閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

平原演劇祭2019第7部「宮代町からイエーツへ」

https://note.mu/heigenfes/n/nfe5423385fcd

 

f:id:camin:20190916115304j:plain平原演劇祭、恒例の秋の古民家公演はアイルランドの劇作家イェーツに関わるプログラムだった。

【前半】

  1. 小阪亜矢子:イェーツの詩に基づく歌曲、アイルランド民謡など(歌)
  2. 会場観客から4名:シング「旅人たちの春の夢」(輪読)
  3. 明美・すぎうら君:イェーツ「煉獄教室」(リーディング)

【後半】

  1. 高野竜:ご報告「お隣の異界」
  2. 菊地奈緒アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」(語り)
  3. 空風ナギ(孤丘座)、夏水、チカナガチサト:高野竜「光る土/空の影」。

 上演ジャンルはバラエティに飛んでいるが、全て屋内での公演で、パフォーマンスのためのエリアと観客エリアがはっきり分離した平原演劇祭にしては、静的なまとまりのある公演だった。上演は正午過ぎに始まって、終わったのが午後四時。途中十五分ほどの休憩が一回入った。観客は十五名ほど。

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まずメゾ・ソプラノ、小阪亜矢子の独唱から始まった。アカペラもしくや小型のベルやキーボードを使った最小限の簡素な伴奏で、イェーツとともにアイルランド文芸復興運動に関わったグレゴリー夫人の作品の劇中歌、アイルランド民謡、イェーツの詩に基づく歌曲、即興などを、時折短い解説を挟みながら三十分ほど演奏した。
歌のプログラムの時は、外は曇り空で、古民家の室内の色合いとぼんやりとした明るさとシンプルな音楽がよく合っていた。外から聞こえる蝉の声も音楽と溶け合った。

2番目のプログラムは、イェーツと同時代のアイルランドの作家、シング「旅人たちの春の夢」だが、これは観客参加型プログラムで、四人の観客がぶっつけ本番で戯曲を読見上げるというものだった。登場人物は四名で、旅の鋳掛屋一家(夫と内縁の妻、夫の母)と牧師である。私は読み上げに立候補して、夫の母、アル中のばあさんの役を読んだ。翻訳は 演劇企画CaL 主宰の吉平真優が訳したもので、9/06-08に上野で上演が行われたばかりだ。この公演情報は私は見落としていた。シングの戯曲上演とならば知っていればなんとかして見に行ったはずなのに。演劇企画CaLはアイルランド演劇に特化して上演を行う団体とのこと。これからの活動が楽しみだ。

「旅人たちの春の夢」はその場で翻訳が渡されて、素人が読むわけでが、四十分ほどかけて戯曲全編を読み上げるというかなりがっちりしたプログラムだった。放浪の鋳掛屋一家が司祭をやり込めるという中世フランスのファルスやファブリオを連想させる素朴な風俗喜劇だった。戯曲のテクストを目で追いながら音読している読み手はともかく、素人の読み上げで聞いているだけの人にはちゃんと伝わるのかなとちょっと不安だったが、滑稽なやり取りの場面ではちゃんと笑いも起こっていたので安心した。

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前半最後のプログラムであるイェーツ「煉獄教室」は異色のプログラムで、二日前に初めて会ったという武明美とすぎうら君が、動いて、演技をしながら読むというリーディング公演なのだが、高野竜がその途中で適宜上演をとめて、演出指示を行うというパフォーマンスだった。上演されるのは「煉獄」という父と息子が、過去に遡って、父が自分の父親(息子の祖父)を殺害し、さらに息子も殺害するというよくわからない作品だ。不条理演劇というよりは、時間が行ったり来たりして、肉親殺しが行われる陰惨で不可解な現象を、イエーツは本気で信じていたんじゃないかと思わせるような奇妙な味わいがある。今回上演された作品は、「煉獄教室」というより、「煉獄」教室と書かれた方が適切だったかもしれない。高野竜が気になった箇所でいちいち芝居を停止され、巻き戻されて、修正されるという作業の繰り返しは、芝居の内容の「煉獄」的状況をメタ的に表現しているようにも思えた。イェーツ「煉獄」はむしろこういうやり方で上演された方が、その本質が理解しやすいような気さえした。

 

休憩15分を挟んで後半。薄曇のなか、太陽が照ってきたが、雨上がりで木造で障子を締め切った古民家の室内はジトジトした蒸し暑さが増してきた。後半は高野竜の語りから始まった。

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高野竜の語り芸は絶品だ。特に大きな表情をつけたりせずに、淡々と語っているのだけれど、すっと聞き手の心を引き込んでしまう工夫がある。単なる場つなぎの口上、雑談のようにさりげなく話しながら、その語りの内容は次に続くプログラムへの伏線にもなっている。ケルトの民話の世界のように、彼が今、ここで語っている旧加藤家でも日常と異世界が隣り合っている。語りや芝居はその隣り合った異世界への扉を開く仕掛けのようなものだ、みたいな話を終えかけた時に、アイルランド民話「十二羽の鵞鳥」を語る菊地奈緒が下手のくぐり戸から入ってくる。

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グリム童話によく割るような姫と王子の物語を菊地奈緒は、古民家の広間を移動し、立ったり座ったりしながら、静かに読み上げた。このアイルランド民話もイェイツが採集し、書き記したものだ。

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小阪亜矢子の歌が入った後、最後の演目、高野竜作の戯曲『光る土/空の影』が始まった。これは今回のプログラムの中で最も通常のいわゆる「演劇」に近い作品だったが、最も意味不明な難解な作品でもあった。

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高野竜の戯曲は情報量が過密で、上演で耳で聞いていても理解できないことが多い。情報量過密であるだけでなく、設定と展開も突飛だ。彼の戯曲はネット上で公開されているので、後で戯曲を読み返してようやくその濃厚な文学性を認識できたりする。

『光る土/空の影』もわからなかった。民家内の湿度が上がり蒸し暑かったし、上演時間も3時間を超えて、すでいかなり朦朧としていたのだ。「師匠」と呼ばれる盲目のエキセントリックな婆さんとその弟子の対話劇だが、セーラー服姿の無言の美少女(彼女は最後の場面で初めてセリフを話す)が時折、この二人の中に介入する。婆さんとその弟子は旅芸人らしい。この二人の会話には、前半に上演された「煉獄」などイェーツのいくつかの作品のモチーフがところどころに挿入されている。イェーツだけでなく、高野が「口上」で話した宮代町の郷土作家の能と歌舞伎と民話がごちゃ混ぜになった奇妙な遺作も組み込まれているようだ。時代は人類滅亡後の世界なのか?

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物語の内容はぼんやりした頭でよくわからない。老婆役を演じた夏水の暴走し、破滅に向かって走り続けているような演技のエネルギーとそれと対照的な無言で小柄なセーラー服の美少女、チカナガチサトの佇まいの対比が印象的だった。

ずっと締め切られていた障子が最後に開け放たれ、開放感を得た。最後の場面では三人の女優が同じ所作でカタバミの葉を部屋中に撒き散らす様子が美しかった。