閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

アイルランド 民話の旅

アイルランド 民話の旅

アイルランド 民話の旅

  • 編・訳:渡辺洋子、岩倉千春
  • 評価:☆☆☆☆★
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物語の語り伝えはアイルランドで古くから盛んに行われたことが知られている。一九世紀初頭頃から多くの名手によってきて語り継がれてきたこれらの物語は研究者の手によって収集が続けられてきた。一九二〇年代以降は国家的事業として民間伝承の収集と保存が続けられ、1971年以降はユニーバーシティ・カレッジ・ダブリンの民間伝承部に膨大な民話アーカイブが収録されているという。編訳者の一人である渡辺洋子氏は1999年に子供向けにやさしく書き直したアイルランド民話を翻訳・出版している。
子どもに語るアイルランドの昔話
この本では上記民間伝承部のアーカイブ資料および二〇世紀半ばまでに出版されたアイルランド民話集から厳選された28編の民話が翻訳、紹介されいている。第一章には妖精が出てくる民話が15編収録され、第二章には昔話が13編収録されている。何編かはゲール語アイルランド語)から直接翻訳され、原典の語りの雰囲気を思い起こさせるような訳となっている。いずれも夢の世界を記述したような独特の幻想味とナンセンスな雰囲気を持っている。グリムやペローなどの大陸の童話とは明らかに異なる風味をアイルランド民話は持っている。

同じような展開を繰り返し、リズミカルに物語が進展していくというタイプの話が多い。最初に取り上げられている「お話を知らなかった男」はこのアンソロジーの性格を象徴するような話で、この話を読むだけで他の民話の読書に引き込まれてしまった。昨年、イーストウッドの映画のタイトルにもなった「チェンジリング」(取り替え子)の話も何編か収録されている。
各話の間にはアイルランドの社会や自然、風俗について伝える短いコラムが挿入されていて、格好のアイルランド入門になっている。本著はもちろん日本語で書かれているのだけれど、大学などでの英語の教科書がこんな内容だと楽しいと思う。


アイルランドの「語り」の伝統は、五世紀のキリスト教伝来以前、文字を持たなかった古代ケルト人の時代まで遡ることができる。ケルト人の「語りもの」は「アーサー王」物語群や「トリスタン」もの、マリー・ド・フランスの「レ」など大陸の文学への大きな物語の源泉であったが、ヨーロッパの西端の行き止まりに位置するアイルランドには逆に大陸からも様々な「語り」が時代を通じて流れ込んだ。松原秀一氏の『中世ヨーロッパの説話:東と西の出会い』(中公文庫)

中世ヨーロッパの説話―東と西の出会い (中公文庫)

中世ヨーロッパの説話―東と西の出会い (中公文庫)


ではインドを発祥としてユーラシア大陸の東西、日本とヨーロッパにそれぞれ行き着いた物語の変容をいくつかの作品を例に解説されているが、アイルランドは物語の旅の西の終着点ということになる。しかしそうやって行き着いた物語は、アイルランドのケルト的風土のなかで独特の熟成を遂げる。二〇世紀初頭のアイルランドの文学者であるシングの紀行文、『アラン島』にはシングが島の語り手から聞き取った物語がいくつか採録されているが、中でもシェイクスピアの『ヴェニスの商人』の「人肉裁判」(このエピソード自体はイタリア語の物語集「イル・ペコローネ」に由来し、同じようなエピソードは『七賢人物語』にもある)を連想させるエピソードが別のコンテクストのなかで組み込まれている話は印象に残っている。