閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

修羅の棲む家

西舘好子(はまの出版、1998年)
修羅の棲む家―作家は直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした
評価:☆☆☆☆☆

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井上ひさし前夫人がひさしとの結婚から離婚に至る過程を書く私小説。登場人物は本人も含め全て実名で、ひさしの妻の視点から語られているが、三人称体が選択されている。
有名作家の暗い実像の暴露ものとしてはもちろん大いに楽しめるのだが、一編の私小説としても第一級の作品だと思う。離婚後12年後に書かれたこの「小説」の文体は、作家である夫の暴力と暴言および妻の不倫が原因での離婚というどろどろした主題にもかかわらず、からっとしていて明るく軽い。ひさしの天才の背景にある屈折の深さと暴力の陰惨さ、暴言の陰険さに対する恨み節はないではないが、そうした暗さの後ろ側にある井上ひさしの才能の大きさへの畏敬、二人で共有した時間の充実、天才の仕事を一番身近で見守ってきたしびれるような幸福感もしっかりと描かれている。安易で醜い自己肯定、一方的な道徳的断罪に走ることは注意深く避けられ、己の行動もできるかぎり客観的に描こうとしていことにも好感を持つ。あとがきで別れた井上について「懐かしさを込めて振り返ったつもりだ」と著者は書いているが、そのことばに嘘はないと思う。好子と両親、好子と娘たちのドライでありながら愛情に満ちた関係の描写も爽やかで感じがいい。


扇田昭彦の『才能の森:現代演劇の創り手たち』(朝日新聞社、2005年)才能の森―現代演劇の創り手たち (朝日選書)の中の井上ひさしについての章で、この夫妻の離婚騒動にからめ、ひさしの悪魔的な面についても少し触れられていた。扇田氏はこの夫妻が共同作業で作品を創っていた時代を懐かしみ、西舘好子の『修羅の棲む家』で描かれていたひさしの家庭内暴力についても言及する。この記述に好奇心をかきたてられ、図書館で『修羅の棲む家』を借りたのだ。
井上ひさしの作品は、父が好きで書棚に井上ひさしの小説がけっこう並んでいたこともあって、中学生ぐらいからよく読んでいた。こまつ座の芝居も毎回通うほどのファンではないが、安定した質の作品を楽しめる井上戯曲の舞台はこれまで10本ぐらいは見ている。
西舘好子と井上ひさしの離婚は1986年、僕が高校生の頃だが、ワイドショーなどの光景をかなりはっきり覚えている。当時は井上作品を一番熱心に読んでいる時期だったし、妻が若い劇団の制作者と不倫の末、井上ひさしを捨てたというこの事件では、井上ひさしに僕もずいぶん同情したものだ。というのも西舘好子はいかにも生意気で派手そうな美人に見えたのに対し、井上ひさしは出っ歯でさえない田舎秀才のなれの果てといった貧相な姿で、見た目がきわめて哀れだったのだ。これに対して西舘好子はいかにも悪女に見えた。ワイドショーの映像をみながら、「井上ひさしってのはあんなに物知りで頭もよさそうなのに、やっぱもてない男の悲しさであんな女にひっかかってしまうんだなぁ」とか思っていたのを思い出す。もっとも井上ひさしが女性にもてなかったはずがないのだが、当時はそれがわからなかったのだ。
『修羅の棲む家』ではいかにも善人面の井上の裏面が描かれる。そこで描かれている井上ひさしは独善的で暴君で、天才的な嫌みの名人、人間不信の塊だ。強烈な疎外感に苛まれる孤独な人間である。田舎から出てきて結婚するものの、結婚後は相手の地元の地で相手の両親と同居。そして生まれてくる子供は、彼の望み通りだったとはいえ、全て娘である。ひさしに対する妻、およびその周囲の人間の心優しい配慮が、ひさしの暴力・傲慢さを後に増長させるきっかけとなったのだから皮肉なものである。人間関係のバランスは一度崩れると加速度的にそのいびつさをましていき、修復不可能なものになっていく。

ひさしの家庭内暴力の描写もすさまじいが、何よりも戦慄したのは妻およびその両親に投げかけられた痛烈な嫌みの数々である。その悪意の舌鋒の鋭さ、ウイットはまさしく言葉の曲芸に長けた井上ひさしの才気が感じられる。

作家として名声を確立して行くにつれ、どんどんその内なる怪物がひさし自身にもコントロールすることができなくなっていく様子が克明に書かれている。編集者や劇団関係者の追従振りの描写に、偉くなるに従って人間を制御していたたががどんどんはずれ、傲慢不遜が血肉化していく様子をうかがうことができる。気がつくとその醜さおぞましさは本人自身も制御不能になっているのだろう。醜悪なレベルまで肥大化した自己尊厳をもてあます大作家たちは、その名声にも関わらず必ずしも幸せではないだろう。
「遅筆堂」というあだ名でその遅筆ぶりがユーモラスに揶揄される井上ひさしだが、彼の遅筆ぶりは、たしかにこれまでマスコミに決して面だって批判されることはなかったように思う。たとえその作品は素晴らしいとはいえ、約束を守ることは最低レベルの市民道徳だ。その市民道徳を毎度のごとく反故にする彼の態度は作家の醜い傲慢さを反映しているのだが、ひさしの「情けなそうな」風貌の効果もあってこの本を読むまで僕もこのことに気づかなかった。井上ひさしについては遅筆も芸のうちなどと思っていたのだ。

『修羅の棲む家』の修羅はもちろん孤独な暴君たる井上ひさしのことであるが、己の欲望にひたすら忠実であろうとし、離婚や劇団創設などの苦闘に進んで身を投じる西舘好子自身もやはり修羅の人である。

井上ひさしの驚異的読書量についての記述はよく目にするが、この『修羅に棲む家』にもその様子は書かれている。初期の小説には『41番目の少年』『青葉繁れる』(いずれも大傑作)等の自伝的要素を含む作品もあるが、「ひょっこりひょうたん島」の大ヒット以降、流行作家になった井上ひさしは原則的に書斎派の作家となる。彼の演劇作品に観られる深く細密な人間の観察は、膨大な資料探査の末、文献の山から創造されたものなのだ。家に籠り文献と格闘することが多い井上ひさしの実生活上の体験は意外なほど貧しいと西舘はちょっと意地悪な書き方をする。しかし文献の文字列の羅列から、あれほどリアリティある人間の存在のありかた、感情の動きを作り出す、井上の作家的想像力の巨大さに僕は驚嘆する。
もっとも井上の人生経験の幅がきわめて狭いといっても、離婚騒動や離婚につながる妻の不倫、妻への暴力などで、狭い生活圏ながらかなり濃厚な人生を経験しているとも言えるのだが。
井上が離婚という経験をどう作品化しているのか興味がある。離婚について書いた井上の作品はないのだろうか?