閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

『ドライブ・マイ・カー』

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映画の原作であり、映画にいくつかのモチーフを提供している村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』に収録されている「ドライブ・マイ・カー」、「シェエラザード」、「木野」の三編も、映画を見た後に読んだ。

映画版のタイトル、および設定の骨格は「ドライブ・マイ・カー」から借りてはいるものの、原作に大きな改変が加えられていて、濱口竜介版は原作の映画化というよりは、上記の短編集に含まれる三つの短編小説にインスパイアされた別の作品といっていい。原作の設定と空気感を引き継ぎつつも、原作のなかのいくつかのモチーフから想像力を働かせ、映画版独自の新たな構想のなかでその要素を大幅に発展させることで、濱口竜介の世界を提示している。小説版は小説版の味わいはあるのだが、小説にはない映画版独自の要素が私にはこの映画のなかで特に面白さを感じたところだった。

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舞台を東京から広島の演劇祭に移したこと、敗残した失意の人間のやるせなさを描くチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を映画の物語と重ねたことなど、演劇というメタファーの強調は、濱口の改変のなかでも最も大きなものだろう。ずっとそばにいて、愛し合っていた人の心さえ、見えない盲点がある。その盲点に気がついたときの大きなショック、人はわかりあえないというディスコミュニケーションへの絶望とそれを受け入れて生きることの寂しさ(しかし受け入れ、諦念したときに、人は安らぎも手に入れることができるだろう)が、様々な脚本の仕掛けを通して丁寧に描写された作品だった。

特に印象的だった場面は、家福の妻の浮気相手の高槻が、セックスのあとで家福の妻が夢うつつで語る物語を、家福と共有していたことが明らかになる車のなかの場面だ。妻の浮気相手だったとはいえ思慮と倫理観に乏しいこの若い俳優の高槻を、家福はどこか馬鹿にしていた。しかし高槻は、家福と妻のあいだのきわめて秘めやかな関係のなかで語られていたはずの物語を、家福と同じように情交のあと聞いていただけでなく、彼の聞いた物語は家福には語られなかった物語であり、しかも家福が知っていた物語よりもはるかに深遠で濃密で官能的な内容だった。家福は思いがけないところで、不意打ちのように、妻の闇をつきつけられることになるのである。この高槻の語りの場面の岡田将生の芝居は、その語りの内容にふさわしいすさまじい迫力と緊張感があった。

もう一つ印象的な場面は、最後のシーケンスである。唖の韓国人女優による手話による『ワーニャ伯父さん』の最後の場面は圧巻だったが、その後の場面で、スーパーで買い物をするドライバー、みさきの様子が数分間映し出される。彼女の乗っている車は、家福の愛車である年期の入った赤い外車だ。しかし家福の姿はない。車のナンバーは韓国語になっていて、彼女が、今、韓国のどこかの地方都市にいることがわかる。買い物を終えて戻ってきた車のなかには、唖の韓国人女優と演劇祭コーディネーターをやっていた彼女の夫が飼っていた犬が、みさきを待っていた。

前場とのつながりがみえないこのエピローグには観客の大半は戸惑い、シーケンスの状況とそれが伝えるメッセージがなんであるか考えるだろう。そして映画で語られないこの空白の時間がどのようなものであったか想像してみたくなるだろう。

おそらく『ワーニャ伯父さん』の演劇祭の上演から、数年の時間は経っている。車は家福から譲り受けたものに違いない。家福にとっては自分の分身のような愛車だったが、おそらく彼は緑内障が進み、運転することが難しくなったのだ。家福が車を手放すとなれば、その愛車の次の持ち主はみさきでしかありえない。

みさきはあの舞台の出演者のなかで、とりわけ唖の韓国人女優に強い共感を抱いていたことは映画のなかで示されている。外国人の唖の舞台女優というよるべなき不安定な状況のなかで、この状況を引き受けつつ、力強く自分の人生を生きていく韓国人女優のありかたは、よるべなき孤独の人であるみさきに大きな希望をもたらすものだった。みさきは、あのプロデューサーの夫からも大きな信頼を得ていたことは映画のなかで強調されている。演劇祭が終わったあとも韓国人夫婦とみさきの交流は続いただろう。

地方での演劇祭としては潤沢な資金で行われていたようにみえたあの演劇祭もその後、何年続いたのかわからない。外国人の舞台俳優とプロデューサーも仕事のため、他の土地に移らなければならなくなった。そのときに飼っていた犬をどうするかが問題になった。

家族同様にあの夫婦とつきあってきたみさきは、犬とも仲良しになっていた。そしてあの地を離れることになった夫妻から犬を引き継いだ。

あの夫妻がいなくなると、みさきもこの土地に留まる理由はなくなってしまう。もとより肉親も友人もいない一人生活の風来坊の彼女は、彼女の孤独をいやす犬とともに新しい土地に移動することにした。新しい土地はどこでもよかったのだ。みさきはあの韓国人夫妻の出身地である韓国の地方都市を新天地とした。自分には理解できない言語を話す人が住む未知の土地での生活の孤独のなかで、彼女はようやく自分にまとわりついていたネガティブな思いから解放され、自由を楽しむことができるようになった。