閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2023/03/27 第49回赤門塾演劇祭

 

毎年三月第四週の週末に、埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で行われる赤門塾演劇祭に行ってきた。今回でなんと49回目の開催となる。第47回、48回のレポートは以下に記している。

otium.hateblo.jp

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今年は10名の小学生(小二から小六)による『山火事のとき』(瀬田隆三郎作)、中学生11名と小学生1名による『八十八話』(山本太郎作)、そして小学生、高校生、大学生、社会人による『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)の三作品が上演された。

三作品すべて見に行くつもりだったが、開演時間を勘違いしていたため、小学生の部は見ることができなかったのは残念だった。

会場は塾の教室で広さは、学校の教室の半分ほどの広さ。客席は50席ほどで、小学生の部と中学生の部は予約制になっていた。客席は超満員の状態。通常、赤門塾OB・OGの部が最後に上演されるのだけれど、今年は取りの演目は中学生が主体の「八十八ばなし」になっていた。おそらく舞台装置の入替や片付けの都合があったためだろう。

OB・OG+小学生の部の『ゴドーを待ちながら』は意外な選択だった。サミュエル・ベケットの不条理劇というのはこれまでの赤門塾演劇祭にはなかった趣味であるし、またOB+OGの部は出演したい人も例年多いはずなので、登場人物が多い群像劇的な作品が選ばれることが多かったからだ。2020年は『どん底』の上演が予定されていたが新型コロナのため、公演中止となり、21年は感染対策のため、登場人物が二人の井上ひさし『父と暮らせば』が上演された。しかし昨年はアガサ・クリスティ『The Mousetrap』という登場人物がかなり多い芝居だった。しかし今年は新型コロナへの警戒は昨年より大幅に緩和されているにもかかわらず、登場人物5人の『ゴドーを待ちながら』である。

私が赤門塾演劇祭を見るようになった2018年が『ジョン・シルバー 愛の乞食』、19年がワイルダー『わが町』、20年『どん底』(試演会のみ)、21年『父と暮らせば』、22年『The Mousetrap』、そして23年が『ゴドーを待ちながら』ということで、毎年まったく異なる雰囲気の作品が選ばれている。作品選択の理由を、主宰・演出の長谷川優さんに聞いてみたいところだ。

これまで上演してきた作品とはかなり肌合いが異なる不条理演劇の傑作『ゴドーを待ちながら』は、赤門塾演劇祭にとっては大きな挑戦だったようで、開演前の前説で長谷川優さんが苦笑いしながら「一昨日、昨日と上演したのですが、『わけがわからない』という感想が多くて」と言っていた。私の目から見ても、俳優たちは苦戦しているなという感じはあった。かみ合わない台詞の連鎖をどう処理したものか模索しているように見えた。長谷川優さんの演出は、トリッキーな仕掛けは使わず、戯曲を丁寧に読み取って、その読解から立ち現れる世界をできるだけ、素直に、誠実に舞台化しようというものだ。『ゴドーを待ちながら』もある意味、非常に正統的でオーソドックスな『ゴドー』だったように思う。最初の場面から誰が見ても『ゴドー』の上演であることが一目瞭然だ。

ウラジーミルとエストラゴンの二人の人物の対比がよかった。ウラジーミルを演じたのは高校一年生の男の子、おそらく赤門塾演劇祭に出演するのは今回が初めてだ。それでいきなり主役なのだから大抜擢である。エストラゴンを演じた俳優は大学生の女性で、彼女はここ数年の赤門塾演劇祭で重要な役を演じている名優だ。ウラジーミルが不機嫌そうな無表情であるのに対し、エストラゴンは丸顔で愛嬌があり、くるくると表情が変わる饒舌な芝居だ。ゴツゴツとまるっこい感じのぺあになっていた。分厚い唇がめくれたウラジーミル役の俳優の、憮然とした表情が可愛らしかった。

俳優の衣装はいずれもよくできていた。ボロボロにほつれた具合などディテイルにも凝っている。ラッキー役の俳優のテクノ風の音楽に合わせたダンスは秀逸で、ダンスシーンでは、客席から大きな笑いがわき上がった。ダンスの動きもきっちり決まっていて、キレがあった。

ナンセンスな会話の連鎖の処理には苦労しているように見えた。『ゴドーを待ちながら』の登場人物はいずれも俳優・観客の感情移入を拒むような奇矯で非現実的な人物だ。意味ありげだが、意味不明でとりとめのない会話で、観客をひっぱっていくのは難しい。『ゴドーを待ちながら』はある種の詩劇であり、言葉の飛躍は詩として提示されなくてならない。全般的に会話のやりとりはギクシャクとした感じで、この作品にふさわしいリズムをつかみきれていない。単調に陥り、私は最後のほう、落ちてしまった。

ただゴドーの言葉をウラジーミルとエストラゴンに告げる少年の語りの場面は、この作品の詩情はしっかりと表現されていた。

11人の中学生と小学生1名による『八十八ばなし』(山本太郎)は思いのほか面白い舞台だった。実は今年の赤門塾演劇祭では、『ゴドーを待ちながら』より、この中学生による劇のほうが私は面白かった。

思春期前期の中学生に演劇を上演させるというのはかなりやっかいなことだと思う。赤門塾がそういう塾だということはわかって塾に来ているはずだけれど、とはいっても演劇をやりたくて赤門塾に入った子供は例外的だろうし、皆が皆、赤門塾演劇祭を通して演劇好きになるとも限らない。赤門塾演劇祭の中学生演劇は、演劇部の生徒による学校演劇とはまったく異なるものだ。

『八十八ばなし』は民話風の不条理劇だ。主要登場人物の名前が八十八で、この八十八どもは、みなろくでなしだ。それぞれ、ばくち八十八、分別八十八、外道八十八、百姓八十八、盗人八十八と呼ばれている。ばくち八十八の殺害の首謀者である分別八十八のしれっとした悪党ぶりはさまになっていた。その他の役者の大半は、棒立ちで棒読み台詞だったが、その不器用な演技が、かえって、この民話風劇の不条理な笑いを引き出していて、観客席からは何度も笑い声が聞こえた。私も何回も笑った。いまどきの中学生が、民話的虚構を演じるちぐはぐさが、笑いの仕掛けとして機能していた。なんとなくやる気のなさげな、恥ずかしそうにやってるところがいい。可愛らしい着物と舞台化粧は、彼らが異なる世界の人物となるためには、必要な道具立てであったことがわかる。

2023/02/05 劇団サム第8回公演『銀河旋律』

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主宰:田代卓

演出:今泉古乃美

作:成井豊

出演:奈田裕哉、福澤茉莉花、岩崎かのん、岡嶋彩希、斉藤柚、森杏紗、市倉真実、尾又光俊、河野雅大

会場:練馬区立生涯学習センターホール

上演時間:60分

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石神井東中学校演劇部の卒業生が、かつて同校演劇部顧問の田代卓とともに結成した劇団サムの第8回公演は、キャラメルボックスの成井豊作の『銀河旋律』が上演された。劇団サムというとキャラメルボックスが私には思い浮かぶのだけど、成井作品の公演は今回が三回目だった。

8回目の公演となった今、劇団サムの最年長俳優は25歳になった。劇団サムは石神井東中学校演劇部顧問の田代卓が退職したあとに結成されたのだが、結成後も石神井東中学校演劇部卒業生の入団者が相次ぎ、現在では高校生から社会人の25歳までの29名のメンバーの大所帯となっている。高校演劇や大学の学生演劇、あるいはプロの劇団で演劇活動を続けている者もいるようだが、劇団サムはそうした「メインストリート」の演劇とはちがった場所で活動を継続している。学校の枠組みとは違った場所で、学校演劇的なカルチャーを維持したまま、ゆるやかに成長・変化し続けている劇団だ。

優れた中学演劇指導者だった田代卓が退職する前の2年間、私の娘がたまたま石神井東中学校演劇部に入ったことで、私は中学演劇の世界を知り、中学生が演じることによってこそ説得力と魅力を持ちうる演劇があることを知った。私は劇団サムは第2回公演から見続けている。年に一度ないし二度の公演は、あの頃、中学生、高校生だった子どもたちが、演劇とともに成長してく様子の確認の機会になっている。

稽古時間は中学校の部活の頃と比べると少なくなっていると思うのだけど、団員たちの経験と成長がその演技に深みをもたらしている。それはプロの劇団にあるうまさや味わいとは異なったもので、中学演劇の精神を、激動の思春期後期と青年期を経てもなお、しっかりと保持したまま、熟成させたような独自の魅力を放つようになった。古株の年長卒業生と中学を出たばかりの高校生が一緒に演劇を作っていくのは、簡単なことではないように思う。しかしこの学校演劇部をベースとする共同体のアンサンブルが作り出す雰囲気は、他の劇団にはみられないものだ。

第8回公演の当日パンフレットを見てまず目を引いたのは、演出が田代卓ではなく、田代の教え子の今泉古乃美になっていたことだ。劇団サムは良くも悪しくも、旧顧問である田代卓の先生としての指導力・権威のもとで、成立していた集団であり、これまで演出は田代が担当するのが常だった。今泉は劇団サムの制作面の要だったが、自身も中学校教員として勤務するようになり、劇団の活動を引き継ぎ、続けていこうという覚悟を決めたようだ。聞けば劇団サムで演出を担当するのは、これが二回目とのことだった。

『銀河旋律』は上演時間60分の短い作品だった。Wikipediaの記事によるとキャラメルボックスのハーフタイムシアターの嚆矢となった作品で、何度も再演を重ねた人気作だったようだ。『銀河旋律』は「タイムスリップ」もので、恋敵が過去に介入にしたことにより、現在の恋人の関係が消滅しそうになっていることに気づいた主人公が、自身もタイムトラベルで過去に介入することで現在の改変された状況を修正し、恋人との関係を取り戻そうとする物語だ。

再演を重ねた人気作で、高校演劇などでも頻繁に上演された作品だそうだが、脚本上の設定の仕掛けが強引すぎるように思った。例えば「過去を改変されたとき、当事者が突然めまいに襲われる」とか、「過去が改変された直後の一時間は、現在の記憶が維持される」とか、時間管理局という時間旅行センターの存在であるとか。藤子・F・不二雄の「少し不思議」なSF的を想起させる作品だが、生身の人間である俳優がこれを再現するとご都合主義の子供っぽいお話に思えてしまう。それでもこの作品が人気があるのは、失われつつある恋を取り戻そうとする主人公のけなげな奮闘ぶりに共感し、そのスリリングな展開に引き込まれる若者たちが多いからだろう。

戯曲のもう一つの大きな難点が、現在と過去のいくつかの時点を行き来する展開ではあるけれど、出てくる人物が同一なので、今展開している場ががいつ時点のことなのか、どういうタイミングで過去への介入が行われているのか、過去の改変の結果、現状がどうなってしまっているのかが錯綜していて、わかりにくいことだ。劇団サムの公演では、登場人物の服装を変えることで、どの時点の話しが展開してるのかを示そうとしていたようだったが、正直なところ、服装の違いが時の違いを示しているだろうことに私が気づいたのは見ていて大分たってからで、展開をしっかりと把握できないところがあった。舞台上の会話はテンポよく、発声も明瞭で、演技には細かい工夫はあったけれど、主要登場人物の声のトーン、リズムが似通っていたところもあり、単調で眠たくなってしまった箇所がいくつかあった。

前説で『銀河旋律』本編のタイムスリップねたが巧妙に組み込まれ、本編の予告編となっているのと同時に、観客への注意がコミカルに行われる趣向はよかった。主要登場人物の四名は、劇団サムの「ベテラン」が担当した。上に書いたようにプロの俳優とは質的に異なるうまさと味わいがあった。岩崎かのんは、前から印象に残る俳優の一人だった。今回は主役ではなかったけれど、明瞭な発声と、そしてとりわけその優雅が手の動きや表情の変化などの身体表現で、その存在感を示していた。福澤茉莉花はこの作品のヒロイン役にふさわしい愛らしさがある女優で、恋人との関係の変化への気付き生じる戸惑う様子などの心理表現がよかった。主人公の柿本を演じた奈田裕哉は、ぬぼーっとした感じの大男だが、どこかもっさりした雰囲気が人気アナウンサーの安住紳一郎を何となく思わせなくもない。量の多い台詞をちゃんとコントロールできていた。全体的に方眼紙のマス目を一つ一つ丁寧に塗りつぶしていくような、きっちりと組み立てられた芝居になっていた。

演じている最中の俳優からも、そしてカーテンコールでの俳優やスタッフたちの様子からも、演じることの喜び、仲間と集い、作品をつくることの楽しみが感じ取ることができるのが、見ていて気持ちがいい。

モントリオールのコリアン

 2023年2月に10年ぶりにケベックに行く。私にとっては2度目のケベックだ。予習もかねて、前から気になっていた韓国ドラマ『トッケビ』をNetflixで見始めた。このドラマの舞台がケベック市なのだ。『トッケビ』を見ていると、10年前にケベックに行ったときに会った韓国人のことを思い出した。以下の文章は2014年に書いたものだ。
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 2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。
 私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、マリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国系カナダ人ということになる。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。
 「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
 「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。
 別の機会にマリーさんに再びカナダ移住について聞いてみた。
 「あなたが移住したころ、韓国の若い世代のあいだでカナダ移住は一種の流行だったのですか?」
 「そう、韓国では不況が続いていたので、カナダへの移住を私たちのように考える人は多かった。私たちは本当はアメリカに行きたかったのだけれど、アメリカはなかなか受け入れてくれそうになかったし」
 「知り合いがカナダにいたのですか?」
 「知り合いは誰一人いませんでした。でも何とかなるだろうと思っていた。実際にはカナダについてからのほうが大変だったけど。とにかく仕事を見つけるまでが本当に大変でした」
 
 失礼な話なのだけれど、実は私は海外移民というと戦前、戦後の日系移民やパリにやってくる中国系、アラブ・アフリカ系移民のイメージが強くて、祖国では恵まれない貧困層の人たちが先進国の大都市に移住して活路を見出すというイメージがあった。もちろん経済的に成功して、裕福な生活を送っていれば、海外移住は考えないと思うのだが、韓国人や香港人のカナダ移住には、私の抱いていたステレオタイプとは異なる背景があるようだ。
 
 マリーさんのフランス語は、他の韓国人とも異なる独特の訛りがあった。英語訛りでもない。ぺたぺたとした独特の響きで、ゆったりとこちらを説得するようなリズムがあって、私はその話し方が好きだった。授業中によく発言する人だったが、その独特の抑揚を持つフランス語を注意して聞いてみると、文法的に非常に正確なフランス語を彼女が話し、かつ語彙も豊かであることに気付いた。彼女はトロントで小学校の低学年の子供にフランス語を教えているというが、そのフランス語には教養が感じられた。
 「あなたのフランス語は私の話すフランス語よりよっぽど正確だし、それに語彙も豊富ですね」
と聞くと、次のような答えが返ってきた。
 「ありがとう。私は大学ではフランス文学を勉強していたのです。大学を出たあとは、日本にもこういった学校はあると思うのだけれど、通訳・翻訳者養成の学校に行っていました」
 「結婚して、子供が生まれてから、フランス語の勉強を10年くらい中断していました。カナダに移住したとき、トロントは英語圏なので、英語を一緒懸命、勉強しましたが、フランス語の勉強も再開しました。私はフランス語のほうが好きなんです。一年ほど前から仕事としてフランス語を教えることができるようになって、本当に嬉しく思っています」
 彼女の夫は経済学の研究者でカナダに移住する前は、大学の非常勤講師だったそうだ。韓国でも大学の常勤ポストを得るのは非常に難しく、それで韓国での研究者としての将来に見切りをつけて、カナダ移住を決意したとのこと。ただカナダでの職探しは想像していた以上に大変で、彼女の夫は現在、郵便局で働いているとのことだった。
 
 研修期間中にモントリオール大学の書店で私は、モントリオール在住の韓国系ケベック人作家であるウーク・チョングの自伝的小説、『コリアン三部作』を偶然手に取った。在日コリアン二世の母を持つ彼は横浜の中華街で生まれたが、2歳のときに家族でカナダのケベック州に移住した。フランス語圏で教育を受けた彼の第一言語はフランス語となり、この小説もフランス語で書かれている。『コリアン三部作』の第二部のタイトルは「キムチ」であり、韓国との繋がりを失った彼が韓国系としてのアイデンティティのよりどころとしているのが家族の食卓に必ず上がっていたキムチであることが記されていた。私はマリーさんに尋ねてみた。
 「キムチはトロントに住む今でも食卓に欠かせないですか?」
 「私と夫にはキムチは不可欠。でも息子たちはそうでもない。なくても平気みたいです」
 「息子さんもフランス語を勉強しているのですか?」
 「上の息子はカナダに来たときには中学生だったので、英語を学ぶのが精一杯でフランス語は全然できない。今、高校生の下の息子はフランス語を勉強しているけれど、あまり熱心には学んでいない。モントリオールにある英語系大学、マギル大学の医学部に入るって言っているけれど、成績から考えると無理だろうな」
 
 韓国からやってきた大学教員に、マリーさんがモントリオールの大学生を指しながら
 「ねえ、韓国の学生たちも今はあんな感じで自由で楽しそうな学生生活を送っているかな? 私たちのころは、受験勉強ばかりで窮屈だった」
と聞いたことがあった。韓国の先生は、
 「韓国は受験も大変だけど、学費も高いから、大学に入っても学生はバイトと勉強で本当に大変よ」
と答えていた。
 
 研修中、韓国人同士は当然韓国語で話をするのだけれど、マリーさんは韓国人に話しかけるときも常にフランス語を使っていた。韓国人の先生もごく自然にフランス語で返す。こうしたやりとりを見ていたので、私は最初のうちはマリーさんが韓国語が不自由な二世ないし三世移民だと思っていた。3週間の研修の全プログラムが終了した日、私は韓国人グループにくっついてモントリオールの町を歩いて名残惜しんだ。マリーさんも一緒にいた。
 マリーさんはそれまで韓国人ともずっとフランス語で話していたのだけれど、最後の夜の食事をベトナム料理屋で取っていたとき、気が抜けたのか韓国人グループは韓国語で雑談をはじめ、マリーさんも韓国語で会話していた。研修の全プログラムが終わった解放感と疲労で私はぼーっとしながら、韓国語の会話の音を聞いていた。マリーさんが後で気を使って
 「ミキオ、ごめん。私たちはカナダのチップの習慣について話していたんだ。私は実はチップについては多く取りすぎだと感じている」
 とフランス語で説明してくれた。

2022/12/25 平原演劇祭2022第23部 #ロシア周辺ナイト

  • 日時:2022年12月25日(日)17時-19時半
  • 場所:目黒区烏森住区センター調理室
  • 演目:「わらのうし」 「天窓の麻」 「酋長の子」 ゼアマ(モルドバ料理)「ねむりながらゆすれ」
  • 出演:高野、ひなた、青木祥子、吉水恭子_____________________________________

平原演劇祭は高野竜個人によって企画・実現される芸能のようなものだ。いや芸能というよりは、前に既に書いたかもしれないが、小学校などで非公式の学校行事としてクラスで行われる「お楽しみ会」を私は想起する。「お楽しみ会」と言うと高野竜はもしかするとあまり愉快ではないかもしれないが。しかし日本の学校文化そのものに芸能的な性質があるのかもしれない。

  • 新型コロナ流行以降、平原演劇祭の開催はそれまでより頻繁になったが、とりわけ昨年末に高野が崖転落事故で脳挫傷の重症を負って以来、この2022年は二週間に一度のペースで公演を行っているのだから尋常ではない。ときに昏倒し、ときに嘔吐しても、高野はこの異常なペースでの公演に固執している。twitterでしばしば高野自身がつぶやいているが、高野は自分の活動期間がもうそれほど長くないことを覚悟しているのだ。2022年にはさらに大晦日に「まつもうで」演劇が予告されている。
  • 今回は水道橋の宝生能楽堂で能「キリストの復活」を見ていたため、平原演劇祭2022第23部の会場に着いたのは17時半だった。今回の上演はすべて一人語りだ。高野は数日前まで入院中だし、入院していないときもへばっていることが多いということで、高野から作品を割り振られた出演者がそれぞれ一人で稽古したものが上演された。高野が朗読したらしい最初の演目「わらのうし」は既に終わっていて、ひなたによる「天窓の麻」が上演中だった。
  • 「天窓の麻」は、『アラル海鳥瞰図』のなかの一エピソードだ。突然家を訪問してきた見知らぬ若い男性に、麻の苗を託された女性の語りだ。2019年11月に寒風にさらされる工場の廃墟のような場所で『アラル海鳥瞰図』が上演されたとき、「天空の麻」を演じていたのは誰だったか、思い出せない。ほぼ野外と言っていい2019年の上演のときと、屋内でひなたが演じるこの作品の雰囲気はまったく異なるものだった。

  • 黄昏時のような薄いオレンジの光に照らされて語るひなたが語る「天空の麻」は柔らかで穏やかに感じられた。「天空の麻」の語りが終わると、青木祥子がそのままシームレスに中央に現れて次の作品「酋長の子」を語り始めた。

  • 「酋長の子」は北海道出身の作家、長見義三(おさみぎぞう)によるアイヌの荒くれ者を主人公とする短編小説だ。この小説の内容はどういうわけか頭に残っていない。アイヌが「ロシア周辺ナイト」のテーマとどう関わっているのかも私にはわからなかった。

  • 「酋長の子」のあとは、食事タイムとなった。モルドヴァ料理のゼアマが振る舞われた。
  • ゼアマは鶏の手羽先と「もみじ」と呼ばれる脚先をぐつぐつと煮込み、そこに大量のレモン汁を注ぐ、というシンプルな料理だ。塩で味付けもしない。臭みは全然なかった。鶏から出るだしとレモン汁だけで、けっこういける。もっとも私はやはりちょっと塩を入れたくなった。そしてディルを散らすと見栄えも香りもよくなる。このゼアマは参席者はみな気に入ったようで、すぐになくなってしまった。
  • ゼアマの食事会のあとは、吉水恭子による「ねむりながらゆすれ」がはじまった。今回上演された戯曲ではこの作品が一番長かった。40分ぐらいあったように思う。モルドヴァで生まれ、その後、モルドヴァとロシアの支援のもとモルドヴァから独立しようとした沿ドニエストル共和国との戦争に巻き込まれ、どういう経緯か日本にたどり着き、その後、ウクライナでの農業事業に携わることになった女性の半世紀だ。四つの場面で構成される。
  • この作品はこれまで何度か私は見ている。最初に見たときは、トランスリトアニア戦争や沿ドニエストル共和国の存在を知らなかったし、各場でいったい何が起こっているのかまったく意味不明だった。今回はようやくすべてのエピソードがつながり、さまざまな苦難を経て、最後に故郷の黒土で幼少期の平安を取り戻す女性の姿が浮かび上がってきた。吉水恭子の語りは、各局面の主人公の年齢や状況、語りのテキストの性格の違いを、丁寧に語り分け、一人の人物を組み立てていた。
  • 観客は7名だったらしい。穏やかで仲間内の親密な空気に満ちたクリスマスの夜のイベントだった。

2022/1227 ちんどん通信社2022年 年末特別公演@大阪風竜座

名古屋の大須大道町人祭でこれまで三回見て、そのパフォーマンスに魅了されたちんどん通信社の年末特別公演を見に行った。ちんどん通信社の活動拠点は大阪なので、普段見に行く機会がない。ちょうど帰省するタイミングで今回の公演があったのだ。
会場は大阪市南東部の平野区出戸(でと)にある大衆演劇劇場の大阪風竜座。この9月にオープンしたばかりの新しい劇場だ。

最寄り駅の大阪地下鉄谷町線出戸駅の周辺は、薄汚れた小さめのイオンが駅そばにあるだけの特徴の乏しい殺風景な郊外だった。ごはんを食べる場所もイオンのなかにしかない。昼ご飯はイオン地下の閉塞感のあるフードコートにあったたこ焼き屋がランチメニューで出しているからあげ定食を食べた。これが思いのほか素晴らしいからあげ定食で、満足度が高かった。
2個増量150円とあったので、つい増量してしまったのだが、相当のボリュームとなった。
 今回のちんどん通信社公演は大阪風竜座を拠点とする森川劇団座長や通信社のメンバーではないミュージシャンなどとのコラボ公演となあっていた。



洒脱でユーモラスな楽しいアレンジが施された名曲のちんどんによる演奏、ゲストの青木美香子の朗々たる歌唱、大衆演劇舞踊、そして水戸黄門劇で構成された休憩込み二時間半の濃密なバラエティー・ショー。大衆芸能研究の第一人者で、自身大衆演劇役者でもある鵜飼正樹もゲスト出演していた。
客席は100席ほどだったが、ほぼ満席。高齢者多め。関西の観客はひとなっつこく、のりもいい。舞台と客席の相互作用で作る雰囲気も心地良かった。進行も適度にダラダラと緩い。その緩やかさが実にいい感じだ。



ちんどん通信社は1980年代から活動している。座頭の林幸治郎が立命館大学のジャズ研にいたときに始めたとどこかで読んだ古都がある。林幸治郎はもういい感じのおやじ、じじいになっていて、その渋い風貌とすっとぼけた感じが、実にかっこいい。芸人っぽい味わいがある。
こういうちんどんのパフォーマンスは見ていると元気が出る。

夜行バスで寝不足状態で見に行ったのだが、見に行ってよかった。楽しかった。

2022/12/11 平原演劇祭第22部 #分水界演劇 @大島新田関枠

上演作品:「逃(タオ)」「安戸ロゼッタ」(作:高野竜)

出演:栗栖のあ、北條

場所:

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先週に続き平原演劇祭である。先週は屋内公演だったが、今回は野外劇公演だった。

「逃(タオ)」は本来は2023年11月23日に上演されるはずの演目だったが、雨天のため、公演が順延され今日になった。この演目は2021年10月31日に岩槻市の遊水地で上演されたが、このときは私は見に行けなかった。今回は埼玉県東部の杉戸町と幸手(さって)市の境をなす倉松川にある大島新田関枠が公演会場となった。

平原演劇祭主宰の高野の体調がこのところとりわけ思わしくないようで、今回の第22部についてはいつも以上に事前告知が不十分だった。私は出演者の栗栖のあのtwitter告知で、公演前日の夜に集合時刻と場所を確認した。東武動物公園駅東口のバス停を11時半に出発するバスに乗らなくてはならないらしい。

11時20分ごろに東武動物公園駅に到着し、バス停のある東口に降りたが平原演劇祭関係者らしい人は誰もいない。11時25分ごろに高野竜がよろよろと現れた。昨週の#神曲 第二部読み合わせ以降、食事もろくにとれない状態で家に伏せっていたが、なんとか立ち上がって歩けるようになったと前日夜にツィートしていた。バス停に停車していたバスに高野と一緒に乗り込む。「今日は日曜だから10分ぐらいで着いてしまうかもしれない」と高野は言う。バスに乗り込んだ平原演劇祭の観客は私以外にもう一人いた。
櫛ヶ浜やぎ(@kusigahama)氏だ。twitterで私と相互フォローなので、おそらく平原演劇祭で私とつながったのだと思う。

高野からはどのバス停で降りるのか聞いていなかった。バスが出発してから5分ほどたった頃、水田の広がる平地のただなかで高野がゆらりと手を挙げた。Google mapを見ていたのだが、公演場所とされている「大島新田関枠」からはかなり離れた場所だ。こんなところで降りて大島新田関枠まで歩くのだったら、バスに乗らず最初から歩いて大島新田関枠まで行けばよかったではないかとちらっと思った。

 バス停の名前は「沼」だった。文字通り、江戸時代には沼だった場所で治水灌漑事業により新田となったらしい。このバス停で降りたのは竜さんと私と櫛ヶ浜やぎ氏の三名、つまり平原演劇祭関係者だけだ。いきなりバス停にあったベンチにうずくまり、竜さんが吐きはじめた。車酔いなのかと思ったが、そうではないらしい。だいたいバスに乗ったのはほんの5分ほど、しかも平坦な道だ。どんな車に弱い子どもでも車酔いしないだろう。竜さんは3、4回吐いたあと、しばらくぐったりとしていた。

「逆流性食道炎です」と竜さんは説明したが、そもそもここしばらく彼はほとんど食事をしていないとツィートしていたのに。いずれにせよ体調はものすごく悪いのだが、無理してやって来ているのだろう。息絶え絶えというかんじの竜さんから、「これ、今日の芝居」とできたての台本を渡された。漢字がやたらと多い。このあたりの地誌に取材した作品のようだ。今日の公演のために書かれた新作「安戸ロゼッタ」はしかし、結局、この日上演されることはなかった。

 竜さんは10分ほどベンチにへたりこんで、ちょっと元気を取り戻したらしい。立ち上がってかつてかなり大きな沼だったこのあたりの地誌について説明しはじめた。かつて沼だったこのあたりは役所が配布した増水時ハザードマップでは付近一帯が真っ赤になっている。どこに住んでも増水時はアウトという地域らしい。

「沼」を少し南下して、幸手市(さってし)から杉戸町に入り、かつては沼の中心部であったであろう大島新田調整池を左手にみながら、劇の上演会場であるらしい大島新田関枠にぶらぶらと歩いて向かった。真っ平らな田圃が周囲に広がっている。竜さんはやはり弱っているためか、歩いてる最中はあまり話さなかった。竜さんがバテているので、歩く速度がゆっくりになるのが私としてはありがたい。ガイドが夏水だったりすると、デブの親父の歩行速度に対する気づかいなく、「着いてこれる者だけ着いてきな」って感じでとっとことっとこ行軍していくので。

 衰弱した竜さんがガイドだと、行軍ではなく、ゆらゆらと徘徊という感じである。沼から大島新田関枠までは1.5キロほどだったようだが、ここを30分ぐらいかけてゆっくり歩いた。広々として気持ちはいいが、あまり詩的とはいえない散文的な田舎の風景だ。途中、中年女性が池を見ながら佇んでいた。やはり平原演劇関係者、竜さんの奥さんのMKさんだった。

 大島新田関枠に到着するころには雲が多くなり、薄暗くなった。気温もぐっと下がる。関枠とは「筧かけいの短いもので横が広く、開戸二枚あるもの。用水、分水などの所にかけて、水をはかり引き分けるのに用いる」(日国精選版)とのこと。ここでは倉松川と旧倉松落の分岐点なのだが、その流れ方が逆流しているのが非常に特異らしい、竜さんの説明によると。関枠のそばに大きな石碑があり、そこにいろいろ書かれているらしい。ちなみに分水界とは「地上に降った雨が二つ以上の水系に分かれる境界」(日国精選版)。

 私、竜さん、櫛ヶ浜やぎさん、MKさんが関枠に到着すると、この寒々とした風景の中で私たちを待っていた栗栖のあとほうじょうがおもむろに芝居をはじめた。この分水界を、太平洋岸のカナダとアメリカの国境で、アメリカの飛び地領土であるポイントロバーツに見立てている。高野竜さんは飛び地が好きだ。国境線上にある橋の上のカナダ側とアメリカ側に若い男と女がいる。この二人の会話劇だ。

 上演時間は20分ほどだったと思う。しかし内容がさっぱり頭に入って来ない。荒涼とした場所のインパクトと俳優の存在感はあったのだけれど。竜さんの芝居の上演はたいていそうで、同じ戯曲を3回ぐらいみてようやくどんな物語なのかわかる。ちなみに上演された「逃(タオ)」の脚本はここにアップロードされている。

 台本を読んでみたが、やはりよくわからない。現地で見てわからないのは仕方ないような気がした。公演場所に近づいて、橋の上で佇む栗栖のあが見えたとき、高野さんの奥さんのMKさんが「あ、中森明菜みたいな人がいる!」と言ったのが印象に残っている。確かに中森明菜っぽい。昭和の歌謡曲の歌詞が演劇化されたような上演だった。結末は男女が別れ、川岸を別々のほうに歩いてく。延々と見えなくなるまで歩いて入った。

 上演終了後、関枠のそばにあった石碑の内容について竜さんがレクチャーをはじめたが、寒くてこれもあまり頭に入らなかった。石碑が暖かいというので、みなが石碑の周りに集まって、石碑に触って暖を取った。確かに少し暖かいような気がする。

石碑に群がる人たち。櫛ヶ浜さんが撮った写真。

 ここで竜さんが「15分ほどトイレ休憩しましょう」と言う。新作「安戸ロゼッタ」がそういえばまだ上演されていなかった。歩いて10分ほどところに公園があり、そこに公衆トイレがあった。公園の一部はネコのコミューンになっていて、数匹の猫がいた。トイレをすませたあと、ネコとしばらく遊んで、芝居の再開を待つ。

 しかし竜さんがなかなか姿を見せない。20分ほどたったころだろうか、それまでどこにいたか分からなかった竜さんが現れ、「あの。今日は体調がダメなんで。これで公演は終わりにします」と言う。竜さんが自らこんなことを言うのを聞いたのは初めて聞いた。自分で相当危ない状態だと思ったのだろう。

 もうろうとした感じの竜さんはひとまずその場に残し、MKさんの車で私、櫛ヶ浜さん、のあ、ほうじょうは駅まで送って貰う。竜さんはそのあと、入院したことを、帰宅後、竜さんのツィートで知った。この日はバス停降りた時点で嘔吐していたときから、ずっと体調はひどく悪そうだったが、入院までいってしまうとは。さすがに心配になったが、幸い、竜さんの体調は数日で回復し、家に戻った。

 寂しくぼんやりとした平原演劇祭、トラブルで終わった平原演劇祭であったが、こういう平原演劇祭もまた味わい深いものだ。

 

 

2022/12/25 ホイヴェルス作『復活のキリスト』他@宝生能楽堂

日本全国能楽キャラバン! 宝生流東京公演

  1. 能「隅田川」
  2. 狂言「十字架」
  3. 能「復活のキリスト」

2022年12月25日13時-14時半@宝生能楽堂

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イエズス会の宣教師として1923年に来日して以後、1977年に死ぬまで日本で過ごしたホイヴェルス師(1890-1977)は多数の日本語戯曲を残している。

ホイヴェルス作の新作能「復活のキリスト」はWikipediaによれば1957年に初演され、その後62年と63年に東京で上演されている。63年の上演のあとは、久しく上演が途絶えていたが、2017年6月23−24日にバチカンのカンチェレリア宮殿で上演され、昨年、金沢の石川能楽堂でも上演された。東京での上演は、1963年以来、およそ50年ぶりとなる。

今回の復活上演にあたっての宝生和英のインタビューが以下のリンクにある。

www.nohgaku.or.jp

今回の上演では「復活のキリスト」に併せて、ホイヴェルスの「復活キリスト」の着想を得たと言う能『隅田川』と福音書のエピソードに基づく狂言『十字架』(ホイヴェルスと九世三宅藤九郎作)も上演された。

ホイヴェルスは能『隅田川』を見て深い感銘を受けたそうだ。当日パンフレットにある李聖一神父の文章によると、遠く離れた東国で死んだ息子の塚を訪れる狂女の母と処刑されたイエスの遺体を見舞いに墓所を訪れるマグダラのマリアの姿が重なったのだろう、と言う。『隅田川』では作り物の塚のなかにずっと身を潜めている子供の霊が、最後の最後に母の「南無阿弥陀仏」の声に、その作り物のなかからまず声だけで「南無阿弥陀仏」と応えたのち、短い時間すっと白装束の姿を現す場面がたまらなく美しい。その最後に至るまでが、長くて、しかも何を言っているのかよくわからないので、ひたすら眠くて退屈なのだが。

「復活のキリスト」ではマリア(この戯曲ではヤコブの母マリアとマグダラのマリア)の呼びかけに、復活したイエスが神としてその姿を見せるのだから、それは歓喜の場面となるはずなのだが、『隅田川』の結末の余韻と能の厳かな様式で演じられることで、はじけるような歓喜ではなく、神の出現に立ち会うときに思わずひれ伏してしまうような荘厳な畏れ、圧倒され、突き放されるような緊張感を感じさせた。2017年のバチカンでの公演で、イタリアの観客がこの聖書劇をどのように受け止め、どんな評が出たのか気になるところだ。

能による聖書劇の題材として、ホイヴェルスがイエスの復活のエピソードを選択したことも私にとっては興味深かった。というのも「復活のキリスト」で演じられる場面は、九世紀から一六世紀にかけて西ヨーロッパ各地の教会で聖職者たちによって演じられてきた典礼劇で最もよく取りあげられる場面だからだ。

現存する典礼劇約600編のうち、400編が「聖墓訪問」Visitatio sepulchri というこの場を演劇化したもので、その大半は復活祭の早朝の朝課の最後に上演されたと考えられている。

典礼劇はラテン語による歌唱劇で、演技者である聖職者たちが行うべき所作はしばしばト書きに詳しく指定されており、形式的に能と共通点がある。

イエスの復活はキリスト教の教義上、最も重要なエピソードなので、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書すべてに「聖墓訪問」は記述されている。ただキリスト教的には最重要であるはずのイエスの復活は、聖書では墓所を訪ねるマリア(聖書では2人ないし3人のマリア)が、安置されているはずのイエスの遺体が墓所に不在であることによってイエスの復活を知るという逆説的な記述なのが面白い。

墓所を訪ねてきたマリア(たち)に、墓守のように墓所に待機していた天使たちが「おまえたちは誰を探しに来たのだ?」Quem quaeritis ? と問いかけるところから、西ヨーロッパにおける演劇の歴史は始まる。福音書によってイエスがマリアたちの前に現れることもあれば、不在のままのときもある。

 

イエスが散々苦しんだ挙げ句、処刑される受難 Passion の場と比べると、復活の描写はドラマとしてはインパクトが弱いのだが、典礼劇の主題として受難の場面が扱われたものはない。残存する典礼劇の半分以上は、復活のエピソードを扱っている。受難の場面は、俗語(フランス語など)で書かれ、町の広場で町の住民たちによって上演された大規模な聖史劇・受難劇で好んで取りあげられた。

一度死んだ人間が、神となって生き返る、姿を現すという超自然的な、そしてキリスト教の教義の根幹に関わるきわめて象徴的な場なので、復活劇はリアリズムではなく、能のような高度に様式化された手法で上演されるのがふさわしい。おそらく聖職者たちが演じた典礼劇の上演も様式的だったはずだ。能の様式性がもたらす荘厳さは、聖書や典礼劇の復活の霊性を表現するのにいかにもふさわしいように感じられた。ホイヴェルス神父が、能による「キリストの復活」を着想するにあたって、中世の典礼劇も参照していた可能性もあるのではないだろうか。

狂言《十字架》も聖書のなかにある信心深い漁師とそうでない漁師のエピソードを劇化したものだが、海上に現れる十字架を役者が演じるという趣向が面白かった。中世フランスのファルスを翻案した狂言としては飯沢匡の《濯ぎ川》があるが、《十字架》にもファルスの味わいがあった。中世フランスのファルスは現代ではフランスでも上演される機会は滅多にないが、狂言《十字架》は、ファルスが狂言の様式によって変換されることで、現代劇として成立しうる可能性を示していた。ダリオ・フォの《滑稽聖史劇》には中世の聖史劇・受難劇に取材したシリアスな場とファルス的な笑いの場が交錯しているが、その中の一篇、「盲人といざりの劇」は狂言形式の上演がおそらくはまるだろう。「盲人と伊いざりのファルス」は以下のような話しである。物乞いで生計をたたてていた盲人といざりは、イエスに出会ってしまうと奇跡がおこって、健常者となり物乞いができなくなるので、イエスから逃げ回る。

能・狂言による翻案によって、典礼劇、ファルスという中世ヨーロッパの演劇の上演形態、その上演可能性を想起させる観劇体験となった。

2022/12/04 平原演劇祭2022第21部 #神曲2022@目黒区駒場住区センター

平原演劇祭2022第21部 #神曲2022

 2022年最初に開催された平原演劇祭が高野竜が20年以上前に書いた大作戯曲『神曲』の第一部の読み合わせ会だった。

otium.hateblo.jp

 今回、平原演劇祭2022第21部(!)では、『神曲』三部作の第二部「テンペルホフ」を読んだ。参加者は13、4名。登場人物が全部で30名近くいるので、全員に役が振り当てられた。開始は17時過ぎで、途中休憩をはさみ読み終えたのは19時半過ぎだった。

 主宰の高野竜が今日も意識はあったものの、ヘロヘロの状態だった。読み合わせ中もうつらうつらしている時間があったようだ。かなり長い戯曲なのでさっさと読み始めなければ、住区センターの退室時間になってしまうのでは、という懸念があったのだが、高野はぼんやりしていて進行を仕切って進められるような感じではない。なので私が強引に役の振り分けを仕切り、読見合わせを始めた。

  昨年末の崖転落による脳挫傷以来、高野竜の状態はすこぶる不安定だ。こんな状態で野外公演を含み、今年21回も公演を行っているのだから常軌を逸している。おそらく高野は自身の健康状態を思うと、今後長きにわたって自分が演劇活動を継続できるとは考えていないのだろう。だからこそ公演がこんな異常なペースで行われているのだ。

 

 平原演劇祭の主な開催告知の手段は、twitter(@heigenfes)だ。高野の調子がいいときには、note(平原演劇祭 heigenfes|note)に開催告知が掲載されることがある。今回の神曲第2部本読みはnoteに告知がなく、twitterでの告知もあまり活発にされていなかったので、いったい何人の観客/参加者が集まるのだろうかとちょっと心配していたのだが、当日は13、4名の思いのほか多くの参加者がいた。しかもみな、初見で戯曲を読んでいるにもかかわらず、「えっ!?」と驚くような読み巧者が集まっていた。

 

[撮影:ぼのぼのさん(@masato009)]

 『神曲』は20年以上前に高野が書いた戯曲ということで、近年の彼の地誌戯曲とは文体や雰囲気がかなり異なる。高野さん特有の壮大な地理感覚、時間感覚を味わうことができる伝奇的ロマンで、そのユーモラスな饒舌体の台詞には、唐十郎、あるいはフェリーニを連想させるような濃厚な詩情が感じられる。言葉のやりとりから風景が思い浮かぶ。今回は私はこの場の主役といっていい重要な役柄を充てらたので、高野の劇詩の楽しさと美しさを演者として堪能することができた。途中、合唱の場面などもあり、参加者全員で盛り上がって、戯曲の世界を楽しむことができたように思う。

 平原演劇祭には、自分が小学生のころ、学校のクラスでやっていたお楽しみ会という行事の雰囲気も連想することがある。演者/観客が対峙するのではなく、作品を通してそこに居る者たちが一時の非日常の時空を共有し、つかのまのユートピア的共同体が形成されるような。ささやかな会合・公演であるが、その時空の充実感・幸福感は独特のものだ。

 今日は終了後、参加者で集合写真を撮影した。高野さんは真ん中で好々爺のようにちょこんと座っている。確かにこの写真が伝えるような、レトロでノスタルジックな時間を楽しむことができた読む会だった。

[撮影:ぼのぼのさん(@masato009)]

togetter.com

 

2022/10/10 五百旗頭幸男監督『裸のムラ』@ポレポレ東中野

5月に石川県小松市の曳山子供歌舞伎と大衆演劇劇場、金沢おぐら座での森本商店街一座を見に行ったのだが、この両方に石川県知事の馳浩が来て、挨拶をしていた。小松の子供歌舞伎はともかく、金沢おぐら座の商店街素人演劇は内輪の公演に思えたのだが、こうした小さなイベントにまで県知事が来るのに驚いた。保守王国である石川県における保守系政治家と地域社会および地域芸能の関わりについて知っておいたほうがいいように思い、『裸のムラ』を見に行くことした。実際には思っていたのとはかなり異なった内容のドキュメンタリーだった。
 
主に三つの対象が追いかけられている。一つ目は7期にわたって知事を務めた前石川県知事の谷本正憲から現知事の馳浩の当選に至る石川県知事選の流れ。選挙にあたって支持を固めるにあたっての二人の政治家、とりわけ前谷本知事のなりふり構わない精力的な動きと振る舞いを追いかけていく。選挙におけるストレスフルな政治的駆け引きの様子が記録されている。
 
あとの二つは石川県に在住する市民を追いかけているが、この二つの対象は市民としてはかなり例外的なマイノリティである。ひとつはインドネシア人の妻と日本人夫、子供三人の敬虔なムスリムの家族。一日五回の礼拝や女性のヒジャブ着用など、生活様式と深くむすびついた日本、それも地方に居住するイスラム家族が、マイノリティゆえに向き合わなくてはならない面倒くささ、やっかいごとが映し出される。
 
もう一つの対象は、定住所を持たず車での移動生活を続ける二組のバンライファー家族である。そのうち一組は定職を辞し、貯金を食い潰しながら無職のまま、夫婦でバンライファー生活を続けるアファフィフの夫婦。もう一組は夫婦と小学生の娘、そして映画の最後のほうで女の子の子供をが生まれ、4人家族となるバンライファー世帯である。この世帯の夫は、脱サラし、フリーランスでさまざまな社の広報を担当して生計を立てている。
 
マイノリティでかなり規格外の生き方を選択した「市民」たちと選挙活動を意識した政治家の勢力的な動きは、バラバラのテーマに思えるのだが、見ているうちに、この非正規的家族の生活の背景として石川県知事の政治運動がつながっていくように思えてきた。
 
監督がこの三つの対象で浮かび上がらせようとしているテーマは、日本社会、石川の保守的社会における男性中心主義への批判であるように思えた。ところで選挙活動といえば、特に保守系議員の選挙活動では、家族の絆を強調し、内助の功たる妻の存在を強調し、選挙運動に利用することが多いように思うのだが、谷本正憲も馳浩のいずれもその選挙運動のなかで配偶者が登場していないことが意外だ(馳浩の選挙運動には娘が、無理矢理といった感じで登場させられえていたが)。馳浩の妻は、タレントの高見恭子なので、彼女が選挙運動に協力すればかなり強力のはずだが。
 
三種類の対象のいずれにも、監督の態度は共感的とはいえない。どこか突き放して、カメラを向けているような感じがある。この三者の不全ぶりをむしろカメラのまえにさらし、提示しようとしているように思えた。監督がおそらく肯定的に捉えている人物は、イスラム教一家のインドネシア人の妻だろう。明晰さと高い日本語能力、そして異邦人として生きるのに必要な強かさを持つ彼女の言葉は、日本社会のみならず、敬虔なイスラム教徒となった自分の夫に対してもどこか辛辣な批判が含まれているように感じる。
 
リベラルに見えて、実は父権主義的なバイライファーの父親に対して、特にこの父親が溺愛する娘に対する姿勢について、監督は批判的なのだが、私としては能力は高いものの、その生き方の不器用さゆえに、世間に対しても、家族に対しても、スマートに振る舞うことができないこの若い父親には同情してしまうところがあった。彼は彼なりに一所懸命に生きているし、努力もしている。妻と娘のことも大切に思っている。でも必ずしもしっくりいっていない。この父親のもがきぶりをカメラは冷徹に映し出していた。
 
石川県という場所を除いては、直接的なつながりはなさそうな三つのテーマが雑然と並んでいるかのようなとらえどころのないドキュメンタリー映画だったであり、そこで監督が伝える「男性中心主義」というメッセージも後からとってつけたようなラベルにすぎないような気がしたのだが、振り返ってみるとそのちぐはぐさのなかに、やはりなにかつながりが感じられる。上映中はどちらに向かっていくのかわからないまま見ていたが、退屈を感じることはなかった。

2022/09/18 のあんじー 移動劇『夜を旅した女』@路地裏の舞台にようこそ2022

のあんじー – 路地裏の舞台にようこそ 2022

#股旅KO演劇

 20代前半女性二人の演劇ユニット、のあんじーによる野外移動劇『夜を旅した女』は、今年私がこれまでに見た演劇公演のなかでもっとも強烈な演劇体験だった。大阪府西成区あいりん地区、昭和の時代に取り残されたようなレトロな下町をのあんじーが切り裂いていく。数十名の観客を引き連れて、異装の二人組の女子が、規格外の発想で、釜ヶ崎の風景を情念の物語の舞台に塗り替えていった。

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