閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/08/21 平原演劇祭2022第15部 「#豊年歌」@目黒区烏森住区センター和室

 

 一ヶ月前に「カレー市民」が上演された目黒区住区センターで、また平原演劇祭の公演があった。今回は調理室ではなく、調理室の隣にある和室が会場だった。

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 出演は平原演劇祭の常連女優、夏水、角智恵子、青木祥子プラス高野竜の4名。観客は6名だった。高野が自分の演劇スタイルのモデルのひとつとしているらしい韓国の伝統芸能をモチーフとした作品らしいことは高野のツィートが伝えていた。「1960年代に中国朝鮮族自治区で上演された男寺党風新作パンソリの復元上演」。

 高野が中国朝鮮族自治区に旅行したときに購入した台本を高野自身が翻訳した。平原演劇祭女優三名はその日本語訳台本を、朝鮮の伝統芸能であるパンソリのスタイルに則って上演するという企画だ。朝鮮語台本の翻訳にもかなり苦労していたようだが、それを演じる女優たちも大変だったみたいだ。

 常連俳優である夏水、角智恵子、青木祥子は、平原演劇祭というイレギュラーな形態の演劇に慣れているはずだが、この三人でさえ本番前日の稽古で最後まで通すことができなかったらしい。それで急遽、本番当日の午前中にも稽古を行ったと高野がツィートしていた。

 今回の上演はレクチャー演劇だった。まず最初に高野によるかなりボリュームのある朝鮮文化についてのレクチャーがあった。40分ぐらいの長さはあったような気がする。まずは1989年に出版された『B級グルメが見た韓国』の記述に基づき、韓国の大衆食文化についての話しがあった。

 

 ソウル五輪(1988)直後の1989年に書かれた本で、若干韓国大衆文化への蔑視が感じられる言い回しがなかったわけではないが、韓国で敢えて日式(日本式)食堂に入り、韓国食文化のなかで変容した和食を通して、日韓の食文化の違いを考察するという発想はとても興味深いものだった。端的に言うと韓国の食は基本、ぐちゃぐちゃといろいろな素材を混ぜて、複雑な味のハーモニーを楽しむという傾向があるという話しだった。この本の著者は韓文化の違いの部分を強調していたが、現在の私の感覚から言うと日韓文化にはもちろん違いはあるけれど、西欧文化に比べると似ているところもかなり多い。この30年間のあいだに韓国社会が急速に変化し、その文化が洗練されてきたことや、日本においても韓国文化が30年前よりはるかに親しみやすいものになっていること、政治的反目はあるものの、日韓文化の相互交流が進展していることも、『B級グルメが見た韓国』で日韓文化の違いが強調されているのが気になった理由だろう。このブログを書きながら、1980年代の後半、自分が高校生だったころ、関川夏央の『ソウルの練習問題』やその他の韓国ものエッセイを熱心に読んでいたことを思い出した。関川の韓国ものエッセイでもやはり日韓の感性・文化の違いが強調されていたような気がする。いずれにせよ『B級グルメが見た韓国』の食への視点、アプローチは非常に興味深いものだったので、帰宅後、私はこの本をamazonで注文した(古書が安い値段ででていた)。

 

 高野のレクチャーは『B級グルメが見た韓国』に書かれた食文化の違いの話から、パンソリの上演史、上演方法、高野が中国東北部の朝鮮人地区を旅行したときの体験、そして韓国の伝統的辻芸能の特徴、仮面劇に見られる日韓の演劇観の違いなどに発展していった。いきなりパンソリの日本語版・高野版を上演するのではなく、まずパンソリについての基礎知識、そしてその背景にある考え方を伝えることが重要だと考えたのだろう。高野の韓国芸能についての見識は相当なものだとは思うのだが、用心しなくてはならない。もっともらしい語りのなかに巧妙な「嘘」が混じっているのが平原演劇祭なのだ。これまで何度、騙されたことか。実際、このレクチャーのあとに上演された日本語訳「#豊年歌」と「足仮面」は、高野が語る朝鮮芸能文化そのものが実はフェイクではないと疑いたくなるような奔放さだったこともあり、余計、高野のレクチャーの内容に用心したくなる。

 レクチャーのあと高野訳「#豊年歌」の上演がはじまった。原作は1960年代に書かれたパンソリの台本である。パンソリは通常打楽器奏者と語り(歌い)手の二人で上演されるらしいが、このパンソリは三人の老人の対話劇となっている。。高野が打楽器を担当した。演者は夏水、角智恵子、青木祥子の三人であったが、最初に登場したのは角だった。

 角はいかにももっともらしい調子で台詞を朗々と歌い上げる。台詞は日本語だが、何となくパンソリっぽく感じられる。「豊年歌」というタイトルの伝統芸能ということで、豊作を願う歌なのかなと思って聞いていたのだが、日本語の台詞にもかかわらず内容がさっぱり頭に入って来ない。

 この角の堂々たる朗唱に青木と夏水が漫才風にからむ。全編日本語のやりとりなんだけれど、何を言っているのがやはりわからない。角の台詞が歌っぽくなると、二人は踊り出したりする。しかしこのいかにもうさんくさい偽物パンソリの馬鹿馬鹿しさがおかしくてたまらない。その一部の映像は以下で見ることができる。

 


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 上演時間は25分ほどだったと思う。本物のパンソリ芸人が見ると激怒するか、さもなければ爆笑するかだろう。パンソリ本家の芸についてのリスペクトがないわけではないが、パンソリについての理解も稽古もまったく不足した状態で、とにかく短時間で超圧縮してやってしまうという無理矢理感が実によかった。最後は三名がブリッジしたあと、それぞれが別の出口から退場して「豊年歌」は終わった。

 「#豊年歌」のあとは、「足仮面」という短いテキストの上演が続いた。これも高野の訳による日本語上演だ。こちらは三人の俳優は稽古していなかったらしい。これはパンソリの一種なのかどうかよくわからない。足のうらに顔を描いて、それを人形に見立てて演じるという出し物だ。

 「どなたか足の裏で演じたい人いますか? あと打楽器、誰かやりませんか? 足の裏に顔を描く人いませんか?」と六名しかいない観客に高野が呼びかける。足の裏仮面劇なんてどんなものなのか想像しがたいのに、「はい、やります」とその場で手を上げる観客などいるわけがない。結局、夏水が足の裏を提供することになった。打楽器のほうは、プロの音楽家であるさかいさんが担当することに。足の裏の絵は、私と女性の観客の方が描いた。若い女性の足の裏に筆で絵を描くというのはかなりエロチックな感じがして、ちょっとどきどきした。

 さかいさんの即興演奏とかたりに合わせて、足の裏演劇がはじまった。これもまた、先ほどの偽パンソリ以上のくだらなさで実に面白い。日本語の語りは、「豊年歌」同様、何を言っているのかよくわからない。次第に観客も乗ってきて、手拍子が入ったり、合いの手が入ったり。本当にこんな芸能が存在するのが信じがたい気もしたが、この偽「足仮面」劇を、観客も演者と一体となって楽しんだ。足仮面の上演時間は15分ほどだったと思う。

 こんなインチキ民俗芸能の公演がこんなに面白いものだとは。中世フランスの世俗演劇で、居酒屋に集まった常連たちが、酔っ払って寝込んでしまった巡礼僧が持ってきた聖遺物を使って、インチキ・ミサをやる場面があるのを連想した。またこんな感じでオリジナルの文化のあり方に敬意を払いつつ、中世のラテン語典礼劇の日本語版を平原演劇祭風に上演できるかなとも。

 最初の前説での高野が話した、韓国で韓国風に変容した和食、「日式」料理の逆バージョンを、平原演劇祭「#豊年歌」「足仮面」ではやっているとも言える。異国の文化に好奇心と敬意を抱きつつも、本物を知らぬまま、自己流で無理矢理やってしまい、結果的に奇妙なフージョンができてしまう。
 平原演劇祭ならではの実に自由で愉快な公演だった。