閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2021/11/4 iaku『フタマツヅキ』@シアタートラム

www.iaku.jp

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iakuの新作は私にとっては実に身につまされる話で、息が詰まるような思いをしながら、舞台を見た。

モロ諸岡演じる主人公克(すぐる)は、開店休業中の落語家で、もう何年も高座に上がることなく、知り合いが経営しているギャラリーの管理人として小遣い程度の給料を貰って、無為の日々を過ごしている。老年にさしかかろうという彼には糟糠の妻、雅子と20歳ぐらいの息子、花楽(からく)がいる。妻は働いていて、彼女の働きでなんとか生計を維持している。息子は高校卒業後、アルバイト生活を続けていたが、介護施設での就職が内定した。妻の稼ぎに依存するこの一家は貧しく、二間だけの狭くてみすぼらしい団地に住んでいる。息子はまともに働かずにぶらぶらと生きている父親を憎悪している。克は家にいるとばつが悪いのか、この二間の住まいには金がなくなったときにしか来ない。雅子はそんなふがいない夫に対してなぜか優しく、無心にやってきた夫に小遣いを渡す。

主筋と並行して、若い頃の克と雅子の出会いから花楽の出産にいたるまでの数年間の様子が提示され、なぜ雅子がこのどうしようもない夫を献身的に支えてきたのかがわかるようになっている。

若き頃はピンの漫談家として、そして雅子の妊娠がわかってからは落語家としての活動をはじめた克は、芸人としては成功せず、経済的には雅子に依存状態ではあったが、ずっと好き勝手に生きてきた人間だ。しかしチャンスと才能に恵まれず、年を経ることにやさぐれ、その生活と心はすさんでいった。克の絶望とやるせなさは私には痛いほどわかる。彼をこんな風にしてしまったのは、彼自身だけでなく、妻の雅子の優しさのせいでもある。雅子にとって、克はこの世での自分の居場所と存在意義を与えてくれた恩人だった。献身的に雅子は夫を支えるが、この夫婦は共依存の関係のなかで、地獄の状態をどんどん悪化させていたのだった。雅子の優しさによって、克は救われつつ、同時に真綿で首を絞められるように苦しんできたのだろう。

青年期を迎えた息子、花楽には、克は父親と夫としての責任を果たさず、自分が愛する母を苛めるいまわしい存在となる。また自分が憎悪する父親を母親が依然愛していることが我慢ならなかっただろう。

弟弟子が持ってきた再生のチャンスとなる落語の仕事を、克は全うできない。再起をかけた挑戦の無残な失敗に、克は深い自己嫌悪に陥り、自暴自棄となる。そして彼は自分がこうなってしまったのは、妻、雅子のせいだと雅子を責める。彼は雅子の優しさの犠牲者という面はあるのは確かだ。しかしそれは克の立場にいたなら、人として決して口に出してはならないことだろう。

自身の無能ぶりへの絶望、高いプライド、妻への負い目、子供との確執など、思いどおりにならない人生にいたぶられ、克のように苦しんでいる男は少なくないだろう。作・演出の横山拓也は確実に、彼らの身の回りにいるそうした屈折した心情を抱える男たちから、克という存在をつくりあげたに違いない。私もまさにその一人であり、克と雅子の夫婦、そしてその子供花楽の重苦しい関係に、自分自身の家族関係を重ねずにはいられなかった。たまっていた鬱屈が爆発し、互いの思いをぶつけあう最後の30分ほどは、圧巻だった。私は嗚咽しながらそのやりとりを見た。そしてひきこまれた。

こうした決定的で破壊的な感情のぶつけあいがないと、関係は再生できないのかもしれない。息子は家を出ることを決める。克と雅子は部屋のなかで久々によりそい、二人の未来を穏やかに思い浮かべる。

モロ師岡がやさぐれた老年芸人のおぞましいエゴイズムをしっかりと引き受け、演じきった。暗い舞台空間のなかにぼんやりと照らされる回り舞台によって各人の心情を浮かび上がらせる演出が効果的だった。若きに日の雅子を演じたiakuの芝居の常連、橋爪未萠里が表現するはかなさと切なさはたまらない。

劇中で部分的に何回か演じられる「初天神」が、作品全体のメタファーとなっているし劇作上の仕掛けの巧妙さ。「初天神」が最後まで語られたときに、この演目が物語全体を包み込み、深い余韻を作り出す。

かつて息子と一緒に親子落語鑑賞会で一之輔の「初天神」を聞いたことを思い出し、ジンとした気持ちになった。