閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ジャックとその主人 Jacques et son maitre

ジャックとその主人

ジャックとその主人


満足度:☆☆☆☆★

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作品は現在吉祥寺シアターで串田和美+白井晃によって上演されている。今週木曜日に見に行く予定。
クンデラによる20頁弱の序文も掲載され、そこに作品成立の敬意が詳しく述べられている。元本は十八世紀の作家で百科全書の編集者でもあるドニ・ディドロの小説、『運命論者ジャックとその主人』である。この『運命論者ジャックとその主人』はディドロの生前には刊行されなかった小説だが、一九世紀の本格的小説誕生以前に散文芸術としての小説のあり方について作品自体が実験的に問いかけているような、十八世紀末に咲いたあだ花のような小説だという。執拗な諧謔に満ち、物語の筋が逸話の介入によって常に遮られるこの破格の小説の魅力についてはディドロ研究者の知人や文学史の本などを通じて知っていたが、クンデラの戯曲のオリジナルとなった作品一昨年ようやく邦訳が出版された。

運命論者ジャックとその主人

運命論者ジャックとその主人

クンデラの『ジャックとその主人』はこのディドロの小説の「簡約版」、「現代版」である。クンデラ自身のことばを引用すると、「単なる脚色」ではなく、クンデラによる「ディドロを主題とする変奏曲」であり、かねてからディドロ作品へ深い敬意を抱くクンデラの「ディドロへのオマージュ」である。作品はジャックとその主人の旅を軸に主人とジャック、そしてラ・ポムレ夫人の三つの恋物語の回想によって構成される。この三つの過去の恋物語はそれぞれ互いに呼びかけ合うような類似性を持っている。クンデラの表現によればこの戯曲自体がその精神においても構造においても内容においても、「変奏曲というテクニック」に基づいて書かれている。

劇中の「現在」にあたる旅の時間は舞台前方で演じられ、回想部分はひな壇舞台の後方の高くなった部分で演じられるように指示されている。筋の軸が逸話の連続とその相互の関わりのなかで常に激しくゆさぶられるこの戯曲は大変面白い読み物だった。しかし狂騒的ともいえる饒舌という言語的な手段で再現されている逸話が、舞台で生身の実体によって再現された場合、どれほどそのスリリングな面白みが伝わるのかについてはちょっと疑問を持つ。木曜日の舞台版でどのような演劇的仕掛けが施されているのかが楽しみだ。

訳はとてもなめらかでリズムがあって読みやすい。ただしジャックの一人称として「おいら」が使われていることに違和感を覚える。この一人称の作為の臭みが僕には受け入れ難いのだ。ほんとうに日本のかつての下男は「おいら」なんて自称を使っていたのか。下僕という存在自体が現在の日本語の世界になじみにくいのだが、モリエールなどを読んださいにも下僕とか召使い女の言葉遣いの浮き上がり方がとても気になる。これだったらむしろもっとニュートラルな「私」という自称を使ったほうが感じがいいようにぼくには思える。
日本語の一人称の問題についてはまたじっくり考えてみたい。