本来なら平原演劇祭2021第1部は1/24(日)に行われるはずだった。ところが1/24は雨降りだったため、前日夜に公演延期となった。これは幸いだった。野外演劇で、ゲリラ的にとある場所に穴を掘ってそこに俳優が埋まったまま演技をする「埋設演劇」である。3/7にこの埋没演劇に参加してみて、延期になってよかったなあと心から思った。あの寒さで雨がしとしと降るなか、こんな芝居をやっていたら、それはその過酷さゆえに忘れがたいものになっていたかもしれないが、出演者か観客に体調を崩す者が出たに違いない。
公演は3部構成になっていて、第1部は本編の前説となる散歩演劇、第2部が埋設俳優たちによる「姥ヶ谷落とし」の上演、そして第3部が後説散歩演劇である。本で言えば序文+本文+後書き、食事で言えば前菜+メイン+デザートのフルコースだ。平原演劇祭では複数の作品の部分がコラージュされて再構成された状態で出てくることが多い。一つの作品をきっちり味わう今回のような上演スタイルは珍しいように思う。
「姥ヶ谷落とし」は高野竜の埼玉地誌演劇(高野竜によると戯曲連載「風土と存在」第四十九番目の試み)の一つで、これまで何回か上演されている。私はこの作品の上演を見るのはおそらく三回目だと思うが、いずれも上演場所と演出は異なるものだった。
戯曲はここで公開されている。
今回の三回目(おそらく)の観劇でようやく私はこの戯曲の面白さを理解できたような気がする。演出は今回が最もトリッキーでスリリングだった。
集合時間は正午、集合場所は平原演劇祭の「本拠地」である東武動物公園駅より一つさきにある東武伊勢崎線和戸駅。はじめて降りる駅だ。
東武動物公園駅は近くに大型遊園地があるため、乗降客もそれなりに多い大きな駅だが、和戸駅は本当にがらんとしていて駅舎もこじんまりしているし、周囲にコンビニさえ見当たらない。観客数は4、5名ではないかと高野氏がツィッターでつぶやいていたが、12、3名いた。
高野竜氏が開演の挨拶をしたあと、彼は「本編」の準備があるからとその場を立ち去る。黒装束のニンジャのような女性が前説散歩演劇のガイド役として十数名の観客を先導した。
散歩演劇は一時間以上あった。和戸駅改札を出て左側に曲がりしばらく歩くと備前堀川という小川に突き当たる。この付近の川は護岸工事がされていなくて、両脇は土手だ。この備前堀川の向こう側は宮代台という特徴らしい特徴のない少々古びた感じの一戸建て住宅地なのだが、その宮代台に向かって備前堀川から水路が伸びている。この水路の名前が「姥ヶ谷落とし」らしい。住宅街に伸びる水路は現在ではその多くが暗渠になっている。
宮代台を流れる「姥ヶ谷落とし」沿いを歩くのが前説お散歩演劇のコースだった。
上の写真は水路にかかる橋の橋桁。「うばがやおとし」と書いてある。「落とし」とは「排水路」のことらしい。ガイド役の女優はあまり話さない。ポイントポイントでぼそぼそっと雑談するように説明が入るのだけど。そしてかなりの早足でたったかったか歩くので、運動不足で肥満の息が切れて、私はついて行くのがかなり大変だった。
「おいおい、もっと周り見てゆっくり歩いてくれよ」と心のなかでブツブツ言って追いかける。
一時間以上、5-6キロは歩いたと思う。黒マスクで黒髪長髪、そして和装というニンジャっぽいファッションだったので気づかなかったのだが、ガイド役女優は平原演劇祭常連の夏水だった。そう、この人、足がやたら達者なのだ。昨年4月の堤政橋下演劇で河原のかなり険しい道なき道をとっとこ歩いて、観客を先導したのも彼女だった。観客は振り落とされないようについていく。
水路「姥ヶ谷落とし」は一部暗渠になりながら、宮代台をぐるりと囲むように流れている。そして最後は元の備前堀川の出発点に戻っていく。水路の傾斜は弱く、水は淀んだかんじだ。
水路の終着点で「いったいなんのためにこんな水路の設計にしたんでしょうね?」とガイドの夏水に聞いてみたら「さあ、なんででしょうね」という返事で、すっと離れて向こうに行ってしまう。夏水はつれない美女なのだ。
宮代台住宅を区切る「姥ヶ谷落とし」の向こう側には広大な農地が広がっていた。
「姥ヶ谷落とし」沿いに歩いて、宮代台をぐるっと一周したあとはこの農地のなかのあぜ道を進んだ。
天気もよくハイキング日和ではあったが、風光明媚でもなんでもないこんな殺風景な場所を十数人の集団がぞろぞろ歩くというのは、知らない人が見るとかなり異様な光景だろう。暗渠探索というのはかなり物好きな趣味だと思うが、愛好家はかなり多いらしい。しかし暗渠マニアといえど埼玉の外れまでこんな感じで集団でやってきて歩き回ったりすることはないだろうし、いわんやこんな場所で演劇公演が行われるなんてことは、一般の人にはまず思い浮かばないはずだ。
畑の向こう側には、備前堀川同様、旧利根川本流の大落古利根川から分かれる支流が流れている。この支流は先ほどググって調べてみると備前前堀川という名前らしい。備前前堀川は、備前堀川とほぼ平行に流れている。
この支流沿いにある愛宕神社という何を祀っているのかわからない小さな神社に寄ったのち、清掃工場の向かいにある万年堰に到着。「姥ヶ谷落とし」の開演時間まで時間があるので、ここでしばらく時間を潰すことになった。
「おいおい、それだったらもっと手加減してゆっくり歩いてほしかったよ」と心の中で呪う。私は快速遠足一時間20分でこの時点でかなり疲労困憊していたのだった。
「姥ヶ谷落とし」の公演会場は、この万年堰から歩いて5分ほどのところ、農地の一部が高台になっている場所だった。この場所は関係者以外立ち入り禁止になっていたのだけれど、夏水はそんなことは気にせず鉄パイプの柵をくぐって平然と奥に進んでいくので、それについてった。柵をくぐったときには「おいおい、これはやばいよ」と思ったけれど。柵をくぐって、雑草生い茂る荒れ地を歩いていると、かなたの高台の上で豚のかぶりものをかぶった人間が槍を振りかざしているのが見えた。
『ジョジョ』のキャラクターのアヌビス神らしい。平原演劇祭ではジョジョ劇はしばしば取り上げられるので、平原演劇祭観客としては『ジョジョ』は教養として読んでおくべきマンガなのだが、私はこのシリーズのごく一部しか読んでいないため、アヌビス神がわからなかった。豚のかぶり物をしているな謎のキャラクターが、よくわからないことをグダグダと言いながら、動き回っているという認識だった。アヌビス神を演じたのは「ハマチのサヤ」氏だった。彼の出演は予告されたキャストにはない。突然決まったのだろうか。その割にはきっちり準備して演じている感じだったが。
アヌビス神はこの荒れた高台を上演のための結界として守る守護神のような存在だったと思う。高台を上った観客が見たのは次の光景でアル。
地面に埋まる生首三体。
このビジュアルは強烈なインパクトだった。これを見られただけでもここまでやってきた(そして散々歩き回った)価値があったというものだ。ベケットの『幸せな日々』では俳優が首まで埋まる。しかし劇場の舞台の上のセットで首から埋まっているのと、実際に本物の地面、荒野で人間の首が転がっているのでは、見た目のインパクトの強さが全然違う。こんな風景はまさにここで、平原演劇祭でしか見ることができない。
「姥ヶ谷落とし」の本編は首まで埋まった三人の俳優によって演じられた。三人が語るのは、このあたりの治水の歴史の物語だ。散文的で殺風景な住宅地と農地でしかないこの一帯の川をめぐる物語が、なんと豊かで美しいことか。埋設俳優の三人のことばによって、周囲の風景がいままで見ていたものとは違う異世界に変貌していく。鳥のさえずり、風の音、近くの道路を走る車の音、たまたま通りかかった火の用心を呼びかける消防車のサイレン。こうした背景の音が、風景と台詞と一体化し、非現実的な演劇の時空を作り出していく。
首まで埋まったアンジーが語る台詞の詩情にしびれるような感動を味わった。
「ずっと同じ絵を描き続けるためには、どんな風に、ずっと同じ人間でいればいいのだろう。同じ人間で居つづけると、何が見えてくるというんだろう。」
「姥ヶ谷落とし」の本編の上演中、アヌビス神はじっと動かず、黙ったまま、三人を見守っていた。この神の存在感も素晴らしかった。
ハプニングがあった。「姥ヶ谷落とし」のエンディングでは、アンジーが演じる「マキ」が「すいすいす」という文句を繰り返す民謡風の歌を延々と30分近く歌い続けるのだが、その歌っている途中に闖入者が現れたのだ。
「ここは立ち入り禁止ですよ」
この場所の管理者で、役場の人だとあとで高野氏に聞いた。不審な人間が立ち入って、集会をしているということで通報があったのだろうか。やってきたのは二人だった。丘に登ってみたら、豚のかぶりものと3人の生首が地面にあり、そしてそれを十数人の集団が取り囲んでいたのだから、やってきた役場の人たちもさぞかしぎょっとしただろう。仕事だから注意にしにきたわけだが、かなり怖かったのではないだろうか。
「責任者は?」と聞かれた気がしたので、高野竜さんのほうを指さした。役場の人たちが高野さんになにか注意しているあいだも、芝居は続く。俳優たちは動じる様子はまったくない。
結局、役場の人(二人来たが、一人は高野さんになにか注意したあと、立ち去った)が見守るなか、「姥ヶ谷落とし」は最後まで上演された。役場の人も、この集団の異様さ、不気味さに無理矢理中止させるのはためらったのだろう。
俳優が埋設されていた穴の始末とかが気になったが、終演後は速やかにその場から立ち去ることになった。高野竜氏だけがその場に残り、管理者である役場の人と話しをしている。
「どうなるんだろう、不法侵入で警察に連れて行かれるのだろうか」とちょっと心配して、200メートルほど離れた場所で出演俳優、感観客は待っていたが、高野さんはこちらに来ない。
もとの場所に見にいくと、高野氏も役場の人もいなかった。とりあえずぞろぞろと農地のなかのあぜ道を歩き、出発点の和戸駅方面に戻ることにした。
あぜ道を出て、宮代台の住宅地に出たところで、高野竜氏は私たちを待っていた。警察に連れて行かれることもなく、そのまま解放されたとのこと。
かなり疲労していて、トイレにも行きたかったのだが、予告通り、後説遠足演劇を高野竜氏のガイドで行うことになった。今度は前説とは逆方向の「姥ヶ谷落とし」の下流、備前堀川から「姥ヶ谷落とし」が大落古利根川に合流する地点まで歩いた。
前説遠足演劇、そして本編で、「姥ヶ谷落とし」がどのようなものだったかわかったあとなので、あまりきれいとはいえないこの水路沿いの風景も味わい深いものに感じられる。
塞がれて見えなくなった「姥ヶ谷落とし」の道路部の出入り口に、その排水路の存在を伝える石碑があった。おそらくこの付近に住む住人の多くもこの石碑が何を示しているのかは知らないだろう。ここに「姥ヶ谷落とし」という排水路があったという痕跡を、わざわざお金と手間をつかってこういった石碑で残すのが興味深い。
後説遠足の終点は旧利根川。水路がいくつも走るこの付近は、かつては利根川の氾濫時の遊水地でもあったという。
一日外で歩き回って私はヘトヘトになったが、高野竜もかなりもうろうとした感じだった。たしか一月中旬に堤政橋下であった演劇ユニット《のあんじー》の河原で焼き芋芝居のときは、高野さんは終演間際に意識を失い、救急車で運ばれたと聞いた。高野竜はいつもぎりぎりまで突っ走って芝居を作っている。
残った出演者、観客の多くは、和戸駅の近くにある老舗のそば屋に入ったが、疲労困憊の私はそこで彼らと別れて帰路についた。
平原演劇祭2021やりなおし第1部 #埋設演劇 「姥ヶ谷落とし」
3/7(日)12:00ー16:00
@東武伊勢崎線和戸駅集合
1000円+投げ銭
出演:アンジー、知乃、ほうじょう、夏水