閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ロベール・ルパージュ『887』

ロベール・ルパージュ「887」(日本初演) 東京芸術劇場

  • 作・美術・演出・出演:ロベール・ルパージュ Robert Lepage
  • 作曲・音響:ジャン=セバスチャン・コテ Jean-Sebastien Côté
  • 照明:Laurent Routier
  • 劇場:池袋 東京芸術劇場
  • 評価:☆☆☆☆☆


私がこれまで見たルパージュの作品のなかで最も優れた作品だと思う。そして私が見た彼の作品のなかで圧倒的に好きな作品だ。

ケベックの演劇人としてのルパージュによるナショナルかつパーソナルな物語。洗練された演劇的仕掛によって、商業主義とも結びつきうるユニバーサルな芸術表現に到達したルパージュが、ケベック現代史をこのように正面から、彼自身の個人史と絡め率直に描き出していることに感動した。

ルパージュを彼の個人史の想起に導くきっかけになったのは、1970年の『詩の夜』で発表されたミッシェル・ラロンドの詩、« Speak White »をルパージュが暗唱して朗読しなくてはならなくなったことだラロンドの« Speak White »は、イギリス系住民の支配のもとで抑圧され、民族としての尊厳を奪われていたフランス系カナダ人であるケベック人の民族意識に強烈に訴える内容の詩だった。« Speak White »は、ケベック人としてのアイデンティティを覚醒、鼓舞させる歴史的事件となった。ケベック人でこの詩を知らない者はいない。ケベックに関心を持つ者でこの詩を知らない者はいない。

Speak White par Pierre Falardeau, Julien Poulin - ONF
Michèle Lalonde « Speak White »

youtu.be


『887』はルパージュの家族の物語が、ケベックの現代史の重大事件を参照しつつ、ルパージュならではの驚異に満ちた多彩な演劇的幻想のなかで、描き語られる一人芝居である。


高さ2メートルほどのドールハウスのような集合住宅(中では人の生活する様子が映し出されている)などミニチュアの舞台美術で過去の記憶が再現される。そこはルパージュが幼少時、両親と兄弟姉妹とともに暮らしたケベック市内のアパートである。887はこのアパートの住所の番地であり、この数字が彼の記憶を蘇らせるキューとなる。


演劇人として世界的名声を獲得し、ケベックを代表する舞台芸術家となったルパージュの出自はケベックのフランス語系住民の労働者階層だった。彼の父は、軍隊を退いたあと、タクシー運転手の仕事で家族を養っていた。家族は父、母、そしてルパージュと兄、姉、妹の4人兄弟。6人家族には手狭なアパートだったが、そこにさらにアルツハイマーを発症した父の母が同居しはじめ、家族の人間関係はギクシャクしたものになる。農村型カトリック社会であった当時のフランス語系カナダ人にとって、これくらいの家族はごく普通のことだったはずだ。ルパージュの幼少期である1960年代は、ケベックでは「静かな革命」という社会改革が進行していた時代であり、フランス語系住民は信仰を捨て、それまでのカトリック教会の精神的支配から逃れ、政治が主導した社会制度改革のなかでケベック人としての民族意識が高まり、独自のアイデンティティを確立していく時代でもあった。カナダ連邦から離脱して、独立しようという機運も高まった時代である。


ケベックナショナリズム高揚のさなかで発表されたラロンドの« Speak white »は、イギリス系住民の支配と差別を激しく糾弾するその内容により、ケベック人による民族的アイデンティティの文学的マニフェストとなり、一気に人々のあいだに広まった。


「静かな革命」のなかで行われたケベックナショナリストたちのテロリズム、そしてその最中にケベック市で起こった連続少年誘拐殺人事件。ド・ゴール将軍の演説。こうしたケベック人が記憶として共有する社会的事件とともに、ケベックの平均的労働者階級であるルパージュ家についての個人史が語られる。退役軍人である父は、ケベック独立派には距離を取る。連邦制支持者であるようだが、だからといってケベック独立派の主張を否定することはできない。母親はケベック独立派を支持しているようだ。しかし認知症の老婆をかかえ、貧しいなかでぎりぎりの生活を送るルパージュ家は、こうしたケベック社会の変動にふりまわされることはあっても、その渦中からは外れた場所にいる。


1980年代以降に行われた二度の住民投票を経て(どちらも僅差でケベック独立が否決された)、現在のケベックは連邦制離脱の熱気はかなり弱まっている。80年代以降は、それまでの仏語系、英語系住民に加え、世界の様々な国と地域から大量の移民がケベック(とりわけモントリオール)に定着し、ケベック社会はかつてよりはるかに多様な多民族・多文化社会になっている。
そうした時代にルパージュは再びラロンドの民族主義な詩、« Speak white »を詩の夕べで読むことになった(1989年にイタリア系移民作家のマルコ・ミコーネが、フランス系住民の横暴を告発する« Speak white »のパロディである詩« Speak what »を発表し、物議をかもしている、そういう時代・社会の今である)。ルパージュは今だからこそ、ケベックナショナリズムを冷静に評価し、« Speak white »の詩を通して、かつての自分たちの姿をケベック現代史のなかで客観的に見直し、芸術作品として加工し、発表することができたのだ。
ルパージュの作品というと、スペクタクルとしての技巧の素晴らしさには感嘆するけれど、その驚異は脚本の薄さゆえに空虚に感じられることが多かった。今作ではスペクタクルの仕掛が、脚本とうまく連動し、その表現に説得力を感じた。ただケベック現代史のとらえ方は教科書的過ぎるように感じられラディカルな問いかけはなかったし、歴史と個人史の絡ませ方も巧いけれど定型的だとも言える。そうした物足りなさはあるにせよ、この作品が傑作であり、私が最も好きなルパージュ作品であることは間違いない。授業でも紹介したいし、ケベック学会のメンバーにはできれば全員に見て貰い、感想を聞いてみたい作品だ。


私は2013年夏にケベックモントリオールに三週間の研修を受けて以降、すっかりケベック贔屓になってしまったのだけれど、ルパージュによって演劇的に概観されたケベック現代史を見て、自分がなぜケベックに惹かれたのがよくわかった。現代のケベックは豊かで洗練された文化を持った刺激的な場所だ。自然も豊かで、人の応対の感じのよさもパリとは比べものにならない。モントリオールでは、フランス語を話す人々でこんなに物腰が穏やかで親切な人たちがいたことが、ちょっと驚きだった。あまりにも心穏やかに過ごせるので、回りがフランス語なのに、外国にいる感じがしないのだ。私がケベックに惹かれたのは、しかし、おそらく何よりも、ケベックがその文化・自然・社会の豊かさにもかかわらず、常に周縁に自らを位置づけ、その周縁性を常に問い続ける存在であるからだと思う。