閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2020/12/13 平原演劇祭2020第7部 「宮沢賢治未完成短篇集 #それはだいぶの山奥でした 」@ギャラリィ&カフェ山猫軒

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  • 2020/12/13(日)12:10-16:00
  • ギャラリィ&カフェ山猫軒(埼玉県越生町龍ヶ谷137-5、@yamaneko_ogose)
  • 1000円+投げ銭
  • 演目:「サガレンと八月」「小岩井農場 先駆形A」「みぢかい木ぺん」「学者アラムハラドの見た着物」
  • 出演:ひなた、はなの、青藍、小阪亜矢子

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今回の平原演劇祭の会場は埼玉県の越生町(おごせまち)の山中だった。川越のさらに奥にある坂戸駅が始発の東武越生線の終着駅である越生駅からバスに15分ほど乗り、さらに降りたバスの停留所から2.2キロ山中に入ったところにある山猫軒という知る人ぞ知るギャラリー兼カフェの周辺がメイン会場となる。

越生は梅林で有名らしいが、私はその場所も地名の読み方も知らなかった。公演のタイトルにあるように「 #それはだいぶの山奥」ではあったけれど、東武東上線の成増が最寄り駅の私のうちからは比較的行きやすい。バスの接続時間さえよければ、家から90分ほどで行けるところだった。

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公演会場の最寄りのバス停からさらに三キロほど奥に行ったところにある黒山三滝も一時間ほどで回れる面白いスポットだと案内にあったので、公演前にそこも回ってみることにした。

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黒山三滝は越生駅発のバスの終点にある。私以外にもう一人、平原演劇祭の観客の方が同じバスに乗っていて、この方と滝をまわることにした。

goo.gl

なだらかな山道だけれど、しばらく歩くと両側は山の斜面の木がうっそうと生い茂っていて、晴れの日中にもかかわらず道は薄暗くなる。まず一番下流側にある天狗滝を見学しにいった。

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特に険しい道ではなかったのだけど、足下は石がゴロゴロしていて歩きにくい。転ばないように気をつけなければと思い歩いていたのだけれど、足をねじってしまい右側にごろりと倒れてしまった。そのときに右手を変なふうについてしまった。また右側のお尻をかなり強く河原の石にぶつけてしまった。

「大丈夫ですか?」

と近くにいた人が寄ってきて、「はい、大丈夫です」と言って起き上がったもののぶつけたお尻とひねった手首が痛い。しかしがまんできないほどではない。

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 そのままさらに上流にある男滝、女滝を見学して、山のふもとにもどった。twitterで高野竜さんに連絡して、車で黒山のバス停まで迎えにきてもらった。

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f:id:camin:20201213110617j:plain黒山三滝はうっそうとした物寂しい渓谷なのだが、知る人ぞ知る景勝地なのか、レトロでしぶいお土産物屋さんや食堂が道沿いに何軒かならんでいて、家族連れのすがたもあった。こんなところで無様に転んでしまうなんて、情けない限りだ。

迎えに来た高野竜さんの車で、平原演劇祭公演開始場所の麦原入り口バス停まで戻る。今回は観客と出演者で合わせて15名ほどか。僻地感が強かったためか、実際にパフォーマンスに何らかのかたちで関わっていない「純粋」観客は5-6名だったかもしれない。平原演劇祭の場合、上演の状況と演目の特殊性から観客も「内輪」に取り込まれしまうのだが。

メイン会場らしいギャラリィ&カフェ山猫軒は、麦原口のバス停から2キロほど山のなかに入ったところにある。まずは歌手の小阪亜矢子が、その2キロほどの山道を登りながら、「サガレンと八月」と「小岩井農場 先駆形A」を朗読したり、楽器を演奏したり、歌ったりする。途中、高野さんの盟友のミュージシャンの酒井康志が演奏に加わったりすることもあった。

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スタート地点から数百メートルいったところの川の中での芝居もあった。しかし川のなかでいったいどんな台詞が話されているのかはまったく頭に入ってこない。

f:id:camin:20201213125529j:plainふもとから山猫軒までは2キロ強の距離で、山を登っていくとはいえ、道は舗装されてある。たいしたことはないやと思っていたのだけれど、勾配はきつくないとはいえ、上り坂をだらだらと上っていくのは思っていた以上に肥満で運動不足の私には大変なことだった。小坂さんはよく歩きながら、パフォーマンスを続けたものだと思う。滝で転んだときのお尻も痛いし、手首もじんじん痛む。読み上げられたり、歌われたりするテクストの中身はまったく頭に入ってこなかった。ただひたすら上るので精一杯。

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四〇分ほど上ってようやく山猫軒に到着。ポツンと一軒だけ山のなかにある。オーナーの主人はギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスの写真集を出した人らしい。ギャラリーで絵などの展示の他、音楽のライブや録音もしばしば行われる知る人ぞ知るスポットのようだ。到着したときは、私は汗だくで息を切らしていた。

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山猫軒の建物のまえで、「みぢかい木ぺん」の朗読があった。朗読したのは小学生だということをあとで知った。すらすらと問題を解いてしまう魔法のぺんのはなしだが、未完小説なので唐突に途中で終わってしまい、投げ出されたかのような気分になる。この朗読が終わった後、九〇分ほどの食事休憩となった。

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山猫軒の内部は上の写真の通り。お洒落な山小屋という感じ。オーナー夫妻で切り盛りをしている。昼食は私は古代米カレーを食べた。具は野菜のみ。普通においしいカレーだが、特に特徴があるというわけではない。ボリュームは私にはちょっと不満。

休憩のあと、山猫軒の裏山の山道を登っていく山中行軍演劇となった。この頃には気温が急激に下がって、かなり寒くなっていた。
ひなたが木が生い茂る山道を登り、観客を先導しながら、「学者アラムハラドの見た着物」を声色を使い分けて演じる。

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朗読ではなくて、ひなたは学者アラムハラドを演じ、ハーメルンの笛吹きのように観客たちを山道へと導いていく。

最後は小さな谷を越え、かなりの斜度の斜面を登っていった。私はお尻と手首の痛みゆえに、谷を渡らず登ってのを見ていた。10名ほどがひなたに続き、この森の急斜面を憑かれたようにひなたについて登っていく光景がとてもよかった。

 

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しかしよくもまあこんな場所でロケハンして、事前に稽古したものだと思う。帰りはバス停まで歩いて戻る。行きの上りのときは気づかなかったが、けっこうな急斜面で距離もある。上るのがしんどかったはずだ。

越生駅に着いたのは午後五時過ぎだが、ホームには誰も居なかった。

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右手首の痛みは時間が経つにつれてひどくなった。ただひねっただけではないことは明らかだ。翌日、整形外科に行くと、骨にひびが入っていて全治一ヶ月とのこと。やれやれ。初骨折だ。
翌週の12/20(日)には、平原演劇祭2020第8部#鋸山演劇だったのだが、新宿から浜金谷に向かう特急新宿さざなみが事故のため運休してしまい、怪我の痛みもあって気力が衰えてしまっていた私は行くのをやめてしまった。

無念だが、行った人たちのレポートを読むと、体力的な過酷さは越生山中演劇よりはるかにきついものだったようなので、私は行かなくて正解だったかもしれない。

 
 
 
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映画『燃ゆる女の肖像』

gaga.ne.jp

評価:☆☆☆☆★

映画館:TOHOシネマズ新宿

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新型コロナ「戒厳令」が出る直前の3月上旬にパリでも見た。字幕なしで見てなんとなく言っていることがわかったようなつもりになっていたのだが、今回字幕つきで見ると、フランス語がけっこう聞き取れていない。台詞は少なく、むしろ詩的な映像美がいろいろなことを語っている映画なので、なんとなくわかったつもりになっていたのだろうか。
 
18世紀のブルターニュの孤島の貴族の館が舞台。女性の肖像画家(原題ではこうした女性画家の存在はほとんど忘却されている)とそのモデルとなった若い伯爵令嬢の恋愛、感情のやりとりを、フランス映画っぽい精緻な心理描写で丁寧に、美しく描き出す。

画像3

十代の頃に映画監督から受けたセクハラをテレビで告発したことでフランス映画界における#MeToo運動の牽引者となったアデル・エネルは、女優としても今のフランス映画を象徴する存在であるようだ。
 
ブルターニュの孤島の館に女性だけの密やかで小さなユートピアが五日間だけ存在した。隔絶された環境のなかで、つかの間生まれた奇跡のような静かな幸福と官能の悦びを、張り詰めた美しい映像と饒舌ではない言葉で詩的に描きだした秀作だった。
 
ブルターニュの孤島の野性的な風景、二人の女性のあいだで交わされる視線、ろうそくと暖炉の火で照らされた邸宅の内部、窓から室内に入っている白くて柔らか陽光、そしてごく短いシーンだが夜の孤島で女性だけが参加する祭のたき火、燃えるドレスのすそなど、緊張感に満ちた美しい映像で提示される象徴的で詩的なイメージに引き込まれた。
オウィディスのオルフェウスの冥界下りの挿話が、二人の秘めやかな愛の物語にさらに奥行きを与えていた。
 

2020/11/28 カクシンハン・スタジオ+大山大輔『ロミオとジュリエット』@Youtube配信

 

作:シェイクスピア
演出:木村龍之介
翻訳:松岡和子

【出演者】
柳本璃音/根本啓司/大山大輔

三味線 鶴澤寛也
音楽  平本正宏

【日時】

2020年11月28日(土)18時
カクシンハン公式YouTubeチャンネルにて無料生配信

舞台監督=株式会社URAK 照明=伊藤 孝(株式会社ART CORE)音響=島貫聡
美術=乘峯雅寛 作曲=平本 正宏 稽古場アシスタント=下村天瞬 制作=藤田 侑加
映像(撮影・編集)=株式会社TASCO 宣伝美術=森 裕之 企画協力=石本千明
制作・共催=株式会社トゥービー・エジュケーション 主催=株式会社トゥービー

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Youtubeでの映像配信。三人の出演者による70分に圧縮された『ロミオとジュリエット』。柳本凛音と根本啓司という若い俳優二人がロミオとジュリエットを演じ、オペラ歌手の大山大輔が複数の役を担当する。ジュリエット役の柳本は、すらっとした体形で、ショートヘア、意思の強さを感じさせるきりっとした顔立ちの中性的な見た目。雑味のないすっきりした健やかな美しさが印象的だった。台詞は少々一本調子に感じられたが、声には張りがあってよく届く。自信に満ちた堂々たる芝居ぶりがよかった。70分という圧縮された時間、スピード感あふれる展開のなかで、二人の俳優の若々しさによって、ほとばしるような恋愛の喜びが表現されていた。数役を演じた大山の演技力も素晴らしい。達者な声色や表情の変化で、あふれるような勢いの若い二人の愛の物語の外枠をきっちりと固める。鶴澤寛也の三味線も要所でならされることで芝居のアクセント、リズムを作り出していたが、せっかく鶴澤寛也を入れたのだから、ポイントを印象付けるアクセントとしてではなく、三味線音楽や義太夫がもう少し全面に出たほうがよいようにも思った。
無観客でYoutubeでの無料映像配信だったが、多数のパイプ椅子で半円状の壁を作り、その前面は大量の古新聞の紙屑で埋めるという舞台美術のなかでの上演だった。小道具は文具や玩具などを見立てて流用する。今の日常と古典の虚構を強引に結びつける木村龍之介ならではの仕掛けだ。大山大輔、鶴澤寛也の存在のみならず、スピードとリズムのあるセリフのやり取りも含め、小編成のモダンな《オペラ》を思わせる舞台だった。Youtube生配信の技術的問題で、音のづれがあったこと、映像が粗かったことが残念だ。いつか生の舞台で見てみたい。

2020/11/28 板橋演劇センター『終わりよければすべてよし』@板橋区立文化会館小ホール

板橋演劇センター公演No,106「終わりよければすべてよし」-公益財団法人 板橋区文化・国際交流財団

 
 
 
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遠藤栄蔵が主宰する板橋演劇センターの第106回(!)公演を見にいった。遠藤は小田島雄志訳のシェイクスピア作品を40年前から上演し続けている。
『終わりよければすべてよし』All's well that ends wellの上演は珍しい。私は初めて見た。シェイクスピアには、見終わってもすっきりしない「問題劇」と呼ばれる作品があって、『終わりよければすべてよし』はその一つだ。平民の娘が、貴族の男と結婚することになったのだが、男はその娘を拒み、逃げ出してしまう。娘はその男を追っかけ、初夜のベッドで別人と入れ替わるというトリックをつかって、その貴族の男と結ばれ、男は娘との結婚を受け入れざるを得なくなるという話だ。たしかにこの後、娘が幸せな結婚生活を送ることができるとは思えず、ハッピーエンドといってもすっきりしない。

板橋という東京の辺境の田舎町でシェイクスピア作品を40年間にわたって上演し続けるというのはすごいことだ。主宰の遠藤栄蔵は青年劇場の養成所で演劇を学んだとのことだ。初舞台は1970年と当日パンフに記述があった。
私は15年ほど前に一度、板橋演劇センターの公演を同じ会場で見たことがある。演目は確か『リヤ王』だったように思う。そのとき見てびっくりしたのは、劇団主宰であり、重要な役を演じる遠藤栄蔵に台詞が入っていなかったことだ。見せ場で台詞が出なくて、プロンプターの声が響き渡る。こんなリズムが悪く、たどたどしいシェイクスピアの舞台は見たことがなかった。

今回は新型コロナ感染拡大のなかでの公演で、出演者および観客に高齢者が多いこともあって、板橋演劇センターの感染対策はかなりきっちりやっていた。14人のキャストのうち、5人が比較的若そうな感じだ。他の新劇劇団で活動している人だろうか。道化役の俳優とヒロインのヘレナを演じた俳優は、普通に上手な芝居だった。他の俳優はいずれもかなり高齢だった。

ヘレナの後見人的なロシリオン伯爵夫人を演じた女優は、ずっと座ったままの芝居で、ちょっと大丈夫かなあと心配になるような感じだった。当日パンフにはご自身が「長生きの化け物の名に恥じず初舞台を新劇の開祖土方与志先生に演出していただいたのだから恐ろしいです」とあった。女優名、三條三輪でgoogle検索をかけてみると、なんと三條三輪さんは105歳だ。世界最高齢現役女優ではないか!だいたい歳を取ると台詞が入りにくくなる人が多いのだけど、三條三輪さんは演技こそ椅子に座ったままではあり、台詞のタイミングが遅れることはあったけれど、かなり長時間舞台に出たままで、そして台詞量も多かった。驚くべきことだ。まさに演劇界の長生きの化け物にふさわしい。三條三輪さんはしかも耳鼻咽喉科の医者としても現役であることをあとでtwitterで教えて貰った。五反田に三條三輪さんが院長を務める医院があった。

www.sanjo-jibika.com

 

高齢俳優で舞台進行はかなりおぼつかないかんじではあったが、ヒロインのヘレナ役の朱魅の堅実な芝居が最初から最後まで作品をしっかりつなぎとめていた。朱魅で検索してみると、twitterとインスタグラムでアカウントを見つけた。「元劇場ダンサー#踊り子 、#美術モデル 、#フロアショー 、イベント 、#演劇 と幅広く」活動されているひとだった。 「#浅草リトルシアター #艶絵巻 。 理容師免許、アロマテラピー基礎応用研究科卒業。メディカルハーブ、色彩能力検定2級、ハクビ着付け教授免許会得」とある。やはりすごい人だ。

公演前の前説で主宰の遠藤栄蔵からあいさつがあった。15年前にすでに台詞が入らなくなっていたので、さらに老化が進んでよぼよぼになっているのではないかと思ったのだけれど、その口調はしっかりとしていて、むしろ15年前より若返った感じがした。もしかすると15年前はたまたま体調が悪かっただけだったかもしれない。40年、文化の僻地の板橋でシェイクスピアを上演し続けるような人なんだから、かつての新劇のスタイルを踏まえた見事な演技を見せてくれるかも、とこの開演前の挨拶で思った。
芝居の進行はギクシャクして、朱魅と道化役の眞藤ヒロシほか、数名の俳優の演技でなんとかシーンがつながっていた感じだったのだが、フランス王を演じる遠藤栄蔵が経験と新劇で鍛えられた底力を見せて、芝居をきりっと引き締めるのかと思ったのだが、やっぱり今回も台詞が入っていない!むしろ出演者のなかで一番台詞のとちりが目立つ。舞台上に響く大きなプロンプターの声に、客席からは失笑が度々湧き上がった。しかし遠藤栄蔵はそんなことに全然動じる様子がない。さすが40年、このスタイルでシェクスピアを演じ続けただけのことはない。
「台詞が出てこない。いったい、それが何の問題があるんだっ!」と言っているような雰囲気と貫禄は、まさに王さまを演じるのにふさわしいものだった。
舞台公演の完成度の高さなんかはなから問題にしてないのだ。とにかく無理矢理でもシェイクスピアをやる。やり続ける。この無理矢理感こそ、このどうかしている感じこそ、驚異的だ。遠藤栄蔵の真正の演劇バカぶりに感動してしまった。
板橋演劇センターはもちろん今後もシェイクスピアを板橋で上演し続ける。次回公演は5月に予定されている。そして当日パンフレットには次々回公演の予告も。次回は『ヴェニスの商人』、次々回は『尺には尺を』。もちろん公演は見にいくつもりだ、板橋演劇センターがある限り。
「出演者募集中!」と太字ゴシック体で記してある。うーん、惹かれてしまう。
遠藤栄蔵がどんな感じでシェイクスピア公演を立ち上げていくのか見てみたい。出演、してみたいような、。


平原演劇祭2020第6部 #50年芋煮演劇 2020/10/18 @埼玉県宮代町「新しい村」芝生広場

この十月はいくつか仕事の締切りが重なっていて、平原演劇祭第6部は事前に告知をちゃんと読む時間がなかった。日程だけはGoogleカレンダーにかなり前に記入して、とにかくこの日は平原演劇祭のために空けておくようにはしていた。

 

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ツイッター上での断片的情報で、久々に会場は宮代町、そして芋煮をやるというのは記憶にあって、調理をするのだからずっと前に鰤の会をやった宮代町進修館の調理室で今回はやるのだと思い込んでいた。野外劇で場所は進修館ではない、懐中電灯が必要ということに気づいたのは当日の朝だった。お椀と箸の持参が推奨されていることも当日の朝に告知を確認して気づいた。調理から参加する場合は正午集合、芝居の開始は14時からということだったが、どうせ参加するなら調理からのほうが楽しいに決まっている。公演会場の「新しい村」は東武動物公園の道を挟んで向かい側にある公園だ。

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この公園にある沼で5、6年前に平原演劇祭は水没演劇をやっている。沼の上にいかだのようなものを浮かべて、そのいかだの上で芝居を上演するというものだった。池のなかにもジャブジャブ入っていったので当然役者たちは水浸しになる。この場所での夏の水上演劇は2、3年やっていたのだが、クレームが入ったとかでここ数年はこの新しい村での上演は行われていなかった。
今日、その池のそばを通ると、昼間は水深の浅いその池で釣りを楽しんでいる人がたくさんいた。平原演劇祭の水没演劇は夜に行われたが、よくこんなところであんな芝居をやっていたもんだとあらためて思う。
今回の会場は水上ではなくて、その奥にある小中学校の校庭ほどの広さの芝生広場だった。かつてはこの公園は公営だったようだが、現在は株式会社による管理/運営になっている。芝生広場ではバーベキューやキャンプが可能なようで、先ほどページを確認すると一区画25平米を一日2000円(営利の場合)で借りることができるらしい。今回は公園のため、全五区画を借り切ったようだ。それでも会場費は一万円で、破格に安い。株式会社運営だが、とても商売になっているとは思えない。

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芋煮調理の部開始時間の正午に会場に着くと、俳優陣は芝生広場の端の木陰で稽古をしていた。これまでの平原演劇祭ではみかけない大学生の7−8人のグループがいる。どこからやってきた、誰が声をかけて集めたのか私は知らない。彼らは芋煮部隊として呼ばれたらしい。しかしこのあとわかったことだが、芋煮会の経験者は調理に部に集まった人間のなかには一人もいなかった。通常は平原演劇祭で出る飯に関しては、調理師資格も持っている主宰の高野竜が担当するのだけど、今回の芋煮についてはお金だけ出して、材料購入から調理までは芋煮隊に丸投げになっていた。竜さんからの調理のやり方についての指示は太いゴボウが売っているので、それは入れたほうがいいだろう、ということだけだった。出汁についてはゴボウから出るはず。しかしそれだけでは心許ない。出汁入り醤油で味付けすることになった。

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芋煮の材料は新しい村の敷地内にある販売所ですべてそろえることになっていた。ここは野菜はいろんな種類置いているのだけれど、肉類は調理済みのもつ煮しか置いていない。芋煮の芋といえば里芋だろうと私は思っていたのだけど、「ジャガイモでしょ」といういう人もいて。結局里芋、ジャガイモ、サツマイモなど売っていた芋はすべてかった。あとはきのこ、大根など目につく野菜で鍋で煮込めそうなものを適当に購入する。肉がまったくないのはさびしい気もしたので唐揚げのパックも購入。15人ぐらいで分かれて籠にどんどん入れていったのだが、値段は一万円以内におさまった。野菜の下ごしらえは大学生の若者たちに任せる。手動ポンプ式の井戸から噴出する水ではしゃいだりしながら、彼らは楽しげに野菜を洗ったり、切ったりしていた。

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開演予定は14時となっていたので、芋煮をみんなで食べてから開演なのかなと思っていたらそうではなかった。数十人前分の芋煮が作れそうな大きさの寸胴鍋のなかに水と材料を入れて、新しい村公園の管理事務所から借りてきたバーベーキュー用ロースターでそれを沸かしはじめたのだが、火力が弱くてなかなか湧く気配がない。とりあえず芋煮鍋を火にかけたまま、開演ということになった。おなかがすいた私は公園の売店でホットドッグを買って食べた。

芋煮鍋とがっちりした大きさのロースターは公演会場の芝生広場の中央にどんと置かれていた。芝居空間の中央に芋煮の鍋。こうしたユーモラスで意外性のある仕掛けで非日常的な景観をつくってしまうセンスは、さすが平原演劇祭という感じがする。演技は芋煮なべの周囲の広大な芝生の上で行われ、観客は外側からそれを見守る。小中学校の運動場ほどの広さがある芝生広場を貸し切ってそこで芋煮と演劇が行われる。平原演劇祭と関係なく新しい村にやってきた人たちには「いったいなにをやっているんだ」という具合に不思議そうにこちらを見ているがいる。
観客としてやってきた私たちもいったいこれからここでどんな芝居が行われるのだろうとわくわくする。

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最初に主催の竜さんからの開演の挨拶があった。今回の平原演劇祭2002第6部は、 「#50年芋煮演劇」というタイトルがついていた。芋煮はわかるけれど、50年はなんのことだと思っていたのだが、高野竜の演劇生活50周年とのこと。彼は54歳なので、4歳のときに母親がやっていた劇団に入って演劇生活開始ということらしい。10年前の平原演劇祭では40周年の会をやって、そこではいろいろな芝居に出たとのことだが、今回は体力が落ちてしまったのでちょこっとだけ出るとのこと。過去の日記を調べてみると私が平原演劇祭に初めて行ったのは震災後の2011年9月だった。だから40周年のときはぎりぎりまだ平原演劇祭を見ていなかったことになる。しかし最初に見たのがたった9年前だったとは!平原演劇祭での演劇体験はあまりに濃厚で、見始めてから私は一気にのめり込んだので、もっと以前から見ていたような気がしていた。この9年間、平原演劇祭は嵐にもまれる船のように変転しつつづけ、演劇の本質を問いかけるような愉快で独創的な演劇的実験を続けてきた。周縁から演劇という制度にゆさぶりをかけるようなラディカルな前衛的演劇運動でありながら、牧歌的でユーモラスで混沌としている。

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平原演劇祭ではいつものことながら、俳優と戯曲を風景のなかに配置することで、日常をダイナミックに歪ませ、祝祭的で幻想的な異世界が出現しまうということ自体に、注意を奪われてしまう。要は戯曲のことばの内容は観劇中はぼんやりとして理解できず、ああ、俳優がなんか面白いことやっているなあ、という感じを主に楽しんでいることが多い。高野竜の戯曲は文学性の高い美しく、読み応えがあるものなのだけれど、平原演劇祭の上演環境のなかで音だけでその意味を味わうには難解なところがある。今回は3時間睡眠でちょっともうろうとしていたので、いつも以上に芝居のなかみについてはもうろうとした印象しか残っていない。

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最初は高野竜と名古屋の優しい劇団の尾崎優人氏による唐十郎秘密の花園』だった(と思う)。野田秀樹も入っていたようだ。尾崎優人は白塗り顔の着物姿だ。尾崎これに引き続いてひとりで、「白浪五人男」、「勧進帳」を見事な声で朗唱した。その芝居っぷりは本格的なものだった。私は尾崎優人についてはまったく知らなかったのだけれど、名古屋から来て、アングラっぽくて、歌舞伎をやっているとなるともしかして、と思ってググってみると、ロック歌舞伎スーパー一座の原智彦に師事していた。尾崎のひとり歌舞伎はだいたい30分ぐらい続いたか。のどかな野外の芝生広場で白塗り役者の声が響き渡る。これに引き続いてというか、むりやりおっかぶさるようなかんじで、昨年から平原演劇祭で暴れ回る、のあとアンジーという二人の若い女優のユニット「のあんじー」による「イレフダ」と、平原演劇祭のベテラン女優の角智恵子と青木祥子による「クラノスケルス」が、からみあうような感じで交互に上演された。「のあんじー」は国定忠治もののをやっているのだが、衣装はロングドレスだ。一方、角と青木はどうやら忠臣蔵ものをやっていることがその台詞から断片的にうかがうことができる。

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帰宅してから気づいたのだったが「イレフダ」は「入れ札」で青空文庫にも収録されている菊池寛の短編小説だった。そして「クラノスケルス」は、山本周五郎の短編小説「内蔵允留守」だ。現地では私はこのカタカナタイトルの意味がわからなくて「クラノスケルス」は「クラノ・スケルス」って恐竜の名前かなにか?とか思っていたのだった。「イレフダ」もカタカナなのでなんかSFっぽいタイトルだなと思っていた。というか「ガム」にしろ、「イレフダ/クラノスケルス」にせよ、芋煮会のあとの「フレスコ太陽」にせよ、実際に上演されたものとそれらの文字列の結びつきがイメージできなくて、各演目を上演するユニット名みたいなものなのか、ぐらいに思っていた。

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広い野外空間でポツンと二組の役者たちが時代劇らしきものが演じられていることはわかった。あとの手がかりは国定忠治と内蔵助という固有名詞。のあんじーのあんじーは《スターウォーズ》のレイア姫のドレスを着ていて、一部スターウォーズの場面も挿入されていたりするし、二つの別の話がシームレスに混じり合うし、こちらは寝不足で頭がぼーっとしているしということで、なにがなんやらよくわからない。ただ状況と風景の自由なコラージュが面白い。俳優がやっていることも面白い。「イレフダ」ののあんじーはツィッターで前夜まで「台詞がはいっていない」「新しい演出をいきなりおもいついた。ウイスキーの空瓶を誰か持ってきて欲しい」とつぶやいていた。レイラ姫の衣装だけでもインパクトはあったのだが、それだけでは物足りなかったらしい。高野竜を芝生広場の外で斬り殺し、そしてウイスキーなどの瓶に入った様々な色の絵の具で着色した水を純白のドレスにぶっかけるという演出は、さっと空間をカターナイフで切り裂くようないんぱくとがあった。そしてのあとのダンス、坂井さん伴奏での山口百恵《愛の嵐》を歌う。ヤクザ芝居的とは関わりのない要素を暴力的にぶつけながら、それらの突飛なしかけはしっかりと原作のストーリーの内容に応えるものになっている。その劇的効果がいかほどのものか不安を抱えながらも、大胆な確信犯でギミックをぶつけるあんじーのふてぶてしさは20歳前後の若い女性のものとは思えない。そしてその仕掛けにまっすぐうけとめ、きっちりに表現しようとすることがおかしなずれになっているのあ。二人が生きる世界とふたりのけなげな生き様のずれよう、彼女たちと世界との格闘が、彼女たちの荒削りな表現の魅力になっている。

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空間と状況の特異性、そして反時代劇的な自分たちの属性を計算に入れた演出の効果で、若い女優二人の旅股ものは説得力のある劇世界を提示していたように思った。角と青木の「クラノスケルス」は、二人の男装着物姿はビジュアル的に決まっていて、のあんじーと対照になっているのがよかった。特に角の武士姿はりりしく、実に武士っぽい。《スターウォーズ》のテーマの替え歌で、畑を耕す場面は可笑しかった。

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時間が押し、芋煮会が始まったのは午後3時半すぎだったか。芝居をやっているあいだに、芋煮もゆっくりとぐつぐつ煮え立った。芝生広場の中央に置かれたこの鍋の存在感は大きかった。鍋が芝居の中心にあって、芝居を制御しているかのようだ。そしてこの鍋の存在で風景が重層的で複雑なニュアンスを帯びるようになっている。
平原演劇祭では食べ物が出されることが多く、この食べ物を食べること(そして今日のようにつくること)も演劇的営為の一部となっている。しかし通常は調理人でもある高野竜が食べ物を取り仕切るのだが、今回は観客に調理もほぼ丸投げだ。そして芋煮会演劇と称しながら、芋煮を実際に体験した人はひとりもいないようだ。芋煮に欠かせないように思える肉も入っていない。味付けは出汁入り醤油だけ。
これはさすがにおいしいとは言えないんじゃないかなと思って、食べてみると、出汁入り醤油と野菜のうまみだけでこれがおもいのほかおいしいのだ。夕暮れに近づき、気温も下がってきたので芋煮のあたたかさがちょうどいい。野菜類を煮込んで、醤油で味付けするだけで、こんなにおいしいものになるとは。七味があればもっとよかったかもしれない。観客出演者で40名ほどいたと思うが、芋煮鍋は空になった。

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芋煮を食べ終わるともう夕暮れだ。17時までに芋煮に使ったバーベーキューのロースターを返却しなくてはならないと言うので、芋煮会のあとはさっさと片付ける。平原演劇祭2020第6部後半となる「フラスコ太陽」は、17時半ごろから芝生広場の横にある雑木林のなかで上演が始まった。出演者は女子高生を演じる女優三名と先生役の男性俳優が一名。女優三名は、雑木林の境界の三点で主に演技をし、その三人を結ぶ線の内側の結界のような場所で芝居を見る。「フラスコ太陽」は20年ほど前に高野竜が書いた戯曲で、上演の機会がないままずっと眠っていたそうだ。高校の腹話術部の話が外枠だが、その内側でイスラムオマル・ハイヤームの作る暦のはなしが腹話術人形によって演じられたりする。中世のイスラム世界と現代の女子高生の世界が入り組んだやりかたで出たり入ったりする複雑な構造の作品で、話の内容を追うことができない。女優三人が7-8メートル離れた位置で話していたりするのでなおさらだ。上演後、30分もするとあたりは真っ暗になった。照明がないので、観客が手にもつ懐中電灯のあかりが照明代わりとなる。暗闇の中で懐中電灯に照らされる三人の女優の語り。夜の雑木林は幻想的な夢のような空間になった。

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女子高生3名を演じたのは、ひなた、栗栖のあ、山内雨という幻想の女子高生を演じるにふさわしいはかなさを持つ美少女俳優だ。雑木林で80分ほど演じた後、観客はひなたに先導されて暗い夜道を600メートルほど歩く。最後の場は新しき村に隣接する宮代町立笠原小学校の校舎の裏だった。校舎へと伸びる幅3メートルほどの橋のうえで、のあと山内雨の二人の芝居で「フラスコ太陽」は幕を閉じる。終演は予定通り午後7時だった。

 

今回は高野竜50周年記念公演なのだが、にもかかわらず高野竜の存在が前面に出ない公演になっていなかったのがよかったという感想がツィッターにいくつかあった。確かに。
でも高野竜の演劇人としての足跡、存在はしっかりと感じ取ることができる記念公演になっていた。

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https://togetter.com/li/1611115 togetterのまとめ「平原演劇祭2020第6部 #50年芋煮演劇」

https://note.com/heigenfes/n/n7177ce68c3da 平原演劇祭公式のnoteで告知

平原演劇祭2020第6部 #50年芋煮演劇
10/18(日)12:00または14:00集合
@埼玉県宮代町「新しい村」芝生広場
1000円+投げ銭(芋煮つき観劇料)
出演:ひなた
   栗栖のあ
   山内雨
   ほうじょう
   アンジー
   青木祥子
   角智恵子
   高野竜
演目およびタイムテーブル(時間は概算):
 12:00 芋煮隊集合、買出し、調理
 14:00 ガム
 14:30 イレフダ/クラノスケルス
 15:30 芋煮会、休憩
 17:00 フラスコ太陽
 19:00 終演

豊岡演劇祭2020 9/13(日)

ホテルを10時前にチェックアウトし、豊岡駅のコインロッカーに荷物を預け、10時5分発のバスに乗って城崎国際アートセンターへ向かう。30分ほどで到着。
Q/市原佐都子『バッコスの信女〜ホルスタインの雌』の開演は11時半。『バッコス』のあと、豊岡に戻って16時半開演の中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零』を見ることになっていた。『バッコス』終演後、城崎温泉街をぶらぶら散歩して、海鮮丼でも食べてから豊岡に向かうつもりだったのだが、『バッコス』の上演時間は2時間半あった。昨年秋に名古屋トリエンナーレで見たにも関わらず、『バッコス』の上演時間を2時間くらいだと思い込んでいたのだ。
入場時に一人一人きっちり体温チェック等を行うため開演が押し、終演は午後2時を10分ほど過ぎていたように思う。

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市原佐都子は性欲にとらわれた存在としての人間のすがたを生々しく描く。その性欲の描き方には甘いロマンティシズムはない。性の肉体的喜びに溺れるというよりも、性と結びついた人間関係にともなう支配-被支配の関係、そして性的妄想をエスカレートさせていくときの精神の自由がもたらす快楽といった性の生々しく、みもふたもない現実に、市原は目を向ける。性の快楽によって、私たちは日常的に自分を拘束する縛りからの解放がもたらされる。快楽によって理性の縛りから解放された私たちは、その喜びには、嗜虐あるいは自虐による破壊の快感があることになんとなく気づいているけれど、それに敢えて触れようとはしない。市原佐都子の作品は私たちが抑圧する性のグロテスクを舞台作品として突きつける。
 
性の殺伐とした様相を露悪的に描く作家は少なくない。しかし市原佐都子のような可憐な少女のような見た目の女性が、性愛についての叙情性を一切排した、こうした生々しく、即物的な性を、悪意と攻撃性を秘めた無邪気さのもとに、提示するというのはショッキングだ。市原佐都子は自分がそのような女性であるからこそ、こうした世界を描き出すことに意義があるということをよく知っている。市原は女性の性のリアリティを女性の視点から書く。それは男性が若い女性に対して抱く、「舐めた」視線、甘くて都合のよいファンタジーを打ち砕く破壊力を持っている。男性が女性に抱く性ファンタジーのおぞましさ(一方的でひとりよがりな)、滑稽さが、市原佐都子作品では、その徹底した女性性、男性不在によって、突きつけられるような感じがする。
 
 
市原佐都子『バッコスの信女』は、合唱隊と対話部分が交錯するギリシア悲劇の形式を踏襲しているが、その内容はエウリピデスの作品の翻案というにはあまりに大きな改変が加えられた別の作品になっている。エウリピデスの劇的構造と劇中要素を利用しつつも、それを変形させ、発展させた市原の奔放でグロテスクな想像力は驚くべきものだ。
古代ギリシャ劇と違い、市原の劇の演者は全員女性だ。主要な登場人物が三名で、いずれもエキセントリックで破滅的な人物だ。三人といってもそのうち一人はペットの「犬」を演じる。そして合唱隊(コロス)がいる。最初に登場するのが家畜人工授精師の資格をもつ主婦だ。この人物設定の発想自体がどうかしている。
 
ドラマは彼女の長いモノローグ劇として始まる。彼女は家畜人工授精師という仕事の内容を説明し、そして自分が己の性欲処理をどのようにおこなっているのかを、あっけらかんとした調子で、丁寧に説明する。家畜人工授精師は、酪農家をまわって発情した乳牛に人為的に精子を投入し、受精させる仕事だ。われわれは普段意識することはないが、われわれが日常的に消費する食肉(そして乳製品)のほとんど受精から生育、出荷まで人為的な管理のもとで「製造」される。しかし市原が家畜人工授精師に注目したのは、乳牛の生殖はすべて人の手によって行われているがゆえ、乳牛(肉牛もそうだろう)は例外なく性行為をすることなく、出産するという事実である。牛乳あるいは食肉の安定的供給のために、処女懐胎・処女出産という不自然なことが日常的に行われている事実を、私たちの多くは思い浮かべることはないし、酪農に携わるひとたちはそれを異常だと思ったことはないだろう。しかしそのやり方や過程を丁寧に説明されると、その不自然さにわれわれは気がつき、そこにグロテスクなものを感じてしまう。佐原は人口生殖、処女懐胎が当たり前の家畜の性のありかたから、想像力を発展させていく。
 
家畜人工授精師として多数の牛を妊娠させてきた彼女には、セックスや恋愛についての甘い幻想はまったくない。性欲は1年に一度(「発情期」にということか)、ハプニングバーで解消するものである。そこで若い女の身体が気持ちよさそうだったので、若い女性を誘ってセックスしてみた。するとそれは思ったほどうまくはいかなくて、相手の若い女性に容赦なく罵倒されてしまう。しかし彼女はその罵倒を気にする様子もない。子供が欲しくなったけれど、恋愛というプロセスが面倒だ。家畜人工授精と同じように精子バンクから精子を購入して、自分で自身の膣にその精子を注入して妊娠しようと考える。彼女は欲望についてはむしろ淡泊であり、それにのめり込んでは振り回される感じはない。常に欲望する自分を客観視する視点がある。しかし「〜したい」という欲望に彼女は率直だ。「恋愛して、男性のパートナーを見つけるプロセスが面倒くさい」でも「子供は欲しい」という女性は少なくないだろう。欲望合理主義者の彼女は精子バンクから冷凍精子を購入する。
自身は家畜人工授精師である受精のプロであるゆえに、彼女は自分でその精子を自分の膣に投入しようとするが、いざ投入しようとすると、不安が大きくなった。購入した精子を捨てるのがもったいないので、彼女は乳牛にその精子を投入してしまう。
牛と人間のあいだに生まれた子供がなぜ両性具有であるのかは説明されない。牛と人間のハーフなので、ミノタウロスかと思ったが、この両性具有者は上半身が人間で下半身が馬のケンタウロスと呼ばれていた。半人半獣の怪物でギリシア神話に結びつくものであればいいということだろう。この半人半獣は巨大な男根を持っている。母親となった家畜人工授精師は、激しすぎる性的衝動を持て余し苦しむ子供をにエロ本を見せて自慰を行うように促す。そして母親は狂ったように自慰を続ける半人半獣の子供を結局は見捨て、家に置き去りにしてしまうのだ。ここで家畜人工授精師の一人語りの最初の場面につながる。彼女はコーンフレークは、ケロッグ博士が性欲抑制のための食事として考案したのだという蘊蓄を語っていたのだ。その語りには、かつて自分が誕生させた半人半獣の子供を捨てた罪悪感はみじんも感じ取ることができない。
十数年後に彼女の家を訪ねてくるのは家畜人工授精師がかつて捨て去った半人半獣の怪物なのだが、彼女はそのことになかなか気づかない。
半人半獣の怪物に心理的に誘導され、その怪物が住むアジトへ向かうのだが、家畜人工授精師はそこで『バッコスの信女』のペンテウスのように惨殺されることなく、家に戻る。そしてもぎりとった半人半獣の怪物の一物を焼き肉にして食べる。これが結末だ。
 
『バッコスの信女』の公演が終わったのが午後2時過ぎだった。この日はこのあと午後4時半から豊岡市民会館で中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』を予約していた。『バッコスの信女』の終演後、アフタートークがあるとアナウンスがあったが時間が一時間ほどかかるという。午後3時過ぎだと昼ご飯を食べたあと、城崎温泉から豊岡に移動していると、『零(ゼロ)』の開演に間に合わなくなってしまう恐れがある。城崎温泉駅から全但バスに乗って豊岡駅に戻る。ちなみに今回の演劇祭では豊岡市内バス乗り放題チケット(土日券1900円)を購入したのだが、バスの停留所、時刻表、路線などの運行情報の調査が甘くてあまり有効に使えなかった。結局使ったのは12日(土)の豊岡-江原の片道、そして13日(日)の豊岡-城崎の往復だけ。バス運賃は一回400円ぐらいだったので、乗り放題チケットを買った意味はあまりなかった。一人乗り電気自動車のコムスの無料貸し出しやオンデマンドの乗り合いタクシーというサービスも用意されていたことにあとになって気づく。前もってわかっていれば利用したかった。

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中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』、これは現代音楽オペラ。会場の豊岡市民会館は、この三日で私がめぐった豊岡演劇祭の会場の中で一番広い場所だった。1500人ぐらいは入れそうなホールだが、今回は新型コロナ感染対策で半分以下になっている。
暗い照明のなかで女優三人による台詞劇とNgatari(このバンドについては先ほどググって知った)のJessicaのヴォカリーズによるアリアの場面が交錯する。美しい曲だったし、全身を使ったJessicaのパフォーマンスは魅力的だったけど、移動で疲れていたのか、断片的な場面をつないだ静かで詩的なこの作品を味わう集中力を欠いてしまっていた。一時間半ほどの公演だったが、30分ぐらいは夢うつつだった。マスクをしたままの鑑賞だと、酸素不足になるせいか、眠気が強くなるような気がする。今ふりかえって思い返すと私好みのいい作品だったような気もしてきた。機会あればまた見てみたい。
 
18時前に室内オペラ『零(ゼロ)』の会場の豊岡市民会館を出る。駅の売店で鯖寿司弁当を列車のなかで食べる夕ご飯として購入。
豊岡-福地山、福知山-京都、京都-東京と乗り継いで、終電で自宅の最寄り駅に到着する予定だったが、福知山-京都間で線路内動物侵入のため列車が20分ほど遅れて、接続がかなりシビアなものとなってしまった。最悪、渋谷か池袋のネットカフェで夜明かしになるかなと覚悟したが、ぎりぎり接続が間に合って帰宅することができた。

豊岡演劇祭2020 9/12(土)

この日予約していた公演は、12時開演のcigars、16時開演の東京デスロック、そして19時半開演の『ヤルタ会談』。cigarsと東京デスロックは豊岡駅が最寄りだが、『ヤルタ会談』は豊岡から二駅離れた江原に移動しなくてはならない。
午前中のスケジュールが空だ。豊岡駅周辺で美術館など時間をつぶせそうな観光ポイントはないかなと思ってググってみたけれどなさそうだ。曇り空で気温はそんなに高くないので、ぶらぶらと円山川あたりを散歩してみようかと思って、9時半ごろホテルを出る。

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昨夜、大道芸を見た豊岡稽古堂のまえで紙芝居の公演がはじまろうとしていた。演劇祭のフリンジ公演で日坂春奈の『かみしばいや』だ。野外無料公演なのだが、新型コロナ対策でこの公演も予約制になっていて、私は予約しそこねていた公演だ。一回10名程度しか予約出来ないようだ。人がひしめき合っているという感じではまったくなかったので、「予約なしだけど見ること出来ますか?」と聞くと、立ち見だったらOKとのこと。
紙芝居はこの演劇祭のために作った新作2本とのこと。一本目は演者・作者がそうめん好きだということで「そうめんのゆめ」というお話。おまけで紹介されていたおいなりの薄揚げにそうめんを入れる料理、おいしそうだ。2本目はピンクのカエルが月の背にのって豊岡のいろいろな場所を巡る話。2作品とも他愛のない可愛らしい話だった。紙芝居は15分ほどで終わってしまう。
 
豊岡駅前から東にまっすぐ延びる目抜き通りの商店街は土曜だというのに賑わいがない。シャッターのしまったままの店が多かった。町の規模は3月に行ったアイルランドのスライゴーに似た感じだが、スライゴーよりもさびれた雰囲気だ。目抜き通りの道をずっと進んでいくと円山川にさしかかる。川幅は20メートルくらいか。河原は雑草が生い茂っていた。cigarsの公演がある12時までとにかく時間を潰さなくてはならない。

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Googleマップを見ると2キロほど離れたところに京都丹後鉄道のコウノトリの郷駅がある。そこまで歩いて、そこから京都丹後鉄道に一駅乗れば11時半過ぎに豊岡駅に戻って来ることができることがわかる。cigarsの公演会場の豊岡市民プラザは駅に直結しているので都合がいい。ちょうどいい運動かなと思い、田舎道を歩いてコウノトリの郷駅に向かった。コウノトリの郷駅の駅舎は木造の無人駅だった。竹林の里山のそばにある。鉄道は単線で、車両は一両だった。ただ車両は新しくてきれいだった。

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cigarsの『庭にはニワトリ二羽にワニ』『キニサクハナノナ』の二本立ては、ささやかだけれどとてもいい公演だった。演出はこの4月に急逝した青年団志賀廣太郎、戯曲は小川未玲。『庭にはニワトリ二羽にワニ』はピアノ伴奏による4人の演者によるミュージカルだ。ミュージカルといっても物語の流れは背景に映し出される可愛らしいイラストで示される。4人の演者は絵本のような背景映像に合わせて語り、演じていく。単に自分の役柄の台詞を読むのではなくて、ささやかだがちゃんと俳優として演じている。大阪の西成で素人のおっちゃんたちがやっている紙芝居演劇、むすびが同じようなことをやっているのに先ほど気づいた。cigarsはむすびの紙芝居演劇を、プロの俳優によって洗練されたかたちでやっているのだ。絵本の読み聞かせの発展系のような芝居だったが、俳優たちはピアノの伴奏に合わせて読んだら歌ったりしているだけではない。スライドの絵に合わせて、役柄を演じる。絵で提示される情報を、俳優の身体がうまく保管し、物語のイメージを膨らませていた。主張しすぎない俳優の演技の入れ方が絶妙だった。そして言葉遊びや定型的物語要素のパロディをちりばめた脚本が面白い。大人も楽しめるシニカルな批評性がサラリと入っている。何度か声を出して笑ってしまった。子供と一緒に見て楽しみたい作品だと思った。

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同じ作者による『キニサクハナノナ』は、絵本風の一本目と雰囲気が違う作品だった。ピアノ伴奏の音楽はつくが、こちらはミュージカル仕立てではなく演者は歌わないし、踊らない。死者が死の国へ旅立つ前に、思い残したことを伝えるという趣向の物語だ。見合いをしたものの、その直後に召集令状が届いたため、縁談を断った男が、その見合い相手の女性に間違った花の名前を教えてしまった。男は死の国への待合室にその女性を呼び出し、間違った木の花の名前を教えたことを詫び、心置きなく死の国へ向かう。
どこかで似たような設定の話を聞いたことがあるように思う。最初の話が子供も楽しめる内容だったので、それと組み合わせる二本目も子供が楽しめる作品の方がいいのではないかと思ったのだが、作品演出はあまり気取り過ぎない洗練があって心地よい後味の舞台だった。
演劇祭ではとんがったマニア向けの作品だけでなく、こうした間口の広い秀作の上演があることは重要だ。
 
昼飯は駅から歩いて20分ほどのところにあるバイパス沿いのマクドナルドで食べた。駅前から伸びるかつての目抜き通りはシャッター商店街となっていて人通りも少ない。しかしバイパス沿いには大型ショッピングセンターやファミレスが並んでいた。車社会ではこうした感じになるのは避けられないのだろう。かつての駅前の中心部の商店街は駐車スペースが乏しいため寂れてしまう。
 
午後4時から豊岡市役所に隣接する豊岡稽古堂で、東京デスロック『anti human education III 〜PENDEMIC Edit.』を見る。多田淳之介らしいユニークな切り口の作品だった。学校の授業のスタイルで、各教科ごとに新型コロナ禍について先生役の俳優が観客に向かって授業する。ドリフなどのお笑い番組の学校コントを連想する。
全部で6時限あって、数学、世界史、保健体育、生物、国語、音楽で、各教科は15分ほどの長さ。観客にはホワイトボードが配布されて、教師役の設問にボードで答えたり、となりの観客とペアワーク的なことをしたりする。実際の教科書や授業実践をよく調査している感じがした。

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数学の内容は新型コロナとの関わりは分からなかったが、ペアないしグループでやるしりとり掛け算はフランス語の数字の学習にも応用可能だと思いメモした。世界史は過去の感染症にまつわる事件について、高いテンションで教える。保健体育は適応規制についての説明と新型コロナ禍での適応規制の実例をアンケートとともにうまく説明していた。生物は細菌とウィルスの違い、ワクチンの役割。伝え方には適切な演劇的誇張によるメリハリの工夫があって分かりやすかった。内容も真っ当で教科書の記述をよく研究している。
しかしたかが15分ほどの模擬授業(それも伝え方にか工夫があって、極めてよくできた)にもかかわらず、退屈で眠気を感じてしまうのはどういうわけか。またこうした優れた工夫の授業もこの密度で90分で15回やるのはかなり大変だろう。生徒もあまり凝縮された内容だとオーバーフローを起こしてしまうのではないだろうか。教育による緩やかさ、「遊び」はやはり重要であると思った。
よくできた模擬授業だったが、それだけじゃあ演劇的に物足りないなあと思っていたら、昼休みの防護服を着た先生たちによる教室消毒作業の後、5限目の国語が新型コロナ禍で占星術オカルトにハマってしまった先生によるものだった。スピリチュアルなメッセージを吐き続ける。こうしたちょっとおかしくなってしまった先生は実際にいそうな気がする。惑星のパワーがどうのこうのと話していたが、本来は『銀河鉄道の夜』をやるはずだったというオチがついた。
 
6限目の音楽はビデオ映像による授業。音風景をホワイトボードに書かせて、生徒同士で見せ合うというもの。この授業実践も実際にやられているものだそうだ。午後の授業はもっと風刺的で黒く歪んだ内容にエスカレートしていく方が良かったと思う。実際の授業実践の一部を演劇的にデフォルメして手際よく提示し、生徒役の観客に体験してもらうだけではつまらない。
今回は新型コロナにまつわるテーマだったが、内容や提示の仕方がいちいち啓蒙的なのがちょっと鼻についた。
 
東京デスロックの後はバスで江原まで移動して、青年団の新たな本拠地、江原湖畔劇場で『ヤルタ会談』を見た。この演目はこれまで何度か見ている。同じく肥満俳優キャストによる同じ演出。と言っても忘れていたやりとりは多かったが。安定したクオリティ。昼間に歩いたせいか、見ていて眠くなってしまった。
周りが暗くて江原湖畔劇場の様子はよくわからなかった。駅からは歩いて3分ほどの場所だが、本当に何もない田舎町のようだ。

豊岡演劇祭2020 9/11(金)

9/11-13の金土日の二泊三日で、豊岡演劇祭に行ってきた。
コロナ禍のため、海外からの招聘が不可能になり、、国内団体のみの演劇祭となった。予定していたより大幅な規模縮小になってしまったわけだが、それでもギリギリのところで開催できてよかった。

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いやよかったのかどうかはまだわからない。豊岡は兵庫県北部の但馬地方は人口過疎の田舎だ。演劇でこの過疎の地域を活性化させようという平田オリザへの期待は大変大きなものなのだけど、しかしそのために新型コロナウイルスが持ち込まれ、この地域  が 広まったりすると、もとより田舎の閉鎖的な土地なのだから、演劇への風当たりは一気に強くなり、演劇で町おこしどころではなくなるだろう。
 
7月に新宿の小劇場でクラスタが発生したこともあり、東京の劇場でも感染 »対策は緊張感をもって行われているが、豊岡演劇祭スタッフの緊張感、プレッシャーはそれ以上に違いない。もし感染クラスタが演劇祭で発生してしまったら、地域の信頼感を回復させるのは並大抵のことではないはずだ。
 
演劇という文化がほぼ存在しなかった但馬の地に演劇を根付かせようとする平田のチャレンジは驚嘆ものだが、このコロナ禍の不安の中で演劇祭を実施する決断をしたという賭けもすごい。東京では7月以降、連日百人以上の新型コロナ陽性が出ているので、場合によっては私は豊岡に行くことはできないかなと思っていたのだけど、8月20日なってようやく兵庫県外の居住者に対するチケット販売が始まった。
 
東京から豊岡に行くのはけっこう大変だ。私の父の郷里が但馬の山村だったので、私にはなじみのある地域なのだけど、鉄道でこのあたりに行くのは本当に久々だ。父の郷里の最寄り駅は豊岡の二つ前の八鹿駅(そこからさらにバスで50分の山奥)で、私は豊岡駅で降りたことはなかった。城崎温泉には数年前に一泊している。
東京からだと新幹線で京都まで行って、そこから山陰線に乗り換えてというルートが一番合理的みたいなのだが、京都から特急で福知山まで行って、そこでローカル線に乗り換えなくてはならない。京都から乗る特急の名前は「きのさき」なのだけど、城崎温泉まで行かず、その80分ぐらい手前にある福知山駅が終点なのだ。一日に一本だけ京都から豊岡まで乗り換えずに行くことができる特急が走っているらしいのだけど。東京-京都間が2時間15分ぐらいだが、京都から豊岡までが待ち時間を入れると3時間以上かかる。

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私の家の最寄り駅である有楽町線副都心線地下鉄赤塚からは7時間近くかかった。朝10時半ごろに家を出て、豊岡についたのが午後5時半。移動しているだけなのだけど、やっぱり疲れる。
 
豊岡駅は私にとってははじめての駅だ。カバン製造業が盛んで、但馬地方の中心都市なのだけど、まあ田舎のがらんとした町だ。駅そばにはショッピングセンターがあり、ホテルが数軒ある。ホテルは駅のすぐそばにあるOホテル豊岡で、一泊朝食付きで5000円ぐらい。城崎温泉の宿と風情があってよさそうなんだけど、一人で泊まるような感じの宿はほとんどないだろうし、値段も高い。
 
一人で地方旅行だと夕飯もわびしくなる。お酒が飲めれば居酒屋みたいなところに入って、土地のおいしそうなものを食べてという楽しみ方もあると思うのだが。こういうときは下戸って不便だなと思う。ホテルにあった「お食事処リスト」も居酒屋や割烹が多い。一件だけ「食堂」というのがあった。
 
ホテルにチェックインして荷物を部屋においたあと、ホテルのリストにあった駅近くの食堂に入る。昭和的な定食屋さんだ。腰のまがったおじいさんとおばあさんが給仕をしていた。お客さんはおっさんが一人とおじいさんが一人。いずれも一人飯で、テレビをみながら黙々と食べている。メニューは定番的定食もの、麺類、洋食、丼など多数。焼き肉定食を食べた。わびしい夕食だった。まあ、飯を食べに来たわけじゃなくて、芝居を見にきたのだから、これでいいのだ。
 
今日見る演目は、ホテルから歩いて10分ほどの場所で21時からやっている大道芸、知念大地の『続・ひしと』というフリンジ演目だ。
 
会場の豊岡稽古堂までは歩いて10分ほどだが、その道筋は暗くて人通りがなかった。よくこんなところで演劇祭をやろうと思うよなあと思いながら歩く。豊岡稽古堂は豊岡市役所に隣接した建物のようだ。開演15分ほどまえに到着したが、スタッフはいたけれど、観客は私以外に2、3名しかいない。コロナのせいで、無料の大道芸にもかかわらず事前予約が必要だったのだが、その告知がしっかりされていなかったためか、全然定員が埋まっていないという訴えを数日前にパフォーマーがしていた。
会場までの道なりがあまりにも暗くて人通りがなかったので、観客は果たしてどれくらい集まるのだろうか、と思っていたのだけど、最終的には30名くらいの観客が集まった。

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大道芸を見るのは久しぶりだ。知念大地というパフォーマーは私は今回が初めて見る。細身の中性的なパフォーマーで、手品、ジャグリング、パントマイム、ダンスを見せる。落語っぽい語り芸もいれていた。バラエティに富んだ芸を緩やかな構成で次々と見せるけれど、本領はダンスのようだ。
身体の柔らかさと運動能力の高さを生かしたパフォーマンスだった。本人が一番見せたいのはパントマイム的な動きを取り入れたダンスなのだろうけれど、私が一番印象的だったのは小さな折りたたみ式のパイプ椅子をくぐり抜ける軟体芸だ。ルーズで即興的な雰囲気のなかでやるのを持ち味としているのだろう。30分の演目のプログラムはきっちり組み立てられた感じはしない。
 
ちょっと前衛的でひとりよがりな感じがあった最後のナンバーは、夜の会館ホールという空間の雰囲気とマッチしていたけれど、昼間の陽光のなかでは人をひきつけるパフォーマンスにならなかったかもしれない。世捨て人というか、やさぐれた感じのスタイルには引きつけられるところはあった。

前進座リーディング公演『ああ、母さん。あなたに申しましょう』@江戸東京博物館大ホール

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前進座リーディング公演『ああ、母さん。あなたに申しましょう』@江戸東京博物館 大ホール

5人の俳優による朗読劇。舞台のひな壇に二人の俳優、床面に三人の俳優が並んで、観客の方を向いて朗読する。
都下で新型コロナウイルス感染者数が300人近くなる日が続いた上、さらに新宿の劇場で集団感染が起こってしまったために、舞台芸術公演に極めて厳しい視線が向けられるなかでの上演である。入場時には観客一人一人が発熱チェックと手の消毒を行い、会場客席は間隔が設けられ、観客はマスクを装着しての観劇となる。観客を迎えるスタッフはマスクと透明シールドを装着し、手袋をはめている。
この状況下の公演は当然赤字にしかならないだろう。しかしそれでも公演を行う、公演を見て欲しいという役者とスタッフの心意気が伝わってきて、こちらの背筋も伸びる。
『ああ、母さん。あなたに申しましょう』は通常の前進座公演ではかかる機会がなさそうな現代の日本を舞台とした喜劇だった。妊娠がわかり、赤ちゃんが生まれるまでの若い夫婦の葛藤と成長を、モーツァルトの『キラキラ星変奏曲』に乗せて、軽やかにコミカルに描き出す。夫婦の妻のほうはキャリアウーマンで、いささか軽薄で見栄っ張りなところがある今時の女性である。夫は無名の前衛芸術家。温厚な性格で妻を大事にしているけれど、稼ぎはない。若い夫婦のやりとりは、子供がいる夫婦が見ればまさに「あるある」と膝うちするようなシーンがいくつもあるだろう。私も自分たちの子供がうまれるときのことを反芻しながら舞台の展開を見守った。子供から見れば親は親らしいのがあたりまえのだけれど、親は最初から親らしいわけではない。あらゆる親は子育ての初心者だ。とりわけ最初の子供が生まれるときはそうだ。親は子供を持つという経験を通し、子供とともに親らしくなっていく。子供を持つということがどういうことなのか想像できなくて、喜びつつも戸惑い、不安だったあの頃の自分の姿を、舞台上の夫婦に重ねずにはいられない。
極めてシンプルな物語であり、ありきたりの題材なのだけれど、こうしたありきたりのエピソードを観客に共感させるのは簡単なことではない。劇のタイトルの『ああ、母さん。あなたに申しましょう』は、モーツァルトピアノ曲、《キラキラ星変奏曲》のオリジナルタイトルなのだが、この軽やかな曲がこの劇のテーマソングとして、何回も流れる。様々な変奏がそれぞれのシーンの雰囲気に合わせて流れる仕掛けが効果的だった。そしてこれぞプロの読み方とうなってしまう俳優の朗読技術の高さ、細かな工夫にも引き込まれる。昨年の前進座公演でいわさきちひろを演じた有田佳代さんが、今時の女性を上手に表現していた。この若い妻は、悪い人ではないけれど、ちょっとわがままで、浅はかなところもある。そして感情の起伏も激しい。でもその振る舞いや率直さがとても可愛らしい。彼女の感情の変化がアクセントとなって、音楽とともに、劇の動きにリズムを作りだしていた。
ありふれた出産ストーリーに奥行きを与えていたのは、胎内にいる男女の双子の赤ん坊を輪廻転生の「生まれ変わり」とし、この赤ん坊が自分たちの親の狼狽ぶりを批評しながら、彼らが生きた前の人生について語るという複線構造だ。モーツァルトの《キラキラ星変奏曲》の原題《ああ、母さん。あなたに申しましょう》はこの胎内の双子の存在とつながる。ちなみに先ほどgoogleで検索して、《ああ、母さん。あなたに申しましょう》という曲のタイトルは、« Ah ! vous dirais-je, Maman »というフランス語で、オリジナルの旋律は18世紀に流行ったフランス民謡であることを知った。この赤ん坊を柳生啓介と浜名美貴というベテラン俳優が演じるというパラドクサルな配役の仕掛けも面白い。
最後は出産場面で終わるのだけど、子供のいる人の多くは、自分の子供の誕生のとき、子供が小さかった頃を思い出して、思わず泣いてしまうのではないだろうか。私は泣いた。すごく通俗的なドラマなんだけれども。
終演後、河原崎國太郎と、前進座の次回作『残り者』のキャスト6人による挨拶があった。『残り者』は江戸幕府の崩壊にともない大奥を追い出される女たちの話とのこと。
前進座に限らず、どの演劇人も厳しい状況になる。そして苦しいのは演劇人だけではない。

しかし前進座の座員たちが見せた悲壮だが、毅然とした覚悟の美しさには心打たれた。そう、前進座が苦しいのは新型コロナウイルス感染拡大のだいぶ前からずっと続いているのだ。その状況下でも退廃と無気力に陥ることなく、見ていて背筋の伸びるような全力の芝居を作っていく前進座を、私はこれからも応援していきたい。

 

平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」

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平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」
7/12(日)10:00-12:00集合、14:00開演
浦和・与野・さいたま新都心各駅を出発
川口市「上谷沼運動広場オーバーフロー」にて上演
完全投げ銭制・雨天決行

出演:セクシーなかむら、栗栖のあ、アンジー青野大輔、ふみ、西岡サヤ
統括・救護:高野竜
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#行軍演劇である。noteに掲載された告知文では、初級・中級・上級コースが設定されていた(初級はのちに中止になったが)。平原演劇祭リポーターの私としては当然「上級コース」を選ぶしかないが、「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」と書いてあるのがちょっと気にかかった。運動不足の肥満中年の私にとって、果たして体力的に大丈夫だろうかと不安になったのだ。平原演劇祭はときにかなり過酷な観劇を強いられる。それでもやはり私としては「上級」の一択しかない。

上級コースは午前10時にさいたま新都心駅東口バス停に集合になっていた。10時ちょうどにバス停に行くと、顔見知りのシアタゴアーのNさんが一人で心細げに立っていた。

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「えーっと、平原はじめてなんですが、ここでいいんですよね?」

「はい、そのはずなんですが」

行軍のガイド役の青野大輔は5分遅れで到着した。福岡県在住で大学生兼俳優とのこと。

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ガイド役の青野大輔氏。

行軍の出発地点は、さいたま新都心駅からバスで20分ほどのところだという。午後から雨模様という天気予報だったが、かなり気温が高くてじめじめしている。脱水症状、熱中症の予防のため、出発前にコンビニで飲み物と塩分補給できるお菓子類を購入した。上級コース参加者は、私とNさん、そして俳優をやっているという三十代の青年の三人だけだった。このところゲリラ的なやり方でユニークな野外劇をやるということで平原演劇祭の認知度が上がっていて、数十名の観客が集まることが多くなっているのだが、上級コースは「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」というのに躊躇した人が多かったのだろうか。

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さいたま新都心駅から南南東に20分ほどのところにある「教育センター前」というバス停で降りた。がらーんとした散文的というか何の情緒も感じられない道ばたのバス停だ。近くに大型薬局があり、ガイド役の青野氏はそこで飲料や飴などを購入していた。今回の行軍演劇では、この付近を流れる川筋に沿って3時間ほど歩くことが予告されていた。川筋の半分ぐらいは、川の上に「ふた」がおかれて見えなくなっている暗渠になっている。現在では「ふた」がおかれ、道に覆われて見えなくなっている暗渠をたどりながら、川にまつわるその土地の物語を語るというのは、高野竜さんの劇作のテーマの一つで、今回の行軍の終着地で上演される『一輪の書』はこのテーマに基づく作品の一つだ。『一輪の書』は以前、平原演劇祭で上演されたのを私は見たことがあるはずだ。そして高野さんのいくつかの作品を通じて、埼玉・東京の川と沼についてのうんちくを私は聞いている。

散文的で殺風景な田舎町の風景のなかに、その土地の歴史や地理を取材することで叙事詩的な物語をつむぐ高野竜さんの手法やそこで演劇的に提示される物語自体には感心するけれど、もともとそうした地誌に深い関心を持っているわけでない私は、実のところ作品や高野さんが語る内容についてはあんまり理解できていない。そして語られた内容のディテイルも忘れてしまっている。

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今回の行軍演劇の出発点は、この付近を流れる川の一つ、藤右衛門川の水源とされる場所だ。水源というと高い山の奥深くにひっそりとあるというイメージだが、藤右衛門川の水源は住宅地の真ん中に割り込むようにある。幅30センチほどのコンクリートの用水路になっていた。この小さな流れは、いくつかの付近の支流と合流し、まもなくはば三メートルほどのかなりの水量の流れとなるが、現在はその多くは暗渠となっていた。

藤右衛門川の名の由来となった藤右衛門は江戸時代の武士でこのあたりの治水事業を行った人のようだ。もともとは浦和から川口にいたるこの地域はいくつもの川が流れる広大な湿地帯だったという。

「暗渠の両側に家が並んでますけれど、暗渠の側には玄関がなくてみな裏口になってます。今、私たちは川のうえにふたをした「道」を歩いているわけですが、もともとここが「道」ではなかったことの名残です」

「もとの川沿いには、クリーニング屋さんとか市民プールとか、水を大量に必要としていたお店や施設がけっこうあるんですよ」

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[何の変哲もない住宅街の路地だが、この赤いコンクリート板の下に藤右衛門川が流れている]

歩きながらガイドの青野氏が適宜このような説明してくれる。高野さんに前に聞いたような話だなあと思ったのだが、青野氏に聞けば事前に二回にわたって全行程を高野さんと歩き、徹底期にレクチャーを受けたのを暗記したとのこと。青野氏は福岡のひとで、このへんの地理にはもともと詳しいわけがない。もっとも地元のひとでもこうした川や治水の歴史について知っている人はそんなにいないと思う。

青野氏は俳優でもあるが、このガイド自体が演劇作品なのだ。この行軍演劇の最後に置かれた『一輪の書』という戯曲の上演は一時間ほどだが、その前の行軍が三時間。行軍は今回の公演の本体であり、前説ではない。

 

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この水源付近は、道祖土という変わった地名だ。これで「さいど」と読む。この近くにある道祖土小学校は、学校の敷地内を暗渠となった川が分断していることで、暗渠マニアのあいだではよく知られているという。

goo.gl

 

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道祖土小学校の敷地を分ける暗渠。

道祖土小学校を過ぎると藤右衛門川はしばらくのあいだ開渠となる。しかしこうした解説がなければ、特に気にとめることのない町中のドブ川でしかない。

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川にそって、川と民家のあいだの狭い通路を歩いて行く。

上級コースは「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」とあったが、実際には山の中のジャングルのような険しい場所を歩くことはなかった。「道」とは言えないような民家と川の間の私有地か公有地かわからない狭い通路を歩いたりすることはあったが。ただこの日は、午後から雨の予報が外れて、とにかく暑かった。炎天下を三時間歩き続けるのはかなり過酷だった。行軍中に体調不良になった際の対処のしかたも考えられてはいたが、実際、熱中症が心配になったので、水分・塩分補給はこまめに行った。また普段の運動不足があって、三時間歩き続けるというのもきつかった。疲労で次第に口数が少なくなっていく。

道祖土小学校から、巨大な駒場浦和スタジアムを経て、浦和競馬場へと歩く。そしてこの行軍演劇の目的地が、川口市「上谷沼運動広場オーバーフロー」。この付近にあるいくつかの広大な敷地の施設・緑地は、藤右衛門川の流れの沿ってある。今では住宅地のなかにどかんと唐突にあるように思えるこれらの施設だが、かつてはこのあたりが広大な湿地帯だった名残なのだ。

歩いている最中は暑さと疲労でこうしたことを明瞭にイメージできなかったのだが、今、google mapを開いて歩いてきた行程を振り返ると、行軍演劇「一輪の書」公演でなにが「上演されていた」のか、その意味があらためて明らかになった。

駒場浦和スタジアムから、藤右衛門川はしばらく暗渠になる。ガイド役の青野氏の説明があったからこそ気がついたのだけれど、今は道路になっている暗渠の川筋の両脇が勾配のある「崖」になっている。このあたりはいくつもの小川がかつては流れていたのだが、川のあったところは(実はいまでも《暗渠》として流れているのだが)谷間になっていて、その両岸の部分はゆるやかな丘を形成しているのだ。現在の町並みは、かつてのその地形をそのまま利用したものがわかる。

こうして説明されれば「なるほど」と思うのだが、説明がなければあたりの風景は殺風景で平凡で面白みのない住宅地だ。かつての藤右衛門川はこのあたりでは幅6-7メートルの道路になっている。

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藤右衛門川の暗渠については、暗渠ハンターの方のブログ記事に詳しい。私たちは昨日、ここに書かれている道筋をほぼそのままたどったことになる。

https://mizbering.jp/archives/18767

まっすぐ南に延びる藤右衛門川の下は暗渠になっていて川が流れているのだけど、地上からは川の気配は感じられない。藤右衛門川通りは住宅街にあるごくありふれた道路だ。この通りを一キロほど歩いて行くと、突然といった感じで通りは行き止まりになる。行き止まりにはフェンスがあってその先が見えない。このフェンスの向こう側にあるのは浦和競馬場だった。一戸建て住宅が並ぶ街のなかにいきなり広大な競馬場があるのだ。

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浦和競馬場 https://g.page/urawakeiba?share

この競馬場は市民公園にもなっていて、競馬が行われていない日には自由に出入りできるようになっている。駒場浦和スタジアムから約2キロにわたって暗渠となっていた藤右衛門川(谷田川とも呼ばれているらしい)は、浦和競馬場で地上に姿を現し、競馬場をたてに二分する。競馬場の中央には池があった。かつてはここは沼地だったのだろう。

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浦和競馬場内にて。

与野駅をわれわれより90分遅い11時半に出発した中級コースの人たちとこの競馬場で落ち合うことになっていた。中級コースの参加者は10名以上いるとのこと。しかし彼らはなかなかやってこない。予定では13時過ぎに落ち合うはずだったのだが、中級コースの面々が到着したのは13時40分を過ぎていた。彼らを待っているあいだ、真昼の太陽が照りつける灼熱の競馬場で、富士右衛門通りの入り口にあったコンビニで購入した昼食を食べた。

中級コースの歩行距離は実際には上級コースのわれわれとさほど変わらなかったようだ。暑い中を歩いてきた中級コースの面々はバテバテの様子だった。中級コースのガイドは二人いた。一人はこのくそ暑い中、スナフキンの格好をした若い男性。もうひとりはふわふわ、よろよろ歩いてる若い女性。彼女は休憩中におもむろにミヒャエル・エンドの『モモ』の一節を朗読しはじめたのだけれど、それを気にかける人は誰もいない。

私も競馬場内で昼飯休憩を取ったものの、あまりの暑さと行軍の疲労でヘロヘロになっていて、「あ、朗読してるな」とは思ったものの、なんとなく、その朗読少女を見て見ぬ振りしていた。

浦和競馬場から最終目的地、「一輪の書」の上演会場である川口市上谷沼運動広場までは30分ほどの距離だからがんばりましょう、とガイド役の人が言う。しかし実際には参加者の疲労のためか、たらたらとした歩みになり、神谷沼運動広場の上演会場までは一時間ぐらいかかった。

競馬場から運動広場までは藤右衛門川は開渠となっているが、水は汚い。幅の広いドブ川という感じだ。巨大な鯉が何匹も泳いでいた。かつて鯉ブームがあって、そのときに放流した鯉の子孫らしい。

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上谷運動広場に着いてから、公演会場までも長く感じた。この川沿いの運動広場は、広大な遊水地として整備されたものだ、という話を聞く。川の水が増水しあふれそうになると、堰を開いてこの遊水地に水を逃がすという。しかしこれまでこの広大な遊水地が水で満ちることはなかったとのこと。

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公演会場は運動広場の先端まで歩き、そこから後戻りした場所にあった。到着時には参加者のほとんどは暑さと行軍疲労でよたよたしていたと思う。私もへたりこんだのだが、暑さをしのげる場所がない。たまに風が吹いて、若干生き返った気がする。

『一輪の書』の上演の準備ができるまで20分ほど休憩となった。

「さあ、はじまります」との声に、20人ほどの観客はぞろぞろと草生い茂る神谷沼運動広場の中央部へと降りていった。増水時にはここに水が放出され、池となる場所だ。『一輪の書』はここまでの行軍のなかで説明されてきた富士右衛門川とこのあたりの地誌が、演劇的対話によって提示される地理演劇だ。

暑さで私を含め観客はみなかなりへばっていた様子だったが、オープニングはのあ、アンジー、そして山口からやってきた女装俳優セクシーなかむらのトリオでの歌、《暗渠椿は恋の花》で無理矢理テンションを上げさせられた。

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この歌とダンスのあと、チンピラのけんかやらなんやら、『一輪の書』の本筋とは関係なさそうなドタバタコントがあって、 観客は強引にそのファンタジーに引き込まれてしまう。俳優がどんどん動くので、それを追いかけて、観客もぞろぞろと草のなかを分け入っていく。埼玉県南部の治水を語る社会科演劇、『一輪の書』は側溝のそばの大きな木の下で上演された。

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岡本かの子にちょっと似ているアンジー岡本かの子役を演じた。なんでいきなり岡本かの子と思って見ていたのだけれど、家に帰ってググってみると岡本かの子は「河明り」という短編小説で日本橋川という川について書いていて、高野竜はそこからこの劇作品の着想を得たという。岡本かの子にはここ2年ほど興味を持って読んでいるのだけれど、この小説の存在は私は知らなかった。

『一輪の書』を見るのは今回が二回目だ。今回は芝居の前に三時間の行軍での予習があったので、藤右衛門川についてのやりとりで「おお、なるほど」と理解できる部分が多かった。前に見たときは、一見なんの変哲もない土地の歴史を掘り下げて変わった芝居を書くなあ、高野さんは、とは思っていたけれど、そこで語られている内容はほとんど理解できなかった。

高野竜の戯曲は綿密な取材・調査をもとに、いろいろな情報がしっかりと書き込まれていて読み応えがあるのだけれど、実際の芝居の上演ではその内容を届けることに自体には高野さんはあんまり関心がないみたいだ。ただ戯曲がしかるべき場所で、戯曲を実体化する俳優を通して上演されることで、観客は異世界に誘なわれる。散文的な風景にさまざまな意味が付与され、違った光景を作り出される。そういう体験ができるのが平原演劇祭の醍醐味だと私は思っている。芝居の上演の現場で俳優が言ってることはわからないけれど(俳優も理解して言っているのかどうかあやしい)、とにかく楽しい。

今回は行軍演劇のレクチャー(青野さんがとにかくきっちり説明してくれ、そのミッションを果たしていた)のおかげで、「一輪の書」もより深く楽しめるようになっていた。

若い女性ふたり「のあ+アンジー」のユニット、のあんじーの存在感、個性はやはり強烈だ。こんな非現実な状況で、可愛らしいドレスを着て、日常的にはありえない川についての衒学的なやりとりをしているのだけれど、それがしっかりさまになってしまう。どんなちぐはぐなものでも無理矢理飼い慣らしてしまう強引さ、エネルギーがこの二人の魅力だ。

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今回は高野竜さんは芝居の演出には関わっていないという。高野さんの戯曲と演出はいつもどうかしているのだけれど、のあんじーは高野さんのヘンテコな戯曲さに負けない強靱さを持っている。山口県からやってきたセクシーなかむらをドブ川から登場させるし、高野さんにバケツで水をぶっかけて無理矢理洗礼を行い(のあは敬虔なキリスト教徒)、その場で台詞を渡して即興芝居させるし。高野戯曲を乗り越えようとする自由な逸脱ぶりが愉快だ。

エンディングはバケツを打楽器代わりにして、歌を歌いながらぐるぐるとまわるというもの。


平原演劇祭2020第4部「一輪の書」のあんじー


この公園での演劇公演はゲリラ的なものということで、短い役者紹介のあと、現地解散となった。

観客はそこから最寄り駅まで歩いて帰ることになった。一番近い南浦和駅までは徒歩20分ほど。Googleマップを頼りにたどり着いたが、観劇終了直後に立ち通しの疲労もどっとやってきて、この20分が長く感じた。

帰宅後、風呂に入ると日に焼けた肘がヒリヒリ痛んだ。

 

平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」については、さまざまなディテイルに言及したyoutube「コン劇」のレポートが秀逸だ。このレポートは、私とともに上級コースに参加した3人の一人によるもの。かないさんという俳優のかただ。30代の青年と冒頭で書いたが、42歳だった。一緒にまわっているときから、写真を撮るポイントや質問が「素人」離れしてるなとは思っていたが。こんなスタイルのレポートのしかたがあったとは。非常に面白いし、貴重な記録だ。かないさんのレポート自体もまた「演劇」として成立しているように思う。


リンクを以下に。


【平原演劇祭】#行軍演劇 見てきたよ!!!【コン劇配信】


【告知】7/12 #行軍演劇「一輪の書」https://note.com/heigenfes/n/n6f514ae9d069