閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

OM-2『一方向』

http://om-2.com/main#ichihoko

  • 構成・演出:真壁茂夫
  • 出演:佐々木敦、中井尋央、柴崎直子、丹生谷真由子、金原知輝、大根田真人、TAKESHI、中山志織、亀山由美子、村岡尚子
  • 映像デザイン:金子昭彦
  • 映像スタッフ:長堀博士(楽園王)
  • 照明:三枝淳、加藤いづみ、久津美太地
  • 音響:齋藤瑠美子
  • 舞台監督:田中新一(東京メザマシ団)
  • 上演時間:115分
  • 劇場:西日暮里 日暮里サニーホール
  • 評価:☆☆☆★

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同じタイトルの作品が昨年、韓国人俳優によって上演されたが、作品としてはまったく別物。韓国人俳優による『一方向』では、両側を客席に挟まれた通路のような舞台君間を役者たちが文字通り「一方向」に進みつつ、日韓の現代史を象徴的に表現したものだったように思う。

今回の舞台は円形舞台である。壁際に置かれた客席が中央の舞台空間を取り囲む。舞台設計に、ジャン・フーケが描いた聖史劇の一場面、『聖アポリナの殉教図』を想起した。円形の舞台は、特殊な魔方陣のように思われた。

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110分の舞台はいくつかの部分からなる。各部分に物語的な展開はなく、独立性が高い。最初は二台のパーカッションの演奏とともに、ワンピース姿の女が中央で激しく踊る。最初は赤いワンピース、それを脱いで頭部を覆い隠した状態で、身もだえるように激しく踊る。赤いワンピースの下は白いワンピースを着ていた。パーカッションの音楽は途中から、ポーランドの現代作曲家、グレツキの「第三交響曲」に変わる。女声のヴォカリーズが入った抒情的で美しい作品で、日本でもよく知られている作品だ。

グレツキのこの曲は、『一方向』で提示される各要素を統合する通奏低音としてスペクタクルを支配し続けた。

作品にはいくつかのきわめて印象的な、役者の身体の特異な動きと舞台美術の造形のコンビネーションによって作り出された。思わずはっとするような美しい光景が含まれていた。最初の舞踊的部分では、女が電球につながれた長いコードを、ハンマー投げのように、ぐるぐると回す場面がよかった。振り回された電球は、観客席のすぐ近くまで接近し、そして次第に女の身体に絡みついて、女の動きを封じてしまう。

畳ほどの大きさの白い屏風のようなものでできた巨大なぼんぼりのようなオブジェが天井からゆっくりと降りてきて、演者である女と観客を隔てたところで、最初の部分が終わる。ここで10分間の休憩。休憩に際して、OM-2のスペクタクルの前衛性についていわずもがなの陳腐な説明アナウンスが入る。ある種のユーモアのつもりなのかも知れないが、あまり面白くない。

休憩が終わると、ぼんぼりの屏風に男の映像が映し出され、何かしゃべっている。内容はよく聞き取れない。この後に続く部分が素晴らしかった。舞台中央で「ぼんぼり」を形成した白い「屏風」板が客席のほうに向かって放射状に倒れると、中には巨大なビニールの膜が膨らんでいて、その中に一組の若い男女がいる。透明のシェルターのなかで偶然保存された男女の幻影のようだ。二人は恋人同士の日常的なやりとりを三度、そのビニールの膜のなかで繰り返す。グレツキの音楽が流れる。

三度目にくり返したところで、膜のなかに入ったまま、二人は円形舞台を散歩する。散歩する過程で、二人を包み込んでいた平穏な均衡が崩壊していく。中央部に黒い鉄製の櫓が数台並べられる。スモークが場内を包み、会場はある種の宗教的儀式を思わせる神秘的であやしい雰囲気となった。鉄製の櫓が円形の舞台を分断し、その両側に男女が別れて座る。男と女は「素」に戻り、自分の経験について目の前にいる観客に向かって話し始める。特にどうということもない平凡な語り、しかし語りが突然彼らがかつてかかえていたトラウマに接触すると、とたんに彼らはヒステリックな叫び声をあげ、身体を痙攣させながらもだえ動く。日常的で了解可能なものが突然、不可解でコントロール不能なものへと変質する。われわれが心のなかで抑圧しているものが、臨界点を超えて突然吹き出してしまうかのような、この反転の表現がとてもいい。女は左腕に包帯を巻いている。リストカットの傷が包帯の下にはあるのだろう。男は自分の病んだ状況を絶叫しながら説明しているようだ。櫓には何人かの人物たちがいて、彼らは二人の様子を不動の状態で見守っている。ここまでのスペクタクルは本当に素晴らしいものだった。

最後の部分にあたるOM-2の巨漢特殊俳優、佐々木敦のソロ・パフォーマンスの部分で今回の作品の勢いは失速してしまった感じがした。佐々木のパフォーマンスはこれまで見たものと比べると、エネルギー不足で物足りない。いつものパターン、組合せをなぞっているような「手順」のようなものを感じてしまい、私は白けてしまった。OM-2の表現で手順を感じさせてはだめだ。手順があったとしても、それを衝動と観客に信じ混ませてしまうような迫力が今回の佐々木敦のパフォーマンスには乏しかった。

『一方向』の主題歌として選ばれたグレツキの『第三交響曲』はメッセージ性がはっきりしぎている。あの美しくわかりやすい叙情性も私には通俗に感じられた。音楽が饒舌で具象的でありすぎるために、作品の枠組みが狭くなってしまったような気がした。

ビニールの膜の男女の場面は本当に好きなのだけれど、全体としては破壊力、尖った感じが乏しくて、物足りない公演だった。