閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/10/10 五百旗頭幸男監督『裸のムラ』@ポレポレ東中野

5月に石川県小松市の曳山子供歌舞伎と大衆演劇劇場、金沢おぐら座での森本商店街一座を見に行ったのだが、この両方に石川県知事の馳浩が来て、挨拶をしていた。小松の子供歌舞伎はともかく、金沢おぐら座の商店街素人演劇は内輪の公演に思えたのだが、こうした小さなイベントにまで県知事が来るのに驚いた。保守王国である石川県における保守系政治家と地域社会および地域芸能の関わりについて知っておいたほうがいいように思い、『裸のムラ』を見に行くことした。実際には思っていたのとはかなり異なった内容のドキュメンタリーだった。
 
主に三つの対象が追いかけられている。一つ目は7期にわたって知事を務めた前石川県知事の谷本正憲から現知事の馳浩の当選に至る石川県知事選の流れ。選挙にあたって支持を固めるにあたっての二人の政治家、とりわけ前谷本知事のなりふり構わない精力的な動きと振る舞いを追いかけていく。選挙におけるストレスフルな政治的駆け引きの様子が記録されている。
 
あとの二つは石川県に在住する市民を追いかけているが、この二つの対象は市民としてはかなり例外的なマイノリティである。ひとつはインドネシア人の妻と日本人夫、子供三人の敬虔なムスリムの家族。一日五回の礼拝や女性のヒジャブ着用など、生活様式と深くむすびついた日本、それも地方に居住するイスラム家族が、マイノリティゆえに向き合わなくてはならない面倒くささ、やっかいごとが映し出される。
 
もう一つの対象は、定住所を持たず車での移動生活を続ける二組のバンライファー家族である。そのうち一組は定職を辞し、貯金を食い潰しながら無職のまま、夫婦でバンライファー生活を続けるアファフィフの夫婦。もう一組は夫婦と小学生の娘、そして映画の最後のほうで女の子の子供をが生まれ、4人家族となるバンライファー世帯である。この世帯の夫は、脱サラし、フリーランスでさまざまな社の広報を担当して生計を立てている。
 
マイノリティでかなり規格外の生き方を選択した「市民」たちと選挙活動を意識した政治家の勢力的な動きは、バラバラのテーマに思えるのだが、見ているうちに、この非正規的家族の生活の背景として石川県知事の政治運動がつながっていくように思えてきた。
 
監督がこの三つの対象で浮かび上がらせようとしているテーマは、日本社会、石川の保守的社会における男性中心主義への批判であるように思えた。ところで選挙活動といえば、特に保守系議員の選挙活動では、家族の絆を強調し、内助の功たる妻の存在を強調し、選挙運動に利用することが多いように思うのだが、谷本正憲も馳浩のいずれもその選挙運動のなかで配偶者が登場していないことが意外だ(馳浩の選挙運動には娘が、無理矢理といった感じで登場させられえていたが)。馳浩の妻は、タレントの高見恭子なので、彼女が選挙運動に協力すればかなり強力のはずだが。
 
三種類の対象のいずれにも、監督の態度は共感的とはいえない。どこか突き放して、カメラを向けているような感じがある。この三者の不全ぶりをむしろカメラのまえにさらし、提示しようとしているように思えた。監督がおそらく肯定的に捉えている人物は、イスラム教一家のインドネシア人の妻だろう。明晰さと高い日本語能力、そして異邦人として生きるのに必要な強かさを持つ彼女の言葉は、日本社会のみならず、敬虔なイスラム教徒となった自分の夫に対してもどこか辛辣な批判が含まれているように感じる。
 
リベラルに見えて、実は父権主義的なバイライファーの父親に対して、特にこの父親が溺愛する娘に対する姿勢について、監督は批判的なのだが、私としては能力は高いものの、その生き方の不器用さゆえに、世間に対しても、家族に対しても、スマートに振る舞うことができないこの若い父親には同情してしまうところがあった。彼は彼なりに一所懸命に生きているし、努力もしている。妻と娘のことも大切に思っている。でも必ずしもしっくりいっていない。この父親のもがきぶりをカメラは冷徹に映し出していた。
 
石川県という場所を除いては、直接的なつながりはなさそうな三つのテーマが雑然と並んでいるかのようなとらえどころのないドキュメンタリー映画だったであり、そこで監督が伝える「男性中心主義」というメッセージも後からとってつけたようなラベルにすぎないような気がしたのだが、振り返ってみるとそのちぐはぐさのなかに、やはりなにかつながりが感じられる。上映中はどちらに向かっていくのかわからないまま見ていたが、退屈を感じることはなかった。