作・演出・出演 ▷ 上田久美子
出演・創作コラボレーター ▷ 竹中香子 三河家諒

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「孤独」や「寂しさ」といったテーマは、もはやあまりにありふれたものであり、いまさら演劇や映画、文学の主題として取り上げるには通俗的で陳腐だと感じてしまう。それでもなお、宝塚歌劇団のスター演出家だった上田久美子は、自身の新たなユニット Projectmï で挑んだ初公演『寂しさにまつわる宴会』で、そのテーマを選択した。蒲田温泉の宴会場で、大衆演劇の俳優も参加して、そして上田久美子がこのテーマで作品を作るとなると、やはり好奇心をかき立てられる。
宝塚退団後、上田は自作の朗読劇『バイオーム』やオペラ『道化師/田舎騎士道』の演出を手がけ、商業演劇的な豪華キャストで上演されたこれらの作品は注目を集め、多くの劇評で取りあげられた。しかし、これらの作品は、彼女が宝塚で築き上げた演劇世界の延長線上にあるものであり、上田の信奉者たちの期待に応えるものであった。
その後、フランスでの一年間の滞在を経て、日本に戻った上田が今回挑んだのは、これまでのキャリアとは一線を画すような「小劇場的な世界」であった。上演会場は蒲田温泉の宴会場、出演者は商業演劇のスターではなく、大衆演劇の女優・三河家諒と、日仏の前衛的な舞台で活躍する竹中香子。チケット代も4500円という小劇場価格である。新しい劇世界を作りだそうという上田の強い意志を感じ取ることができる挑戦的な舞台だった。
この作品は、大衆演劇の下っ端女優と彼女に執着する女性ファンの物語で、二人の関係は共依存に陥り、最後には互いに殺し合うことで合一化するという結末を迎える。
これまでの演劇キャリアからの離脱を目指す上田の挑戦の意義は大いに評価すべきだが、一方で作品全体が「宴会」というタイトルに見合う形のものだったかというとそれは疑問である。「宴会」と銘打っておきながら、上演中の飲食禁止、撮影禁止という劇場ルールの導入には、私は「えっ!?」と思った。自分たちがコントロールできないような不測な事態はあらかじめ排除したい、対応しないという、あくまで舞台芸術として「宴会」の設定したということだ。
『寂しさにまつわる宴会』は、出演者へのインタビューをもとに戯曲を構築するドキュメンタリー演劇的手法で、大衆演劇の世界を舞台作品に取り込もうと試みていた。商業演劇出身の上田、前衛的な現代演劇で活動する竹中、大衆演劇の三河家という、異なる演劇文化を背負う三者の衝突から生まれるダイナミズムを意図したのだろう。しかし、現代前衛演劇的な作劇法と大衆演劇的世界観、そして異質な身体性を融合しようとする上田の演出は、「商業演劇」的な洗練さゆえにかえってちぐはぐな印象を与えてしまう。宝塚で評価を確立した上田久美子だからこそ、その試みはどのようなものであれ注目を集め、称賛へと流れやすい。これはスター演出家ならではの不幸かもしれない。決して面白みに欠ける作品ではないものの、上田久美子によるこの種の「実験」的試みが、おのずと導き出すであろう好意的な評価の方向性が見えてしまう芝居でもあった。
特に、大衆演劇が「実験的」演劇の一素材として扱われたことに対しては、ずっともやもやとした違和感を感じながら見ていた。
そもそも商業的な成功を収めた演出家としての立場が経験する孤独や寂しさは、男性俳優がスターの大衆演劇の世界をその芸と人間性で生きぬいてきた三河家諒の孤独と寂しさ、大学卒業後に単身でフランスにわたり、フランス演劇界での競争のなか格闘してきた竹中香子が経験した孤独と寂しさと、質的に同じものだろうか? それぞれの演劇人が経験してきた「孤独」や「寂しさ」は、その背景や文脈によって異なる深度と色彩を持つはずだ。同じ演劇人の女性の寂しさとして一括りにできるだろうか?というようなことを思う。
もちろん商業演劇の世界でもまれ、成功し、名声を得た上田久美子だからこそ抱え込まなくてはならなかった「孤独」や「寂しさ」はあるだろう。しかしそれは、下っ端の大衆演劇の女優とその熱烈なプロレタリアートのファンに仮託して表現されるうるものだろうか。これが私がこの作品に対して感じたもどかしさの根幹であるように思う。
作品全体を通じて味わったもやもやを払拭したのが、三河家諒による最後の踊りであった。青磁色の着物をまとった彼女の所作は、舞台の時空を一瞬にして引き締め、観る者の視線を釘付けにする力を持っていた。「そう、これが見たかったのだ」と、思わず心の中で快哉を叫んだ瞬間だった。
【追記】以上の感想のもとになった文章は、観劇直後にFBに投稿したものである。すると上田久美子氏本人からコメントがあった。まさか上田久美子のような有名人がFBの私の投稿を目にすることはないだろうと思っていたし、いわんやコメントをするなどというのは全くの想定外だったので、私は少々動揺した。もとの投稿にはもっと乱暴で不躾な表現が含まれていたため、私はよけい焦ったのだが、上田氏のコメントの主旨は、私の感想を呼んで不愉快にはなっていない、また彼女の抱えていた状況は私が想像したような「恵まれた」ものでは必ずしもないが、いずれにせよこういう捉え方をされうるということがわかったことは大変参考になった、というものだった。