閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

隣にいても一人 英語版《リーディング公演》

青年団 プロジェクト公演

  • 作・演出:平田オリザ
  • 演出:工藤千夏
  • 美術:杉山至
  • 照明:岩城保
  • 翻訳:小畑克典
  • 翻訳監修:小畑みはる
  • 出演:近藤強、畑中友仁、松田弘子、齋藤晴香
  • 上演時間:65分
  • 劇場:駒場 こまばアゴラ劇場
  • 満足度:☆☆☆☆
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『隣にいても一人』は、突然ある朝気がついたら結婚してしまっていた弟・妹の新婚(?)夫婦とこれから離婚しつつある兄・姉の夫婦の四人男女が登場人物の会話劇。ある朝気がついたら何か知らないけれど結婚していることになっていて、この唐突な状況をなぜか受け入れている弟・妹という不条理な設定を軸に、夫婦っていったい何だろうという問いかけが観客に投げ掛けられる仕掛けのドラマである。
同じテクストをもとに各地方で方言版が地元のメンバーで製作され、今回東京では新たに製作された関西編と英語版を加え、八つのバージョンが上演されている。私は先日自分の出身地である関西のバージョンを見に行った。

他の方言版と較べると、英語版は異色である。他の方言版は、その方言を母語とする「ネイティブ」の役者たちが、それぞれの方言のニュアンスを吟味しながら、オリジナルのテクストから方言版の「現代口語演劇」を作っている。こうした作業の過程で、標準語と各方言の乖離の仕方や方言の持つ微細なニュアンスについて丁寧な意識化が行われたに違いないし、方言の現代口語演劇化の作業は新たな演劇言語の可能性を拓くものにもなったはずだ。また各方言版は何よりも先ずその方言が話されている地方(およびその出身者)の観客の関心を引いたはずだ。自分たちの言語が自然な舞台言語として成立している状況に立ち合うことは観客に大きな喜びであっただろうし、自分たちの言語についての新たな発見をもたらしたはずだ。もちろん自分の母語以外のバージョンを見ることで、方言の違いがもたらすニュアンスの違いを発見することも観客にとって大きな楽しみとなっただろう。

英語版の製作だが、翻訳者は英語が母語の者ではない。しかも演じるのはすべて日本人の役者である。演じた役者は英語圏への長期滞在経験があり、英語に堪能な役者なのかもしれないが、いずれにせよ英語が母語ではない。他の方言版がそれぞれその方言を「母語」とする役者が作り、その多くはその地方の観客に向けて上演されたものであるのに対し、英語版は、演出家にとっても、訳者にとっても役者にとっても観客(の多く)にとっても、外国語、自分の外側にある言語なのだ。

英語版はいったい誰に向けて作られたのだろう、というのが第一の疑問。そしてそこで英語を母語としない役者たちが語る英語は、どういった英語を現代口語演劇に相応しい「自然な言語」としてモデルにしているのだろう、というのが第二の疑問である。他のバージョンだと現代口語演劇らしいリアルな肌合いが(私が見たのは関西編だったが)方言でもしっかりと表現されているのが、この作品の魅力となっていた。しかし日本人が日本名の役名のまま英語で喋るという場合、そうした「リアル」さというのは当然失われてしまう。となると英語版をこういった形で作る意味というのはいったいどうなるのだろう? ポストパフォーマンストークでの指摘で私ははじめて気づいたのだったが、この奇妙な状況ゆえに、もともと不条理な設定で始まるこの芝居の不条理性がさらに強調されてしまうという効果はあった。でもこれは副次的効果であり、最初から英語版公演を通して狙っていたものではないだろう。
こんな疑問を持ちながら僕は座席に座ったのだった。

リーディング公演と称するものを見るのはこれがはじめての経験である。役者が椅子に座ってテクストを声の調子などに変化をつけながら朗読するのかなと想像していたら、そうではなかった。舞台には関西編で見たときと同じような美術セットが設置されている。中央には低テーブル。この周りに四人の役者が座って読み合うのかと思えば、台本を手に持って、ちょくちょくその文面を確認することはあるけれども、それ以外はまったく普通の芝居と同じように役者たちは動き、演技するかたちでの公演だった。ポストパフォーマンストークでの話によると、リーディング公演としてはかなり異色の公演形態だったようだ。英語は聞き取れないことが多かったけれど、関西編を見ていたいし、脚本を購入して読んでいたので、理解するのに難はなかった。

役者のふるまいであるが、会話は英語だけど振舞いや発音は日本人風の役者と発音、動作ともどこかバタくさくなっている役者に分かれ、しかもその程度が各役者によって違った。妹役と兄役はかなりバタくさい雰囲気でやってるように思え、最初のうちは英語をしゃべる日本人ではなく、韓国人(もしくは香港人、台湾人)が演じている芝居のように僕には見えた。この二人の役者は、あとのポストパフォーマンスでわかったことだが、英語圏滞在経験が長いようだ。
フランスに留学していたとき、中国人・韓国人の留学生とはフランス語で会話するのだけど、そうしたときの彼らの動作や表情を二人の演技から想起した。弟、姉は、妹・兄に較べると、はるかに日本人ぽい雰囲気を保ったまま、英語をしゃべっていた。冒頭で弟が「I'm sorry」という場面で頭を下げるのだけれど、これは日本人特有の動作である。演出の指示で日本的動作を取り入れたとのことだ。フランス人演出家による平田オリザのフランス語戯曲『別れの唄』では、日本人の登場人物の兄妹はフランス語で流暢にコミュニケーションを採っていたけれども、その振舞いや雰囲気は常に日本的なものを維持していたことを思い出す。

英語版リーディング公演は間違いなく日本人の英語による公演である。役者によって程度の差こそあれ、舞台上で演じられた英語は、訳者、演出家、役者が英語を母語としない日本人であるという属性を背負ったまま、演じられている。『隣にいても一人』英語版リーディング公演が背負う「日本人性」に対し、英語のネイティブ・スピーカーが、自身の母語が英語であるという傲慢にして素朴な言語感覚に基づいて『隣にいても一人』英語版の英語は和製の「インチキ英語」であると批判するようなことがもしあるとすれば、それは浅はかな思慮に基づく誤謬であると私は思う。十数回も改訂を重ねたという英語版台本の中に、あるいはそれを演じる日本人役者たちの表現の中に、例えばアメリカ中西部出身の中程度の教養を持つ一人のWASPが違和感を抱くような箇所が含まれていたとしても、その英語が「間違っている」などとは言えない。英語版台本の英語は、とあるネイティブには不自然に感じられるところがあったとしても、それは日本人翻訳者が彼が受けてきた英語教育と英語圏の滞在経験から獲得したリアルな英語であり、さらに多かれ少なかれ英語での生活の経験を持つ役者や演出家たちがそれぞれの経験・知識を動員し練り上げられ、各役者の身体・言語感覚になじむレベルにまで到達した極めて「リアルな英語」であるはずであるからだ。単にネイティブであるという事実だけによって、非母語話者の英語を批判可能であると思っているような素朴な言語観の持ち主より、はるかに深いレベル言語的考察があの英語版台本にはなされているのだ。あの英語版にはその言語を支える現実の共同体は存在しない。しかしあの英語はこうした作業を経て舞台化されているがゆえに極めてリアルでアクチュアルな英語でもあるはずなのだ。

私が考える英語版リーディング公演の一番大きな意義は、各方言版に加えて、日本人役者、日本人にスタッフによる英語版が製作・上演されたことによって、『隣にいても一人』という勝れたテクストが世界的に共有される可能性を示したことであると思う。英語版と聞いたとき、私は恥ずかしながら「一つの」「標準的な」英語版しか想定することができなかった。だからポストパフォーマンストークで、この日本での英語版リーディング公演が、スコットランド版、アイルランド版、カナダ版、アメリカ南部版、シンガポール版等々、世界に存在する様々な多様な英語版の製作・上演の可能性を拓くきっかけとなることを願う、といった提言があったときに、目からうろこが落ちる思いがしたのだ。

『隣にいても一人』というテクストは、日本各地で各方言版が製作されることによって、その製作過程や上演でローカルな日常語の再発見、そして演劇言語として地方語の可能性を導いたに違いないように思われる。そして日本人による不自然な英語版上演という実験は、単一の規範的な英語ではなく、様々な英語の言語的バリエーション(地域的・階層的・民族的など)に基づき、このテクストの異本が製作・上演される可能性をはっきりと示したのだ。もちろん英語には限らない。フランス語版を想定する上でも、のっぺりとしたパリを中心とする規範的なフランス語版だけでなく、南仏方言版、ブルトン語版、ベルギー方言版、カナダ版、西アフリカ版など数多くのバリエーションを思い浮べることが出来る。この実験は、演劇言語の可能性を拓くだけでなく、言語そのものが本来持っている多様性について意識化させる効用も持っているのだ。

特にフランス語のように、伝統的に規範的な言語観が根強い言語では(話者もそうだし、フランス語教師にもこういった言語観は大きな影響を及ぼしているように思える)、『隣にいても一人』プロジェクトのような試みは、もしそれが実行されることがあれば大きな意義を持つように思う。パリ版以外に、マルセイユ版、ブルターニュ版、アルザス版などの上演を私は思い浮べる。
『隣にいても一人』はそうした世界的バリエーションにも耐えうるような普遍的なテクストであるように思えるのだ。言語的コンテクストによる改変を被っても、戯曲の魅力自体はそのまま保持しうるようなしっかりとした芯がこの戯曲にはあるように思う。
今回の英語版リーディング公演の意義は、こうしたテクストの世界的な広がりの可能性をはっきりと示した点にある。