閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2021/07/22 『森 フォレ』@世田谷パブリックシアター

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  • 作:ワジディ・ムワワド
  • 訳:藤井慎太郎
  • 演出:上村聡史
  • 美術:長田佳代子
  • 照明:沢田裕二
  • 音楽・歌声:国広和毅
  • 音響:加藤温
  • 衣装:半田悦子
  • 会場:世田谷パブリックシアター
  • 上演時間:3時間40分(休憩15分・10分)

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ムワワドの《約束の血》4部作の3作目。1871年の普仏戦争後のストラスブールから2010年のモントリオールまで、140年にわたる期間の8世代の人間たちの姿を描き出すスケールの大きな作品。ドラマの出発点および基準となるのは劇中で「現代」となっている2010年のモントリオールだが、各場ごとに入り組んだやりかたで過去の時代のエピソードが挿入される。そして各時代・各エピソードの登場人物は、親族関係でつながっている。しかしその親族関係も近親相姦などが入るので、世代別に整理された人物相関図を確認ないと物語を追うのは困難だろう。

 
 
 
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A post shared by 片山 幹生 (@katayama_mikio)

 

Twitter上などでの感想を見る限り、この舞台を見に来るメインの観客層の期待に応える公演にはなっていたようで、成功作なのかもしれない。しかし私には、いたずらに複雑で壮大なドラマのプロットに振り回され、演出も俳優の解釈や芝居も戸惑いが残ったままであるように見えた。とりわけルーとダグラスの二人は、安定性を欠いていて、ドラマの要素としてぴったりはまっている感じがしなかった。母親とその一族の謎を過去を遡って解き明かす作品の狂言回し的役柄で、この二人の導きで観客は徐々にドラマの全貌を俯瞰できるようになるではあるが。フランス人の古生物学者がモントリオールにやってきて、彼の父から託された頭蓋骨破片とルーの母親の脳のなかにあった骨が一致していたので、ルーと二人でその謎を解明していく、という出発点の設定はいくらなんでも荒唐無稽で無理矢理過ぎるのではないかという気がする。この設定の無理矢理な感じをずっとひきずってしまい、作品全体のリアリティに説得力を感じ取ることが私はできなかった。この役柄のせいか、成河がめずらしくこの作品では精彩が乏しかった。

残酷な愛に振り回されて、ボロボロに傷つく母・娘たちが、各時代のエピソードをつないでいく構造になる。よくぞこんなドラマを構築していったものだと感嘆するけれど、この壮大さはやり過ぎだろう。あまりにも入り組み過ぎていて、プロットに未整理な粗さを感じた。ふつうなら『森』で取りあげられているエピソードから、3本か4本の芝居が書けるはずだ。それを3時間強の一本の芝居にまとめてしまうというのは、いくらなんでも強引だろう。神話的構造を作り出し、それを提示するというアクロバティックな劇作上のパズルが優先されていて、そのエピソードをつなぐ仕掛けはその構造を作り出すために無理に作られてしまったようなところもあった。

仕掛けがいかにも人工的すぎて、詩的な台詞も説得力が乏しい。強調されたロマンチシズムが臆面もなく前面に出る、ある種、マンガ的・アニメ的なドラマになっていた。日本人の俳優がこういったドラマで記号的な演技の芝居をやるのを見ると、空々しさを私は感じてしまう。

それでも最後に語り部であった2010年に生きる娘、ルーが、彼女が追いかけた彼女の親族である女性たちの名前を一人一人読み上げて、物語がつながっていく場面はとてもよかった。そのあとでキラキラとピンクの紙吹雪を舞台に落とす演出は、安易に感じられ、興ざめしてしまったが。この内容の芝居でこういう大衆演劇的というか、歌舞伎的な締め方をするのは、そぐわないような気が私にはしたのだ。