閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

女がひとり

演劇集団ア・ラ・プラス
演劇集団 ア・ラ・プラス | A LA PLACE

  • 作:ダリオ・フォー
  • 演出:杉山剛志
  • 出演:蔡恵美
  • 劇場:北池袋 atelier SENTIO
  • 上演時間:70分
  • 評価:☆☆☆☆★
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女優一人と演出家の演劇カンパニー、A LA PLACEの公演を見にいった。これがこのカンパニーの9回目の公演だが、私が見るのは今回が初めてである。所属女優のチェ・ヘミさんが昨年の利賀演芸祭で優秀演劇人賞というニュースがこのカンパニーを私が知ったきっかけだったと思う。在日韓国人でフランスに長く滞在していたヘミさんの経歴やこれまでの上演歴をウェブページで知って、何となく興味を持っていた。今回公演を見にいったのは、上演演目がイタリアの現代作家、ダリオ・フォーの一人芝居だったからである。ノーベル文学賞作家であるダリオ・フォの作品は、これまで上演の機会は度々あったようだが日本ではそれほど知られていない。私がこの作家知ったのは、恥ずかしながら数年前で、コメディ・フランセーズの役者による聖フランチェスコの生涯を扱った一人芝居「神の道化師」を見たのがきっかけだ。その後、パリのコメディ・フランセーズで『滑稽な聖史劇』を見て、中世演劇に対するこの作家の深い理解と、中世劇の特性を最大限生かしつつそれを現代劇へと再生させた創意に感嘆した。

私がこれまでに見たダリオ・フォの作品はいずれも中世演劇と内容的にも形式的にも関わりの深いものだった。今回上演された一人芝居「女がひとり」は中世とは関わりのない風刺的性格の強い現代劇だった。登場人物はとある家庭の主婦であり、この主婦が向かいの建物に引っ越してきたばかりの婦人に、セックスに関わる問題を主な主題とする抑圧的な日常生活について赤裸々な告白を行うという内容である。

上演会場のアトリエ・センティオの白壁はそのまま使われる。演技スペースの中央には、側面と背面が半透明のプラスチックでできている大型の電話ボックスのような箱が設置されている。そこに赤いワンピースを着た女がいる。箱には机があり、その上には電話がある。この女は正面の建物に引っ越してきた婦人に気付き、彼女の向かって猛烈な勢いで自分の奇妙な家庭状況、そして性生活について語り始める。観客は彼女に語りかけられる「婦人」に見立てられる。正面に建物の上階からは双眼鏡で彼女を覗く変質者がいて、女はこの変質者をしばしば激しい言葉でののしる。また度々電話がかかってくる。電話をかけてくるのは彼女の夫と見知らぬ変質者である。この女は夫により監禁状態にあり、家の外に出ることができない。交通事故で身体障害者となった夫の弟が同居していて、この弟はラッパを鳴らすことで彼女とコミュニケーションを取る。この義弟も変態である。子供が二人いることが彼女の言葉によって明らかにある。上の娘は友人と遊びに行っていて不在。下の子供はまだ赤ん坊で、たびたび泣き声を上げる。

女は正面の建物上に住むらしい覗き魔、夫からの電話、義弟のラッパ音、子供の泣き声、変質者からの電話、語り相手である向かいの女性、そして彼女自身の話す言葉のいちいちにエキセントリックな反応を示す。チェ・ヘミの表情と動きの多彩さ、そしてその目まぐるしい移行の優雅さ、美しさは特筆すべきものだ。かなり特異で強引な設定の話ゆえに、最初の20分ほどは劇中世界に入り込むことができなかったが、彼女の芝居が放つエネルギーに引き込まれ、知らず知らずのうちに劇世界に同調してしまっていた。一度同調すると、この女優の場の支配力は圧巻である。劇の後半は、若い男性との不倫関係の告白が中心となっていく。何度もセックスということば繰り返される。空回りする言葉によって、性への偏執狂的なこだわりが表明される。その即物的なセックスについての語りは、切実であり、生々しい内容にもかかわらず、どこかカラッと乾いた感じがする。悲壮な虚無感と狂気が支配する饒舌のなかに女は存在し、その乾いた絶望に観客である私も飲み込まれてしまいそうになる。

この作品でまず思い浮かんだのはベケットの『幸せな日々』だ。『幸せな日々』にも話し続けることによって、かろうじて自分の生を確認できる人間が描き出されている。次ぎに思い浮かんだのは、私の祖母がぼけてしまう前の数年間に示してた猛烈な饒舌ぶりである。この頃、私は帰省するたびに祖母の一方的な喋りに数時間つきあったものだった。耳が遠くなっていたせいもあるのだけれど、一方的に喋るのみでこちらの問いかけにはほとんどまともな答えが返ってこない。対話への努力は饒舌のエネルギーにかき消されてしまう。話す方も疲れるだろうが、聞き手のほうがその饒舌の不毛さに憔悴してしまう体験だった。同居する家族で祖母の饒舌に付き合う者は誰もいなかった。せめて帰省しているときぐらい、私が祖母の話につきあうべきだというふうに考えていた。祖母も話すことによって、辛うじて自分の存在を確認できていたのだ。あの頃の祖母の不安感が、今日の「女がひとり」を見ていてわかったような気がした。

「女がひとり」を見ていると、段々、彼女の対話の相手である向かいの婦人がいるのかいないのかがわからなくなってしまう。全てが彼女の妄想ではないのかと。半透明の壁のボックス、机のなかのピストル、ほ乳瓶、そして女が着ていた赤い服、舞台で使われたオブジェの数は少ないが、それらは劇世界を支配する得体の知れない不安感を隠喩的なやりかたで見事に強調していた。

戯曲の翻訳もよかった。世田谷パブリックシアターで1999年にリーディング公演されたようだ。『PT』1999年4月号に翻訳が掲載されていた。訳者は石井恵、監修は田之倉稔