閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

アヒルの子

ドキュメンタリー映画「アヒルの子」

家族をテーマとする「私」ドキュメンタリーを二本、ポレポレ東中野で見た。
『アヒルの子』の監督、小野さやかはまだ20代の女性だ。この作品は原一男の指導のもと、映画学校の卒業制作として5年前に制作したものだ。映画の題材は彼女自身、そして彼女の家族である。「家族を壊してやる」と彼女は映画のなかで宣言する。

暗闇の中、体育座りをした彼女が包丁をゆっくりと身体に押し当てる。これが冒頭の場面だったと思う。この息苦しい場面の直後に映し出されるのは彼女の帰省の光景である。冒頭部とは対照的なありふれた帰省の風景。四国の新居浜の故郷に戻った彼女を家族が暖かく迎える。何の問題もない平凡で幸せな家族に見える。兄が二人に姉が一人。優しい祖母、そして両親。しかし彼女はこの家族、そして家族のなかの自分が嫌で仕方なかった、死んだほうがいいというほど思い詰めていたと言う。なぜだ。この生ぬるい幸福が彼女にとってはそんなに耐え難いものだったのか。

まず彼女の標的となったのは、家族の中で唯一心が許せ、一番親しかった次兄である。次兄が彼女のうちに泊まりに来る。彼女は次兄を愛していた。抱かれたいと思っていた。眠っていた次兄を起こし、彼女は自分の思いを泣きながら伝える。それを静かに受けとめる次兄。告白が終わると彼女は次兄をアパートから追い出す。
次は彼女が憎悪していた長兄に彼女は接近する。長兄は彼女が小4のときに猥褻ないたずらをした。風呂上がりの彼女を抱きしめ、キスをし、その性器を舐めたと言うのだ。この事件は彼女の心に深い傷となった。彼女は兄を呼び出し、カメラの前でこの事件について問い詰めることを決心した。泣きながら彼女は兄を糾弾する。すると兄は案外素直に自分の過ちを認め、謝罪してしまう。彼女に求められるまま土下座までして。観客としてもっと壮絶な修羅場を期待していただけに拍子抜けの感じだ。極度の緊張状態にあった彼女は兄の土下座に毒気を抜かれ、虚脱してしまったかのようだった。

このように家族の一人一人をカメラの前で問い詰め、家族のなかで彼女が蓄積してきた怨みの復讐を行うことで、表面上は少なくとも安定しているように見える家族を強制的に解体していくのかと思い戦慄した。いや戦慄すると同時に、この後さらにエスカレートしていくだろう修羅場を想像して私はわくわくしたのだ。

ところが兄と同様憎んでいるという姉との対決は予定調和じみた和解に終わってしまう。奔放に過ごした姉のせいで、彼女は抑圧されたまま親のまえで「良い子」で居続けなければならなかったというが、どうも怨みのエネルギー総量が足りない感じがした。姉は彼女の挑発に乗らない。しまいには処世に長けた姉に彼女が丸め込まれてしまったように見えた。

長兄の性的いたずらはショッキングではあるが、少なくとも外から見る限り、彼女のいた家族環境はそれほどひどいものではないのだ。むしろ映画を撮ることになったことを契機に、既にうっすらと跡が残っているぐらいの傷口をナイフでかき回すことで、傷をさらを深刻なものにしているような感じがある。グチャグチャやっているうちに撮影するほうも、される方も段々興奮してくる。カメラ向けられているうちに演技が本気に変化してしまうような。

作品の後半は両親との対決である。彼女は五歳のときにヤマギシ会のコミューンで親と離れて共同生活を送らされたという経験を持つ。五歳の彼女にとっては何で自分が親と離れ離れに暮らさなければならないのか理解できない。自分は親に捨てられたのだと思ったそうだ。そしてヤマギシのコミューンから戻ってきた後は、親に二度と捨てられることのないよう「いい子」でいるように常に努力してきたと言う。そしてこのいい子でいることが彼女にとっては耐え難い苦痛だったそうだ。親子の縁が断ち切られることになるかもしれない、という恐怖でぶるぶると震えながら、彼女は両親の寝室に向かう。そしてやはり激しく泣きながら、五歳の自分をヤマギシに送ったことについて親を責める。

しかしこのヤマギシ生活のトラウマの激しさについても、私には「映画制作」によって半ば意図的に増幅されたトラウマではないかという風に思えた。彼女の両親はヤマギシの自然志向、原始共産主義的理念に肯定的ではあるだろうが、私財を全て擲ってヤマギシの活動に没入するような熱心な信奉者には見えなかった。ごく常識的で社会性を備えた親だと思う。だいたい娘を田舎から東京の映画学校に送り出すことを許すくらいの度量は持っている人物なのだ。 Wikipediaを参照すると「1980年代は、子育て問題や環境問題などに関心の高い人たちに農村体験、循環型社会のモデルとして受け入れられた」とある。おそらく彼女の両親もそうした風潮の影響のもとにあり、「熟慮の末、よかれと思って五歳の娘をコミューンに送った」という言葉にウソはないと思う。五歳の子供にとってはつらい経験だったかもしれないけれど。

彼女はその後、当時のヤマギシ学園の名簿をもとに、同じ時期にコミューンで生活していた同級生の何人かを訪ねる。彼女たちのヤマギシ体験への感想はさまざまだ。しかし取材者である小野さやかほど深刻なトラウマを負っている者はいないように見えた。

かつての同級生への取材を終えた後、彼女は再び両親のもとに戻る。
カタストロフは起こらない。それは結局のところ、彼女の家族が抱えているいびつさが、彼女が強調するほど深刻なものではなかったからであるように私は思った。そして無意識的に小野さやか自身が家族への回帰、家族が自分を最終的には受け入れていることを撮影中も期待していたからであるようにも思う。

観客としては、欺瞞を徹底的に排除することで個々のエゴイズムを露悪的に提示し、家族の解体・破壊を完遂させることができなかった制作者の甘さを少々物足りなく思った。もっともそういうことを行うと彼女は生きていけなかったかもしれない。20歳の女性がスクリーンに果敢にさらした己の怯えた姿には心を打たれた。両親への糾弾を前に足がぶるぶると震えている場面はとても印象的だ。

家族を題材とする物語は尽きることがない。家族は怖い。
いつか私も自分の子供と対決する日が来るのだろうか、それとも欺瞞を温存させて、決定的な対立を避けたままあいまいな幸福な幻想を維持していくのだろうか。