプログラムである芝居が締めかと思えば、芝居はプログラムの真ん中に置かれていた。芝居の後、中入りがあり、そのあとは口上。そして大入り福袋を客席に盛大にばらまくという趣向があって、客席が沸く。私は小さい大入り袋を手に入れた。中にはおかしが入っていた。大きな福袋は手提げの紙袋だ。最後に投げられた特別の福袋を手にした観客(小学生の女の子)が、テントの上に吊るされたくす玉割役に任命された。

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大入りの福袋の投げ込み。
この後にまた獅子舞が挿入される。獅子が赤い下をだして自分の足の裏やお尻をなめて気絶するというユーモラスなもの。小さな子どもたちが花道で、小型の獅子を手にして舞台の様子を模倣してみせるのも、最初の獅子舞のときと同じ。
そのあとに大人の舞踊ショー。二人舞踊を含み5組が踊った。舞踊ショー第二部のあとに、前夜祭を取り仕切った若連中一同による締めの挨拶があった。「お楽しみいただけたと思います」という頭取の言葉に大きな拍手。若連中は大役を終えてほっとした喜びに満ちていた。
若連中の締めの挨拶のあと、客席から人が立ち退場していると、舞台上では獅子舞の代神楽が前夜祭の終わりを締めくくった。
終焉時刻は23時を過ぎていた。
 
これぞ伝統的な共同体の祭という雰囲気に心奪われる。地域の人たちのための地域の人たちによる芝居だ。熱気と高揚感、一年に一度の共同体の祝祭での盛大な浪費の解放感にしびれる。若連中がとても楽しそうに、そして誇らしげに村芝居に関わっているのも印象的だった。荘川町では、毎年9月1日に今回私が見た黒谷白山神社で奉納芝居が行われるほか、2日は一色白山神社、3日には野々俣神社、そして日がしばらくあいて9月14日は荘川神社で奉納芝居が上演される。同じ村の四神社で同じ時期に芝居上演を行うということでライバル意識が芽生え、それが芝居への取り組みの熱意とクオリティの高さにつながっているのだろう。上演されるのはすべて大衆演劇スタイルの人情時代劇とのことだ。いずれこの四神社の芝居すべてを見てみたい。
 

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若連中の締めの挨拶。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』『女の決闘』@麻布霞町教会

教会演劇

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のあんじー(アンジー×栗栖のあ)の『駆込み訴え』は、二週間前の8月4日に千葉屏風ヶ浦で野外公演が行われている。この公演では二人はロリータ・ファッションでこの作品を上演した。残念ながら私は見に行くことができなかったのだが、ツィッター上の報告で確認した灼熱の海岸で奇矯なメイクとロリータ・ドレスで演じる二人のビジュアルはインパクトがあった。

今回の公演はもともとは厨房ごとレンタルする食堂を会場にした夕食演劇として予告されていたが、どういう経緯があったのかわからないが、プロテスタントの教会を会場とする教会演劇として牧師の説教付きで上演されることになった。

『駆込み訴え』は十二使徒のひとり、ユダが師であるイエスを告発する一人語りだ。ユダは語らずにはいられない、彼がイエスに対して抱く激しい愛憎のすべてを。ユダは語りのなかで、どうにもコントロールできないイエスへの感情の強さに悶え苦しみ、そして陶酔する。

 

福音書を題材とする小説なので、教会で上演するのはふさわしい作品かもしれない。上演中、ユダを演じる俳優の視線はときおり教会正面に掲げられた十字架に向けられた。教会内で演じることで、ユダの倒錯はより効果的に提示される。ユダは告発しながら、イエスの視線を意識せざるをえない。

しかしイエスと弟子たちというホモソーシャルな集団のなかでの師への同性愛的ともいえる愛情を激しく吐露する太宰の『駆込み訴え』は、教会的には許容されうるものだろうか。

そして原作ではユダのモノローグである作品は、今回の上演では二人の若い女性によって演じられる。

麻生霞町教会での『駆込み訴え』上演では、オイレンブルク作・森鴎外訳の短編小説『女の決闘』がそのなかに組み込まれた。鴎外訳の『女の決闘』は、人妻が夫の不倫相手の女子学生と拳銃での決闘を行う話である。この短い小説にコメントを挿入した解説小説を太宰は出していて、『女の決闘』を表題とする短編集を1940年(昭和15年)に出している。この短編小説集『女の決闘』に「駆込み訴え」は所収されている。

 

平原演劇祭で高野竜はこのような複数の作品の融合をしばしば行う。『女の決闘』はのあんじーとは別の二人の女優(おいかわ、さいとうれいな)によって演じられた。

開演は20時だった。15分ほど前に会場に入ると20人ほどの観客がいた。直前まで上演場所、日時がはっきりせず、広報が不十分であったわりには、多くの観客が集まった。入場料は1000円+カンパで終演後に集められた。

 

今回出演する4人の女優はすべてこの3月に高校を卒業したばかりだと言う。女優4名は上演前に会場内に姿を晒していたが、そのなかでアンジーとおいかわのビジュアル・インパクトはすでにこの教会空間で異彩を放っていた。二人共かなり太めで大柄の女性だ。深夜の郊外のドン・キホーテ店内をウロウロしていそうなオーラを放っている。アンジーはピンク色に染めた髪で「ズベ公」的なのっそりとした迫力を発散している。おいかわは刈り上げの金色に染めた短髪で顔には多数のぴあすが。鋭い視線が印象的な彼女の風貌は80年代後半のイギリスのテクノ・ポップ・デュオ、ヤズーのアリソン・モイエを連想させた。彼女たちの雰囲気はいかにも教会にはそぐわない。

最初はおいかわによる『女の決闘』から始まった。さきほど確認したのだが、鴎外訳の『女の決闘』のおそらく最後の部分、女学生を決闘で殺害した人妻から牧師にあててかいた手紙が教会の説教壇から読み上げられた。明瞭な発声での朗読だったが、いきなり鴎外訳で宗教的懺悔といってもいいような内容のテクストを読み上げられても内容が頭に入ってこない。金髪短髪のピアスだらけの疑似アリソン・モイエがそのようなテクストを教会で読み上げる。ミスマッチ感がすごい。

 

『駆込み訴え』は、ユダの台詞がピンク髪のズベ公アンジーと長身、黒髪ロングののあにルーズに振り分けられている。彼らはイエスを組長とするヤクザの組の舎弟という設定だ。そういえばつかこうへい原作の映画で『二代目はクリスチャン』というのがあったことを思い出す。ホモソーシャルな疑似家族ということで、イエス十二使徒の進行集団をヤクザの親分とその舎弟たちという関係になぞらえるという発想はわからないではない。アンジーとのあの二人はイエスの教団のパロディであるヤクザ組織のパロディを実にうまく表現していた。あとで聞くと演出の高野竜からは教会版『駆込み訴え』は「任侠もの風に」という指示があったそうだ。

それで背広にさらしという「一世風靡セピア」風衣装に。あとはイタリアン・マフィアのアル・カポネを意識した葉巻。とにかく18歳の若い女優が想像力を駆使して「ヤクザ」っぽい紛いものの役柄を作ってみた感じだ。その紛いものヤクザの大胆で開き直った嘘っぽさがおかしい。太宰のオリジナルのテクストと自由な翻案とそしてその場ののりで発展させたアドリブを織り交ぜながら、イエスに激しく恋い焦がれつつ、その思いを屈折したやり方でしか表明できないユダの悶えを、漫才のようなやりとりのなかで表現していく。

これも後でわかったことだが、アンジー太宰治の大ファンでのあは敬虔なクリスチャンとのこと。アンジーは役柄に入り込み、どんどん調子に乗っていく感じがわかる。しかし調子に乗っていながらも、それがもたらす効果はしっかりと計算していることが伝わってくる。見た目に反して、実は繊細でクレバーな演技だ。のははヤクザ芝居のなかにも生来の生真面目さが見え隠れする。しかしその生真面目さは、この『カチコミ訴え』をプロテスタント教会で牧師説教付きで上演してしまうというズレへと結びついてしまう。見に来た観客に『駆込み訴え』のエピソードの該当部分を付箋で示した聖書を配布するという真面目さ。彼女は太宰のこの小説をキリスト者として真摯に読み込んでいったのだ。そしてその結果がヤクザ芝居の少女二人による福音書劇。

中世の受難聖史劇が福音書を題材としつつも、奇想天外なトンデモ・スペクタクルに変容していったのを連想させる。

この二人の掛け合い漫才的な『駆込み訴え(カチコミ訴え)』に『女の決闘』の決闘場面が強引に押し込まれる。おもちゃのピストルを使った派手で無意味な決闘シーンに大いに笑う。

 

これらのデフォルメにもかかわらず平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は、確かにまっとうな『駆込み訴え』であり、太宰治を深く愛するアンジーと敬虔なクリスチャンたるのあのの太宰理解、福音書理解を反映した内容になっていた。

『駆込み訴え』を演劇としてやるとなると、俳優一人が必死の形相でひたすら真面目に情感をこめてテクストを語る(それだけでも十分に面白いのだが)『駆込み訴え』しか思い描くことができていなかった私には、平原演劇祭×のあんじー『カチコミ訴え』は実に痛快で新鮮だった。

 

『カチコミ訴え』のあと、平林知河牧師によるガチの説教が続いた。普段と違い、信者でもない人を前にこうした宗教的講話を行うのは、さぞかし戸惑ったに違いない。しかも上演された『カチコミ訴え』は、牧師が想像していた『駆込み訴え』とは相当異なるものだった。牧師の話はなぜユダの罪はこれほど厳しくイエスに批判されたのかということだった。ユダがイエスの愛を信じ切ることができなかったことが、大きな罪だった、というような話をされた。

講話終了後、平林牧師に「それにしても『生まれてこなければよかった』というイエスの言葉はあまりに厳しく感じられます。太宰治のユダや遠藤周作のユダは、この福音書のイエスの言葉を思うと、すごく甘く、ユダ贔屓に思えるのですが、牧師はどう思われますか?」と聞いた。牧師は「私は遠藤周作はあまり好きではありません。でも太宰治のユダ像は遠藤よりも共感できます。太宰はキリスト教をとてもよく研究していると思います」とお答えになった。

 

https://www.instagram.com/p/B1ghaN-AdhO/

平原演劇祭『カチコミ訴え』でユダ役のひとり、アンジーと。このふてぶてしさ、調子に乗って暴走している感じが最高だった。自分が引き受ける役柄をきっちりイメージして演じていることが伝わってきた。

ゲッコーパレード『ファウスト』@旧加藤家住宅

原作:J.W. ゲーテ

引用訳:森鴎外 ほか

演出:黒田瑞仁

出演:崎田ゆかり、河原舞、永山香月、大間知賢哉

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美術:柴田彩芳

衣装:YUMIKA MORI

記録写真・映像:瀬尾憲司

チラシイラスト:石原葉

チラシデザイン:岸本昌也

制作協力:岡田萌

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埼玉県蕨市の住宅街にある築40年の古ぼけた木造民家で、日本人の若い俳優たちがゲーテの『ファウスト』を上演するという。
京浜東北線蕨駅から線路沿いに12、3分歩いたところに、会場となる旧加藤家住宅がある。一階の八畳の二間が上演場所になっていた。観客は二十名ほど。二つの八畳間を両はしにそれぞれ二列の客席があり、両側を観客に挟まれる形で俳優たちは演技をした。二間は微妙にずれていたので観客から見て奥側にある八畳間の一部は死角になる。
 
こんな場所で、ひょろひょろして頼りない身体の日本人俳優が『ファウスト』をまともに上演しても空々しい。ゲッコーパレードの公演をその本拠地である旧加藤家住宅で見るのは今回が初めてではないのだけれど、会場に着いてみて「ここで『ファウスト』をやるなんて、いかにも無茶な話だな」と思う。この古ぼけた民家で『ファウスト』を上演するという馬鹿げた挑戦自体が面白い。
 

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男性俳優の口上とともに10分押しで芝居は始まるのだが、『ファウスト』はなかなか始まらない。三人の若い女優たちのグダグダしたやり取りが続く。そのじゃれ合いのようなルーズなシーケンスのとシームレスに『ファウスト』の断片的場面が様々なやり方で挟み込まれていく。小さなムーミン人形を「ファウスト」に見立てた一人遊びのような感じで、一人の女優がブツブツと『ファウスト』の一場面の断片を提示したり、あるいは仰々しい翻訳(森鴎外訳らしい)で二人の女優が掛け合いで演じたり。『ファウスト』の外枠となる若い女性三人のグダグダしたやり取りも、それぞれが何かの「ごっこ」をしているかのように女優たちの演じる人物は連続性を持ちながらも変化していく。最後は家の外から木の枝やら土の入った水槽やら様々なガラクタ的オブジェを部屋に持ち込み、雑然とした「聖域」のようなものを作り、そこで宗教儀式みたいなことをしたりする。それが終わると雑然と並べられたオブジェは片付けられるのだが。
 
とにかくとりとめなく、とらえどころのないシーケンスが『ファウスト』の断片とともに80分間に渡って続く。ああいう場所でああいう女性によって『ファウスト』が上演されるということでもたらされる異化効果というのはもちろんある。ただこの上演の場合、それがどういう意味を持つのか、そしてそれが成功しているのかどうか、私にはわからない。こうした引っ掛かりを観客である私にもたらしているのだから、不可解ではあるけれど試みとしては成功しているのかもしれない。しかしそれが面白かったかどうかも私にはよくわからないのだ。
 
すごく投げやりで無作為に見えるように作為的なことをやっているのだけれど、それではその作為の意図は何かというのがわからない。それは「観客側に開放されたまま投げ出しているんですよ」というもっともらしくて、実は怠惰なだけの思わせぶりではないように思う。そうではないと私は思いたい。
蕨市の住宅地の古ぼけた民家で、若い女優3人プラス男性俳優だけで、あえて『ファウスト』という超大作を上演するということだけで戦略的だ。単に「このミスマッチが面白いでしょう?」だけでは、こうした企画を実際にやって見ようと思わないだろう。『ファウスト』を彼らの上演環境に強引に引っ張り込み、「矮小化」し「ローカル化」することで生まれる何かがあるし、その何かは『ファウスト』という古典の可能性をさらに広げるものとなる、ぐらいの目論見はあるのではないか。
 
その「何か」への自分なりの解答はとりあえずは保留にしておく。ゲッコーパレードは今後も『ファウスト』を上演していくとのことなので、ずっと見ていくうちにわかってくるものはあるだろう。とにかく強い日差しのなか、蕨駅から旧加藤家住宅まで歩いてちょっとぼーっとなった。女優3人が『ファウスト』の断片とともに違った姿を80分のうちに見せてくれるのがとても心地よかった。

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劇場でないところで上演される演劇が私は好きなこと、俳優と戯曲を介してその場所が異世界に変容していくということにたまらない魅力を感じることを、今日の旧加藤家住宅の『ファウスト』で改めて確認することができた。

【演劇】劇団サム第4回公演『BREATH』

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作:成井豊

演出:田代卓

会場:練馬区生涯学習センター

2019/07/21 17:00

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練馬区石神井東中学演劇部のOBOGたちがメンバーの劇団サムの第四回公演。劇団主宰で演出を担当する田代卓はかつてこの演劇部の顧問で、演劇部を関東大会、全国大会に導いた指導者だった。教員を退職したあと、田代は演劇部のOBOGたちに声をかけて劇団を結成し、年に一回の公演を行なっている。
公演は石神井東中学演劇部との合同公演で、劇団サムの『BREATH』の公演の前に、現役の中学演劇部による『男でっしょっ!』(一宮高志作)の公演があった。『男でっしょっ!』は50分の作品。共学化した元女子校に三人の男子学生が入学してきて、マイノリティの彼らが強くて横暴な女子たちと関係を築いていくという話だった。テンポのあるテキパキとした進行で退屈しない。観客席からなんども笑い声が上がる楽しい舞台だった。中学へ入ってまだ数ヶ月の一年生も含め、20人ちかい生徒が舞台に上がるのだけれど、全員が演じることを楽しんでいる様子が伝わってきて見ていて気持ちがいい。溌剌としていて舞台に立つ喜びが伝わってくる。舞台に立ち、自分でない何かを演じ、観客に向かってそれをさらし、表現することで、中学生たちが日頃囚われている色々な束縛から解放されているように見えた。
300席ほどの会場は8割ぐらい埋まっていた。観客の多くは出演者の家族や同級生たちのようだったが、知っている子供たちの登場に反応する会場の雰囲気もよかった。カーテンコールでは裏方も含め、全員の紹介が行われた。そのカーテンコールの挨拶も元気いっぱいで誇らしげだった。
 

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30分の休憩のあと、劇団サム『BREATH』の公演。開演前に主催の田代卓からの挨拶があった。四回目の公演にして劇団サムは二時間のフルサイズの芝居に挑戦する。キャラメルボックス成井豊の作品で、クリスマスの時期の七組の男女(必ずしも恋人同士ではない)の関係を描く群像劇だ。出演俳優は15名でそれぞれに見せ場が用意される端役のない作品だった。クリスマスまでの二週間ほどの期間に起こる七組の男女を、彼ら全員と関わりを持つ遍在的で変幻する狂言回しの登場人物が導いていく。とってつけたような人工的で説得力の乏しいエピソードもあるが、7つのエピソードの人物をつなぎ、ハッピーエンドのラストに向かって集約させる劇作はさすがに手慣れた感じでうまい。
舞台の手前と奥を幕で仕切る二重構造にし、さらに机や椅子などを出し入れすることで舞台を分割し、素早く場面を転換させていく演出上の工夫がよかった。この工夫のおかげで展開がダレることなく、リズミカルにテンポよく進んでいった。俳優の声もよく通り、しゃべっていないときも表情や仕草などの演技の工夫がある。この演目の前に見た中学生の芝居と比べると、さすがにはるかに芝居らしい芝居になっている。
四回目の公演となった今回は、中学演劇OBOGの俳優たちの半分は成人だと言う。俳優たちがみなとても魅力的だった。アマチュアとはいえ、中学演劇の卓越した指導者だった田代卓が指導しているので、発声や所作などはそれぞれそれなりの訓練はできている。また今回の出演メンバーのなかには職業的な俳優を目指して専門学校などに通っている者もいた。しかし演技がうまい下手ということよりも、舞台上での俳優一人一人の存在がきらめいていていた。お互いの芝居をそれぞれが注意深く、優しく見守っているような親密な緊張感を舞台から感じられる。
主宰の田代は当日パンフレットに劇団サムが団員たちの「心の拠り所」となっていると書いていた。一年に一度「古巣」に戻り、仲間たちと舞台を作るという濃厚な経験が、彼らにとっていかにかけがえない重要なものとなっているかが舞台から伝わってくる公演だった。
劇団サムの『BREATH』はこうした「背景」を仮に取り去って見ても、十分に楽しんで見ることができる水準の公演になっている。しかし彼らの前に中学生演劇部の芝居を見ているだけになおさら、舞台上の彼らのあり方に、色々と変化の多い思春期、青春期のなかで成長を遂げた彼らの姿を感じ取ることができるように思え、その存在の二重性がこの舞台の感動をさらに大きなものにしている。当日パンフレットにはキャストのコメントも掲載されているが、その短い文章からは仲間との演劇づくりに挑む彼らの真摯な姿勢が伝わってくる。
「ああ、人間ってこうやって成長していくんだ」と言うことを確認できる舞台なのだ。一年に一度、かつての演劇部顧問のところに集い、アマチュアとして公演を行う劇団サムの公演は、その舞台から感じとられるその健気さと誠実で愚直な作品づくりの姿勢ゆえに、ある意味でキャラメルボックスよりもずっとキャラメルボックスっぽい芝居になっていた
マチュアによるこういう芝居を見るたびに「演劇ってなんだろう?」と考える。こうした演劇は、集団での創作・表現活動のなかで凝縮され、増幅された特別な生の充実のありようを伝えてくれる。

【映画】さよなら、退屈なレオニー(2018)

http://sayonara-leonie.com/
監督:セバスチャン・ピロット

製作:ベルナデット・ペイヤール、マルク・デーグル
脚本:セバスチャン・ピロット

撮影ミシェル・ラ・ブー
キャスト:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリラント、フランソワ・パピノー、リュック・ピカール、マリー=フランス・マルコット

原題 :La disparition des lucioles
製作年:2018年
製作国: カナダ
上映時間:96分
映画館:新宿武蔵野館

評価:☆☆☆☆

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ベック映画ということで見に行った。
ケベック州の海辺の田舎町、いかにも変化が乏しくて退屈そうな町に住む17歳の少女レオニの物語。
両親は最近離婚して、彼女は母親と母親の彼氏と一緒に住んでいる。父親を信頼していたが、父親は普段は遠く離れた所で働いていて、何ヶ月に一度しか会えない。両親の離婚はレオニーとって大きなショックなのだが、その動揺を誰も受け止めてくれないことを知っている彼女は、早熟でシニカルな態度で自分の内面を守ろうとしているようだ。
その彼女が興味を持ったのは、町の安レストランで知り合った年上の冴えない男、スティーヴだった。ギターの個人教授の彼は、母親と二人でひっそりと暮らしている。彼も町の人たちから浮いていて、孤独な存在だ。スティーヴはこの町と孤独から抜け出すすべも知らないし、その気力もない。レオニーはスティーヴの孤独に安らぎを感じつつ、退屈な生活としっかり向き合い、とにかくそれを何とかしようする気力がある。彼女は退廃に沈み込みそうになりながらもそれに溺れることはない。自分の若さを信じている。
主演のカレル・トランブレの演技が素晴らしい。天才。鬱屈した青春期にある女性を好演。
レオニーのパートナーであるスティーヴがミュージシャンということもあり、音楽も豊かな青春映画だった。
ティーヴがレオニーと恋人になるのかなあと思いながら見ていたら、心が通じ合い、恋人同士になりそうな雰囲気を漂わせながら、プラトニックなままだった。この我慢加減あって生じる緊張感がとてもいい。もしスティーヴとレオニーが気分で恋人になってしまったら、この映画は映画にはなっていないだろう。
あそこで一気にレオニーを自分のモノにできないスティーヴはダメ男だ。
原題、「ホタルがいなくなってしまった」はちょっと気取りすぎ、狙いすぎな感じがする。