2022/07/29 劇団サム第7回公演@練馬区立生涯学習センター
- 『真夏の夜の夢』(練馬区立石神井東中学校演劇部)
- 原作:シェイクスピア
- 潤色:小林円佳
- 出演:石神井東中学校演劇部
- 『ひがいしゃのかい』(劇団サム)
- 作:北村美玖
- 演出:田代卓
- 出演:坂本美優、高橋らな、内野そら
- 『ハムレット』(劇団サム)
- 作:小沼朝生
- 演出:田代卓
- 出演:関口政紀、戸田拓人、尾又光俊
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石神井東中学校演劇部の元顧問、田代卓が主宰し、同演劇部OBOGからなる劇団サムの第7回公演。年に一回の割合で公演を行っているが、新型コロナにはこの劇団も翻弄され、昨年の第6回公演は、例年夏に行っていた定期公演を冬にずらして臨んだものの、公演直前に緊急事態宣言が発令され上演中止となる憂き目を見た。この中止になった公演の代替的公演として、昨年は4月に少人数での特別公演を行っている。第7回公演は三年ぶりとなる夏公演で、清水邦夫の名作『楽屋』に劇団サムの若い俳優たちが挑戦するということで楽しみにしていたのだけれど、『楽屋』のキャスト・スタッフに新型コロナ陽性・濃厚接触者が出てしまい、公演日直前に公演中止になってしまった。出演者、スタッフはさぞ無念だったに違いない。
今回の公演の目玉となるはずだった『楽屋』の公演は中止になってしまったが、別のキャストによる『ひがいしゃのかい』、『ハムレット』は上演されることになり、この二本に加え、私が見た7/29(金)には現役の石神井東中学校演劇部員による『真夏の夜の夢』の上演が行われた。
石神井中演劇部の『真夏の夜の夢』の上演時間は40分ほどだった。中学生によるシェイクスピア作品の上演を見るのは私はこれが初めてだったが、これが実に可愛らしく、芝居としてもとても楽しんで見ることができた。
オベロンとティタニアの妖精の世界を中心にコンパクトにまとまった翻案になっていた。原作にあるテーセウスとヒポリュテというアテネの王と王妃の役柄は、妖精の王と王妃であるオベロンとティタニアに吸収されている。素人芝居の稽古をしに森にやってくるアテネの職人たちの数は二人にだけになっている。原作では端役の扱いの森の妖精たちとインドの美少年の存在感がこの翻案では強調されている。原作では妖精の女王のティタニアには数名の妖精が侍女のようにつくが、この翻案ではオベロン付の妖精がパック以外に数名いて、オベロンと会話する。台詞は現代口語、今時の若者たちのことばになっていて、妖精たちはコロス的に、現代的感覚からみると奇妙な劇中人物たちの言動に、つっこみを入れる。
中学生の芝居なので個々の演技が格別にうまいというわけではないのだけれど、オベロンとティタニアには王と王妃の風格は感じられたし、チュチュを着た妖精たちは可愛らしいし、レースがたくさんついたふわふわのロングドレスを着るハーミアとセンスのいい普段着のヘレナは彼女たちの性格の対比を視覚的に示していた。台詞がなく、無言の笑顔で妖精たちに転がされて動くようなインドの美少年の出で立ちもいい。要は演じるのは中学生なのだけれど、それぞれの役柄がみな妙にはまっているのだ。
アテネ近郊の森のなかで劇は展開するが、舞台美術は天井から床まで幅30センチほどの緑の紙の帯が舞台後ろに垂れ下がり、そこに紙細工で花や葉などが貼り付けられている手作りの素朴なものだった。ある種の学芸会的な手作り感と安っぽさがむしろ味になって、『真夏の夜の夢』の夢幻的な世界の雰囲気が強く感じられるようになっていた
童話劇的なファンタジーが濃厚な楽しい舞台だった。演じている役者たちが、自分の役柄を楽しんで演じている様子が感じられ、それを見るこちらの心も浮き立つ。マスク装着演技だったが、台詞は明瞭で、マスクの存在は気にならなかった。
劇の展開の軸となるパックを演じた俳優がよかった。軽やかでひょうひょうとした明るいパックで、このいたずら者のパックが古代ギリシャ・ローマの愛の神エロス/クピードーに近い存在であることに、石神井東版の『真夏の夜の夢』を見て気づいた。「妖精の姿が人間に見え、妖精と話すことができる夏至の夜」(この設定は原作では提示されていないが、おそらくこういうフォークロアはあるのだろう)に、妖精たちの住処である森で展開するドタバタの夢幻劇、この夢幻からの覚醒を示すパックから観客に向けられた最後の口上は、私は『真夏の夜の夢』で最も好きな台詞なのだが、この口上もカーテンコールのなかで効果的に観客に伝えられた。中学生の俳優たちによる奇妙で、可愛らしい40分の夢幻劇の世界を楽しむことができた。
15分ほどの休憩をはさんで、劇団サムの公演が行われた。最初に上演されたのは北村美玖作『ひがいしゃのかい』。この作品は登場人物が男性三人で、15分ほどの長さの小芝居、コントだった。セットはパイプ椅子が三脚と白板が一つ。男性差別による被害を訴える集会という設定。しかしその集会には二人しか人がいない。この二人が自分たちが被った男性差別を語っているところに、三人目の男がやってくる。先にいた二人の男のミソジニー(女性嫌悪)の問題点を三人目の男性は冷静に指摘する。しかしこの三人目の男性はエキセントリックな性差否定論者が次第明らかになり、全裸主義という極端な主張をはじめる。一番まともそうだった三人目が実は一番どうかしていたという落ち。直前に見た中学生の芝居と比べると、劇団サムの団員の芝居はシャープでピントがしっかりあっている感じがする。スピード感と間の取り方が要となる芝居だが、15分間、勢いを保った小気味よい芝居だった。重めの芝居の幕間劇としてこういう芝居を置くのは効果的だ。
最後の作品は『ハムレット』は40分ほどの長さの作品だった。最初に幕前でパネルを使ってシェイクスピア『ハムレット』の概要が観客に説明される。その後、幕が開くと女優三名の芝居になる。ハムレットの父の亡霊の場面を最初、かなり長い時間きっちりと三名の女優が演じるので、題名通り『ハムレット』の縮約版をやるのかなと思っていたらそうではなかった。『ハムレット』は劇中劇で、『ハムレット』のいくつかの場面と『ハムレット』の稽古をする三人の高校演劇部員の様子が交互に提示される。三人の演劇部員は『ハムレット』の稽古のなかで、『ハムレット』の登場人物の奇矯な振る舞いを批評しつつ、自分が演劇のなかだけでなく、日常においても何かを演じていることについての違和感について話しはじめる。日々の生活のなかで自分たちが抱えている葛藤と『ハムレット』の登場人物たちの葛藤が次第にシンクロしていく。当日パンフレットの記述によると、もともとは中学演劇で上演された作品だったそうだ。脚本としては、三人の学生のうち一人が進行性の重い病気にかかっていたという仕掛けが常套的で安易に私には思われ、私はいまひとつ入り込めなかった。学生演劇部員たちの会話の内容も人工的に思え、彼女たちと同世代の若者たちの声を代弁する台詞として捉えることはできなかった。ただ自意識過剰になりがちな若者たちは、「本当の」自分を率直さらして傷つくことを恐れているのか、自分と同世代のそういった若者たちの型を演じているように見えるように感じることがかなりあって、そういった意味ではこの『ハムレット』は若い世代の人たちの心に響くところがあるのかもしれない。
メイン演目の『楽屋』の上演がなくなったのは残念だった。私は劇団サムの立ち上げ時の七年前からこの劇団の公演を見ている。『楽屋』に出演する4人の女優のうちの何人かは、これまでの彼女たちが出演した舞台の記憶が残っている。十代後半から二十代前半は人生の激動期であり、外見のうえでも、内面的にも、大きな変化のある時期だ。劇団サムは出自が中学演劇部ということもあり、これまでの公演はどちらかというと学校演劇の雰囲気が強い作品の上演が多かった。主宰の田代卓は中学演劇部の顧問であるし、退職した今も、団員たちにとっては常に先生だ。劇団サムは中学演劇のエートスを引き継ぎつつ、思春期後期から大人になりつつある若者たちが、ここに居場所を見いだし、演劇活動を続けているところに特徴がある。『楽屋』は実は高校演劇でもしばしば上演される作品みたいだが、劇団サムの活動の中で少女から大人になった女優たちがこの作品にどう向き合って、どのように表現するのかは、7年間、この劇団を見てきた私にはとても興味深い挑戦に思えたのだ。また近いうちに劇団サムによる『楽屋』を見る機会がありますように。
2022/07/17 平原演劇祭2022第13部「#カレー市民」
平原演劇祭2022第13部「#カレー市民」
- 日時:2022/7/17(日)14:00
- 場所:目黒区烏森住区センター調理室(中目黒駅徒歩15分)
- 料金:1000円+投げ銭(食事付き)
- 演目:「下司味礼讃」(原作:古川緑波)、「カレー市民」(原作:牛次郎)
- 出演:池田淑乃、夏水、片山幹生、高野竜
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続きを読む2022/06/19 平原演劇祭2022第10部「#貧学生5」
平原演劇祭2022第10部「#貧学生5」
- 6/19(日)13:30-16:00
- 大田区池上梅園茶室清月庵(都営地下鉄西馬込駅東口徒歩10分)
- 1100円+投げ銭
- 演目:田宮虎彦「菊坂」「落人」、高野「現実十夜」
- 出演:最中、高野竜
平原演劇祭の田宮虎彦朗読シリーズ。このシリーズは平原演劇祭のなかでも客の入りが悪い。田宮虎彦が現在ではもう忘れられた作家であるし、しかもその作風は地味で暗い。さらに朗読というささやかな上演形態ゆえどうしようもないのか。
観客の側としてはこじんまりした人数で朗読に耳を傾けるというのは、なかなかしみじみとしていてよいものではある。twitter上の発言では、観客数をけっこう気にしている感じもある平原演劇祭主宰、高野竜だが、田宮虎彦シリーズに関しては、とにかく一人でも観客があればそれでよし、といった感じで、観客数を増やしたいという意欲は感じられない。とにかく忘れられた作家、田宮虎彦の小説を朗読というかたちで現代に呼び戻すことに、大きな意義を感じているようだ。
今回の上演会場は、これまで平原演劇祭ではつかったことのない会場だった。私もはじめて足を運んだ場所だ。最寄り駅の西馬込駅もはじめて降りた駅だった。日蓮宗の大本山の池上本門寺に隣接する公園内にある茶室だ。茶室のある池上梅園は区立の庭園だが、築山がある美しい庭園だった。時間があれば散策したくなるような場所だったのだけれど、会場に到着したのは開園時間ギリギリだった。地下鉄の駅から、灼熱の夏の日差しのなかを早歩きで来たので汗もびっしょり。
観客は田宮虎彦朗読シリーズにしては多くて、5-6名いた。16時半までに茶室を退去しなくてはならないとかで、予定していた13時半に平原演劇祭2022第10部「#貧学生5」ははじまった。
公演会場は茶室なので冷房はなかった。しかし幸い茶室のなかはそれほど暑くはなく、汗はまもなく引いた。最初の演目は田宮虎彦の陰鬱な学生時代を描いた私小説「菊坂」の朗読から始まった。読み手は最中、赤い和服を着ていて妙になまめかしい。和室の空間と合っている。
「貧学生」とあるとおり、「菊坂」は絶望と孤独のなかで鬱屈した学生生活を送っていた田宮の暗い青春が淡々とした筆致で綴られている。皇太子誕生で日本が沸き立っていた日のこと、というと1933年のことだ。作者の分身である主人公は、母の死を告げる手紙を受け取る。この母の死を告げる手紙が、リフレインのように小説中で何回か反復される。どーんとした重い塊に徐々に押しつぶされるような主人公の生活と心理が淡々と綴られる。同じ下宿に住む他の若者たちに襲いかかる現実もまた暗い。将来への希望のかけらもない彼らの日常と皇太子誕生で浮かれる日本の狂騒ぶりが対比される。
朗読時間は90分くらいだったように思う。古ぼけた茶室で、妙に官能的なかっこうの最中がいろいろな姿勢で読んだ。朗読中、斜め上からの照明が彼女を照らしていた。その読み方は田宮虎彦の文体のように淡々としたものだった。
トイレ休憩のあとは高野竜による「落人」の朗読があった。こちらの朗読時間は40分ほどだったように思う。
「落人」は、フィクションの幕末歴史小説連作《黒菅藩》ものの一つだ。維新勢力に追い詰められた黒菅藩は降伏・和睦を模索するものの、家臣の山崎剛太郎の暴走によって絶滅に追いやられる。「落人」は、黒菅藩滅亡の原因となった山崎剛太郎のなりふりかまわない逃走の様子を描いた短編だった。
高野竜がこの数年、平原演劇祭で読み続けている田宮虎彦の小説は、大きく架空歴小説の《黒菅藩》ものと作者の暗い青春を描く私小説《貧学生》ものの二系統があるが、この二つの流れが統合されるのが、田宮虎彦の代表作とされる『足摺岬』だと言う。平原演劇祭の田宮シリーズはまだ続く。
「落人」読了後、退室時間まで余裕があったため、今度は高野竜の実録体験語り、「現実十夜 その7」が上演された。バックパッカーとして貧乏旅行をやっていた高野が、台湾から密航船で沖縄になんとかたどり着いたところで、どうにもお金がなくなってしまい、親に郵便局宛て送金を頼んだところ、郵便局員の間違いで20万円の大金が振り込まれたことになっていたという話だった。
《夢十夜》にちなんで、《現実十夜》となっているが、高野のこのシリーズはこの第七話で完結という。高野が実際に経験した奇妙な出来事が漫談風に語られるシリーズだ。いずれ全話を語る機会を設けたいとのこと。
私自身も自分の《夢十夜》ないし《現実十話》を考えてみたいなと思った。
終演は茶室の利用時間があるため、16時半前に。まだ日差しは強くて、暑かった。
22/05/15 第13回森本商店街一座公演@金沢おぐら座
2022/04/17 平原演劇祭2022第7部「鹿ヶ谷 c/w その野郎とタクシー姐ちゃん」@御嶽山駅近くの民家
2022/4/17(日)13:00-15:00
東急池上線御嶽山駅集合(会場は民家)
「鹿ヶ谷c/wその野郎とタクシー姐ちゃん」(田宮虎彦、ハン・ウォングク)
出演:夏水
昨年末の崖からの転落事故による脳挫傷というダメージにもかかわらず、平原演劇祭2022は第7部となった。昨年よりハイペースかもしれない。公演頻度が高くなったのは一昨年あたりから、一人ないし二、三人の小規模編成による田宮虎彦(1911-1988)の小説の朗読が入るようになったからだ。田宮虎彦は今ではもうほぼ忘れられた作家と言ってもいいだろう。平原演劇祭主宰の高野竜がこの作家に関心を持つようになったきっかけを私は知らない。私は平原演劇祭での田宮虎彦作品の朗読でこの作家を知った。田宮の作品は、私小説的なものと架空の藩である黒菅藩の滅亡を描く連作虚構歴史小説の二系統があるが、正直なところ「黒菅藩」ものは、地味で、陰鬱で、しかも私自身が歴史小説の題材として人気がある幕末の佐幕派ものに関心が薄いので、平原演劇祭で朗読される物語の内容そのものについては、面白いと思ったことはない。平原演劇祭の場合は、どちらかというと語られる内容よりも、それがどこでどのように上演されるかという状況のほうを楽しんでいることが多い。田宮虎彦の小説は平原演劇祭がらみで読むようにはなったが、私は黒菅藩ものよりも、現代もののほうが小説としてははるかに好きだ。歴史物も現代ものも淡々とした語り口で、題材を他人事として観察し、記録し、描写しているかのような乾いた雰囲気がある。
田宮虎彦に関心を持つ人が少ないからか、あるいは朗読というスタイルが地味だからか、平原演劇祭の企画のなかでも《田宮虎彦作品朗読》シリーズは観客動員数が少ない。私が参加したなかでも、私を含め観客が二人というのが何回かあった。今回は上演場所へのアクセスが容易であり、読み手が高野竜ではなく、平原演劇祭常連女優の夏水だったからか、私を含め5名の観客がいた。ちなみに観客はみな男性だった。そういえば平原演劇祭の常連観客はおっさんばかりのような気がする。
上演会場は東急池上線御嶽山駅から歩いて5分のところにあるごく普通の民家の二階だ。昨年末の転落事故以来、高野竜の健康状態はずっと思わしくない。転落事故以前から公演日当日は疲労困憊でヨレヨレであることが常態ではあったけれど、4/17はもう身体を支える体力自体がかなり衰えているのではないかという感じだった。twitterでの盛んにツィートしていて、平原演劇祭もハイペースで行っているので、事故の後遺症の重大さを、私は実際よりかなり低く見積もっていたのかもしれない。今年の平原演劇祭上演計画は昨年から予告されてはいたものの、高野竜としては、今の状態でできることをできるうちにやっておこうということなのだろう。
前回の公演は埼玉県の山中縦走という体力的にかなり過酷で長時間にわたるものだったが、今回は上演時間がトータルで90分、屋内で座ってみるという穏やかな平原演劇祭だった。
まずは男装の夏水による田宮虎彦「鹿ヶ谷」の朗読公演。上演時間は一時間ほどだった。語り手は若き頃の作者の分身であり、一人住まいの婦人宅に下宿する貧乏学生だ。父親との折り合いが悪く、この学生は京都の下宿で貧窮の生活を送っている。この下宿には語り手のほか、下宿の女主人と恋人の関係にある医局に務める若い医師(?)や学生の下宿人(最初は三名いたが、その三名が下宿を出たあと、その三名の友人の別の一名が強引に下宿人となった)が住んでいた。物語のあらすじについては、以下のブログに詳しく記されている。
最後のほうまで語り手は、ほぼ傍観者として、下宿屋の女主人とその他の下宿人の様子を記している。自分自身の父親と母親とのやりとりの描写もあるが、それについても人ごとのように記している。書かれているのは自分に関わる出来事にも関わらず、その文章には自分が当事者であるような実感が伴っていない。夏水は登場人物を声色や表情の変化によって演じ分けるが、そのやり方は抑制されたものだった。乾いた客観的な、どこかつきはなしたような冷静さのある田宮虎彦の文体には、暑苦しいオーバーアクションの芝居はふさわしくない。
基本的に同じ場所で立ったり、座ったりしながら演じていて、ベランダには一度か二度移動しただけ。しかし最後のほうで、ベランダと屋内を分ける障子の敷居に寝っ転がって朗読した。
語り手は最後の最後になって主体的に自分の語る物語のなかに関わっていく。夏水が敷居に寝そべったのはその場面だったと思う。軽ろやかかに淡々と演じられていたのだが、小説の結末の暗さとやりきれなさに、ずーんと気分が沈んだ。
夏水による「鹿ヶ谷」の公演のあとは、高野竜が延辺朝鮮族自治州を旅行したときに現地で購入した朝鮮語現代戯曲集に所収されている「その総角とタクシーアガシ」の読み合わせを行った。高野が延辺朝鮮族自治州を旅行したときのエピソードや劇場でなく、彼の地では演劇が劇場ではなく、野外の広場などで上演されることなどを聞いた。
朝鮮の野外劇というと私はパンソリしか思い浮かばないのだけれど、「その総角とタクシーアガシ」は現代を舞台とした台詞劇だった。原作は長編劇のようだが、高野竜がリハビリもかねて渾身の力でこの日までに翻訳したのは冒頭の三頁だけだった。それも途中で唐突に終わっている。「タクシーアガシ」も出てこない。冒頭に主題歌があり、下水・排水労働者の二人の男性の会話、続いて、おそらく出会い系サービスで知り合った下水・排水労働者の男性と紡績工場労働者の女性がはじめて会う場面のぎこちないやりとりがあるだけだ。緊張した男がベンチに座って「ああ──暑い。」と言う台詞で終わる。水が女性労働者役をやり、男二人は観客がやった。5分ほどで読み終わってしまう長さだったので、男役を変えて二回読んだ。
ラブコメマンガの冒頭のような短く他愛のない断片だったが、なぜかそれが案外面白かった。二回目にやったときは、幕切れ台詞「ああ──暑い。」がおかしくて、私は爆笑した。
午後一時に開始して、午後二時半に終了。平原演劇祭でこんなに早く終わったことはなかったかもしれない。屋内で座っていただけなので体力の消耗もなかった。短く、穏やかな平原演劇祭で若干物足りなさは感じたのだけれど、こうやって振り返って反芻してみるとじわじわと観劇の楽しさがわき上がってくる。こういうゆるい平原演劇祭も悪くない。
202/04/02 かるがも団地『なんとなく幸せだった2022』@北とぴあ カナリアホール
新型コロナウィルスの蔓延が問題になって以来、自分より若い世代によるいわゆる小劇場公演への関心が一気に薄れてしまった。この2年間、この手の芝居をまったく見なかったわけではなくて、何本かは見に行っているのである。しかし若い世代の演劇人たちの作品に感じてしまうセンシティブな「私」へのナルシシズムみたいなものに全然共感できなくなっていて、これはジェネレーション・ギャップで自分にはどうしようもないものかもしれないなと思い始めていた。
かるがも団地『なんとなく幸せだった2022』を見に行く気になったのは、出演者のひとりがかつて私のフランス語の授業の教え子だったからだ。なんとなくどんな芝居をやっているのか気になっていて、今回はたまたま公演時間と場所の都合がよかった。
かるがも団地の公演を見るのは今回がはじめてだった。ちらしのデザインと公演タイトルから想像したとおりの雰囲気の芝居だったが、思いのほか面白かった。上演時間は110分で、前半と後半の二部に大きく分かれる。つるんとしたきれいな顔立ちの今どきの若者たちの群像劇で、前半は2015年に卒業した登場人物たちの高校時代の追憶劇で、後半、その7年後、2022年の彼ら・彼女たち「今」の生活が描かれている。
前半部では東京・神奈川の郊外住宅地にある公立進学校の生活スケッチが、彼らの不器用な恋愛エピソードを中心に展開していく。時系列が前後した1-2分の短いシーンをコラージュ風にテンポ良く重ねていく手際のよさや、語り、歌、ナンセンスなギャグの挿入のセンスのよさには感心したけれど、極度に洗練され、完成度の高い高校演劇を見ているみたいだなと思いながら見ていた。高校生にありがちな常に何かを演じているようにふるまってしまう不器用な自意識過剰は、うまく表現されていたが。高校時代の部だけでも完結性はあったのだが、その後日談である後編を7年後の「今」に設定しているのがいい。かつての子供だった高校生の自分たちと、未熟ではあるけれど大人として生きている現在の自分たちの姿が、7年の空白を置いたことで鮮やかに対比させられている。単にノスタルジックな青春追憶劇ではなくて、2022年の「今」を生きる彼ら・彼女たちのすがたが、短い場面を細かく丁寧にコラージュした構成とこなれたメタ的言及によって、リアルに提示されていた。自己批評的であるけれど、自虐に溺れているわけでもない。情緒に溺れないクールな表現スタイルには、他人にぐっと踏み込めない優しさや慎重な距離感の測り方、傷つき、傷つけることへの過剰な恐れといった今どきの若者たちのメンタリティが反映しているように思った。
二〇代の彼ら・彼女が抱える孤独、寄るべなさ、不安が静かに、そして軽やかに表現されていた作品だった。
2022/03/27 第48回赤門塾演劇祭
埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で毎年三月の最終週の週末に行われている演劇祭を見に行った。この演劇祭は赤門塾が開塾して5年目の1975年に始まった。演劇祭の開始以来、塾に通う小・中学生の子供だけでなく、塾のOB・OGを中心とする大人による上演も行われていることがこの演劇祭の特徴だ。赤門塾演劇祭については、この三月に発刊された日比野啓編『「地域市民演劇」の現在」(森話社)に寄稿している。
新型コロナ・ウイルスが日本でも確認されたあとに開催された2020年の第46回は現役塾生である小・中学生の部だけの上演となり、観客もごく少数の塾関係者と出演者の家族に限られた。翌2021年の第47回は小・中学生の部に加え、塾のOB・OGを中心とする大人の部の上演も行われたが、出演者の人数、観客の数も少人数に絞られ、恒例となっている演劇祭後の懇談会は開かれなかった。47回の様子は、このブログにリポートを残している。
今年も感染対策のため、演目ごとに観客の入れ替えが行われ、各演目の観客定員を19名とする事前予約制で、演劇祭は実施された。演劇祭終了後の懇談会は出演者と少数の赤門塾演劇祭演劇祭関係者のみで、例年より小規模で行われた。
上演会場は学校の教室の半分ほどの広さの赤門塾教室である。塾教室は、演劇祭の準備から終了までは、机や椅子はもちろん、本棚や天井の蛍光灯まで撤去され、舞台装置が設置される劇場となっている。新型コロナ以前の2018年、2019年の演劇祭を私は見ているが、そのときは客席側には櫓が組まれて、二層構造になっていて、毎回50名以上の観客で超満員だった。小・中学生の部と大人の部を合わせると上演時間は3時間を超える長丁場となるので、ぎゅうぎゅう詰めの空間で床に座っての観劇は肥満の私には実はかなりつらいところがあった。満員の観客の活気が減じてしまったのは残念ではあるが、今回は客席が19席限定ということで、ゆったりした空間で見られたのはありがたかった。また赤門塾演劇祭は「上演中の出入り自由」「飲食自由」だったのだけれど、これも新型コロナ対策で今回はそうなっていなかった。
演劇祭の日程は3/25(金)、26(土)、27(日)の三日間だが、上に書いたように今回は演目ごとに事前予約・入れ替え制だった。私は最終日の3/27(日)の午後に、小学生の部2作品、中学生の部1作品、高校生以上の部1作品の計4演目を続けて見た。子供の部の芝居3作品は、いずれもこれまで赤門塾演劇祭で取りあげられたことのある作品とのこと。
最初の演目は小一から小五の子供8名が出演する『四人の陽気な泥棒たち』(作者不詳)だった。上演時間は15分ほど。四人の村人が貧しさから抜け出すために泥棒となるのだが、いずれも根は善人のため、泥棒稼業が身につかない。ついいいことをしてしまう。通りすがりの見知らぬ女性に赤ん坊を託された親分は、赤ん坊をあやしているうちに結局、改心して役人に自首してしまう。役人に連れられて舞台を退場する親分に、子分の一人が「かしらぁ」と足を踏み出し、右手を差し出しながら呼びかける台詞で幕切れ。最後の幕切れの台詞のタイミングが遅くなってしまったが、その時間のずれがかえってこの決め台詞を印象的なものにしていた。今年は泥棒の親分役の最年長の五年生にリードされてか、マスクをつけての芝居にもかかわらず低学年の子も明瞭で大きな声で台詞を話せていた。この芝居はこれまで赤門塾演劇祭では小学校高学年が演じていたそうで、台詞の量もかなり多いのだが、今回は小学三年生四人を中心とするメンバーで上演された。恥ずかしがらずにしっかりと芝居を観客に見せる、という気概が伝わってきて、芝居として愉しんで見ることができた。泥棒たちが一斉に行う大げさで様式的な動作とお洒落な着物のがらが可愛らしかった。カーテンコールでは緊張が解けて、子供同士でふざけあったりしていたのがまた可愛らしい。
二つ目の演目は平松仙吉作の『ジャンヌ・ダルク』で、小6が5名、小1と小2が2名ずつの9名で上演された。これは赤門塾演劇祭の初期のころに何回か上演されていた作品だ。児童劇でジャンヌ・ダルクという組み合わせが意外で、脚本を演劇博物館で探したところ、『五年生の学校劇』小学館、1966年にこの作品が掲載されているのを見つけた。20分ほどの短い劇作品だが、神の存在と死についての密度の高い台詞劇だった。ト書きが、非常に詳細で本格的な演出指示がされているのにも驚いた。先ほどグーグルで検索してみると、作者の平松仙吉は平松星童の名前で自由律俳句の俳人としても活動した人で、児童劇のみならず、劇団つみき座、パルチ座という前衛劇団でも活動していた演劇人だったようだ。作品は火あぶりの処刑の前日のジャンヌの葛藤を描き出すものだった。囚われのジャンヌを「百姓娘」と見なすろう番は、冷徹な態度で、神学的・哲学的な問いを投げかける。神の声を聞き、神に選ばれし者のはずのジャンヌは、ろう番の問いと火あぶりによる死への恐怖から、神の存在への確信が揺らぎ、迷いが生じているように、私には見えた。
幼いジャンヌの妹たちが、劇の冒頭と最後で唱える「ねえちゃんはほんとに神さまの声を聞いたの?」という音楽的なルフランが、ジャンヌが人であるからこその迷いを美しく浮かび上がらせていた。神の存在と死、そして奇跡をめぐる神学的問答であり、その密度の高い言葉のやりとりはフランス演劇を連想させた。台詞の量は多く、その語り口は棒読みで、子供たちの動きも固い。俳優の出入りも唐突な感じだ。しかしその生硬さが中世の写本挿絵を思わせた。『ジャンヌ・ダルク』は金・土・日の三日間上演されたが、初日の金曜日の公演は、主役のジャンヌ役の子供がすっぽかしていなかったそうだ。高校生・大学生・社会人の部の出演者のひとりがかつてジャンヌ・ダルク役を演じたことがあるということで、急遽、台本を持ってジャンヌを演じたとのこと。
三番目の演目、『水ききん』(作者不詳)は中学生9名と大学生1名での上演だった。演劇を演じさせるとなると思春期前期の中学生をのせるのは一番難しいだろう。現在の赤門塾塾長であり、演劇祭をとりしきる長谷川優さんによれば、あまり乗り気でなさそうな子供たちとコミュニケーションをとって説得し、なんとか芝居へ持ってくる過程は大変だけれども、そこが面白いところでもあると言っていたが。今年の中学生はのりがよく、声もよく出ていた。筋立ては極めてシンプルな芝居だった。日照りによる水ききんで苦しんでいる村が舞台だ。登場人物は村の若い衆である。高台にある神宮池を決壊させれば、あふれ出た池の水で村の田は潤うはずなのだが、神宮池の土手を崩した者は目が潰れてしまうという言い伝えがあり、村の大人たちはひたすら雨乞いをやるばかり。若い衆も、村の大人たちを非難するものの、神宮池の田たたりを恐れ、土手を決壊させることを躊躇している。そこに村の娘がやってきて、若者たちに土手を壊すように促す。若い衆は土手を壊すことを決意する。ごく単純な筋立てながら、タブーを破って新しい世界を手にしようとする村の若い衆に、それを演じている思春期前期の子供たちの姿が重なる。あまりのあっけない筋立てにあきれたけれど、おわってみると「いい芝居」に思えてきた。この芝居も俳優たちの着物姿が可愛らしい。仮装することで他者の存在を引き受け、それを演じ、見て貰うことに心浮き立ち、喜んでいる様子が伝わってきた。仮装の楽しさとそれがもたらす解放感を感じ取ることのできる芝居だった。上演時間は二〇分ほどった。
『水ききん』がおわった後、15分ほどの休憩時間が入った。この休憩時間のあいだに、高校生・大学生・社会人による『The Mousetrap』(アガサ・クリスティ作)の舞台設営が行われた。『The Mousetrap』は、ロンドンの劇場で1952年以来、2020年3月の新型コロナによる公演中断までロングラン公演が行われた有名な作品だ。とはいうもの、海外ミステリーに関心が薄い私はこの作品のことを赤門塾演劇祭のこの公演まで知らなかったのだが、ミステリーで犯人がわかっていては興ざめなので、知らないまま見られてかえってよかった。登場人物は8名で、そのなかのひとりが、逃走中の連続殺人犯だ。彼らは豪雪で外との連絡が遮断された山中のゲストハウスで一晩過ごすことになる。赤門塾演劇祭でこの作品が上演されるのは今回がはじめてだ。キャストは高校生が3名、大学生が1名、社会人が4名だが、社会人の出演者もおそらくまだ二〇代で若い。赤門塾演劇祭でこういう商業演劇的な娯楽作品が上演されることは珍しい。舞台の背景は緑色の幕で覆っただけだが、暖房機やテーブル、椅子、ドアなどの調度品はかなり丁寧に作り込まれている。
ゲストハウスにやってくる訪問者がことごとくあやしい。これらのエキセントリックなキャラクターを、俳優がそれぞれ工夫をこらして表現していた。誇張された、いわゆる芝居くさい演技の面白さを楽しむ芝居だった。俳優たち自身もそうした演技や役作りを楽しんでいる様子が伝わってきた。衣装もそれぞれのキャラクターを象徴するものになっている。私の後ろに座っていた就学前の子供の観客も喜んで見ていた。
俳優へのスポットの当て方や様々なタイプの照明の切り替え、扉の開け閉め、窓を開けたときの外の音、ラジオのボリューム等などの音響にも神経が使われていた。奇矯な登場人物の提示のパートは楽しかったが、刑事がゲストハウスに入ってきて尋問を行う中盤は、単調でだれてしまった。この作品で刑事は大量の台詞で展開を進めていかなければならない難しい役柄だ。刑事役の台詞は明瞭でスピードもあったが、他の役柄に比べて、この刑事役はカリカチュアが弱い感じがした。たたみかけて展開を推し進めていくようなのりが若干乏しかったように思う。
『The Mousetrap』の開演は午後3時、終演は午後5時すぎだったように思う。終演後は、上演会場をもとの塾の教室空間に戻さなくてはならない。これが大変な作業なのだ。出演者のみならず、片付けの応援にやってきた数名のOB・OGの20名ほどで、一気に片付けが行われる。まず仮設舞台や客席、舞台用の照明や電源を撤去し、それを長谷川家住宅の三階にある物置まで運ぶ。そして演劇祭の稽古・本番中に三階の物置などに待避させていた塾教室の様々な機材(蛍光灯、机、椅子、本棚)、ピアノ、大量の本を、半地下の塾教室まで下ろし、元の教室の状態に復帰させる。
重い荷物を大量に三階と半地下の教室のあいだで移動させなければならない重労働だ。この撤収作業の手際のよさは驚嘆ものだ。ずるずるとやっていてはいつまでたっても終わらない類いの作業なので、20数名が分業体制で集中して一気に行う。作業時間は九〇分ほどかかる。よくも毎回、こんな面倒なことをやっているものだと半ば呆れ、そして感心してしまう。演劇祭のときほど大がかりではないが、五月と十一月に教室を会場にして行われる赤門塾文化祭でも同じような作業が行われるのだ。
正確には演劇祭終了後は、公演会場だった塾教室で懇談会が行われるため、塾教室状態の再現ではなく、懇談会で食事がしやすいような机と椅子の配置となる。今年は新型コロナ感染予防対策ということもあり、懇談会の参加者は出演者と演劇祭スタッフ中心に30名ほど。食事はバイキング形式で、長谷川宅のリビングのテーブルに並んでいる料理を各自が皿にとり、それを会場まで持っていて食べるという形となった。
この料理は新秋津の駅の近くで和食店をやっている、赤門塾創立者の長谷川宏氏の娘さんが作ったもので、とても美味しい。懇談会は19時前からはじまった。皆がひととおり食事を取り、場が落ちついたころを見計らって、参席者全員が赤門塾演劇祭について感想を述べることになる。子供から大人まで、全員が演劇祭について何か語らなくてはならないのだ。30名ほどいたので、一人数分としてもかなりの時間がかかるが、全員が何かを語るというのも赤門塾恒例なのだ。形式的・儀礼的な褒め言葉ではなく、よくなかったところを含め率直に感想を語ることがここでは求められる。私ももちろん演劇祭の感想を述べた。途中、議論になって、15分ぐらいたってしまうこともあった。私は21時半ごろに退出したが、懇談会はその後も続けられた。
なぜ、他者を演じることは楽しいのだろうか? それを見てみたい観客がいるのはなぜか、観客が演じられるものを見て楽しいのはなぜか? そしてなぜ演劇は演じる喜びだけでは自足することはなく、それを見る他者の存在が必要とされるのだろうか?こういった根源的で素朴な問いが、赤門塾演劇祭を見ていると、いつも湧き上がってくる。
2022/03/21 平原演劇祭2022第6部 #縦走演劇 田宮虎彦×宮沢賢治 2days
平原演劇祭2022第6部は、本来なら準廃墟ホテルとして一部の好事家のあいだで知られている鎌北湖レイクビューホステルに宿泊する一泊二日の日程で行われるはずだった。しかし鎌北湖レイクビューホステルのオーナーは、すでに商売をやる気が失せてしまっているようで、少なくともこの一年は営業している気配がない。平原演劇祭主宰の高野竜が何度も電話でコンタクトを試みて、電話がつながったことはあったようだが、結局、宿泊許可を得ることができなかったようだ。ホテルなのにホテル側が客に宿泊許可を与えるというのも変な話だが。鎌北湖レイクビューホステル宿泊はなくなったものの、予定通り(?)一泊二日で山中ハイキング+三本のリーディング公演が行われることになった。
私にとって平原演劇祭は非常に優先度が高いのだけど、今回は第一日目の3/20(日)は所用があり参加できなかった。あとで行程を確認すると山中ハイキングを含め、この一泊二日の全プログラムに参加することにこそ、平原演劇祭観客としての勲章であり、大きな充実感を得ることのできる体験だったはずだが、二日目の山中ハイキングは、朝7時出発、歩行距離が12キロと聞いて、参加しなくてよかったと思った。ちなみにこの一泊二日の全行程に参加したのは、高野竜のほか、最初のリーディング演目の出演者であった角智恵子、そして観客のまつだ氏(@zooom_zooom_)とバード 〜旅人〜氏(@windblue1992)の4名だった。
今回の一泊二日の#縦走演劇については、ひさびさに高野竜がnoteに詳細な告知を記している。
noteの記述によるとプログラムは次のようになっていた。
第一日目(3/20)
1. 3/20(日)12:00@ゲストハウス吾野宿
演目「卯の花くたし」(田宮虎彦貧学生シリーズ第1篇)
出演 角智恵子
2. 3/20(日)14:20@東吾野駅出発
鎌北湖までのハイキング3. 3/20(日)17:00@鎌北湖レイクビューホステル
演目「槍澤市左衞門の最期」(田宮虎彦黒菅シリーズ第6篇)
出演 高野竜第二日目(3/21)
4. 3/21(月祝)7:00@鎌北湖第二駐車場出発
ギャラリィ&カフェ山猫軒までの山中ハイキング
5. 3/21(月祝)12:30@山猫軒裏山
演目「学者アラムハラッドの見た着物・増補版」(宮沢賢治原作、高野竜加筆)
出演 ひなた
なんと密度の濃いプログラムだ。私が今回参加したのは5番目の「学者アラムハラッドの見た着物・増補版」だけだ。しかし今の私の体力では全行程参加は全うできなかった可能性もある。全行程参加できなかったのは残念ではあったが、参加しなくてよかったとも思った。今、プログラムを読み返してみるとゲストハウス吾野宿で行われた角智恵子の「卯の花くたし」は見ておきたかった気がした。ウェブで検索すると古民家を改修した建物であるこのゲストハウスが実にいい雰囲気なのだ。角はここに一泊したらしい。しかしこのゲストハウスでリーディング公演をやったあと、電車で移動して、東吾野から鎌北湖までハイキングはきつそうだ。実際にこの「ハイキング」に参加した常連観客の三上氏(@akimikami)のtwitterでのレポートには「高野さんの「ハイキング」は一般人には危険だと言うことがよく分かった」と書かれていた。
鎌北湖レイクビューホステルの館内には結局入れて貰えなかったようで、このホステルの周囲で高野竜が田宮虎彦「槍澤市左衞門の最期」を朗読したとのこと。17時開始となっていたので、終わった頃には山中は暗闇だったはずだ。「卯の花くたし」を朗読した角はゲストハウス吾野宿に宿泊したらしい。まつだ氏もおそらく周辺の宿に一泊したのだろう。名古屋からやってきたバード 〜旅人〜氏は、新幹線とのパックプランで予約していた日本橋人形町の宿まで戻ったそうだ。これはまた大変な話だ。三上氏は帰宅。高野竜は終演後、宮代町の自宅まで戻ったらしい。翌日早朝、高野は、まつだ氏と角を車で鎌北湖レイクビューまで連れ戻したあと、そこから三つの山を越える12キロの道のりを歩き、越生の山中にあるギャラリィ&カフェ山猫軒までやってきた。なんでわざわざ早朝に起きて、険しい山道を歩いて、次の公演会場まで行く必要があるのか、私にはわからなかったのだが、先ほど告知noteを見ると、田宮虎彦の黒菅藩ものの登場人物であり、「落人」主人公の「山崎剛太郎がただひとり野獣のように逃げていったのはこういう径」だろうと考え、それを追体験するためにこの山中ハイキングを行ったとのこと。前日夜に高野竜による「槍澤市左衞門の最期」のリーディングを聞いた角とまつだ氏には、味わい深い縦走ハイキングとなったに違いない。しかし狂っている。私は付き合わなくて本当によかったと思った。
5番目のプログラム 3/21(月祝)12:30@山猫軒裏山で上演される「学者アラムハラッドの見た着物・増補版」は、その前の4つのプログラムと比べるとはるかに穏健なものだ。私は9時20分、東武東上線成増発の小川町行き急行に乗って坂戸まで行き、坂戸で越生線に乗り換え、越生駅に向かった。
越生の梅林観光のためか、越生線の乗客はかなり多かった。「学者アラムハラッドの見た着物・増補版」の出演者であるひなたが車内にいて、私に気づき会釈した。私はひなたとは少し距離を置いて座った。ひなたは電車のなかでずっと台本を読んでいた。越生駅からギャラリィ&カフェ山猫軒までは歩けば6キロほどの距離がある。越生駅から黒山三滝行きのバスに乗り、麦原という停留所で降りれば、そこから2キロほどの距離にギャラリィ&カフェ山猫軒はある。しかし2キロとはいえこれがけっこうな上り坂でしんどいのだ。2020年12/13にギャラリィ&カフェ山猫軒で平原演劇祭の公演があったのだが、そのときは公演前に立ち寄った黒山三滝で私は転倒して手首を骨折し、痛い手首をかばいながら山猫軒に登るのにかなりつらい思いをした。そのトラウマが残っている。「2キロの上り坂はかなわないなあ。でもどうしようもないな」と覚悟を決めて越生駅西口に出ると、高野竜の奥さんが車で迎えに来てくれていて、その車でギャラリィ&カフェ山猫軒に行くことができた。これにはほっとした。
ギャラリィ&カフェ山猫軒には予定より早く10時30分頃に到着した。開店は11時なので30分ほど店の前で待つ。ここで高野竜の奥さんに電話が入る。療養所に入っている高野の叔母の様態が急変し、救急搬送されることになったという連絡だった。緊急事態である。本来なら終演後に、高野竜妻が車で出演者と高野を運ぶ手はずだったのだが、病院に向かわなくてはならなくなった。高野竜は携帯電波の届かない山中を縦走中で連絡が取れない。上演に使う機材などをその場に残し、高野妻は去って行った。
11時に入店。昼飯を取る。古代米野菜カレーを私は食べた。カレーを食べているうちに、鎌北湖レイクビューホステルを早朝に出発し、山中ハイキングで12キロほど歩いてきた角、まつだ氏、高野が到着する。公演の開始時間は12時半なので、それまでは山猫軒でゆったりと過ごし、この後、山中で行われる公演に備えた。
12時半に予定通り、「学者アラムハラッドの見た着物・増補版」の公演が山猫軒の裏山で始まる。
この演目は2020年にもひなたによって上演されたものだが、2020年は三幕のうち、一幕目だけの上演だった。宮沢賢治の原作「学者アラムハラドの見た着物」は中途で終わっている未完の作品のようだ。2020年年末に上演したのはこの未完の作品の部分に相当する。高野はこれに宮沢賢治の他の作品をコラージュするなどして、三幕の歩き朗読劇としたらしい。今回の公演告知のnoteの記事にこの加筆についていろいろ書かれているが、「学者アラムハラド」の部分の解説の内容は、正直、私にはよく理解できない。いろいろな地名が書かれている。
前回同様、ギャラリィ&カフェ山猫軒の裏山をひなたが劇中人物を演じながらひたすら上っていく。それを観客が追っかける。学者アラムハラドは、インドの学校か私塾の先生みたいで、子供たちに古代ギリシャの自然哲学みたいなことを教えている。これが宮沢賢治の原作だ。青空文庫で読むことができる。
高野竜は宮沢賢治作品をよく取りあげるが、正直なところ、私には宮沢賢治の作品の面白さというのがよくわからない。前回は山猫軒に到着するまでに疲労困憊の状態で、おまけに手首は痛いし、小雨が降っていて寒いしで、ひなたの語る言葉の内容がほとんど頭に入って来なかった。
今回はひなたが語る、演じる内容は頭に入ってくる、前回も上演した第一幕の部分については。高野が加筆した第二幕の部分になると、「あれ?話が唐突に変わったなあ」という感じで、その内容が頭に入って来なくなった。ひなたは声色や表情で人物を巧みに演じ分けていた。かなりの急斜面の山道だったが、ひなたはかかとのあるブーツで淡々と登っていく。たいしたもんだなあ、ひなたはきれいだなあと思いながら、彼女を追っかけて登った。
上演時間は45分ほどだった。上りは山道だったが、下りは舗装した道路を山猫軒まで戻った。さて、帰りである。終演時間は午後1時半だったが、山猫軒から2キロ下ったところにある麦原のバス停の次のバスは3時45分だと言う。本当なら高野と出演者は、高野妻が運転する車で帰宅するはずだったが、高野妻は高野叔母の救急搬送先に向かったため車がない。ひなつは翌日の早い時間から予定があるそうで早く帰りたそうにしていた。私も歩いて帰るのは疲れるのでやだなあと思っていたので、タクシーを呼ぶことを提案した。結局7名いたうち、竜、ひなた、私、バード氏の4人がタクシーで越生駅に行くことになった。
朝からの縦走ハイキングで疲労困憊しているはずの角はちょっと迷っていたが、結局歩きを選択。まつだ氏も歩き。下りとはいえ越生駅までは6キロ以上の道のりなのに。ここでタクシーを使ってしまえば平原演劇祭としては中途半端な感じがするというのはわかる。私も今回は往復に車を使って、歩きを回避しているので、若干の消化不良というか、後ろめたさみたいな感じはあった。でも無理はしない。もうけっこうな年で体力が衰えているのだから。
黒猫軒から越生駅までのタクシー料金は、配車手数料300円込みで3000円だった。