閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

劇団サム第5回公演『ことばのかいじゅう』『水平線の歩き方』

 

劇団サム第5回公演

練馬区立生涯学習センター

『ことばのかいじゅう』作:黒木美那、演出:田代卓

『水平線の歩き方』作:成井豊、演出:田代卓


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元石神井東中学校演劇部のOBOGを中心に有志で集まってできた劇団、劇団サムの第5回公演。

これまでは夏に年一回の公演だったが、今年は夏にキャラメル・ボックスの成井豊作『BREATH』を上演しただけでなく、2月にも上演時間一時間の作品の二本立て公演を行うことになった。予告では劇団サムの二本の前に、石神井東中学演劇部の『モノクロ』(一丁田やすたか作)の上演も予定されていたが、インフルエンザ流行のため石神井東中学演劇部の公演は中止になってしまった。

 

最初に上演されたのは黒木美那作『ことばのかいじゅう』だった。
作者の黒木美那は現在大学一年生で、この作品は昨年、彼女が高校三年生のときに書いた作品とのこと。

舞台は高校の教室で、登場人物は三人の女子高生だ。三名といっても一名はほんの短い時間、舞台に現れるだけで、実質的には二人の登場人物の対話劇である。クラスメートからの執拗ないじめにけなげに耐えている久保さんという女の子といじめで傷つく久保さんを見守り、彼女に寄り添おうとする河原さんという女の子の対話劇だ。久保さんは明るく強気な態度を貫くことで、自分を守ろうとしている。

放課後の教室で、机にされた落書きを一人で消している久保さんを見かけた河原さんは、久保さんの様子を見過ごすことができないが、彼女は同級生の久保さんに敬語で話しかけるいかにも不器用そうな女の子だ。久保さんは自分に言い聞かせるように、河原さんに話しかける。久保さんの明るい饒舌が、かえって彼女の受けたダメージの大きさを感じさせてしまう。おずおずと久保さんに寄りそう河原さんは、徐々に久保さんの心を開いていく。河原さんは両親に虐待を受けて深く傷ついてしまったために、人との距離感の取り方がわからなくなってしまっていた子だった。自分の思っていることを、不用意に吐き出すことで、他人を傷つけ、それによって人が自分から遠ざかっていくことを彼女たちは恐れている。しかし互いに心を開いて、それぞれの思いを受け止めた二人は、自分たちの心情を素直に言葉にすることで、自分たちが解放されることに気づく。絶望と諦念に囚われていた彼女たちは希望を見いだす。

 

登場人物二人だけのやりとりで、しかも動きの少ない作品だったのだが、声の調子や間だけでなく、言葉と連動した細やかな身体の動きがとても印象的だった。細かい演技の工夫に感心した。過度に感情的にならず、むしろ軽やかにリズミカルに対話が進行していく。自分と同年代の少女の気持ちをしっかりと丁寧に表現されたすばらしい演技で、一時間の上演時間、緊張感が途切れなかった。久保さんを演じた石附優香さんのちょっと鼻にかかったような声が、いじめられている女の子が抱えるさまざまな感情を見事に具現していたように思った。

二本目は昨年の夏に引き続き、キャラメルボックスの成井豊の作品の上演である。『水平線の歩き方』は、怪我によって引退を余儀なくされ、不自由な身体になってしまった社会人ラグビー選手の物語だ。6歳の時に急死した34歳の母の幽霊に、35歳の岡崎幸一は自分のそれまでの人生を語る。両親を失い、叔父叔母の夫婦のもとで育てられた彼は、孤独を内部に抱えつつも、新しい家族の愛情や友人や恋人、そしてラグビー選手としての成功のなかで順風満帆の人生を送っていった。しかし膝の故障によって選手生命を絶たれたことによって、彼は人生の目標を失ってしまう。絶望と孤独感のなかにあった彼は、母親への語りを通して、自分の人生を見直していく。

キャラメルボックスが活動休止してしまった今、劇団サムはキャラメルボックスのエッセンスを忠実に継承し、ある意味キャラメルボックス以上にキャラメルらしい舞台を見せてくれるような気がした。

出演者のアマチュアリズムが、人間への信頼に基づく健全でピュアなキャラメルボックスの世界の表現に、大きな説得力をもたらしているからだ。一年に一度ないし二度しか上演のない、同窓会のような公演に注がれた出演者たちの熱い思いが舞台からほとばしっている。私の娘は4年前に石神井東中学演劇部に所属していた(残念ながら劇団サムには参加していないのだが)。私は娘が中学に入ったころから、演劇部顧問の田代卓が指導する石神井東中学演劇部の公演を見ている。

 

そして中学を卒業し、数年たち、思春期後半の大きな変化を遂げた娘の同級生や先輩後輩が、この舞台で演じている。彼ら、彼女たちの劇的な変化、成長を目の当たりにするだけで胸に迫るものがある。中学を卒業し、ばらばらのところでそれぞれの世界を持つ仲間たちが、演劇を通じて旧師のもとに再び集うことの喜びが舞台から伝わってくる。そして演じること自体に彼らがいかに魅了されているかということも。

優れた中学演劇の指導者であった田代卓のもとで鍛えられた彼らの芝居は、細部まで神経が行き届いた美しい楷書体の芝居だ。中学演劇を出発点とし、学校演劇的な様式をベースとしつつ、出演者の成長とともに、小劇場や商業演劇的なものとは味わいの異なる独自のすがすがしい洗練が感じられるようになった。

 

『水平線の歩き方』はいかにも成井豊らしい、いかにもキャラメルボックスっぽい、健全でまっすぐすぎて気恥ずかしくなるような人間賛歌だ。しかし成井豊の作品を劇団サムほど堂々と説得力あるやりかたで上演できる団体はそうそうないだろう。

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』文藝春秋、2018年。

 

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

心がザラザラとするような後味の悪い小説だった。2016年に起こった東大生5人による女子大生への強制猥褻事件を取材した小説である。この小説に関心を持ったきっかけは、2018年12月に東大で行われた作者の姫野カオルコをパネリストに含むブックトーク・イベントの記事を読んだことだ。このブックトーク・イベントでは、東大教授でジェンダー論を専門とする瀬地山角が小説内記述と事実の違いを指摘することでこの小説を批判したことで、かなり紛糾したそうだ。その様子は東大新聞オンラインに詳しく報告されている。
 
小説のプロローグでまず伝えられていることだが、この小説は「東大生5人による女子大生への強制猥褻事件」をセンセーショナルな筆致で描写するものではない。全四章437ページのうち、三章までの333ページは事件の前史に当てられている。三章までは事件の当事者となる女子大生と東大大学院生の恋愛に関わる生活史を、彼らの高校時代から丹念に、緻密に記述しているのだ。そして事件について書かれてある第四章は、事件当日の生々しく、おぞましい描写が前半、その後日譚が後半という構成になっている。
 
作者の姫野が事件の当事者に与えたライフストーリーのディテイルに驚嘆する。作者がこの小説を書く動機となったのは、事件後の被害者となった女子大生へのバッシングだと言う。Twitterや匿名掲示板にこの被害者を誹謗するような書き込みが多数あった。「世に勘違い女どものいるかぎり、ヤリサーは不滅です」「被害者の女、勘違いしていたことを反省する機会を与えてもらったと思うべき」等々。
姫野は被害者女子大生をごく普通の女子大生として造形する。「東大生というブランドに憧れ、積極的に接近していく浅はかで性的に奔放な女子大生」ではなく。
作者が描いた平凡な、そして「標準的な」女子大生とはどのようなものか。都市近郊の住宅地に住む。庶民的で仲のいい家族のなかで育つ。小中高は地元の公立の学校に通い、中学から私立や「付属」の学校に進学する人たちは「自分とはちがう」人たちと認識している。生活態度はまじめで、よくない遊びも覚えず、おっとりとすごしている。異性から積極的にアプローチされるような美貌も持っているわけではないが、公立の共学では男子たちとはクラスメイトとして仲良くつきあってきた。メディアなどを通して流布している女子大生のステレオタイプは、ある種の先鋭的でひと目につくタイプの女子大生像に基づき形成されているものだと考えたほうがいいかもしれない。標準的な多数派の姿というものは案外その外部には可視化されないものだ。
 
こうした女子大生は実際には山ほどいるのだろう。『彼女は頭が悪いから』はこのような普通の女子大生が、どのような経緯であのおぞましくセンセーショナルで特異な事件にまきこまれるようになったのかという経緯を、彼女の高校時代から順々にその恋愛体験を追うことによって丁寧に描き出している。その恋愛体験は、華やかさとは無縁のごく慎ましく、微笑ましいものだ。
 
実は私は『彼女は頭が悪いから』を読みつつ、自分がこのようは「普通の」女子大生がどのような生活を送り、どのようなことを考えてきたなど、これまで彼女の立場にたって思い浮かべたことがないことに気づいた。
『彼女は頭が悪いから』の138ページの記述に、以下のようにある。
 
「日常生活に男子がいる。幼稚園から高校まで、例外なく、男は女を分類する。「かわいい子とそうでない子に」。「かわいい子とぶさいくな子」という分類ではない。「かわいい子」ではない子は全員、「そうでない子」だ(…)だが共学というところは「そうでない子」と判定されても、その学校がよほど荒れた環境でないかぎり、いじめられるわけでもなく、男子から冷たい仕打ちにあうわけでもないのである(…)むしろ「そうでない子」のほうが、男子と仲良くなるケースが多々ある。互いに構えず交流が積み重なるからだ」
 
『彼女は頭が悪いから』の主人公のひとりである美咲についての記述を読んで、私はおそらくちまたの女子大生の多くがそうであろうところの普通の子、「そうでない子」というのはどのような女の子であるのかを私ははじめて思い浮かべることができるようになったのだ。そもそもそういた子がどんな内面を持っているのか、どんな生活を送ってきたのかということに対して私は関心を持ったことがなかった。考えてみれば自分は恋愛対象としてはいわゆる「かわいい子」にしか関心がなかったし、その恋愛感情も相手に自己の願望を投影するという一方的なものでしかなかったような気がする。日常的な交流のなかで自然に親愛を深めていき、それが恋愛関係につながるという「健全」な付き合いというのをしたことがないのだ。私の恋愛経験はいびつでかつ貧しい。
  
『彼女は頭が悪いから』では美咲という標準的な若い日本人女性が、どういうきっかけとプロセスで恋愛を経験していくのかが丁寧に描かれてる。それは私にとってはこれまで関心の外になったことがらであり、未知の情報であったので、非常に興味深く読んだ。
 
強制わいせつ事件の加害者の一人であり、被害者の元恋人でもある東大大学院生のつばさのライフヒストリーもまた緻密に書き込まれている。父親は官僚で、母親は専業主婦。広尾の国家公務員宿舎に住む。兄は中高一貫の男子校から東大文1に進んだ。つばさはその兄に反発を感じ、中学は敢えて公立を選ぶ。高校は生徒全員が東大をめざすような教育大付属の進学校に進み、東大では理1に進学した。つばさ以外に事件に関与した東大生たちについてもかなり詳しく小説のなかでは書かれているのであるが、上記の東大で開催されたブックトークイベントのなかで、瀬地山角は東大生について書かれたディテイルについていくつもの事実誤認があり、それが小説のリアリティと説得力を奪っているといった趣旨の批判をしている。批判の要点をまとめると、小説のなかで「三鷹寮が広い」と書かれていた、小説のなかの東大生たちが挫折のない若者として描かれていた(実際には東大では優秀な者の集団にいるがゆえの挫折を抱えているものが圧倒的多数である)、そして理1の男子学生の大半は女性に縁遠く、つばさのようなプレイボーイを東大理1の代表例のように記述されているのは悪質なミスリードであるといったことになる。
 
小説を読み終えたあとで、上記の東大新聞オンラインにある瀬地山角の発言を読むと、彼の批判は小説のなかの東大生描写の枝葉末節についての難癖に過ぎないように思えてしまう。あの小説は、この事件で東大生である彼らがしたかったことは、私立女子大生である彼女、すなわち「偏差値の低い大学に通う生き物を、大嗤い」することであり、「彼らにあったのは、ただ『東大ではない人間を馬鹿にしたい欲』だけだった」を描いていて、それは『彼女は頭が悪いから』という小説のタイトルで明示されている。
 
あの強制わいせつ事件が起こったのは、いくつかの偶然が重なったからであり、彼らが意図・計画的にああしたふるまいを彼女にしたのだという解釈を、この小説の作者は取ってはいない。しかしこの小説の読後の後味が悪く、あの事件がことさら忌まわしく、おそぞましく感じられるのは、そのふるまいの背景に東大生という上層階層の人たちが、東大生でない人間たちに抱いている差別意識、彼ら傲慢で醜い特権意識が、小説のなかで執拗に緻密に暴露されているからである。東大の大学内で、あるいは東大にはいる前の進学校での経験で、東大生の多くが挫折と無縁ではないと言っても、日本における最難関の高等教育機関である東大の学生であることに自負心を持たない東大生は少ないだろう。東大以外の者に対して、そうした自らの優越性を誇示することがどのようなマイナスの印象をもたらすのかは(しばしば致命的ともいえる)、東大生の多くは熟知していて、実にスマートに対応する。しかしそうした賢明な東大生にしても、自分たちの言動の端々に、東大生以外の人間に対する侮蔑の感情、自己の優越への誇らしさがにじみ出ていることには、おそらく気づいていない。そしてそのエリート意識は、ときにグロテスクなかたちで無自覚に垂れ流されることも実際にあるのである。強制わいせつ事件はそれがもっとも極端なかたちであからさまになった事例であり、実は同じ性質の事がらは程度の差こそあれ、あまたあるに違いないのだ。
 
これは人間が差別をする生き物である以上どうしようもないところがある。いわんや経験の乏しい若者がついいい気になって若気の至りでやってしまうということはあるだろう。一対一の恋愛関係でも互いが同じレベルで同じように愛し合っているという例は、極めて稀もしくは錯覚であり、二人のあいだには何らかの権力関係が存在し、その権力関係を背景としたかけひきは常に行われているはずだ。
 
そういう意味でこの小説は、東大生というものをステレオタイプに押し込み、批判しているわけではない。私が『彼女は頭が悪いから』を読んで気づいたのは、まず自分自身の「普通の」女の子という他者への無関心である。もう一つは日本に現に存在する格差社会の現実であり、そこでの差別がどのようなものであるかということだ。東大生による女子大生への強制わいせつ事件は、われわれの社会に蔓延する他者への無関心、そして階層社会がもたらす歪みのおぞましさを、象徴するものだったのだ。

2019/12/26 平原演劇祭 歳末ロシア・ナイト

目黒区烏森住区センター地下2階調理室
2019/12/26(木)19:00-21:30
出演:高野竜、青木祥子、ひなた

平原演劇祭亡命ロシアナイトが行われたのは2年前の2017/11/7、目黒区内の住民センターの調理室だった。
おっさん演劇人4人を案内人とし、ソ連ロシア革命に関わる朗読、料理、20世紀ソ連音楽解説というプログラムで構成された名企画だったのだが、告知が不十分で純粋観客は私を含め4名しかいなかった。
今回、目黒区内の別の住民センター調理室で行われた歳末ロシア・ナイトは、その亡命ロシア・ナイトのリベンジ企画とのこと。今回は20名弱の観客(というより物好きな参加者というべきか)が集まった。

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まず最初は生きた鯉の解体ショーからはじまった。ウハーというロシア料理のスープの食材だ。このウハーは、アメリカに亡命したロシア人ジャーナリストが書いた『亡命ロシア料理』という著作に掲載されたレシピに基づき作られたが、この本では魚はチョウザメが指定されている。チョウザメは日本では手に入れるのが難しい。2年前にはチョウザメの代わりに鮭を使った。これはすこぶる美味だった。今回は鯉だ。鯉はロシアで広く食されているとのこと。埼玉県岩槻市にある川魚専門の魚屋で購入したとのことだが、鯉は活きた状態で販売されることになっているらしい。会場にはビニール袋に入れられた活きた鯉がいた。
 
これを調理室のシンクに放つ。当然ピシャピシャと跳ね回る。この跳ね回る鯉を押さえつけて、切り刻むのは相当大変な作業で、魚屋で働いていた高野竜さんもかなり苦戦していた。魚に痛覚はないという話を聞いたこともあるが、やはり痛いみたいだ。頭を切り落とされても、身体はまだ活きていて、うろこをごしごしやると尾をピンピン動かす。鯉は二枚に下ろして、ぶつ切りにして、それを冬瓜、タマネギなどが入った鍋に入れて煮込む。だしは鯉の他、キュウリウオの干物を使っている。
 
鯉の解体ショーは衝撃的だったが、これは歳末ロシア・ナイトの前座のようなものだ。解体ショーのあと、本プログラムが始まる。まず最初は竜さんによるシャラーモフ『極北 コルィマ物語』の朗読だった。極東の極寒の地の収容所の様子を描く連作短編小説だ。朗読に入る前に、竜さんからロシア・ソ連における収容所文学の伝統について短い解説があった。シャラーモフ『極北 コルィマ物語』で日本語訳されているのは150編以上からなる全体のうち、29編。そこから3編が朗読された。これが30分ほど。連作集の冒頭にある厳しい冬の風景を描く短いプロローグ、そのあとは「いい話がいいか? それとも陰惨な話がいいか?」と竜さんが観客に問うて、陰惨な話が選ばれ、読み上げられた。荒野に埋められた死体から衣類を剥ぎ取って売りさばく話だった。最後はツンドラの常緑樹ハイマツについての短い描写。

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『コルィマ物語』の朗読のあとは食事タイムとなった。料理は二種類用意された。そのうちのひとつが先ほど解体された鯉を使ったスープ料理、ウハー。もう一品は山羊肉(羊肉かもしれない)と砂肝の焼き肉、シャシリク。ウハーはそばの実をゆでたものと一緒に供された。キュウリウオの干物に塩分が含まれているということで、ウハーには特に味付けはされなかった。ディルといる香草を振りかけただけ。鯉は臭いという先入観があったが、匂いは案外気にならない。味付けは薄いと思ったので、塩、こしょう、七味を振りかけて調整する。だし汁を吸った冬瓜がおいしい。鯉は小骨が多くて、食べるのがちょっとやっかいだった。魚肉の味はあまりしない。出汁を取るのに使ったキュウリウオの塩加減がよかった。シャシリクは、私は山羊肉だと思って食べたのだが、それは勘違いで羊肉だったかもしれない。この山羊肉は堅くて噛み応えがあったが、味は濃厚でおいしかった。臭みはまったく気にならない。

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食事時間のあとは、今夕の歳末ロシア・ナイトのメイン・プログラム、マルシャークの『ねこのいえ』の朗読劇がはじまった。マルシャークは『森は生きている』の作者として日本ではよく知られている。『ねこのいえ』は絵本の形態で出版されているが、戯曲の形式で書かれている作品だ。演者は高野竜、青木祥子、ひなたの三人。ねこをはじめ、たくさんの動物たちが登場人物の動物寓話劇だ。お金持ちで高慢な猫の屋敷が火事で焼けてしまい、その持ち主だった猫の女主人と執事は焼け出されてしまう。助けを方々に求めたものの、焼け出された二匹の猫に他の動物たちはつれない。二匹を迎え入れたのは、この二人が追い返した貧しい二匹の子猫だった。四匹は家族となり、力を合わせて新しい家と家族を作り始める。。高野竜が語り的な部分を引き受け、青木とひなたが動物たちを演じ分ける。ひなたは巧みに声色を変えて、動物たちを演じ分けている。演じ分けにわざとらしさを感じない。ちょうどいい具合に声に表情をつけていた。三人の声のバランスがよく、音楽的に呼応していた。高野は左手に座ったままだったが、青木とひなたは正面と右手の場所を移動して入れ替わった。右手に移動したときには調理室のテーブルに寝っ転がって朗読する。ちょっとした照明の操作と小道具の使用といった素朴な演出が、物語の情景を効果的に浮かび上がらせる。上演時間は45分ほどだった。

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とてもよい公演だった。一年の観劇生活をこの公演で締めくくることができて私は気持ちがいい。数年前から、日常性のなかで提示されることで、その日常を揺さぶり、そこに居合わせたものを異世界へと誘ってくれるようなささやかな試みの方に、私はより大きな演劇の充実を感じるようになっている。劇場という特殊な空間で上演されるいわゆる「普通の」演劇作品がつまらないというわけではない。大がかりで贅沢な装置、訓練された俳優の演技、斬新で前衛的な演劇的手法に魅了され、感嘆することは多い。しかし日常性とつながりを持ちつつ、日常性から抜け出させてくれるようなささやかなパフォーマンスこそが自分にとっては切実で重要な時間であり、自分にとっての演劇だという感覚はだんだん強くなっている。平原演劇祭の歳末ロシア・ナイトはまさにそうした充実した演劇の時間だった。

ゲッコーパレード『リンドバークたちの飛行』@宮城野納豆製造所(2019/11/02)

 

60分の演劇作品を見るために仙台まで日帰りで行ってきた。

公演が終わったのが20時過ぎ。それから6時間たった今、宮城野納豆製造所で見たあの公演を反芻すると本当に夢の中に自分がいたように感じられる。リンドバークの大西洋横断飛行を追体験する演劇だ。圧縮された旅のような演劇体験だった。

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ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』を見るのは今回が2回目だった。この公演は《家を渉る劇》と称される企画で、劇場ではなく文化財として保存されている建築物で作品が上演される。上演会場は毎回代わり、私が昨年見た時は早稲田大学演劇博物館が会場だった。その時の演劇体験があまりにも印象深いものだったので、この作品が再演される際は必ず見に行こうと決めていた。

作品はブレヒトのラジオ教育劇だと言う。ブレヒトの作品ではそんなに有名な作品ではないだろうし、上演機会もあまりない作品だと思う。俳優は3人だけだ。名前をもつ役柄はリンドバークだけである。

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筋立てはごくシンプルで、1927年のリンドバークの大西洋横断飛行を時系列に演劇として再現している。飛び立つ前の準備、出発、飛行中、そしてヨーロッパ大陸への到着。

演劇博物館での公演では、観客は俳優に導かれながら博物館内の各部屋を巡る。17の場を6人の演出家が演出している。確かに各場毎に趣向の違いはあるけれど、その流れはスムーズでちぐはぐした感じはない。

60分の演劇作品を見るためのだけに、新幹線に乗って仙台まで往復するなんて我ながらどうかしていると思った。お金があるわけでもないし、間近に締め切りのある仕事を複数抱えている。それでも演劇博物館でこの作品を見た時の感動は一体何だったろうかと、もう一度しっかりと確かめたかった。このシンプルな冒険譚の演劇を見ながら、私はなぜかポロポロと泣いたし、終演後は呆然となった。自分にとっては本当に夢のような演劇体験で、感想を言葉にすることさえできなかた。

好きな芝居はたくさんあるが、ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』については私は偏愛とでも言うような特別な愛着を感じてしまう。

昼の公演と夜の公演があったが、私は夜の公演を選択した。昼の陽光よりも、夜に照明で照らされている方が宮城野納豆製造所という会場がより幻想的で美しいのではないかと思ったからだ。

しかし国の有形文化財に指定されたと言う宮城野納豆製造所の正面はごく地味な古い木造建築だった。1934年ごろに建てられたこの製造所は、今でも現役の製造所として稼働しているとのこと。
しかし製造所入り口の引き戸が開かれ、中に導かれるとそこには非日常的な演劇的空間が広がっていた。大掛かりな美術によって製造所の作業場空間が改変されているわけではない。ごくささやかな照明の操作(裸電球が印象的だった)と3人の俳優の身体と声、時折入る音響効果といった小さな仕掛けの数々の融合が、宮城野納豆製造所を別世界にしていた。

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入り口外観は無個性だが、宮城野納豆製造所の内部は奥行きがあり、製造の作業工程に合わせて複数のスペースに区分けされていた。正面から見えない別棟もあった。天井は低い。区分けされた平屋木造の空間を、うねうねと進みながら、リンドバークの大西洋横断飛行は進行していく。

《家を渉る劇》である『リンドバークたちの飛行』の特徴は何よりもまず、会場となる歴史的建築物の空間の特性を最大限に利用しつつ、それをちょっとした仕掛け、ユニークで気の利いたアイディアによって、演劇的空間に変容させてしまう手腕の見事さにある。

しかし私が『リンドバークたちの飛行』の何に感動したかと言うと、それは何よりもリンドバークという存在を引き受けた河原舞と言う俳優のパフォーマンスであるような気がする。もちろんあの劇空間の創出があったからこそ、俳優と脚本も力を持つことができたのだけれど。大西洋横断をした時の25才のリンドバークの若さ、悲壮さ、健気さ、力強さが、小柄な河原舞の身体から噴き出してくるかのように感じられる。リンドバークを演じる河原は、女性でも男性でもない、リンドバークの言葉に反応する観客それぞれの思いを受け止める抽象的な存在になったかのようだった。

最初の部屋で河原は地図を開くと、20人の観客一人一人を見つめながら、リンドバークの飛行計画を話す。飛行計画を話し終えると、彼女は20人の観客一人一人と握手をするのだ。河原舞が演じる彼女が演じるリンドバークには吸い込まれそうになる。この後に続く大西洋飛行の冒険を、観客である私はリンドバークとともに体験しているような、彼ととともに冒険の波乱を乗り越えていくような気持ちになった。アイルランドイングランド上空に到達すると、リンドバークの飛行機を目撃する漁師たちの会話を観客が演じるという楽しい趣向があった。パリは目前だ。上演の場は屋外に移り、ここでは観客たちはフランスでリンドバークを迎え入れる群衆に同一化しようという気分になっている。

しかし『リンドバークたちの飛行』の結末は、大西洋横断飛行に成功したリンドバークを観客が迎え入れるというカタルシスをもたらしてはくれない。観客が待ち受ける場所にリンドバークは降り立つことはなく、そのままどこか彼方に消えてしまうのだ。

夜の野外で観客を呆然と立たせたまま、劇の終わりが告げられる。観客である私は儚さをどう受け止めていいのか戸惑うが、しばらくするとこれでいいのではないかとこの終わり方を納得させた。

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正直に書くと宮城野納豆製造所でのラストはもう少し叙情味があっていいような気がしたのだが。演劇博物館での最後は遠くに消え去っていくリンドバークを見送る長い時間があったのが余韻になっていた。

終演後は明かりのついた工場内を見学できた。先ほどまでとは全く異なる散文的で実用的な空間だった。それだけに上演中の60分が一層、「夢」の中の時間であるように感じられた。

グラモン城 Château de Gramont ─ガスコーニュの田園風景のなかの重厚な歴史遺産

http://www.chateau-gramont.fr/

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中世の戦乱の面影を伝える古城

グラモン城はフランスの南西部のガスコーニュ地方、トゥールーズボルドーのほぼ中間地点にあります。このあたりは中世の時代から大小の諸侯が相争う戦乱の地であり、この歴史のなかで育まれた勇猛で好戦的な気風は近代にまで受け継がれました。この土地の多くの若者たちが土地の貧しさから故郷を離れ、富と出世の機会を軍隊に求め、兵士として活躍しました。デュマ作『三銃士』は、こうしたガスコーニュの若者たちを主人公に、冒険好きでほら吹きで、空威張りの気味はあるが友情に厚いガスコンかたぎを描いています。
グラモン城の歴史は13世紀初頭にまでさかのぼることができます。当時南フランスのトゥールズ伯領を中心に広がっていたキリスト教の一派、アルビジョワ派(カタリ派)を制圧するための十字軍が組織され、その指揮者だったシモン・ド・モンフォールが戦功によりこの一帯の領主となりました。このシモン・ド・モンフォールが、ユード・ド・モントーという人物にグラモンの領主権を授けたという記録が残っています。

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異なる時代様式の混在

14世紀から15世紀にかけての英仏百年戦争の時代には、両国の国境地帯にあったこの地域には《ガスコーニュ様式》と呼ばれる独自の様式の城塞が数多く建築されました。グラモン城もこの戦乱の時代に城塞化されます。中世のガスコーニュ様式の面影は、グラモン城の正面入り口の堂々たるゴシック風の構えや入口に隣接する正方形の塔に確認することができます。北側の建物はルネサンス期のもので、張り出した翼の部分の窓や柱に施された奇抜な装飾や彫刻が印象的な外観を作り出しています。ルネサンス期に建築された建物の螺旋階段を上ると、上階には大広間があります。内装、外装ともに大きな改築と修復がその後も行われ、中世・ルネサンスの古い様式の建築の土台の上に、19世紀後半に流行った中世回顧的なネオ・ゴシックやネオ・ロマネスク、南仏特有のトゥルバドゥール様式など様々な様式の混交が独特の風貌をこの城にもたらしています。

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1900年以降はおざなりな所有者が管理を怠ったため、城は荒廃しますが、1961年にディシャン夫妻の所有になり、城は廃墟になるのを免れます。建物の構造を補強する工事が行われたあと、16世紀から18世紀の家具や調度品によって邸宅の内部を飾られ、ルネサンス風の優雅な庭が整備されました。グラモン城は国の歴史的建造物に指定されています。所有者のディシャン夫妻は1979年に国の文化財センターにグラモン城を寄贈しました。

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ガスコーニュの田園風景

トゥールーズ地方とコンドン地方の境界をなす渓谷を見下ろす高台に建つグラモン城の周囲は、ガスコーニュ地方の起伏に富んだ牧歌的な田園風景が広がっています。城は人口150人ほどしかいない小さな村のなかにありますが、フランスでもっとも美しい村の一つに登録されているグラモンの村にはフランス全土から多くの観光客が訪れます。村には、民宿も兼ねたレストランと二つの博物館があります。テラス席から城を見ながら食事を楽しむことができる村のレストラン、オベルジュ・ル・プティ・フィヤンで提供される料理は、カスレ、プーレ・ファルシ、カナール・コンフィといった伝統的な定番フランス料理です。

はちみつ博物館は養蜂家の夫妻によって建てられたもので、フランスのみならず世界各国のはちみつ作りの技術と秘密を知ることができます。もちろん地元産を含む様々な品種のはちみつをここで購入することができます。ブドウとワインの博物館では、ブドウの収穫からワインの醸造の過程を詳しく知ることができるでしょう。この博物館のカーブは、500以上のワインのコレクションが展示されています。村にはこのほかに、くるみ油の採集のための水車小屋や伝統的な様式の石造りの田舎家があります。グラモンを訪れる旅行者は、数百年の歴史を持つ古城の周囲の牧歌的景観に田園の恵みと安らぎを感じ取ることができるでしょう。

市原佐都子(Q)『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

 市原佐都子(Q)『バッコスの信女─ホルスタインの雌』

@愛知県立劇場小ホール
 

市原佐都子作品に対して思うことは、最初に見たときから変わらない。私たちが性を意識しはじめたときに感じたはずの性の奇妙さ、滑稽さ、不気味さをしっかりと見据え、それを奔放な想像力で表現に変換していく。

性衝動に対する戸惑い、恐怖を私たちの多くは思春期が過ぎるとともに「そういうものだ」として受け入れ、性への異物感を日常の奥に押し込んで「忘れてしまった」ふりをする。市原の作品は、思春期に私たちが感じたような性の異物感が、思春期の後もそのまま引き続き育まれ、肥大していった結果が、芸術表現として奔出したかのようだ。その表現は自由で、グロテスクで、あからさまで、ぎょっとさせるような生々しさがある。

あいちトリエンナーレ2019のプログラムの一つとして上演された『バッコスの信女─ホルスタインの雌』は、ギリシア悲劇の形式を借りることで彼女の性的妄想世界がこれまでの作品よりスケールアップした形で展開されていた。

私たちが抱え込み、日常性のなかで押さえつけている性というものが、どれほど奇妙で、滑稽で、不気味なものなのかが、突きつけられたかのような気がする。その突きつけかたには性的存在としての人間へのシニカルな嘲笑、そしてとりわけ男性の性のあさましさと滑稽さへの告発があるような気がして、性に対する意識の自己検証なしに手放しにこの作品を称賛することはためらわれる。

 

作・演出の市原佐都子が若くて美しい女性であり、それゆえに彼女がこれまでさらされてきた性的視線へのコメントもその表現は含んでいるように思えるのだ。彼女の作品の根本にはミサンドリー(男性嫌悪)があるような気がする。しかしそうした批判的視点を内在しつつも、彼女は自身の性的妄想世界を楽しんでいる、面白がっているようにも思える。市原佐都子は、「この人はどうかしているんではないか」と言いたくなるような逸脱のエネルギーを感じせる作家の一人だ。

『バッコスの信女─ホルスタインの雌』はギリシア悲劇の形式に倣い、コロスが登場する音楽劇でもある。音楽は東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるもの。古典劇にふさわしい風格と重厚さをもつメロディーと歌詞のくだらなさのミスマッチが素晴らしい効果を作品にもたらしていた。壮大さと卑小さの二つの極を含有する作品世界を見事に象徴する音楽になっていた。

市原の妄想世界を実現するにあたって、俳優たちに要求される負荷は極めて大きいに違いない。作者の異常な要求を受け止めるだけの体力と度胸が必要だ。主要女優三名は、作品の無茶な要請にそれぞれの個性と能力をもってしっかりと答えていた。

理知的に組み立てられた芝居の兵藤公美、理性的存在である人間の枠組みから抜け出て劇空間をかき乱す永山由理絵、振り幅の大きなエキセントリックな役柄を演じ分け、見事な歌唱力とダンスで観客を圧倒した川村美紀子。どの俳優もみなどうかしていて、作・演出に負けない強靭さを持っていた。

菅生歌舞伎 菅生一座秋祭り奉納公演(2019/09/28)

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/sugao-ichiza/

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東京都西部、あきる野市の菅生歌舞伎を見に行った。二週間ほど前にネット上のニュースでこの地歌舞伎の開催を知った。

簾を使った木造舞台の写真が印象的だった。菅生の組立舞台として東京都が文化財指定しているものらしい。この舞台の実物を見てみたいと思ったのだ。

この木造舞台は明治期から続くもので公演の度に「組立舞台保存会」の「舞台師」が組み建てるそうだ。釘は使っておらず、材料は木材だけ。屋根組には竹が使われていた。実にかっこいいデザインである。

あきる野市は東京西部にあり、菅生は青梅線の小作(おざく)駅からバスで10分ほどのところにある。小作駅については興味深い町歩きレポートが記載されているブログを見つけた。

http://tobanare.com/oumesen-ozaku/

駅からのバスの本数は1時間に三本ほどある。歌舞伎は12時半開演となっていた。12時22分に小作駅西口を出るバスは満席だった。私のように歌舞伎目当ての乗客は5-6名いた。

公演案内ページには「近隣はもちろん町内には店がありません」とあったが、菅生のバス停周辺には確かに何もない。菅生学園という学校の校舎が高台で存在感を出している。組立舞台はバス停のすぐそばにあった。

地域物産の黒にんにくを売っているテントとクジラ肉ホットドックを売っている移動販売が舞台のそばにあった。クジラ肉ホットドックは珍しい。値段は二百円だった。販売している人は、かつて捕鯨船に乗っていたそうだ。スモークチキンレッグも売っていて、それも美味しそうだった。クジラ肉ホットドックの味は普通。美味しいけれど、独特の匂いがある。

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開場が12時半、開演が13時となっていた。バスが到着したのはちょうど12時半ぐらいだったが、客席は空いていた。

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舞台の実物を見ると簾を使った構造がユニークで美しい。

客席前方はゴザ敷だったが、後方にはパイプ椅子の席があり、そこも埋まっていなかった。バスツアーでの歌舞伎見学もあるらしく、パイプ椅子はバスツアー客優先のようだったが、会場案内の人に促されるままにパイプ椅子最前列に座った。公演が始まると徐々にゴザ席も埋まっていったが、最終的な観客数はおそらく70-80名くらいだった。

13時に開演で、終演は16時05分と当日パンフレットにあったが、実際に終わったのは16時20分くらい。5演目が上演されたが、その進行はかなりゆったりした感じだった。

司会の人が軽妙でうまい。あきる野市の市会議員であることがあとでわかる。市の観光事業として菅生歌舞伎をアピールしていこうという姿勢は感じ取ることができた。

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最初の演目は「喜三番叟」。この演目は秩父に伝わる三番叟で、秩父歌舞伎の上演団体から伝授されたとのこと。時間は15分ほど。演じるのは高校一年生だ。三番叟を踊り終えると、彼は客席に酒を注いで回った。

三番叟のあと、主催者挨拶があり、その後に2番目の演目、「傾城阿波の鳴門」の上演があった。母娘の二人芝居だが、母役は成人男性が演じ、娘役は小学五年の女の子が演じた。台本は説経節の経本で、三味線と語りの奏者もいる。野外舞台ということもあり、音声はマイクを使っていた。上演時間は30分ほどだったと思う。動きがない単調な芝居で少し退屈する。見せ場ではおひねりが舞台に投げられた。

演目と演目の間の転換に時間がかかる。司会役がアドリブで間を繋いでいた。「傾城阿波の鳴門」のあとは、組立舞台保存会による舞台機構の説明があり、そのあと二演目の爆笑時代劇 『水戸黄門漫遊記』の上演があった。上演時間は20分ほど。

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水戸黄門漫遊記』には、近隣の町の元町内会長と現町内会長が旅芸人一座の役で特別出演していた。この旅芸人一座に、悪者が因縁をつけた時、水戸黄門の一行が現れて解決という内容。ゆるい時事ネタや地元ネタなどが詰め込まれたいかにも村芝居らしいグダグタの身内芝居で、演者は楽しそうに演じ、観客も喜んでいた。『水戸黄門漫遊記』は菅生一座の定番演目で、長さの違ういくつかの設定のバージョンがあるとのこと。アドリブが暴走しがちで稽古や上演の度に内容が変わってしまうと司会者が言っていた。

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水戸黄門漫遊記』のあとは、七福神の大黒天が舞う大黒舞。最後の方で子供たちが会場に大量の飴や菓子をばらまく。これは10分程度だった。

最後の演目は「曽我の対面」。メイクに時間がかかって開演が10分ほど遅れた。この間を二人めの司会者が即席の手品でしのぐ。

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ゆったりとしたペースでタラタラと上演。上演時間は40分ほどだったと思う。ぎごちなさとテンポのもたつきが村芝居っぽい。カツラや衣装は全て手作りだと言う。

菅生歌舞伎の上演団体である菅生一座のメンバーは子供から大人まで70名ほどいると言う。

のどかな雰囲気の中での村芝居で、芝居があるお祭りっていいもんだなあと思う。昭和20年代には日本の至る所でこんなことをやっていたのだ。公演の規模と比べ観客の数が少ないことが残念だった。あの会場が満員だともっと盛り上がったはずだ。

平原演劇祭2019第7部「宮代町からイエーツへ」

https://note.mu/heigenfes/n/nfe5423385fcd

 

f:id:camin:20190916115304j:plain平原演劇祭、恒例の秋の古民家公演はアイルランドの劇作家イェーツに関わるプログラムだった。

【前半】

  1. 小阪亜矢子:イェーツの詩に基づく歌曲、アイルランド民謡など(歌)
  2. 会場観客から4名:シング「旅人たちの春の夢」(輪読)
  3. 明美・すぎうら君:イェーツ「煉獄教室」(リーディング)

【後半】

  1. 高野竜:ご報告「お隣の異界」
  2. 菊地奈緒アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」(語り)
  3. 空風ナギ(孤丘座)、夏水、チカナガチサト:高野竜「光る土/空の影」。

 上演ジャンルはバラエティに飛んでいるが、全て屋内での公演で、パフォーマンスのためのエリアと観客エリアがはっきり分離した平原演劇祭にしては、静的なまとまりのある公演だった。上演は正午過ぎに始まって、終わったのが午後四時。途中十五分ほどの休憩が一回入った。観客は十五名ほど。

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まずメゾ・ソプラノ、小阪亜矢子の独唱から始まった。アカペラもしくや小型のベルやキーボードを使った最小限の簡素な伴奏で、イェーツとともにアイルランド文芸復興運動に関わったグレゴリー夫人の作品の劇中歌、アイルランド民謡、イェーツの詩に基づく歌曲、即興などを、時折短い解説を挟みながら三十分ほど演奏した。
歌のプログラムの時は、外は曇り空で、古民家の室内の色合いとぼんやりとした明るさとシンプルな音楽がよく合っていた。外から聞こえる蝉の声も音楽と溶け合った。

2番目のプログラムは、イェーツと同時代のアイルランドの作家、シング「旅人たちの春の夢」だが、これは観客参加型プログラムで、四人の観客がぶっつけ本番で戯曲を読見上げるというものだった。登場人物は四名で、旅の鋳掛屋一家(夫と内縁の妻、夫の母)と牧師である。私は読み上げに立候補して、夫の母、アル中のばあさんの役を読んだ。翻訳は 演劇企画CaL 主宰の吉平真優が訳したもので、9/06-08に上野で上演が行われたばかりだ。この公演情報は私は見落としていた。シングの戯曲上演とならば知っていればなんとかして見に行ったはずなのに。演劇企画CaLはアイルランド演劇に特化して上演を行う団体とのこと。これからの活動が楽しみだ。

「旅人たちの春の夢」はその場で翻訳が渡されて、素人が読むわけでが、四十分ほどかけて戯曲全編を読み上げるというかなりがっちりしたプログラムだった。放浪の鋳掛屋一家が司祭をやり込めるという中世フランスのファルスやファブリオを連想させる素朴な風俗喜劇だった。戯曲のテクストを目で追いながら音読している読み手はともかく、素人の読み上げで聞いているだけの人にはちゃんと伝わるのかなとちょっと不安だったが、滑稽なやり取りの場面ではちゃんと笑いも起こっていたので安心した。

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前半最後のプログラムであるイェーツ「煉獄教室」は異色のプログラムで、二日前に初めて会ったという武明美とすぎうら君が、動いて、演技をしながら読むというリーディング公演なのだが、高野竜がその途中で適宜上演をとめて、演出指示を行うというパフォーマンスだった。上演されるのは「煉獄」という父と息子が、過去に遡って、父が自分の父親(息子の祖父)を殺害し、さらに息子も殺害するというよくわからない作品だ。不条理演劇というよりは、時間が行ったり来たりして、肉親殺しが行われる陰惨で不可解な現象を、イエーツは本気で信じていたんじゃないかと思わせるような奇妙な味わいがある。今回上演された作品は、「煉獄教室」というより、「煉獄」教室と書かれた方が適切だったかもしれない。高野竜が気になった箇所でいちいち芝居を停止され、巻き戻されて、修正されるという作業の繰り返しは、芝居の内容の「煉獄」的状況をメタ的に表現しているようにも思えた。イェーツ「煉獄」はむしろこういうやり方で上演された方が、その本質が理解しやすいような気さえした。

 

休憩15分を挟んで後半。薄曇のなか、太陽が照ってきたが、雨上がりで木造で障子を締め切った古民家の室内はジトジトした蒸し暑さが増してきた。後半は高野竜の語りから始まった。

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高野竜の語り芸は絶品だ。特に大きな表情をつけたりせずに、淡々と語っているのだけれど、すっと聞き手の心を引き込んでしまう工夫がある。単なる場つなぎの口上、雑談のようにさりげなく話しながら、その語りの内容は次に続くプログラムへの伏線にもなっている。ケルトの民話の世界のように、彼が今、ここで語っている旧加藤家でも日常と異世界が隣り合っている。語りや芝居はその隣り合った異世界への扉を開く仕掛けのようなものだ、みたいな話を終えかけた時に、アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」を語る菊地奈緒が下手のくぐり戸から入ってくる。

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グリム童話によく割るような姫と王子の物語を菊地奈緒は、古民家の広間を移動し、立ったり座ったりしながら、静かに読み上げた。このアイルランド民話もイェイツが採集し、書き記したものだ。

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小阪亜矢子の歌が入った後、最後の演目、高野竜作の戯曲『光る土/空の影』が始まった。これは今回のプログラムの中で最も通常のいわゆる「演劇」に近い作品だったが、最も意味不明な難解な作品でもあった。

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高野竜の戯曲は情報量が過密で、上演で耳で聞いていても理解できないことが多い。情報量過密であるだけでなく、設定と展開も突飛だ。彼の戯曲はネット上で公開されているので、後で戯曲を読み返してようやくその濃厚な文学性を認識できたりする。

『光る土/空の影』もわからなかった。民家内の湿度が上がり蒸し暑かったし、上演時間も3時間を超えて、すでいかなり朦朧としていたのだ。「師匠」と呼ばれる盲目のエキセントリックな婆さんとその弟子の対話劇だが、セーラー服姿の無言の美少女(彼女は最後の場面で初めてセリフを話す)が時折、この二人の中に介入する。婆さんとその弟子は旅芸人らしい。この二人の会話には、前半に上演された「煉獄」などイェーツのいくつかの作品のモチーフがところどころに挿入されている。イェーツだけでなく、高野が「口上」で話した宮代町の郷土作家の能と歌舞伎と民話がごちゃ混ぜになった奇妙な遺作も組み込まれているようだ。時代は人類滅亡後の世界なのか?

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物語の内容はぼんやりした頭でよくわからない。老婆役を演じた夏水の暴走し、破滅に向かって走り続けているような演技のエネルギーとそれと対照的な無言で小柄なセーラー服の美少女、チカナガチサトの佇まいの対比が印象的だった。

ずっと締め切られていた障子が最後に開け放たれ、開放感を得た。最後の場面では三人の女優が同じ所作でカタバミの葉を部屋中に撒き散らす様子が美しかった。

 

《魂の響き 旋律の鼓動 〜十五夜に寄せて〜》@近江楽堂(2019/09/13)

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観客と対面するのではなく、観客が三人の奏者を取り囲む形で客席が設置されていた。三人の奏者は楽堂の中央に互いに向き合って演奏する。観客に向かって演奏するというよりは、砂漠を移動する隊商の楽師たちが夜にテントの中で音楽を演奏するのを聞いているようだった。歌い手の場所には赤い絨毯が敷かれ、歌っていない時には歌手はそこに膝を崩して座り、他の奏者の演奏に耳を傾けている。パーカッション奏者のエリアにも刺繍の入ったベージュの絨毯が敷かれた。

暗めの照明の加減がよかった。ドーム状になっている近江楽堂の天井に吊るされた照明が演者たちを照らす光は月光を連想させる明るさだった。

ソプラノ歌手の高橋美千子の全身を使ったダイナミックな表現力に引き込まれる。照明の効果と絨毯の色彩とともに、音楽は耳だけでなく、目でも「聞く」ものであることを、彼女のパフォーマンスは伝えている。歌唱とリンクした顔、体、表情などの身体表現は、優れた舞踊的で演劇的な表現にもなっている。

歌手にはこうした演劇的素養は求められるものだし、最近のオペラの演出では俳優並みの劇的表現力が歌手に要求されることも珍しくはないが、実際のところ、卓越した歌唱と演劇的表現を両立させるのは非常に難しい。ナタリー・デセーのように突出した演劇性を持つ歌手もいるのではあるが。

今回のプログラムでは対訳歌詞は配布されなかったので、高橋が歌っている内容は理解できなかったのだが、彼女の劇的な表現は彼女が歌っている言葉と音楽から自然に導き出されたようなものに見えた。彼女のパフォーマンスから連想して思い浮かべたのはジャック・ブレルである。

西欧の歌唱芸術ではパーカッションはあまり出番がない。ソプラノとリュートなどの撥弦楽器という組み合わせならごく普通の組み合わせだが、そこにパーカッションが加わっているのがこの編成の特徴だ。

コンサートの選曲も独創的だ。

ルネサンスバロック期の歌曲、パーカッション即興演奏、リュート、ギター独奏、アイルランド民謡、そしてクルド民謡、スペイン・ロマの歌、さらにグレゴリオ聖歌まで。

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このトリオの演奏ではこの雑多なプログラムの各曲が見事に融和し、統一感のある世界を作り出していた。

非西欧音楽的要素であるパーカッションが、撥弦楽器とヴォーカルと結びつき、効果的に導入されることで(グレゴリオ聖歌もパーカッションとともに演奏された)、地域、時代、ジャンルを超えて共有される音楽の核が演奏から浮かび上がってくるようだった。このトリオでは絶妙なパーカッションの介入が音楽の普遍性を引き出しているのだ。アイルランド民謡もダウランドの歌曲もグレゴリオ聖歌も、パーカッションが入理、この多様なプログラムの中で共存させられることで、全く違った雰囲気の音楽となった。

音楽の悦びの原点が凝縮されたような、小編成ではあるがダイナミックで充実したコンサートだった。

 

 

www.takahashimichiko.com

(ソプラノ)

www.atelierlakko.com

リュートバロックギター、テオルボ)

junzotateiwa.blog76.fc2.com

(パーカッション)

《魂の響き 旋律の鼓動 〜十五夜に寄せて〜》@近江楽堂(2019/09/13)

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観客と対面するのではなく、観客が三人の奏者を取り囲む形で客席が設置されていた。三人の奏者は楽堂の中央に互いに向き合って演奏する。観客に向かって演奏するというよりは、砂漠を移動する隊商の楽師たちが夜にテントの中で音楽を演奏するのを聞いているようだった。歌い手の場所には赤い絨毯が敷かれ、歌っていない時には歌手はそこに膝を崩して座り、他の奏者の演奏に耳を傾けている。パーカッション奏者のエリアにも刺繍の入ったベージュの絨毯が敷かれた。

暗めの照明の加減がよかった。ドーム状になっている近江楽堂の天井に吊るされた照明が演者たちを照らす光は月光を連想させる明るさだった。

ソプラノ歌手の高橋美千子の全身を使ったダイナミックな表現力に引き込まれる。照明の効果と絨毯の色彩とともに、音楽は耳だけでなく、目でも「聞く」ものであることを、彼女のパフォーマンスは伝えている。歌唱とリンクした顔、体、表情などの身体表現は、優れた舞踊的で演劇的な表現にもなっている。

歌手にはこうした演劇的素養は求められるものだし、最近のオペラの演出では俳優並みの劇的表現力が歌手に要求されることも珍しくはないが、実際のところ、卓越した歌唱と演劇的表現を両立させるのは非常に難しい。ナタリー・デセーのように突出した演劇性を持つ歌手もいるのではあるが。

今回のプログラムでは対訳歌詞は配布されなかったので、高橋が歌っている内容は理解できなかったのだが、彼女の劇的な表現は彼女が歌っている言葉と音楽から自然に導き出されたようなものに見えた。彼女のパフォーマンスから連想して思い浮かべたのはジャック・ブレルである。

西欧の歌唱芸術ではパーカッションはあまり出番がない。ソプラノとリュートなどの撥弦楽器という組み合わせならごく普通の組み合わせだが、そこにパーカッションが加わっているのがこの編成の特徴だ。

コンサートの選曲も独創的だ。

ルネサンスバロック期の歌曲、パーカッション即興演奏、リュート、ギター独奏、アイルランド民謡、そしてクルド民謡、スペイン・ロマの歌、さらにグレゴリオ聖歌まで。

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このトリオの演奏ではこの雑多なプログラムの各曲が見事に融和し、統一感のある世界を作り出していた。

非西欧音楽的要素であるパーカッションが、撥弦楽器とヴォーカルと結びつき、効果的に導入されることで(グレゴリオ聖歌もパーカッションとともに演奏された)、地域、時代、ジャンルを超えて共有される音楽の核が演奏から浮かび上がってくるようだった。このトリオでは絶妙なパーカッションの介入が音楽の普遍性を引き出しているのだ。アイルランド民謡もダウランドの歌曲もグレゴリオ聖歌も、パーカッションが入理、この多様なプログラムの中で共存させられることで、全く違った雰囲気の音楽となった。

音楽の悦びの原点が凝縮されたような、小編成ではあるがダイナミックで充実したコンサートだった。

 

 

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リュートバロックギター、テオルボ)

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(パーカッション)