閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

第4回関東中学校演劇発表会・2015関東中学校演劇コンクール 第2日目

主催:全国中学校文化連盟演劇専門部関東ブロック/関東中学校演劇研究協議会(関中演協)

会場:神奈川県立少年センター

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「第4回関東中学校演劇発表会・2015関東中学校演劇コンクール」第2日目に上演された六校の作品を見た。中学演劇は県や地域によって組織化が進んでいないところも多く、演劇部が存在しない学校が固まっている地域もあるようだ。全国大会に相当する全国中学校文化連盟総合文化祭よりも関東ブロックの大会のほうがレベルの高い学校が多いという話も聞く。各演目の上演時間は一時間以内。六演目、バラエティに富んだ内容だった。以下、私が見た六演目についての短評を記す。

関東中学校演劇コンクールプログラム

千葉市立土気南中学校(千葉県)『修学旅行』(畑澤聖悟作)

高校演劇の全国大会の常連、青森中央高校演劇部顧問の畑澤聖悟の傑作の上演。高校演劇のみならず、中学演劇でもこの作品は取り上げられることが多い。青森の高校生の沖縄への修学旅行の一夜の情景が、旅館の一部屋を舞台に展開する。この部屋のグループの女子5名の個性と生態、メンタリティが生き生きと描き出されているだけでなく、この5人の関係性が、戯曲が執筆された2005年当時の世界情勢、とりわけアメリカのイラク侵攻時の国際関係のメタファーになっている。また舞台が沖縄ということで、70年前の太平洋戦争の惨劇に対する現在のわれわれの意識についても問題提起が行われている。政治とは何か、平和とは何かという社会的なテーマを背景にしているけれど、その前景では微笑ましくもリアルな女子高生の修学旅行の一夜の情景が展開するという構造の作品だ。

土気南中学校の公演では、高校演劇版のオリジナルの演出がほぼそのまま踏襲されているようだ。登場人物たちは東北弁っぽい訛りで台詞を話す。高校から中学への設定変更も行われていないように思った。俳優たちは振付っぽいリズミカルな動作を伴いながら台詞を話す。このはじけるような動きがキレがあって可愛らしい。班長役のメガネの女の子と意地悪な生徒会長役の女の子の演技が上手だった。枕投げの場面は、五人の同部屋の生徒たちだけでなく、舞台袖からも大量の枕が飛んでくるという愉快な演出があった。これもオリジナルを踏襲したものなのだろうか。

戯曲のよさを引き出した出来のいい上演だと私は思ったのだが、審査結果では銀賞だった。

気になったのは、原作にはない現在の世界情勢を反映させた部分だ。イスラーム国が出てくるのはまだしも、生徒のひとりが酔っ払って「竹島を帰せ」と言ったという台詞があったり、それに対して「沖縄だからむしろ尖閣諸島でしょ」とつっこみを入れる時事ネタが入っていたりした。おそらく顧問の先生のイデオロギーに基づく改変だと思うが、この入れごとは原作者の畑澤の意図には反するものであるだろうし、中学生の子供を使ってこうしたイデオロギーを劇のなかで表明させるのは、趣味がよくない。もっともそれなら反戦というテーマがやたらと多い中学・高校演劇もイデオロギーの押しつけではないかという話にはなるのだが。

 

船橋市立御滝中学校『希望の星』(戸澤文生[顧問]作)

幕開きの場面が印象的だった。幕が上がると、青色のホリゾント幕を背景に不動の女子生徒9名のシルエットが人形のように舞台上に並んでいる。9名の女子生徒は、4名、2名、3名の三つのグループに分かれている。それぞれ享楽的で軽いのりの4名のグループ、真面目だがクラス内では地味な2名、クラスのボス的存在の学級委員の3名。

 

この真ん中のグループの一人であるあかりが天体望遠鏡で星を見ていていると、彼女の親友の友美が空から降りてくる。しかし彼女は友美ではなく、オリオン座のベータ星(一つの星座のなかで二番目に明るい恒星)であるリゲルだと言う。このリゲルに導かれ、あかりは星を巡る旅をし、その旅のなかで地球が戦争によって破滅に向かい、宇宙全体に悪い影響を及ぼしていることを知る。星々が擬人化され、星々のあいだの権力関係があかりのクラスでの関係とパラレルになっている。しかし無生物である星々への性格付けが恣意的で、学校のクラスの中での人間関係との重ね合わせは説得力に乏しい。また劇中で示される反戦のメッセージも紋切り型で空虚に感じた。

中学演劇の会場はかなり広いので、舞台から声を客席に明瞭に届けるには配慮が必要となる。御滝中学校の発声は、声を届けることに注意を向け過ぎていて、台詞処理が大味で一本調子になっていた。人物造形も類型的で人間味に乏しい。中世に流行った擬人化された概念のアレゴリーによる道徳劇が、この劇と雰囲気が似ている感じがする。

私はあまり好きな作品ではなかった。

 

杉並区立松ノ木中学校『座敷童子』(古河大輔作、長島美穂潤色)

松ノ木中学校演劇部は都大会の常連校だそうだが、演劇部員は二年生女子4名だけとのこと。この4名のキャストによる『座敷童子』は素朴で愛らしい小品だった。

幕が上がると、広い間口の舞台の中央に敷かれた布団に女の子が寝ている。すると舞台奥を着物を着た座敷童子が風車を持って走り回る。寝ていた女の子は目を覚ますと、座敷童子の存在にびっくりして、座敷童子を追い払おうと追いかけ回す。翌日、座敷童子のことを学校の友達二人に話すと、友達が泊まりに来ることになった。夜、待ち伏せしていると座敷童子がやってきた。三人の子供と座敷童子は、おにごっこや物真似遊びをして楽しい一晩を過ごした。

子供向きの絵本のようなファンタジーだった。単に子供たちが遊んでいるだけの舞台である。しかし布団に寝ていた女の子のその肥満体型を生かしたコミカルな芝居、白塗りの座敷童子の女の子の話し方と動作の可愛らしさ(客席の女の子たちもその可愛らしさに終演後、感嘆の声を上げていた)、そして四人の遊びの楽しげな様子を見ているだけで、優れた民話を味わうような幸福感を覚えた。台詞の間をゆったりととった展開のリズムが心地いい。四人の俳優には広すぎる舞台のがらんとした感じが、座敷童子の寂しさや別れの切なさを増大させる。叙情味豊かな美しい作品だった。この作品は金賞を受賞した。

 

横浜市立日吉台西中学校『夢想猿舞』(保木本健太と西中演劇部作)

昼食を挟んで午後の最初に上演された作品は、中学演劇では珍しい大活劇スペクタクルだった。題材は孫悟空で、金角・銀角のエピソードを翻案したもの。作者の保木本健太は、悟空役の役者でもあり、長身でハンサムな中学生だ。集団による舞踊場面や殺陣アクションの場面もふんだんに盛り込まれている。衣装も凝っている。「ジャパネットダカダ」というテレビの通販のパロディが用いられ、この「ダカダ」が三度にわたって悟空たちに道具を渡して窮地を救うという遊びも取り入られていた。生徒たちが自由に楽しみながら作っている雰囲気を、観客も楽しむことができる作品だった。

中学演劇らしからぬ作品の華やかさと娯楽性は、会場の中学生観客を魅了していた。この作品は金賞を受賞した。

 

東京都東久留米市立南中学校『そろそろ出番です』(森澄枝作)

キャスト4名、音響と照明のスタッフ2名の小さな演劇部の作品。私が今回見た六作品のなかでは、私がいちばん好きな作品だ。作・演出の森澄江さんはこの学校の演劇部の外部指導者(コーチ)とのこと。

冒頭の場面は男女二人が舞台空間を平行方向に大騒ぎしながら走り回る。二人はこだまのように互いの話すことばを繰り返したりしている。男のほうが小さなロッカーから出てきたり。意味不明のドタバタ場面に観客はいきなり戸惑う。最初はいったいここがどこなのか、いったい何が起ころうとしているのかわからない。しばらく見ているとようやく二人は「物書き部」の部員であることがわかってくる。

 

この「物書き部」に演劇部員が公演の台本の執筆を依頼に来る。物書き部の後輩が台本を執筆することになるのだが、この台本は完成しそうにない。物書き部の男子部員の吉井は、自分では文章を書くことができず、鉛筆削りと励まし専門である。もう一人の先輩女子、楠は結局後輩に代わって台本を書くことにした。すったもんだのあげく、楠が台本を書き、演劇部に渡し、後輩の物書き部員はこの台本を上演する舞台に出ることになった。

この物書き部には奇妙な慣習があり、演劇部公演の台本は執筆するけれど、その公演は決して見てはならないことになっている。自分の書いた台本と後輩の演技が気になるけれど、楠と吉井は物書き部部室に残ってもんもんと過ごす。

 

四人の人物はみなどこかねじが外れた奇人の類だ。そもそも設定と物語自体が奇妙で意味不明なのだ。男子物書き部員の吉井役の男の子の演技がおかしくてしかたない。台本はキャストに当て書きしたものだそうだ。この男の子はひょろっと背が高いのだが、無表情で台詞も棒読み。その口調と仕草はどこかしなやかで女性的だ。これに対し、男の子の同輩の女の子の楠は気が強くて、エネルギッシュで、エキセントリック。常にかっかと燃えていて、テンションが高い。そして見た目はとても可愛らしい。この二人がボケと突っ込みになっていて、軽妙なやりとりと男の子のボケ具合に何度も爆笑した。

 

中学演劇には珍しくディキシーランドジャズの音楽選曲とその使い方もかっこいい。不思議な味わいのシュールで滑稽な作品だった。この作品は金賞を受賞した。

 

平塚市立神明中学校『彫刻の森へ』(照屋洋作、神明中学校演劇部潤色)

大所帯の演劇部の作品。最初の15分、客電を灯したまま、幕が下りた状態で、俳優たちが観客に呼びかけ、自分たちの家族についての語りを行う。この語りのリアリティや滑らかさは大したもので、その演出技量に私は感心したのだが、審査員や他の観客の多くには評判があまりよくなかったようだ。時間が長すぎて、仕掛のあざとさが鼻についたらしい。内枠の物語は、家族や友人に愛されていることを実感できず、家出した少女の話だ。長大な前説で提示された打ち明け話が、内側の本筋の前振りになっている。

少女はかつて家族とともに訪れた楽しい思い出の地、箱根の彫刻の森美術館に赴く。少女の移動手段である電車やバスは、黒い服を着て、白いフレームの丸めがね(だてメガネでレンズ部分には目のシールが貼ってある)と白手袋をつけた黒子集団(コロス)によって表現される。彫刻の森に到着すると、彫刻の森の様々な彫刻たちが動きだし、少女の記憶を再現するという仕掛になっている。黒子のコロスによる表現の工夫は面白かったが、再現場面の連続には単調さを感じた。ただ中学演劇では会場の大きさや演技の未熟さ故に写実的な表現は難易度が高い。これからはこうしたダンス的で様式的な表現の志向が強くなっていくかもしれない。

少女は彫刻の森で記憶をたどることで、家族と母親の愛情に気づき、信頼を取り戻す。親への感謝という押しつけがましい道徳への導きは私の好みではなかった。

黒子コロスを含め俳優たちの動きはとてもよく訓練されていたし、台詞もよく通っていた。私には核となる物語が好みではなかったが、他の人の感想を聞いてみると、前振り部分の観客語りかけと自分語りの仕掛の長さについては否定的にとらえた人が多いように感じた(ある演劇部顧問の先生は「あの前振りがなかったら、金賞だったかもしれない」と話していた)。