閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

豊岡演劇祭2020 9/13(日)

ホテルを10時前にチェックアウトし、豊岡駅のコインロッカーに荷物を預け、10時5分発のバスに乗って城崎国際アートセンターへ向かう。30分ほどで到着。
Q/市原佐都子『バッコスの信女〜ホルスタインの雌』の開演は11時半。『バッコス』のあと、豊岡に戻って16時半開演の中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零』を見ることになっていた。『バッコス』終演後、城崎温泉街をぶらぶら散歩して、海鮮丼でも食べてから豊岡に向かうつもりだったのだが、『バッコス』の上演時間は2時間半あった。昨年秋に名古屋トリエンナーレで見たにも関わらず、『バッコス』の上演時間を2時間くらいだと思い込んでいたのだ。
入場時に一人一人きっちり体温チェック等を行うため開演が押し、終演は午後2時を10分ほど過ぎていたように思う。

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市原佐都子は性欲にとらわれた存在としての人間のすがたを生々しく描く。その性欲の描き方には甘いロマンティシズムはない。性の肉体的喜びに溺れるというよりも、性と結びついた人間関係にともなう支配-被支配の関係、そして性的妄想をエスカレートさせていくときの精神の自由がもたらす快楽といった性の生々しく、みもふたもない現実に、市原は目を向ける。性の快楽によって、私たちは日常的に自分を拘束する縛りからの解放がもたらされる。快楽によって理性の縛りから解放された私たちは、その喜びには、嗜虐あるいは自虐による破壊の快感があることになんとなく気づいているけれど、それに敢えて触れようとはしない。市原佐都子の作品は私たちが抑圧する性のグロテスクを舞台作品として突きつける。
 
性の殺伐とした様相を露悪的に描く作家は少なくない。しかし市原佐都子のような可憐な少女のような見た目の女性が、性愛についての叙情性を一切排した、こうした生々しく、即物的な性を、悪意と攻撃性を秘めた無邪気さのもとに、提示するというのはショッキングだ。市原佐都子は自分がそのような女性であるからこそ、こうした世界を描き出すことに意義があるということをよく知っている。市原は女性の性のリアリティを女性の視点から書く。それは男性が若い女性に対して抱く、「舐めた」視線、甘くて都合のよいファンタジーを打ち砕く破壊力を持っている。男性が女性に抱く性ファンタジーのおぞましさ(一方的でひとりよがりな)、滑稽さが、市原佐都子作品では、その徹底した女性性、男性不在によって、突きつけられるような感じがする。
 
 
市原佐都子『バッコスの信女』は、合唱隊と対話部分が交錯するギリシア悲劇の形式を踏襲しているが、その内容はエウリピデスの作品の翻案というにはあまりに大きな改変が加えられた別の作品になっている。エウリピデスの劇的構造と劇中要素を利用しつつも、それを変形させ、発展させた市原の奔放でグロテスクな想像力は驚くべきものだ。
古代ギリシャ劇と違い、市原の劇の演者は全員女性だ。主要な登場人物が三名で、いずれもエキセントリックで破滅的な人物だ。三人といってもそのうち一人はペットの「犬」を演じる。そして合唱隊(コロス)がいる。最初に登場するのが家畜人工授精師の資格をもつ主婦だ。この人物設定の発想自体がどうかしている。
 
ドラマは彼女の長いモノローグ劇として始まる。彼女は家畜人工授精師という仕事の内容を説明し、そして自分が己の性欲処理をどのようにおこなっているのかを、あっけらかんとした調子で、丁寧に説明する。家畜人工授精師は、酪農家をまわって発情した乳牛に人為的に精子を投入し、受精させる仕事だ。われわれは普段意識することはないが、われわれが日常的に消費する食肉(そして乳製品)のほとんど受精から生育、出荷まで人為的な管理のもとで「製造」される。しかし市原が家畜人工授精師に注目したのは、乳牛の生殖はすべて人の手によって行われているがゆえ、乳牛(肉牛もそうだろう)は例外なく性行為をすることなく、出産するという事実である。牛乳あるいは食肉の安定的供給のために、処女懐胎・処女出産という不自然なことが日常的に行われている事実を、私たちの多くは思い浮かべることはないし、酪農に携わるひとたちはそれを異常だと思ったことはないだろう。しかしそのやり方や過程を丁寧に説明されると、その不自然さにわれわれは気がつき、そこにグロテスクなものを感じてしまう。佐原は人口生殖、処女懐胎が当たり前の家畜の性のありかたから、想像力を発展させていく。
 
家畜人工授精師として多数の牛を妊娠させてきた彼女には、セックスや恋愛についての甘い幻想はまったくない。性欲は1年に一度(「発情期」にということか)、ハプニングバーで解消するものである。そこで若い女の身体が気持ちよさそうだったので、若い女性を誘ってセックスしてみた。するとそれは思ったほどうまくはいかなくて、相手の若い女性に容赦なく罵倒されてしまう。しかし彼女はその罵倒を気にする様子もない。子供が欲しくなったけれど、恋愛というプロセスが面倒だ。家畜人工授精と同じように精子バンクから精子を購入して、自分で自身の膣にその精子を注入して妊娠しようと考える。彼女は欲望についてはむしろ淡泊であり、それにのめり込んでは振り回される感じはない。常に欲望する自分を客観視する視点がある。しかし「〜したい」という欲望に彼女は率直だ。「恋愛して、男性のパートナーを見つけるプロセスが面倒くさい」でも「子供は欲しい」という女性は少なくないだろう。欲望合理主義者の彼女は精子バンクから冷凍精子を購入する。
自身は家畜人工授精師である受精のプロであるゆえに、彼女は自分でその精子を自分の膣に投入しようとするが、いざ投入しようとすると、不安が大きくなった。購入した精子を捨てるのがもったいないので、彼女は乳牛にその精子を投入してしまう。
牛と人間のあいだに生まれた子供がなぜ両性具有であるのかは説明されない。牛と人間のハーフなので、ミノタウロスかと思ったが、この両性具有者は上半身が人間で下半身が馬のケンタウロスと呼ばれていた。半人半獣の怪物でギリシア神話に結びつくものであればいいということだろう。この半人半獣は巨大な男根を持っている。母親となった家畜人工授精師は、激しすぎる性的衝動を持て余し苦しむ子供をにエロ本を見せて自慰を行うように促す。そして母親は狂ったように自慰を続ける半人半獣の子供を結局は見捨て、家に置き去りにしてしまうのだ。ここで家畜人工授精師の一人語りの最初の場面につながる。彼女はコーンフレークは、ケロッグ博士が性欲抑制のための食事として考案したのだという蘊蓄を語っていたのだ。その語りには、かつて自分が誕生させた半人半獣の子供を捨てた罪悪感はみじんも感じ取ることができない。
十数年後に彼女の家を訪ねてくるのは家畜人工授精師がかつて捨て去った半人半獣の怪物なのだが、彼女はそのことになかなか気づかない。
半人半獣の怪物に心理的に誘導され、その怪物が住むアジトへ向かうのだが、家畜人工授精師はそこで『バッコスの信女』のペンテウスのように惨殺されることなく、家に戻る。そしてもぎりとった半人半獣の怪物の一物を焼き肉にして食べる。これが結末だ。
 
『バッコスの信女』の公演が終わったのが午後2時過ぎだった。この日はこのあと午後4時半から豊岡市民会館で中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』を予約していた。『バッコスの信女』の終演後、アフタートークがあるとアナウンスがあったが時間が一時間ほどかかるという。午後3時過ぎだと昼ご飯を食べたあと、城崎温泉から豊岡に移動していると、『零(ゼロ)』の開演に間に合わなくなってしまう恐れがある。城崎温泉駅から全但バスに乗って豊岡駅に戻る。ちなみに今回の演劇祭では豊岡市内バス乗り放題チケット(土日券1900円)を購入したのだが、バスの停留所、時刻表、路線などの運行情報の調査が甘くてあまり有効に使えなかった。結局使ったのは12日(土)の豊岡-江原の片道、そして13日(日)の豊岡-城崎の往復だけ。バス運賃は一回400円ぐらいだったので、乗り放題チケットを買った意味はあまりなかった。一人乗り電気自動車のコムスの無料貸し出しやオンデマンドの乗り合いタクシーというサービスも用意されていたことにあとになって気づく。前もってわかっていれば利用したかった。

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中堀海都+平田オリザの室内オペラ『零(ゼロ)』、これは現代音楽オペラ。会場の豊岡市民会館は、この三日で私がめぐった豊岡演劇祭の会場の中で一番広い場所だった。1500人ぐらいは入れそうなホールだが、今回は新型コロナ感染対策で半分以下になっている。
暗い照明のなかで女優三人による台詞劇とNgatari(このバンドについては先ほどググって知った)のJessicaのヴォカリーズによるアリアの場面が交錯する。美しい曲だったし、全身を使ったJessicaのパフォーマンスは魅力的だったけど、移動で疲れていたのか、断片的な場面をつないだ静かで詩的なこの作品を味わう集中力を欠いてしまっていた。一時間半ほどの公演だったが、30分ぐらいは夢うつつだった。マスクをしたままの鑑賞だと、酸素不足になるせいか、眠気が強くなるような気がする。今ふりかえって思い返すと私好みのいい作品だったような気もしてきた。機会あればまた見てみたい。
 
18時前に室内オペラ『零(ゼロ)』の会場の豊岡市民会館を出る。駅の売店で鯖寿司弁当を列車のなかで食べる夕ご飯として購入。
豊岡-福地山、福知山-京都、京都-東京と乗り継いで、終電で自宅の最寄り駅に到着する予定だったが、福知山-京都間で線路内動物侵入のため列車が20分ほど遅れて、接続がかなりシビアなものとなってしまった。最悪、渋谷か池袋のネットカフェで夜明かしになるかなと覚悟したが、ぎりぎり接続が間に合って帰宅することができた。

豊岡演劇祭2020 9/12(土)

この日予約していた公演は、12時開演のcigars、16時開演の東京デスロック、そして19時半開演の『ヤルタ会談』。cigarsと東京デスロックは豊岡駅が最寄りだが、『ヤルタ会談』は豊岡から二駅離れた江原に移動しなくてはならない。
午前中のスケジュールが空だ。豊岡駅周辺で美術館など時間をつぶせそうな観光ポイントはないかなと思ってググってみたけれどなさそうだ。曇り空で気温はそんなに高くないので、ぶらぶらと円山川あたりを散歩してみようかと思って、9時半ごろホテルを出る。

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昨夜、大道芸を見た豊岡稽古堂のまえで紙芝居の公演がはじまろうとしていた。演劇祭のフリンジ公演で日坂春奈の『かみしばいや』だ。野外無料公演なのだが、新型コロナ対策でこの公演も予約制になっていて、私は予約しそこねていた公演だ。一回10名程度しか予約出来ないようだ。人がひしめき合っているという感じではまったくなかったので、「予約なしだけど見ること出来ますか?」と聞くと、立ち見だったらOKとのこと。
紙芝居はこの演劇祭のために作った新作2本とのこと。一本目は演者・作者がそうめん好きだということで「そうめんのゆめ」というお話。おまけで紹介されていたおいなりの薄揚げにそうめんを入れる料理、おいしそうだ。2本目はピンクのカエルが月の背にのって豊岡のいろいろな場所を巡る話。2作品とも他愛のない可愛らしい話だった。紙芝居は15分ほどで終わってしまう。
 
豊岡駅前から東にまっすぐ延びる目抜き通りの商店街は土曜だというのに賑わいがない。シャッターのしまったままの店が多かった。町の規模は3月に行ったアイルランドのスライゴーに似た感じだが、スライゴーよりもさびれた雰囲気だ。目抜き通りの道をずっと進んでいくと円山川にさしかかる。川幅は20メートルくらいか。河原は雑草が生い茂っていた。cigarsの公演がある12時までとにかく時間を潰さなくてはならない。

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Googleマップを見ると2キロほど離れたところに京都丹後鉄道のコウノトリの郷駅がある。そこまで歩いて、そこから京都丹後鉄道に一駅乗れば11時半過ぎに豊岡駅に戻って来ることができることがわかる。cigarsの公演会場の豊岡市民プラザは駅に直結しているので都合がいい。ちょうどいい運動かなと思い、田舎道を歩いてコウノトリの郷駅に向かった。コウノトリの郷駅の駅舎は木造の無人駅だった。竹林の里山のそばにある。鉄道は単線で、車両は一両だった。ただ車両は新しくてきれいだった。

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cigarsの『庭にはニワトリ二羽にワニ』『キニサクハナノナ』の二本立ては、ささやかだけれどとてもいい公演だった。演出はこの4月に急逝した青年団志賀廣太郎、戯曲は小川未玲。『庭にはニワトリ二羽にワニ』はピアノ伴奏による4人の演者によるミュージカルだ。ミュージカルといっても物語の流れは背景に映し出される可愛らしいイラストで示される。4人の演者は絵本のような背景映像に合わせて語り、演じていく。単に自分の役柄の台詞を読むのではなくて、ささやかだがちゃんと俳優として演じている。大阪の西成で素人のおっちゃんたちがやっている紙芝居演劇、むすびが同じようなことをやっているのに先ほど気づいた。cigarsはむすびの紙芝居演劇を、プロの俳優によって洗練されたかたちでやっているのだ。絵本の読み聞かせの発展系のような芝居だったが、俳優たちはピアノの伴奏に合わせて読んだら歌ったりしているだけではない。スライドの絵に合わせて、役柄を演じる。絵で提示される情報を、俳優の身体がうまく保管し、物語のイメージを膨らませていた。主張しすぎない俳優の演技の入れ方が絶妙だった。そして言葉遊びや定型的物語要素のパロディをちりばめた脚本が面白い。大人も楽しめるシニカルな批評性がサラリと入っている。何度か声を出して笑ってしまった。子供と一緒に見て楽しみたい作品だと思った。

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同じ作者による『キニサクハナノナ』は、絵本風の一本目と雰囲気が違う作品だった。ピアノ伴奏の音楽はつくが、こちらはミュージカル仕立てではなく演者は歌わないし、踊らない。死者が死の国へ旅立つ前に、思い残したことを伝えるという趣向の物語だ。見合いをしたものの、その直後に召集令状が届いたため、縁談を断った男が、その見合い相手の女性に間違った花の名前を教えてしまった。男は死の国への待合室にその女性を呼び出し、間違った木の花の名前を教えたことを詫び、心置きなく死の国へ向かう。
どこかで似たような設定の話を聞いたことがあるように思う。最初の話が子供も楽しめる内容だったので、それと組み合わせる二本目も子供が楽しめる作品の方がいいのではないかと思ったのだが、作品演出はあまり気取り過ぎない洗練があって心地よい後味の舞台だった。
演劇祭ではとんがったマニア向けの作品だけでなく、こうした間口の広い秀作の上演があることは重要だ。
 
昼飯は駅から歩いて20分ほどのところにあるバイパス沿いのマクドナルドで食べた。駅前から伸びるかつての目抜き通りはシャッター商店街となっていて人通りも少ない。しかしバイパス沿いには大型ショッピングセンターやファミレスが並んでいた。車社会ではこうした感じになるのは避けられないのだろう。かつての駅前の中心部の商店街は駐車スペースが乏しいため寂れてしまう。
 
午後4時から豊岡市役所に隣接する豊岡稽古堂で、東京デスロック『anti human education III 〜PENDEMIC Edit.』を見る。多田淳之介らしいユニークな切り口の作品だった。学校の授業のスタイルで、各教科ごとに新型コロナ禍について先生役の俳優が観客に向かって授業する。ドリフなどのお笑い番組の学校コントを連想する。
全部で6時限あって、数学、世界史、保健体育、生物、国語、音楽で、各教科は15分ほどの長さ。観客にはホワイトボードが配布されて、教師役の設問にボードで答えたり、となりの観客とペアワーク的なことをしたりする。実際の教科書や授業実践をよく調査している感じがした。

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数学の内容は新型コロナとの関わりは分からなかったが、ペアないしグループでやるしりとり掛け算はフランス語の数字の学習にも応用可能だと思いメモした。世界史は過去の感染症にまつわる事件について、高いテンションで教える。保健体育は適応規制についての説明と新型コロナ禍での適応規制の実例をアンケートとともにうまく説明していた。生物は細菌とウィルスの違い、ワクチンの役割。伝え方には適切な演劇的誇張によるメリハリの工夫があって分かりやすかった。内容も真っ当で教科書の記述をよく研究している。
しかしたかが15分ほどの模擬授業(それも伝え方にか工夫があって、極めてよくできた)にもかかわらず、退屈で眠気を感じてしまうのはどういうわけか。またこうした優れた工夫の授業もこの密度で90分で15回やるのはかなり大変だろう。生徒もあまり凝縮された内容だとオーバーフローを起こしてしまうのではないだろうか。教育による緩やかさ、「遊び」はやはり重要であると思った。
よくできた模擬授業だったが、それだけじゃあ演劇的に物足りないなあと思っていたら、昼休みの防護服を着た先生たちによる教室消毒作業の後、5限目の国語が新型コロナ禍で占星術オカルトにハマってしまった先生によるものだった。スピリチュアルなメッセージを吐き続ける。こうしたちょっとおかしくなってしまった先生は実際にいそうな気がする。惑星のパワーがどうのこうのと話していたが、本来は『銀河鉄道の夜』をやるはずだったというオチがついた。
 
6限目の音楽はビデオ映像による授業。音風景をホワイトボードに書かせて、生徒同士で見せ合うというもの。この授業実践も実際にやられているものだそうだ。午後の授業はもっと風刺的で黒く歪んだ内容にエスカレートしていく方が良かったと思う。実際の授業実践の一部を演劇的にデフォルメして手際よく提示し、生徒役の観客に体験してもらうだけではつまらない。
今回は新型コロナにまつわるテーマだったが、内容や提示の仕方がいちいち啓蒙的なのがちょっと鼻についた。
 
東京デスロックの後はバスで江原まで移動して、青年団の新たな本拠地、江原湖畔劇場で『ヤルタ会談』を見た。この演目はこれまで何度か見ている。同じく肥満俳優キャストによる同じ演出。と言っても忘れていたやりとりは多かったが。安定したクオリティ。昼間に歩いたせいか、見ていて眠くなってしまった。
周りが暗くて江原湖畔劇場の様子はよくわからなかった。駅からは歩いて3分ほどの場所だが、本当に何もない田舎町のようだ。

豊岡演劇祭2020 9/11(金)

9/11-13の金土日の二泊三日で、豊岡演劇祭に行ってきた。
コロナ禍のため、海外からの招聘が不可能になり、、国内団体のみの演劇祭となった。予定していたより大幅な規模縮小になってしまったわけだが、それでもギリギリのところで開催できてよかった。

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いやよかったのかどうかはまだわからない。豊岡は兵庫県北部の但馬地方は人口過疎の田舎だ。演劇でこの過疎の地域を活性化させようという平田オリザへの期待は大変大きなものなのだけど、しかしそのために新型コロナウイルスが持ち込まれ、この地域  が 広まったりすると、もとより田舎の閉鎖的な土地なのだから、演劇への風当たりは一気に強くなり、演劇で町おこしどころではなくなるだろう。
 
7月に新宿の小劇場でクラスタが発生したこともあり、東京の劇場でも感染 »対策は緊張感をもって行われているが、豊岡演劇祭スタッフの緊張感、プレッシャーはそれ以上に違いない。もし感染クラスタが演劇祭で発生してしまったら、地域の信頼感を回復させるのは並大抵のことではないはずだ。
 
演劇という文化がほぼ存在しなかった但馬の地に演劇を根付かせようとする平田のチャレンジは驚嘆ものだが、このコロナ禍の不安の中で演劇祭を実施する決断をしたという賭けもすごい。東京では7月以降、連日百人以上の新型コロナ陽性が出ているので、場合によっては私は豊岡に行くことはできないかなと思っていたのだけど、8月20日なってようやく兵庫県外の居住者に対するチケット販売が始まった。
 
東京から豊岡に行くのはけっこう大変だ。私の父の郷里が但馬の山村だったので、私にはなじみのある地域なのだけど、鉄道でこのあたりに行くのは本当に久々だ。父の郷里の最寄り駅は豊岡の二つ前の八鹿駅(そこからさらにバスで50分の山奥)で、私は豊岡駅で降りたことはなかった。城崎温泉には数年前に一泊している。
東京からだと新幹線で京都まで行って、そこから山陰線に乗り換えてというルートが一番合理的みたいなのだが、京都から特急で福知山まで行って、そこでローカル線に乗り換えなくてはならない。京都から乗る特急の名前は「きのさき」なのだけど、城崎温泉まで行かず、その80分ぐらい手前にある福知山駅が終点なのだ。一日に一本だけ京都から豊岡まで乗り換えずに行くことができる特急が走っているらしいのだけど。東京-京都間が2時間15分ぐらいだが、京都から豊岡までが待ち時間を入れると3時間以上かかる。

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私の家の最寄り駅である有楽町線副都心線地下鉄赤塚からは7時間近くかかった。朝10時半ごろに家を出て、豊岡についたのが午後5時半。移動しているだけなのだけど、やっぱり疲れる。
 
豊岡駅は私にとってははじめての駅だ。カバン製造業が盛んで、但馬地方の中心都市なのだけど、まあ田舎のがらんとした町だ。駅そばにはショッピングセンターがあり、ホテルが数軒ある。ホテルは駅のすぐそばにあるOホテル豊岡で、一泊朝食付きで5000円ぐらい。城崎温泉の宿と風情があってよさそうなんだけど、一人で泊まるような感じの宿はほとんどないだろうし、値段も高い。
 
一人で地方旅行だと夕飯もわびしくなる。お酒が飲めれば居酒屋みたいなところに入って、土地のおいしそうなものを食べてという楽しみ方もあると思うのだが。こういうときは下戸って不便だなと思う。ホテルにあった「お食事処リスト」も居酒屋や割烹が多い。一件だけ「食堂」というのがあった。
 
ホテルにチェックインして荷物を部屋においたあと、ホテルのリストにあった駅近くの食堂に入る。昭和的な定食屋さんだ。腰のまがったおじいさんとおばあさんが給仕をしていた。お客さんはおっさんが一人とおじいさんが一人。いずれも一人飯で、テレビをみながら黙々と食べている。メニューは定番的定食もの、麺類、洋食、丼など多数。焼き肉定食を食べた。わびしい夕食だった。まあ、飯を食べに来たわけじゃなくて、芝居を見にきたのだから、これでいいのだ。
 
今日見る演目は、ホテルから歩いて10分ほどの場所で21時からやっている大道芸、知念大地の『続・ひしと』というフリンジ演目だ。
 
会場の豊岡稽古堂までは歩いて10分ほどだが、その道筋は暗くて人通りがなかった。よくこんなところで演劇祭をやろうと思うよなあと思いながら歩く。豊岡稽古堂は豊岡市役所に隣接した建物のようだ。開演15分ほどまえに到着したが、スタッフはいたけれど、観客は私以外に2、3名しかいない。コロナのせいで、無料の大道芸にもかかわらず事前予約が必要だったのだが、その告知がしっかりされていなかったためか、全然定員が埋まっていないという訴えを数日前にパフォーマーがしていた。
会場までの道なりがあまりにも暗くて人通りがなかったので、観客は果たしてどれくらい集まるのだろうか、と思っていたのだけど、最終的には30名くらいの観客が集まった。

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大道芸を見るのは久しぶりだ。知念大地というパフォーマーは私は今回が初めて見る。細身の中性的なパフォーマーで、手品、ジャグリング、パントマイム、ダンスを見せる。落語っぽい語り芸もいれていた。バラエティに富んだ芸を緩やかな構成で次々と見せるけれど、本領はダンスのようだ。
身体の柔らかさと運動能力の高さを生かしたパフォーマンスだった。本人が一番見せたいのはパントマイム的な動きを取り入れたダンスなのだろうけれど、私が一番印象的だったのは小さな折りたたみ式のパイプ椅子をくぐり抜ける軟体芸だ。ルーズで即興的な雰囲気のなかでやるのを持ち味としているのだろう。30分の演目のプログラムはきっちり組み立てられた感じはしない。
 
ちょっと前衛的でひとりよがりな感じがあった最後のナンバーは、夜の会館ホールという空間の雰囲気とマッチしていたけれど、昼間の陽光のなかでは人をひきつけるパフォーマンスにならなかったかもしれない。世捨て人というか、やさぐれた感じのスタイルには引きつけられるところはあった。

前進座リーディング公演『ああ、母さん。あなたに申しましょう』@江戸東京博物館大ホール

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前進座リーディング公演『ああ、母さん。あなたに申しましょう』@江戸東京博物館 大ホール

5人の俳優による朗読劇。舞台のひな壇に二人の俳優、床面に三人の俳優が並んで、観客の方を向いて朗読する。
都下で新型コロナウイルス感染者数が300人近くなる日が続いた上、さらに新宿の劇場で集団感染が起こってしまったために、舞台芸術公演に極めて厳しい視線が向けられるなかでの上演である。入場時には観客一人一人が発熱チェックと手の消毒を行い、会場客席は間隔が設けられ、観客はマスクを装着しての観劇となる。観客を迎えるスタッフはマスクと透明シールドを装着し、手袋をはめている。
この状況下の公演は当然赤字にしかならないだろう。しかしそれでも公演を行う、公演を見て欲しいという役者とスタッフの心意気が伝わってきて、こちらの背筋も伸びる。
『ああ、母さん。あなたに申しましょう』は通常の前進座公演ではかかる機会がなさそうな現代の日本を舞台とした喜劇だった。妊娠がわかり、赤ちゃんが生まれるまでの若い夫婦の葛藤と成長を、モーツァルトの『キラキラ星変奏曲』に乗せて、軽やかにコミカルに描き出す。夫婦の妻のほうはキャリアウーマンで、いささか軽薄で見栄っ張りなところがある今時の女性である。夫は無名の前衛芸術家。温厚な性格で妻を大事にしているけれど、稼ぎはない。若い夫婦のやりとりは、子供がいる夫婦が見ればまさに「あるある」と膝うちするようなシーンがいくつもあるだろう。私も自分たちの子供がうまれるときのことを反芻しながら舞台の展開を見守った。子供から見れば親は親らしいのがあたりまえのだけれど、親は最初から親らしいわけではない。あらゆる親は子育ての初心者だ。とりわけ最初の子供が生まれるときはそうだ。親は子供を持つという経験を通し、子供とともに親らしくなっていく。子供を持つということがどういうことなのか想像できなくて、喜びつつも戸惑い、不安だったあの頃の自分の姿を、舞台上の夫婦に重ねずにはいられない。
極めてシンプルな物語であり、ありきたりの題材なのだけれど、こうしたありきたりのエピソードを観客に共感させるのは簡単なことではない。劇のタイトルの『ああ、母さん。あなたに申しましょう』は、モーツァルトピアノ曲、《キラキラ星変奏曲》のオリジナルタイトルなのだが、この軽やかな曲がこの劇のテーマソングとして、何回も流れる。様々な変奏がそれぞれのシーンの雰囲気に合わせて流れる仕掛けが効果的だった。そしてこれぞプロの読み方とうなってしまう俳優の朗読技術の高さ、細かな工夫にも引き込まれる。昨年の前進座公演でいわさきちひろを演じた有田佳代さんが、今時の女性を上手に表現していた。この若い妻は、悪い人ではないけれど、ちょっとわがままで、浅はかなところもある。そして感情の起伏も激しい。でもその振る舞いや率直さがとても可愛らしい。彼女の感情の変化がアクセントとなって、音楽とともに、劇の動きにリズムを作りだしていた。
ありふれた出産ストーリーに奥行きを与えていたのは、胎内にいる男女の双子の赤ん坊を輪廻転生の「生まれ変わり」とし、この赤ん坊が自分たちの親の狼狽ぶりを批評しながら、彼らが生きた前の人生について語るという複線構造だ。モーツァルトの《キラキラ星変奏曲》の原題《ああ、母さん。あなたに申しましょう》はこの胎内の双子の存在とつながる。ちなみに先ほどgoogleで検索して、《ああ、母さん。あなたに申しましょう》という曲のタイトルは、« Ah ! vous dirais-je, Maman »というフランス語で、オリジナルの旋律は18世紀に流行ったフランス民謡であることを知った。この赤ん坊を柳生啓介と浜名美貴というベテラン俳優が演じるというパラドクサルな配役の仕掛けも面白い。
最後は出産場面で終わるのだけど、子供のいる人の多くは、自分の子供の誕生のとき、子供が小さかった頃を思い出して、思わず泣いてしまうのではないだろうか。私は泣いた。すごく通俗的なドラマなんだけれども。
終演後、河原崎國太郎と、前進座の次回作『残り者』のキャスト6人による挨拶があった。『残り者』は江戸幕府の崩壊にともない大奥を追い出される女たちの話とのこと。
前進座に限らず、どの演劇人も厳しい状況になる。そして苦しいのは演劇人だけではない。

しかし前進座の座員たちが見せた悲壮だが、毅然とした覚悟の美しさには心打たれた。そう、前進座が苦しいのは新型コロナウイルス感染拡大のだいぶ前からずっと続いているのだ。その状況下でも退廃と無気力に陥ることなく、見ていて背筋の伸びるような全力の芝居を作っていく前進座を、私はこれからも応援していきたい。

 

平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」

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平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」
7/12(日)10:00-12:00集合、14:00開演
浦和・与野・さいたま新都心各駅を出発
川口市「上谷沼運動広場オーバーフロー」にて上演
完全投げ銭制・雨天決行

出演:セクシーなかむら、栗栖のあ、アンジー青野大輔、ふみ、西岡サヤ
統括・救護:高野竜
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#行軍演劇である。noteに掲載された告知文では、初級・中級・上級コースが設定されていた(初級はのちに中止になったが)。平原演劇祭リポーターの私としては当然「上級コース」を選ぶしかないが、「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」と書いてあるのがちょっと気にかかった。運動不足の肥満中年の私にとって、果たして体力的に大丈夫だろうかと不安になったのだ。平原演劇祭はときにかなり過酷な観劇を強いられる。それでもやはり私としては「上級」の一択しかない。

上級コースは午前10時にさいたま新都心駅東口バス停に集合になっていた。10時ちょうどにバス停に行くと、顔見知りのシアタゴアーのNさんが一人で心細げに立っていた。

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「えーっと、平原はじめてなんですが、ここでいいんですよね?」

「はい、そのはずなんですが」

行軍のガイド役の青野大輔は5分遅れで到着した。福岡県在住で大学生兼俳優とのこと。

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ガイド役の青野大輔氏。

行軍の出発地点は、さいたま新都心駅からバスで20分ほどのところだという。午後から雨模様という天気予報だったが、かなり気温が高くてじめじめしている。脱水症状、熱中症の予防のため、出発前にコンビニで飲み物と塩分補給できるお菓子類を購入した。上級コース参加者は、私とNさん、そして俳優をやっているという三十代の青年の三人だけだった。このところゲリラ的なやり方でユニークな野外劇をやるということで平原演劇祭の認知度が上がっていて、数十名の観客が集まることが多くなっているのだが、上級コースは「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」というのに躊躇した人が多かったのだろうか。

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さいたま新都心駅から南南東に20分ほどのところにある「教育センター前」というバス停で降りた。がらーんとした散文的というか何の情緒も感じられない道ばたのバス停だ。近くに大型薬局があり、ガイド役の青野氏はそこで飲料や飴などを購入していた。今回の行軍演劇では、この付近を流れる川筋に沿って3時間ほど歩くことが予告されていた。川筋の半分ぐらいは、川の上に「ふた」がおかれて見えなくなっている暗渠になっている。現在では「ふた」がおかれ、道に覆われて見えなくなっている暗渠をたどりながら、川にまつわるその土地の物語を語るというのは、高野竜さんの劇作のテーマの一つで、今回の行軍の終着地で上演される『一輪の書』はこのテーマに基づく作品の一つだ。『一輪の書』は以前、平原演劇祭で上演されたのを私は見たことがあるはずだ。そして高野さんのいくつかの作品を通じて、埼玉・東京の川と沼についてのうんちくを私は聞いている。

散文的で殺風景な田舎町の風景のなかに、その土地の歴史や地理を取材することで叙事詩的な物語をつむぐ高野竜さんの手法やそこで演劇的に提示される物語自体には感心するけれど、もともとそうした地誌に深い関心を持っているわけでない私は、実のところ作品や高野さんが語る内容についてはあんまり理解できていない。そして語られた内容のディテイルも忘れてしまっている。

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今回の行軍演劇の出発点は、この付近を流れる川の一つ、藤右衛門川の水源とされる場所だ。水源というと高い山の奥深くにひっそりとあるというイメージだが、藤右衛門川の水源は住宅地の真ん中に割り込むようにある。幅30センチほどのコンクリートの用水路になっていた。この小さな流れは、いくつかの付近の支流と合流し、まもなくはば三メートルほどのかなりの水量の流れとなるが、現在はその多くは暗渠となっていた。

藤右衛門川の名の由来となった藤右衛門は江戸時代の武士でこのあたりの治水事業を行った人のようだ。もともとは浦和から川口にいたるこの地域はいくつもの川が流れる広大な湿地帯だったという。

「暗渠の両側に家が並んでますけれど、暗渠の側には玄関がなくてみな裏口になってます。今、私たちは川のうえにふたをした「道」を歩いているわけですが、もともとここが「道」ではなかったことの名残です」

「もとの川沿いには、クリーニング屋さんとか市民プールとか、水を大量に必要としていたお店や施設がけっこうあるんですよ」

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[何の変哲もない住宅街の路地だが、この赤いコンクリート板の下に藤右衛門川が流れている]

歩きながらガイドの青野氏が適宜このような説明してくれる。高野さんに前に聞いたような話だなあと思ったのだが、青野氏に聞けば事前に二回にわたって全行程を高野さんと歩き、徹底期にレクチャーを受けたのを暗記したとのこと。青野氏は福岡のひとで、このへんの地理にはもともと詳しいわけがない。もっとも地元のひとでもこうした川や治水の歴史について知っている人はそんなにいないと思う。

青野氏は俳優でもあるが、このガイド自体が演劇作品なのだ。この行軍演劇の最後に置かれた『一輪の書』という戯曲の上演は一時間ほどだが、その前の行軍が三時間。行軍は今回の公演の本体であり、前説ではない。

 

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この水源付近は、道祖土という変わった地名だ。これで「さいど」と読む。この近くにある道祖土小学校は、学校の敷地内を暗渠となった川が分断していることで、暗渠マニアのあいだではよく知られているという。

goo.gl

 

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道祖土小学校の敷地を分ける暗渠。

道祖土小学校を過ぎると藤右衛門川はしばらくのあいだ開渠となる。しかしこうした解説がなければ、特に気にとめることのない町中のドブ川でしかない。

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川にそって、川と民家のあいだの狭い通路を歩いて行く。

上級コースは「川口探検隊みたいなヤバイのが好きな人向け」とあったが、実際には山の中のジャングルのような険しい場所を歩くことはなかった。「道」とは言えないような民家と川の間の私有地か公有地かわからない狭い通路を歩いたりすることはあったが。ただこの日は、午後から雨の予報が外れて、とにかく暑かった。炎天下を三時間歩き続けるのはかなり過酷だった。行軍中に体調不良になった際の対処のしかたも考えられてはいたが、実際、熱中症が心配になったので、水分・塩分補給はこまめに行った。また普段の運動不足があって、三時間歩き続けるというのもきつかった。疲労で次第に口数が少なくなっていく。

道祖土小学校から、巨大な駒場浦和スタジアムを経て、浦和競馬場へと歩く。そしてこの行軍演劇の目的地が、川口市「上谷沼運動広場オーバーフロー」。この付近にあるいくつかの広大な敷地の施設・緑地は、藤右衛門川の流れの沿ってある。今では住宅地のなかにどかんと唐突にあるように思えるこれらの施設だが、かつてはこのあたりが広大な湿地帯だった名残なのだ。

歩いている最中は暑さと疲労でこうしたことを明瞭にイメージできなかったのだが、今、google mapを開いて歩いてきた行程を振り返ると、行軍演劇「一輪の書」公演でなにが「上演されていた」のか、その意味があらためて明らかになった。

駒場浦和スタジアムから、藤右衛門川はしばらく暗渠になる。ガイド役の青野氏の説明があったからこそ気がついたのだけれど、今は道路になっている暗渠の川筋の両脇が勾配のある「崖」になっている。このあたりはいくつもの小川がかつては流れていたのだが、川のあったところは(実はいまでも《暗渠》として流れているのだが)谷間になっていて、その両岸の部分はゆるやかな丘を形成しているのだ。現在の町並みは、かつてのその地形をそのまま利用したものがわかる。

こうして説明されれば「なるほど」と思うのだが、説明がなければあたりの風景は殺風景で平凡で面白みのない住宅地だ。かつての藤右衛門川はこのあたりでは幅6-7メートルの道路になっている。

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藤右衛門川の暗渠については、暗渠ハンターの方のブログ記事に詳しい。私たちは昨日、ここに書かれている道筋をほぼそのままたどったことになる。

https://mizbering.jp/archives/18767

まっすぐ南に延びる藤右衛門川の下は暗渠になっていて川が流れているのだけど、地上からは川の気配は感じられない。藤右衛門川通りは住宅街にあるごくありふれた道路だ。この通りを一キロほど歩いて行くと、突然といった感じで通りは行き止まりになる。行き止まりにはフェンスがあってその先が見えない。このフェンスの向こう側にあるのは浦和競馬場だった。一戸建て住宅が並ぶ街のなかにいきなり広大な競馬場があるのだ。

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浦和競馬場 https://g.page/urawakeiba?share

この競馬場は市民公園にもなっていて、競馬が行われていない日には自由に出入りできるようになっている。駒場浦和スタジアムから約2キロにわたって暗渠となっていた藤右衛門川(谷田川とも呼ばれているらしい)は、浦和競馬場で地上に姿を現し、競馬場をたてに二分する。競馬場の中央には池があった。かつてはここは沼地だったのだろう。

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浦和競馬場内にて。

与野駅をわれわれより90分遅い11時半に出発した中級コースの人たちとこの競馬場で落ち合うことになっていた。中級コースの参加者は10名以上いるとのこと。しかし彼らはなかなかやってこない。予定では13時過ぎに落ち合うはずだったのだが、中級コースの面々が到着したのは13時40分を過ぎていた。彼らを待っているあいだ、真昼の太陽が照りつける灼熱の競馬場で、富士右衛門通りの入り口にあったコンビニで購入した昼食を食べた。

中級コースの歩行距離は実際には上級コースのわれわれとさほど変わらなかったようだ。暑い中を歩いてきた中級コースの面々はバテバテの様子だった。中級コースのガイドは二人いた。一人はこのくそ暑い中、スナフキンの格好をした若い男性。もうひとりはふわふわ、よろよろ歩いてる若い女性。彼女は休憩中におもむろにミヒャエル・エンドの『モモ』の一節を朗読しはじめたのだけれど、それを気にかける人は誰もいない。

私も競馬場内で昼飯休憩を取ったものの、あまりの暑さと行軍の疲労でヘロヘロになっていて、「あ、朗読してるな」とは思ったものの、なんとなく、その朗読少女を見て見ぬ振りしていた。

浦和競馬場から最終目的地、「一輪の書」の上演会場である川口市上谷沼運動広場までは30分ほどの距離だからがんばりましょう、とガイド役の人が言う。しかし実際には参加者の疲労のためか、たらたらとした歩みになり、神谷沼運動広場の上演会場までは一時間ぐらいかかった。

競馬場から運動広場までは藤右衛門川は開渠となっているが、水は汚い。幅の広いドブ川という感じだ。巨大な鯉が何匹も泳いでいた。かつて鯉ブームがあって、そのときに放流した鯉の子孫らしい。

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上谷運動広場に着いてから、公演会場までも長く感じた。この川沿いの運動広場は、広大な遊水地として整備されたものだ、という話を聞く。川の水が増水しあふれそうになると、堰を開いてこの遊水地に水を逃がすという。しかしこれまでこの広大な遊水地が水で満ちることはなかったとのこと。

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公演会場は運動広場の先端まで歩き、そこから後戻りした場所にあった。到着時には参加者のほとんどは暑さと行軍疲労でよたよたしていたと思う。私もへたりこんだのだが、暑さをしのげる場所がない。たまに風が吹いて、若干生き返った気がする。

『一輪の書』の上演の準備ができるまで20分ほど休憩となった。

「さあ、はじまります」との声に、20人ほどの観客はぞろぞろと草生い茂る神谷沼運動広場の中央部へと降りていった。増水時にはここに水が放出され、池となる場所だ。『一輪の書』はここまでの行軍のなかで説明されてきた富士右衛門川とこのあたりの地誌が、演劇的対話によって提示される地理演劇だ。

暑さで私を含め観客はみなかなりへばっていた様子だったが、オープニングはのあ、アンジー、そして山口からやってきた女装俳優セクシーなかむらのトリオでの歌、《暗渠椿は恋の花》で無理矢理テンションを上げさせられた。

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この歌とダンスのあと、チンピラのけんかやらなんやら、『一輪の書』の本筋とは関係なさそうなドタバタコントがあって、 観客は強引にそのファンタジーに引き込まれてしまう。俳優がどんどん動くので、それを追いかけて、観客もぞろぞろと草のなかを分け入っていく。埼玉県南部の治水を語る社会科演劇、『一輪の書』は側溝のそばの大きな木の下で上演された。

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岡本かの子にちょっと似ているアンジー岡本かの子役を演じた。なんでいきなり岡本かの子と思って見ていたのだけれど、家に帰ってググってみると岡本かの子は「河明り」という短編小説で日本橋川という川について書いていて、高野竜はそこからこの劇作品の着想を得たという。岡本かの子にはここ2年ほど興味を持って読んでいるのだけれど、この小説の存在は私は知らなかった。

『一輪の書』を見るのは今回が二回目だ。今回は芝居の前に三時間の行軍での予習があったので、藤右衛門川についてのやりとりで「おお、なるほど」と理解できる部分が多かった。前に見たときは、一見なんの変哲もない土地の歴史を掘り下げて変わった芝居を書くなあ、高野さんは、とは思っていたけれど、そこで語られている内容はほとんど理解できなかった。

高野竜の戯曲は綿密な取材・調査をもとに、いろいろな情報がしっかりと書き込まれていて読み応えがあるのだけれど、実際の芝居の上演ではその内容を届けることに自体には高野さんはあんまり関心がないみたいだ。ただ戯曲がしかるべき場所で、戯曲を実体化する俳優を通して上演されることで、観客は異世界に誘なわれる。散文的な風景にさまざまな意味が付与され、違った光景を作り出される。そういう体験ができるのが平原演劇祭の醍醐味だと私は思っている。芝居の上演の現場で俳優が言ってることはわからないけれど(俳優も理解して言っているのかどうかあやしい)、とにかく楽しい。

今回は行軍演劇のレクチャー(青野さんがとにかくきっちり説明してくれ、そのミッションを果たしていた)のおかげで、「一輪の書」もより深く楽しめるようになっていた。

若い女性ふたり「のあ+アンジー」のユニット、のあんじーの存在感、個性はやはり強烈だ。こんな非現実な状況で、可愛らしいドレスを着て、日常的にはありえない川についての衒学的なやりとりをしているのだけれど、それがしっかりさまになってしまう。どんなちぐはぐなものでも無理矢理飼い慣らしてしまう強引さ、エネルギーがこの二人の魅力だ。

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今回は高野竜さんは芝居の演出には関わっていないという。高野さんの戯曲と演出はいつもどうかしているのだけれど、のあんじーは高野さんのヘンテコな戯曲さに負けない強靱さを持っている。山口県からやってきたセクシーなかむらをドブ川から登場させるし、高野さんにバケツで水をぶっかけて無理矢理洗礼を行い(のあは敬虔なキリスト教徒)、その場で台詞を渡して即興芝居させるし。高野戯曲を乗り越えようとする自由な逸脱ぶりが愉快だ。

エンディングはバケツを打楽器代わりにして、歌を歌いながらぐるぐるとまわるというもの。


平原演劇祭2020第4部「一輪の書」のあんじー


この公園での演劇公演はゲリラ的なものということで、短い役者紹介のあと、現地解散となった。

観客はそこから最寄り駅まで歩いて帰ることになった。一番近い南浦和駅までは徒歩20分ほど。Googleマップを頼りにたどり着いたが、観劇終了直後に立ち通しの疲労もどっとやってきて、この20分が長く感じた。

帰宅後、風呂に入ると日に焼けた肘がヒリヒリ痛んだ。

 

平原演劇祭2020第4部 #行軍演劇「一輪の書」については、さまざまなディテイルに言及したyoutube「コン劇」のレポートが秀逸だ。このレポートは、私とともに上級コースに参加した3人の一人によるもの。かないさんという俳優のかただ。30代の青年と冒頭で書いたが、42歳だった。一緒にまわっているときから、写真を撮るポイントや質問が「素人」離れしてるなとは思っていたが。こんなスタイルのレポートのしかたがあったとは。非常に面白いし、貴重な記録だ。かないさんのレポート自体もまた「演劇」として成立しているように思う。


リンクを以下に。


【平原演劇祭】#行軍演劇 見てきたよ!!!【コン劇配信】


【告知】7/12 #行軍演劇「一輪の書」https://note.com/heigenfes/n/n6f514ae9d069

 

中世とフランス文学についての七冊の本(《7daysブックカバーチャレンジ》のまとめ)

FBでの投稿をまとめたものです。

【ブックカバーチャレンジ】
・読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ
・好きな本を1日1冊、7日間投稿

中世とフランス文学についての本を中心に七冊の本を紹介しました。

【第一日目】

佐藤彰一池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』、《世界の歴史 10》、中央公論社、1997年。

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全三〇巻あるみたいですが、私の手元にあるのは中世の時代を扱った第十巻だけです。今は文庫版があるみたいですが、私が持っているのは1997年初版の単行本版。

久々にめくってみたけれど、いい本だ。王朝史、政治史ではなく、社会史、文化史的な記述が中心の中世史です。
図版も多いし、文章も平易で読みやすい、高校生ぐらいから読める格好の西洋史入門だと思ったのですが、アマゾンのカスタマーレビューには
「著者は「フランスかぶれ」なのでしょうか?
フランス語の文章を直訳したようなヘタな日本語を書いて、ご満悦?この文体のせいで読むのが苦痛でした。」
というのもあって、「ええ、マジっ!」って感じでした。

こんな本を手に取るくらいなのですから、それなりの歴史マニアだと思うのですが、それでもこの文章が「ヘタ」で「読むのが苦痛」となってしまうと。うーむ。

 

 

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【第二日目】

ベディエ編、佐藤輝夫訳『トリスタン・イズー物語』、岩波書店、1953年、1985年(改訂新版)。

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ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》によってよく知られている中世の不倫の愛の物語ですが、ケルト起源のこの物語の最も古いテクストは十二世紀後半にフランス語で書かれたものです。
この『トリスタン・イズー物語』は偉大な中世フランス文学研究者のジョゼフ・ベディエ(1864-1938)が1890年に発表した作品です。ベディエは十二世紀後半に書かれた二つの「トリスタン」のうち、より原型的であると考えられてるベルールのテクストをベースに、ベルールのテクストでは欠落しているエピソードを、中世に書かれた他の「トリスタン」もの記述で補い、編纂することで、独自の「トリスタンとイズー」の物語群の総体を示しました。

『トリスタンとイズー』の物語は、中世のあいだに形成されていったこの不倫のカップルを主人公とする様々なエピソードの集成です。
優れた文献学者であり、中世のテクストを綿密に検討したベディエによる「トリスタン」は、ワーグナーが楽劇化にあたってそぎ落とした様々な不思議で美しいエピソードを含んでいます。濃厚な愛の情念がせめぎ合うワーグナーとは、別の世界がそこでは展開しています。

しかし文献学者ベディエもまた十九世紀後半のロマン主義の美学にどっぷりとつかった人間でした。彼の『トリスタン・イズー物語』は、中世のオリジナル・テクストに依拠しつつも、その物語の世界や価値観は近代的なロマンチシズムによって大きく歪曲されているという批判があります。しかしそのロマン主義のフィルタごしの中世の愛の物語がなんと豊かで美しいことでしょうか。

 

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

  • 発売日: 1985/04/16
  • メディア: 文庫
 

 

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【第三日目】

松原秀一『中世ヨーロッパの説話:東と西の出会い』、中央公論社、1992。

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世界各地に伝わる説話の類似を実証的に検証することで、古代・中世の東西世界における文化的交流の痕跡をたどろうとする壮大な比較文学研究です。
松原秀一先生の博識ぶりは驚異的です。専門の中世フランス文学はもちろん、近現代のフランス文学、古典古代の文学、そして日本の説話集や仏典など。丹念にテクスト間の共通点と相違点を拾い上げて、数千キロの距離と数百年の時にわたるつながりを浮かび上がらせていきます。
この著作の驚くべきところは、文献学的な手続きを踏まえた学問的著作でありながら、その語り口はやわらかいエッセイ風であるところです。松原先生の留学時代のエピソードなどが、自然に学術的な内容へとつながっていきます。
大量の文献の引用がありますので、読むのには若干煩雑さがありますが、遠い彼の地に伝わっていた物語が、その引用と先生の推論を介して、日本までつながっていくリンクが見えてくる展開に、知的な刺激に満ちた読書体験を味わうことができます。
もちろん私にはこんな学識にはとうてい到達することができません。その知識の巨大さとそれをやわらかく語る術、人間的余裕ともいえるものには、研究者、人間としての格の違いを感じずにはいられません。
松原秀一先生の著作には知的好奇心に駆られ、未知の領域に踏み込んでいくのを先生ご自身が楽しんでいる様子が感じられるような気がします。

 

 

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【第四日目】

作者不詳/川本茂雄訳『歌物語 オーカッサンとニコレット』、岩波書店、1952年。

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『オーカッサンとニコレット』は十三世紀初頭に書かれた古フランス語の短い物語です。歌付きの叙情詩と散文の語りが規則的に交錯する形式で書かれ、「歌物語」chantefableと写本にはありますが、この形式で書かれた作品は中世フランスではこの作品しか残っていません。

南フランスのボーケールの王子オーカッサンは城代の養女ニコレットに激しく恋い焦がれています。しかしニコレットは遠国から連れて来られ、イスラム教徒から買われた奴隷女だったため、王も王妃もその恋を認めるわけにはいきません。ニコレットとオーカッサンはそれぞれ幽閉されますが、駆け落ちし異国へと逃れます。

波瀾万丈、荒唐無稽で、素朴な物語です。私がこれまでに読んだ中世フランス語で書かれた文学作品のなかで最も愛らしく、美しい作品です。

そして川本茂雄先生の擬古文調の訳文が、実に典雅で心地よいのです。こうした擬古文調はリズミカルで、音楽性が豊かで美しい。古文・漢文をちゃんと勉強していなかった私にはこんな訳文は絶対に作れないですね。

何誰が聴こし召されうや、
ニコレットにはオーカッサン
二人の眉目よき若者の
古き傳説の歓びや、
面輝ける乙女ゆゑ
若者忍べる大難儀、
樹てた手功の良き詩句を。

 

歌物語 オーカッサンとニコレット (岩波文庫)

歌物語 オーカッサンとニコレット (岩波文庫)

  • 発売日: 1952/02/05
  • メディア: 文庫
 

 

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【第五日目】

澁澤龍彦『悪魔のいる文学史─神秘家と狂詩人』中央公論社、《中公文庫》、1982年。

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早稲田大学第一文学部の仏文専修に進んだのですが(早稲田では2年次から専修に分かれるシステムです)、もともと仏教美術研究をやろうと思って美術史の専攻がある大学を受験した私は、仏文に入るつもりは全くありませんでした。大学一年のとき漢文を一所懸命勉強したのですが、必修の第二外国語のフランス語を落とし、専修進級のための再試験を受けているうちに、希望専修だった美術史の定員が埋まってしまい、第4志望(事務所に第4志望まで書けと言われました)の仏文専修に行くことになってしまったのです。
まあ仏教美術から仏文なので、「仏」ではつながっていたとは言えますが。
高校時代は小説をよく読んでいましたが、読むのは日本の作家ばかりで、外国の作家の小説はほとんど読んでいませんでした。仏文に進んだその頃の私が知っていた仏文学の情報のほぼすべては澁澤龍彦のエッセイから得たものでした。澁澤龍彦は高校時代に夢中になって読んだ作家の一人でした。
澁澤龍彦のエッセイのなかで私が一冊挙げるとなれば、この『悪魔のいる文学史』になります。19世紀フランスのロマン主義の潮流に育まれながらも、その奇矯でグロテスクな想像力と破天荒な生き様ゆえに主流になりえなかった異端の文学者・思想家に焦点をあてた文学史です。
高校時代に読んだときはフランス文学の知識がほぼ皆無だったのでこの特異な文学史の面白さはよくわからなかったのだけれど、仏文専修に入ってから読み返してようやく面白さがわかるようになりました。今、久々に読み返すと、初版の単行本は半世紀近く前に出版された本というのに、やはり実に面白い本です。

19世紀後半の詩人、シャルル・クロが書いたトリスタンとイズーの対話詩の引用がとりわけ印象に残っています。
トリスタンとイズーの情熱的な愛のやりとりが、一音節語の羅列によって表現されています。一音節の語が並んでいるだけれだど、ちゃんと韻を踏んでいます。
有名な詩なので内容はご存じのかたは多いでしょう。
澁澤龍彦はこの詩の訳はのせていません。私もあえて訳さないままで紹介しておきます。本当にくだらない(笑)、でも最高。

トリスタン
Est-ce

Ta
Fesse ?
Dress
La.
Va ...
Cesse ...
ゾル
Cu ! ...
Couilles !
Tu
Mouilles
Mon
Con

 

悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人 (中公文庫)

悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人 (中公文庫)

  • 作者:澁澤 龍彦
  • 発売日: 1982/03/10
  • メディア: 文庫
 

 

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【第六日目】

月村辰雄『恋の文学誌:フランス文学の原風景をもとめて』、筑摩書房、1992年。

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著者の月村辰雄先生は東大文学部で教鞭を執った中世フランス文学の研究者です。私は残念ながら月村先生の授業に出たことはないし、実際に会う機会もありませんでした。

『恋の文学誌』は一般向けの著作で、中世フランス文学だけについて語られているわけではありません。古典古代から近現代にいたるヨーロッパの文学作品に見られる恋愛の諸相が、堅実な学識に基づく様々な学術的アプローチによって考察されている名著です。
といってもその記述は専門書の堅苦しさや無味乾燥とは無縁です。書物に書かれたさまざまな恋愛のありかたに、著者がまっすぐ誠実に向き合っていることが文章から伝わってきます。

書物を丁寧に読み解くという作業は、この著作では、恋愛そのもののプロセスのアナロジーになっています。新しい書物に手にして眺めるときの浮き立った気持ちとそれを読み解いていくときの苦しみと喜びは、ここでは恋愛という体験と重ねられているのです。『恋の文学誌』の記述は著者の教養の深さを感じさせるのだけれど、そのペダンティスムは嫌らしいひけらかしがなく、品格を感じます。そして何よりも著者の「私」を常に感じさせる抒情詩のような味わいもある本でもあります。

この本は大学学部の授業で、シニカルでおしゃれな雰囲気でちょっともてそうな仏文の教員が紹介していたので知りました。このとき、この教員はこんなことを言ってこの本を紹介したのを今でも覚えています

「僕の友人の月村君という東大で先生をやっている人が本を出したんですが、そのタイトルが『恋の文学誌』というものだったんで、『え!?月村君がこんなロマンチックな本を』とびっくりしたんですよ。月村君が書くのだったら、タイトルの「恋」の前に「失」が抜けてるんじゃないかなとか、思ったりして」

意地悪なことをうれしそうに言う先生でした。月村先生と会ったことのない私は月村先生がもてなかったどうかはしりません。

ただよく言われることですが、恋愛というのは研究するより、むしろ実践すべきものであるし、恋愛の実践において豊かな人たちは恋愛を研究したりはしないような気がします。恋愛について真剣に思い悩み、それを研究し、語ろうとする人は、どちらかというともてない人ではないでしょうか。

それにしても古典古代から現代に至るまで、西洋の文学というのは継続的に恋愛に翻弄される人間たちを描いているのだなあと、この本を見ると改めて思います。
久々にパラパラめくって拾い読みしたけれど、やはりものすごく面白い本です。文学部にやってきたあらゆるもてない人に勧めたい本です。

 

 

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【第七日目】

ガブリエレ・ダンヌンツィオ/三島由紀夫池田弘太郎訳『聖セバスチャンの殉教』、国書刊行会、1988年。

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ダンヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』は、ドビュッシー作曲の音楽とともに1911年にパリ・シャトレ座で初演されました。当時、パリで注目されていたバレエ・リュスのレオン・バクストが衣装と美術を担当し、バレリーナのイダ・ルビンシュタインが主役を努めました。
ドビュッシーの劇音楽はこの作品と《ペレアスとメリザンド》だけだったはずです。まともに上演すれば5-6時間はかかるテクストですが、原稿の遅れがあってドビュッシーが音楽をつけたのはごく一部で、現在はドビュッシーの音楽を伴う縮約版のみがたまに上演されるようです。

ダンヌンツィオは『聖セバスチャンの殉教』を執筆するにあたり、中世演劇研究者のギュスターヴ・コーエンから中世聖史劇について多くの情報と示唆を得ました。作品は各幕に「景」mansionという名称を用いたり、8音節平韻という中世劇で用いられた韻文を用いるなど、中世聖史劇の形式を踏まえて書かれています。

三島由紀夫池田弘太郎による翻訳の初版は1966年に出版されました。この翻訳は、修辞過剰でごてごてとしたダンヌンツィオの原文よりさらにバロック的でおどろおどろしい言語になっています。文体、内容ともに濃厚すぎて読み通すのはかなりしんどいテクストです。

三島にとってダンヌンツィオが特別の作家であることは、筒井康隆が発表した評論、『ダンヌンツィオに夢中』に詳しく書かれています。また『仮面の告白』のなかで主人公は中学生のころ、マンテーニャの「聖セバスチャン殉教図」に激しい性的興奮を覚え、その画像を見ながらejaculatioを行ったことが詳細に書かれている。

聖セバスチャンは3世紀頃のローマの軍人ですが、弓矢を全身に受けながら恍惚とした表情で空を見上げるポーズを描いた彼の殉教図は、ルネサンス以降、数多くの画家が残しています。

『聖セバスチャンの殉教』は、中世の聖人伝・聖史劇の世界が、ベルエポックの終末期のフランス演劇・音楽、そして三島由紀夫とつながる数少ないモチーフです。カナダのケベックの劇作家、ミシェル=マルク・ブシャールの戯曲『リリーズ』のなかでもダンヌンツィオの『聖セバスチャン』は重要なモチーフとして使われています。

ちなみにデレク・ジャーマンが1975年に聖セバスチャンの伝記映画を作っていてえ、この映画は全編でラテン語が話されています。

 

 

「自分の音楽の嗜好に影響を与えたアルバム10枚を選んで1日1枚紹介するチャレンジ」まとめ

第一日目
デラー・コンソート《パリ・ノートル・ダム楽派の音楽とランス大聖堂の音楽》(1961)

 

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ルフレッド・デラー(1912-1979)は古楽演奏のパイオニアのひとり。この録音は1961年のようです。大学一年のとき、はじめて聞いたギヨーム・ド・マショーがこのアルバムでした。管楽器の伴奏なども入ったおどろおどろしい《キリエ》に衝撃を受けた。「なんだ、これは!」という感じでした。

これを聞いたのがきっかけで古い音楽に関心を持って、リコーダー・アンサンブルのサークルに入り、ギヨーム・ド・マショーの叙情詩で卒論を書くことになったわけです。

これを書きながらひさびさに聞き返しています。

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第二日目
メレディス・モンク《Turtle Dreams》(1983)

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ヴォカリーズ(母音唱法)によるアヴァンギャルド音楽、といってもその音楽は親しみやすく、案外聞きやすい音楽です。オルガンで短いワルツの同じ旋律が延々と繰り返されるうえで、ヴォカリーズの様々なバリエーションが展開していきます。

大学に入学した頃にはまりました。六本木、池袋のWAVEで推していたように思います。自分の音楽体験でWAVEの存在は大きいものでした。80年代末から90年代はじめに東京にやってきた若者でこういう人は少なくないと思います。WAVEってスカしていて、「東京」の都会の文化って感じでした。西武が元気あった時代です。当時、関西には西武はありませんでした(つかしんはありましたが)。

来日公演にも行きました。どこでやったのか忘れてしまいましたが。黒い服を着て、下向いている不気味な人たちが集まっていたのをなんとなく覚えています。

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第三日目
チョン・ミョンフン指揮、オペラ・バスティーユ管弦楽団メシアン:トゥランガリーラ交響曲》(1991)

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この録音がされた年に、私はパリに留学していてオペラ・バスティーユでこの名曲を聞きました。メシアンは存命中で私が座っていた座席の数列前の席に座っていました。終演後、指揮者のミョンフンに促されてメシアンが立ち上がり、観客に向かってゆらゆらと手を振った様子が思い浮かびます。《メシアン:トゥランガリーラ交響曲》を通しで聞いたのはこのコンサートが初めてでした。すごい音楽を聴いてしまったなあと、終演後うちのめされ、呆然としていたことを覚えています。
このとき私は学部の4年で、パリに語学留学していたのでした。学生の身分でパリにいるときに得られる恩恵のひとつは、超一流のアーティストたちのコンサート、オペラ、演劇、美術などを学生料金(しばしば無料で)で浴びるほど見ることができるということです。当時、オペラ・バスティーユ管弦楽団の主任指揮者だったチョン・ミョンフンのコンサートには足繁く通いました。
2002-2003年にパリに留学していたときには、ミョンフンはフランス放送フィルハーモニー管弦楽団の主任指揮者でした。私が住んでいた19区のアパートから歩いて10分ほどのところにCité de la musiqueがあり、ここのホールで度々フランス放送フィルハーモニーのコンサートが行われていました。
この年度のシーズンはミョンフンが振ったコンサートでパリとパリ近郊で行われているものはすべて通ったと思います。そのなかでもシテ・ド・ラ・ミュージックでのフランス放送フィルハーモニー管弦楽団によるチョン・ミョンフン指揮《シェヘラザード》のコンサートでの感動の大きさはしっかりと身体に刻み込まれています。ダイナミックな表現のなかでわきあがる濃厚な官能性に陶酔し、体中がじんじんしびれて、終演後しばらく立ち上がれませんでした。
パリに留学していたとき、チョン・ミョンフンの音楽にどれほど元気をもらったかわかりません。

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第四日目
デイヴィッド・マンロウ《グリーンスリーヴズ》(1976)

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大学時代はリコーダー・アンサンブルのサークルに入り、目白のギラルラの安井敬さんの教室に通っていました。早稲田大学リコーダー・アンサンブルは1970年代には山岡重治さんや大竹尚之さんといったプロ奏者を輩出したサークルですが、私がやっていた80年代末から90年代初めはサークルのメンバーは5、6人の弱小サークルでした。部室もなく、練習場所は平日夜に大学の空き教室を求めて彷徨していました。

マンロウのこのアルバムは当時は手に入らなくて、リコアン(という略称だった)の先輩にカセットテープにダビングしたものを貰って、それを繰り返し繰り返し聞いていました。
リコーダーの演奏技術という点ではマンロウは旧世代の演奏家で、その後のブリュッヘンの表現力にははるかに及びません。でも私はマンロウの素朴でポコポコした笛の音色が大好でした。個々の楽器そのものの特性や個性に優しく寄り添う演奏のように思えます。

デイヴィッド・マンロウ《グリーンスリーヴズ》(1976)にはルネサンスバロック期のリコーダー音楽だけでなく、ヴォーン=ウィリアムズ、ウォーロックなどの近現代のイギリスの作曲家たちの作品も含まれています。本当に名曲ばかりです。

2016年に発売されたCD版に入っている、井上亨氏によるマンロウへの愛に満ちた周到な内容の解説も読み応えがあります。読めばマンロウの音楽をさらに深く楽しめるようになるでしょう。

《ゴシック期の音楽》、《宮廷の愛》のシリーズ、《中世ルネサンスの楽器》などマンロウのアルバムは、私にとって最良の音楽史の教科書でした。大学学部時代、リコアンのコンサートなどの選曲も中世フランス文学・音楽の勉強も、マンロウの足跡をひたすら追っかけていたような気がします。

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第五日目

ジェネシス《フォックストロット》(1972)

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高校時代はプログレにはまっていました。といっても私はプログレのなかでもメジャーなバンドしか知らないのですが。マニアックなファンがいくらでもいるジャンルです。
プログレ・バンドのなかではピーター・ガブリエル在籍時のジェネシスが一番好きで、アルバムでは4枚目の『フォックストロット』(1972)が一番好きです。

プログレ屈指の名盤であるこのアルバムについては、ネット上の至るところで熱くて濃いレビューが掲載されています。
名曲ばかりですが、アルバムの最後に収録されている23分の大曲、《サパーズ・レディ》は圧巻。いまでも度々聞きます。思わず笑ってしまうくらいグロテスクでポップでドラマチックです。

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第六日目

イョラン・セルシェル《J.S. バッハ:リュート組曲集》(1984

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中学・高校とクラシック・ギターを習っていました。結局、あまり上達しなかったのでした。
大学のときにはクラシック・ギターの合奏サークルにも一時期在籍していました。サークルの雰囲気が「体育会」系っぽい雰囲気だったのと、独奏楽器であるギターで合奏してギター用に作曲された曲ではない曲ばかり演奏するのに違和感があって、1年ぐらいでやめてしまいました。

楽器のなかではギターの音色が一番好きかもしれません。クラシック・ギターのCDもずいぶん持っていましたが、私が一番好きな奏者はスウェーデン人のイョラン・セルシェルで、なかでも11弦ギターによるバッハのリュート組曲2枚組は愛聴していて今でもときどき聞きます。

バッハのリュート組曲のアルバムは多くの奏者が録音を残しているが、セルシェルの演奏は軽やかで優雅だ。その甘美な音色は実に繊細にコントロールされていて、表現されるニュアンスが豊かで味わい深い。ベタベタした暑苦しさがない。

別のアルバムに収録されている無伴奏バイオリンのためのパルティータに含まれる《シャコンヌ》の11弦ギターによる演奏は、その軽やかさゆえにちょっと物足りなさを感じるのだけれど、この2枚組のリュート組曲全集はセルシェルのバランスのよさと洗練がリュート音楽の高貴な遊戯性にはまっているように思えます

セルシェルのアルバムでは、19世紀古典主義のギター作曲家、フェルディナンド・ソルの作品集もすばらしいものです。ソルの曲はギターという楽器のポテンシャルを十全に引き出す名曲であることが、セルシェルの演奏からわかります。このソルのアルバムもいまもなお愛聴しています。

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第七日目

ザ・タリス・スコラーズ《トマス・タリス:スペム・イン・アリウム》(1985)

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トマス・タリス(1505頃-1585)は、テューダー朝の時代のイングランドを代表する作曲家のひとりです。彼の作品のなかでももっとも知られているのは、「40声部のモテット」こと《スペム・イン・アリウム》Spem in aliumでしょう。この曲の録音は数多いですが、私がはじめて聞いたのは(そして衝撃を受けたのは)1985年に発売されたザ・タリス・スコラーズのこのアルバムでした。
40声部の合唱曲は、各5声部からなる8群からなっていて、常に40声部が響いているわけではありません。じわじわと移動する蟻の大群のように声部が重ねられ、途中何箇所かで40声部すべてが歌われます。全声部が重ねられたときの音のうねりがしびれるような陶酔感をもたらします。合唱音楽の最高峰と言える傑作といっていいでしょう。

曲の長さは演奏団体によって異なるがおおむね10分前後になっています。歌詞はラテン語で、旧約聖書外典のユディット書から取られた数行の短い文句です。

Spem in alium nunquam habui praeter in te, Deus Israel, qui irasceris et propitius eris, et omnia peccata hominum in tribulatione dimittis.
Domine Deus, creator coeli et terrae respice humilitatem nostram.

私はあなた以外に決して望みを持つことはなかった
イスラエルの神よ
あなたは怒りと慈愛の人となり、
苦悩する人間をあらゆる罪から解き放つだろう
主なる神よ、天地の創造者よ
我らのつつましき願いに御配慮を

チューダー朝時代、16世紀のイングランドは優れた作曲家の宝庫です。ウィリアム・バード、ホルボーン、トマス・モーリー、ジョン・ダウランド、ジョン・ボルドゥイン、タヴァナー。そしてイギリス国教会創始者であるヘンリー八世も美しい器楽曲を残しています。
器楽合奏曲の楽譜も数多く出版され、大学時代にやっていたリコーダー・アンサンブルではこの時代のイギリスの作品をよく演奏していました。

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第九日目

ゲイリー・ムーア《コリドーズ・オブ・パワー》(1982)

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中学から高校時代は、アイルランドのギタリスト、ゲイリー・ムーアが大好きでした。当時は毎週土曜深夜に小林克也の『ベストヒットUSA』というテレビ番組をやっていて、それはそれは驚くべき熱心さでこの番組を見ていたものです。ゲイリー・ムーアもこの番組でフィーチャーされていたのが知ったきっかけだと思います。


ゲイリー・ムーアのアルバムで最初に聞いたのが1982年に発売されたこのアルバム《コリドーズ・オブ・パワー 》でした。このアルバムは日本でのゲイリー・ムーア・ブームのきっかけとなりました。久々に聞いていますが、ずーんとした重さがあって、エモーショナルな名曲揃いです。

一度好きになったらとことん掘りつくすほうなので、この後、1970年代前半のゲイリー・ムーアの最初のバンドのアルバム、その後のプログレフュージョンっぽいコロシアムII、ゲイリーが参加したシン・リジィのアルバムなど、ゲイリー・ムーアが関わったあらゆるアルバムは探して購入しました。

アルバムとして好きなのは、シン・リジィ『ブラック・ローズ』、70年代終わりに発売されたソロアルバム『Back on the street』です。70年代中期に発売されたハードなプログレ/ブルース風のThe Gary Moore Band『Grinding Stone』も好きなアルバムです。

いろんな音楽を聴いているうちに、高校2年ぐらいから音楽の嗜好が変わってしまい、ゲイリー・ムーアから遠ざかってしまいました。でもこのあと私がアイルランドに興味を持ち、アイリッシュ・トラッドを聞いたりするようになったのは、ゲイリー・ムーアがいたからだと思います。

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第九日目

ジャーニー《エスケイプ》(1981)

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今、自分が好んで聞く音楽ではないけれど、「自分の音楽の嗜好に影響を与えたアルバム」となると、ジャーニーの《エスケイプ》はやはり挙げなくてならないでしょう。アルバムの発売は1981年で私が中学生の頃です。


たぶん当時毎週食いつくように見ていた『ベストヒットUSA』で知ったのだと思います。ジャーニーなどのこの時代のアメリカン・ハードロックは、ポップでわかりやすい音楽ゆえに《産業ロック》と揶揄されたりもしますが、今、聞き返してみると曲調の通俗性、安っぽさはあるけれど、キャッチーな旋律は心に残るし、アレンジや演奏も含め完成度が高いです。やはりいいアルバムだし、ジャーニーはいいバンドだと思いました。スティーブ・ペリーの高音域、伸びやかな歌声は実に心地よいし、ニール・ショーンのギターもかっこいいですね。

中学の頃に小林克也の《ベストヒットUSA》にはまった私はこれ以後長いあいだ、ポピュラー音楽といえば英米のロックでした。ジャーニーの音楽は、中学生の私にとっては、未知で広大な世界への扉のようなものだったと思います。

このあと、プログレを聞き出したのも、ジャーニーの《エスケイプ》以前のアルバムが、プログレっぽいものだったことから関心を持つようになったのだったということを思い出しました。《エスケイプ》が大ヒットする以前の70年代後半のジャーニーの渋い音楽も悪くないです。

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第十日目

ヒリヤード・アンサブル《ジョスカン・デプレ:モテットとシャンソン集》(1983年)

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今、自分が好んで聞く音楽ではなく、「自分の音楽の嗜好に影響を与えた」となるとやはり若いときに聞いた音楽になってしまいます。


10枚目は、ヒリアード・アンサンブルのアルバム、《ジョスカン・デプレ:モテットとシャンソン集》です。アルバムのリリースは1983年ですが、私がこのアルバムを初めて聴いたのは大学2年のときなので、1989年か90年のことです。早稲田の仏文の小林茂先生が授業でこのアルバムを紹介し、アルバム一曲目に収録されている《アヴェ・マリア》を教室で聞いて、「なんて美しい音楽なのだろう!」と衝撃を受けたことを覚えています。それで授業後にそのまま高田馬場の駅前にあったCDショップムトウに行ってこのCDを早速購入したように思います。


今、久々にこのアルバムを聞き返していますが、、本当に珠玉の名曲揃いです。そしてその演奏のなんと繊細なことでしょうか。私の古楽は、一日目に紹介したデラーの《ノートルダムミサ曲》に始まり、そのあとにマンロウにはまっていったのだけれど、ヒリヤード・アンサンブルの音楽の美しさで古楽演奏の別の可能性も知ったのでした。ヒリアード・アンサブルの数々のCDも大学時代の私にとって重要な音楽の教科書となりました。

2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き

2018/12/13『コモン・グラウンド』@東京芸術劇場アトリエウエスト メモ書き
ヤエル・ロネン作『コモン・グラウンド』のリーディング公演で感じたことのメモ書き。
 
2月13日(木)19時30分/12月16日(日)14時
ユーゴスラビア紛争の加害者と被害者の共有地を探る
『コモン・グラウンド (Common Ground)』
作=ヤエル・ロネン&アンサンブルYael Ronen & Ensemble
翻訳=庭山由佳
演出=小山ゆうな(雷ストレンジャーズ)
出演=霜山多加志(雷ストレンジャーズ)、小林あや、蔵下穂波、松村良太(雷ストレンジャーズ)、野々山貴之(俳優座)、きっかわ佳代(テアトル・エコー)、マイ
音響=尾崎弘征
映像=神之門隆広
 

 

数年前に見たロネン作の『第三世代』のリーディング公演は鮮烈だった。ユダヤ人、ドイツ人、パレスチナ人(アラブ人)の三つのグループの若者がそれぞれの立場から率直にアラブ-ユダヤ-ドイツの加害と被害について語り合うという論争劇だ。オリジナル版ではユダヤ人、ドイツ人、アラブ人の俳優たちがそれぞれ当事者として、この論争劇の登場人物となった。
 
当事者性こそが焦点であるこの劇を、非当事者である日本人俳優が演じるのはもとより無理がある。しかしにもかかわらず『第三世代』のリーディング公演は、 アラブ-ユダヤ-ドイツの政治的緊張とは縁遠いところにある若い日本人俳優が演じていても面白かった。それはこの劇の枠組みのなかで、圧倒的な真実、身もふたもない本音の応酬があったように感じられたからだ。そしてその上演は、私たち日本人としても、まさに韓国、中国の俳優たちとこのような本音をぶつけあう演劇が必要ではないかと思わせるものだった。実際にはこの作品にあるような本音をぶつけあうような議論は、国家が抱えている政治的・歴史的問題については非常に難しい。いろいろな配慮、イデオロギーがわれわれが抱えている本音の追及と表明を妨げてしまう。
 
しかし演劇というかたちなら、そうしたあらゆる忖度をとりはずした生々しい討論が可能となる。そしてそうした討論のシミュレーションは、われわれと他国他民族のあいだに存在するさまざまなわだかまり、問題点を浮き彫りにしてくれるかもしれない、ということを『第三世代』のリーディング公演は感じさせるものだった。『第三世代』は11月にはリーディング公演と同じ中津留章仁演出で本公演も行われた。
さて『コモン・グラウンド』はベルリン在住の旧ユーゴ人たちが抱える問題を、ドイツ人、イスラエル人との討論を通して、明らかにしていくというものだ。当事者演劇としての作り方は、『第三世代』の方法を踏襲したものだ。この作品はドイツでは『第三世代』以上の成功を収めたという。私は大きな期待をもって『コモン・グラウンド』のリーディング公演に臨んだのだが、この公演は私にとっては期待外れのものだった。
 
そもそもなぜ『コモン・グラウンド』が『第三世代』を超える評価をドイツで得ることができたのかが私には不可解だ。作品としての出来は『第三世代』のほうがはるかに優れたものだと思った。『第三世代』ではアラブ-ユダヤ-ドイツという三つ巴の憎悪の緊張感に満ちた関係に基づくものだったが、それに比べると『コモン・グラウンド』で問題になっているのは、旧ユーゴ問題であり、ドイツ、イスラエルは直接の当事者とは言えない。イスラエル人とドイツ人は、ユーゴ人たちをつついて彼らの本音を引き出す役割だ。劇の核となる構造自体、『第三世代』と比べると弱い。旧ユーゴ内部には、1990年代を通じて続いた紛争をめぐる対立があり、ベルリン在住の旧ユーゴ人はそのわだかまりを抱えているわけだが、旧ユーゴの分裂状況があまりにも複雑で、しかも現在、セルビアマケドニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナなどに分離独立して、一応の平衡関係を得た直後であるがため、つまりあまりにもアクチュアルな問題であるためか、ベルリン在住旧ユーゴ人たちの言葉もあいまいで鋭さに欠ける。『第三世代』の各人物ような「本音」の応酬を回避しようとする心理が旧ユーゴ人にはあるのではないだろうか。
彼らが語るユーゴの問題は、どこかありきたりの紋切り型で、われわれが想像し、期待したような言葉であり、彼らの本音とは程遠いように私には感じられた。これが『コモン・グラウンド』が私にとってつまらなかった大きな理由である。
脚本の多くがせりふのやりとりではなく、「語り」であったことも、この作品を単調にしていた。完了・過去を「~た」とする日本語表現の羅列は必然的に散文的で単調・退屈なものになってしまう。
 
日本人の俳優たちは、原作の戯曲にある言葉をそのまま引き受けて語ることしかできない。原作戯曲の旧ユーゴ人たちのことばがあいまいで鋭い批評に欠けたものである以上、彼らを演じた日本人俳優の言葉もぼんやりとしたものになってしまう。
私は平均的な日本人よりも、ユーゴスラビアというか、バルカン半島の国々には関心を持っていると思う。私には旧ユーゴ地域に住む友人が数名いるからだ。旧ユーゴ地域はフランス語教育が盛んで、ニースで行われているフランス語教員向けの研修でバルカン半島出身の何名かのフランス語教員と私は親しくなった。バルカン出身の友人には、セルビア人、ボスニアヘルツェゴビナに住むセルビア人、マケドニア人、クロアチア人がいる。つい最近まで民族間で血で血を洗う紛争状態にあった国々だが、ニースの語学教育研修会場や研修中に滞在する寮で彼らはごく自然に交流し、談笑している。しかし彼らの間にわだかまりがないわけがないということは、しばらく付き合うとわかってくる。
 
セルビア人教員は私にこういうことを話したことがある。
「ミキオ、マケドニアは最近、首都にアレクサンダーの銅像を建てたんだ。あいつらは本当に愚かだよな」
彼女は普段はマケドニア人のフランス語教員と親しげに話していたのにこんなことを言う。
「アレクサンダーはマケドニア出身だから、別に銅像ぐらい建ててもいいんじゃないか?」
「ミキオ、何言っているんだ。アレクサンダーはギリシア人だ。今のマケドニア人はスラブ系だよ。なんのつながりもないギリシア人の英雄を自分たちの英雄みたいに扱って銅像建てたりするから、マケドニア人はバカなんだよ」
日本セリビア交流プロジェクトが、セルビアの現代劇を上演したことが数年前にあった。この公演を見た某演劇研究者が、「日本人俳優の身体がすさまじい内戦の修羅場を乗り越えたセルビア人を演じても説得力がない」と評していた。セルビア他、旧バルカンの国々が内戦によって被った壮絶な状況については、ぬるい平和的状況にあったわれわれ日本人には想像しがたいところもあるだろう。報道などで伝えらえたバルカンの状況は凄惨なものだった。
 
しかし内戦を経て、分離独立した旧バルカンの人々の姿は、少なくとも私が知る限りにおいて、そうした凄惨な状況を連想させるものではない。ニース研修では旧ソ連や東ヨーロッパの旧共産圏の国々の人たちとロシア人のあいだには明らかな溝があり、彼らは積極的に接触しようとはしない。しかし旧ユーゴの国々の人々の関係は一見もっと穏やかだ。しかしその穏健さが表面的なものであり、その裏側には様々な思いが交錯していることが、きわめて繊細な配慮を互いにしているらいしいことは、彼らと付き合いが少し深くなると見えてくる。
私が旧ユーゴの人々との関係で知ったそういう微妙な雰囲気を『コモン・グラウンド』の公演には感じ取ることができなかった。

2019年の観劇生活のまとめ

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2019年に見た芝居の数は101本だった。一つの公演で複数の作品が上演される場合をどう数えるか、同じ作品を2度見た場合はどうなるか、といった数え方の問題はあるけれど。ほぼ例年なみの観劇本数である。観劇のあとは簡単な記録とともに満足度の評価をつけているが(☆☆☆☆☆が満点、★は1/2点)、振り返ってみると見た直後の満足度は高くてもあまり内容が思い出せない作品がある。また逆に観劇直後の満足度評価ではいい点数をつけていなくても、あとからじわじわと来るような作品もあった。

私の2019年の演劇ベスト10は以下の通りとなる。作品としての出来がいい悪いというより、私への印象度の強さに基づくベスト10かもしれない。今、思い返しても、なお鮮烈に思い浮かべることができるような作品である。以下、各作品について簡単にコメントを記しておく。

黒谷白山神社若連中『川北長治』は昨年の私の観劇のなかで圧倒的にインパクトのある公演だった。これは岐阜県高山市荘川町の神社の祭礼で毎年上演される村芝居だ。毎年9月のはじめに日をずらして、荘川町内の4つの神社で祭礼芝居が競うように上演される。このあたりは地歌舞伎が盛んな地域なのだが、荘川町内の神社の祭礼芝居は大衆演劇で上演されるような人情時代劇、いわゆる「ヤクザ芝居」なのが特徴だ。本当は四神社すべての芝居を見たかったのだが、滞在日数の問題があり、全開は黒谷白山神社の芝居しか見ることができなかった。この祭礼芝居についてはブログに詳しいレポートを掲載している。村芝居の作り手と観客の熱気がすごい。今の時代にこんなユートピアのような共同体芝居が岐阜県の山村で存続していることに感動した。

平原演劇祭・孤丘座(高野竜作・演出):『アラル海鳥瞰図』は、廃業した工場の最上階、金網の吹きさらしの空間で上演された。『アラル海鳥瞰図』は七人の登場人物によるモノローグ劇だ。中央アジアのかなたにあり、旧ソ連の強引な灌漑事業によってどんどん縮小していった湖、アラル海を軸に、七人の孤独な若者のエピソードが交錯する。互いに交流することのない七人の思いが、アラル海に投影され、重なり合う。深い余韻をもたらす傑作。私は高野竜の劇作品のなかでこの作品が一番好きかもしれない。平原演劇祭についてはできるかぎり詳しいレポートをブログに投稿するようにしているのだけれど、この作品は思い入れが強すぎてレポートを書くことができなかった。

その言葉の詩的な表現の濃厚さゆえに、あるいは俳優の存在と声によって、劇的風景を引き出すことが優先されるがゆえに、平原演劇祭では上演の場のイメージは強烈に頭に残るのだが、戯曲の言葉は上演の現場では聞き取れなかったり、理解できなかったりすることが多い。今回の『アラル海鳥瞰図』では、二回公演を見にいったこともあったが、俳優の発することばをしっかりと聞き取ることができる公演だった。

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ゲッコーパレードの『リンドバークたちの飛行』は昨年早稲田大学の演劇博物館での公演を見て感銘を受けた作品で、再演があればかならず見にいこうと思っていた。演劇博物館での公演は感銘が深すぎてレポートを書くことができなかった。宮城の納豆製造所での公演についてはレポートをブログに掲載している。この作品は劇場ではないさまざまな場所でその場所の特性を十全に生かした演出によって上演される。ゲッコーパレードは埼玉県蕨市の民家を本拠地としているのもユニークだ。この築40年くらいはたっているだろう古ぼけた小さな民家でもやはり劇場空間ではない場の特性を生かしたユニークな公演を行っている。

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うずめ劇場『フェードル』も劇場でなない野外空間での上演だった。北九州の小さな砂浜で、夕方から夜にかけて上演があった。時間がたつにつれ潮が満ちてきて、海の水がどんどん迫ってくるなかでの公演だった。『フェードル』の舞台となったトレゼーヌも海辺の町であり、イポリットは海岸でネプチューンがはなった怪物に惨殺される。劇の最後の場面ではフェードルが夜の海のなかへ入っていった。この野外劇も強烈な演劇体験だったが、レポートを残すことができなかった。

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文学座(高橋正徳演出):『ガラスの動物園』@ 東京芸術劇場シアターウェストはまさにこれぞ文学座の芝居という細部まで丁寧に演出されたリアリズム演劇だった。戯曲講読の授業の学生を連れて見にいった。学生のほとんどはこうした小さい空間でストレートプレイを見るのははじめてだったのだが、ドラマのみならず、細かな演出上のしかけも含め楽しんで見たようだった。

Frank Castorf:『Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste』@MC93はパリで見た芝居。ラシーヌの『バジャゼ』を、現代フランスにおける移民問題などともからめた暴力的で独創的な発想の演出で分解し、再構成する。同時中継の映像の使い方も手慣れたもの。これぞ前衛というカストルフらしい挑発的、刺激的な舞台だった。

ゴキコンの舞台は毎回期待を裏切らない過激さと面白さ。こちらの期待値はどんどん高くなっているのに、それを上回る刺激的な見世物を見せてくれる。『見世物ナイト』では前座のスーパー猛毒ちんどんのパフォーマンスの異様さも強烈だった。『膿を感じる時 』@北千住BUoYは久々のゴキコンの屋内劇。観客も逃げ惑うスリリングで危険な芝居だった。

Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda:『La Convivialité : la faute de l'orthographe』@Théâtre Tristan Corbièreはパリの町中の劇場で見た芝居。フランス語文法の不合理性をわかりやすく解説し、その不合理を教育で押しつける無意味さを批判する内容だ。前半50分が二人の演者による漫才のような芝居、後半が観客との討論にあてられていた。いつか日本語版の上演をしたい。

12月には『青い鳥』の公演を三本見た。そのなかでも一番よかったのが、演劇集団円(阿部初美演出):『青い鳥』@シアターΧである。映像の使い方、映像コンテンツが優れていた。親子で見る舞台として作られていたが、小さな子供も喜んで見ていたが、メーテルリンクがこの戯曲にちりばめた象徴的なメッセージが印象に残るような演出がされており、大人の観客が見ても深遠で味わいの深い舞台となっていた。

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  1. 9/1 黒谷白山神社若連中:『川北長治』@黒谷白山神社
  2. 11/24 平原演劇祭・孤丘座(高野竜演出):『アラル海鳥瞰図』@ Arakawa dust bunny
  3. 11/2 ゲッコーパレード (黒田瑞仁他演出):『リンドバークたちの飛行』@宮城野納豆製造所
  4. 8/12 うずめ劇場 (ペーター・ゲスナー演出):『 フェードル』@ 若松逆水浜
  5. 6/30 文学座(高橋正徳演出):『ガラスの動物園』@ 東京芸術劇場シアターウェスト

  6. 12/6  Frank Castorf:『Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste』@MC93
  7. 4/29 ゴキブリコンビナート他:『見世物ナイト2 』@阿佐ヶ谷ロフトA
  8. 5/30 ゴキブリコンビナート(Dr. エクアドル) :『膿を感じる時 』@北千住BUoY
  9. 12/2 Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda:『La Convivialité : la faute de l'orthographe』@Théâtre Tristan Corbière
  10. 12/24 演劇集団円(阿部初美演出):『青い鳥』@シアターΧ

 

 

 

 

 

 

日付 カンパニー・出演者 作者 演出 公演名 劇場 料金 評価
2019/01/02 地点 チェーホフ 三浦基 ワーニャ伯父さん アンダースロー 3000 ☆☆☆☆
2019/01/11 財団、江本純子 江本純子 江本純子 タキシード ギャアリー・ルデコ3F 3300 ☆☆☆☆
2019/01/23 尾上菊五郎 並木五瓶   通し狂言 姫路城音菊礎石 国立劇場 1500 ☆☆☆☆
2019/01/24 OSK日本歌劇団 荻田浩一 荻田浩一 円卓の騎士 銀座博品館劇場 0 ☆☆☆★
2019/02/01 SPAC レオノーラ・ミラノ 宮城聰 顕れ 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆★
2019/02/03 トリコロールケーキ/劇団「地蔵中毒」 今田健太郎、大谷皿屋敷 今田健太郎、大谷皿屋敷 懺悔室、充実の4LDK 浅草九劇 3000 ☆☆☆☆★
2019/02/14 せんがわ劇場 ラリー・トランブレ 高橋正徳 顔のない少年 せんがわ劇場 0 ☆☆☆
2019/02/15 SPAC ジャン・ランベール=ヴィルド、平野暁人、出演俳優 ジャン・ランベール=ヴィルド、ロレンゾ・マラゲラ 妖怪の国の与太郎 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆
2019/03/01 ニース・オペラ座 Igor Stravinski / Wystan Hugh Auden et Chester Kallman Jean De Pange LA CARRIÈRE DU LIBERTIN (THE RAKE'S PROGRESS) Opéra de Nice 5500 ☆☆☆☆★
2019/03/02 ニース・オペラ座 Joris et Emma Barcaroli Emma Barcaroli LE ROUGE ET LE NOIR Salle Jedrinsky de la Diacosmie 1800
2019/03/07 Thomas Jolly Sénèque Thomas Jolly Thyeste Théâtre de Caen 4500 ☆☆☆☆★
2019/03/09 Bouffes du Nord Harold Pinter Ludovic Lagarde La Collection Bouffes du nord 4500 ☆☆☆☆★
2019/03/23 赤門塾     第45回赤門塾演劇祭 赤門塾 0 ☆☆☆☆★
2019/04/13 インフィニシアター フランツ・カフカ ギー・スプラング カフカの猿 シアターΧ 0 ☆☆
2019/04/18 ホエイ 山田百次 山田百次 喫茶ティファニー こまばアゴラ劇場 30000 ☆☆☆☆
2019/04/24 三宅優(Zu々) ルネ=ダニエル・デュボワ 田尾下哲 クロードと一緒に 横浜赤レンガ倉庫1号館 0 ☆☆
2019/04/27 ヨアン・ブルジョワ ヨアン・ブルジョワ ヨアン・ブルジョワ Scala - 夢幻階段 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆
2019/04/27 SPAC 唐十郎 宮城聡 ふたりの女 舞台芸術公園野外劇場「有度」 3400 ☆☆☆☆
2019/04/29 ゴキブリコンビナート エクアドル Jr.   見世物ナイト2 阿佐ヶ谷ロフトA 2500 ☆☆☆☆☆
2019/05/02 バーズ・オブ・パラダイス ロバート・ソフトリー・ゲイル ロバート・ソフトリー・ゲイル マイ・レフトライトフット 静岡芸術劇場 3400 ☆☆☆☆★
2019/05/03 ロロ 三浦直之 三浦直之 グッド・モーニング 静岡文化会館 0 ☆☆☆☆
2019/05/03 ままごと×康本雅子 柴幸男 康本雅子   駿府城公園 0 ☆☆☆
2019/05/03 梅棒     BBW 静岡市役所 0 ☆☆☆☆★
2019/05/03 FUKAIPRODUCE羽衣     洗濯船 静岡市役所 0 ☆☆☆★
2019/05/03 山田うん       静岡市役所 0 ☆☆☆☆
2019/05/03 範宙遊泳 山本卓卓 山本卓卓 フィッシャーマンとマーメイド 静岡市役所 0 ☆☆☆☆★
2019/05/03 SPAC ヴィクトル・ユゴー 宮城聡 マダム・ボルジア 駿府城公園 3400 ☆☆☆
2019/05/12 ヌトミック 額田大志 額田大志 お気に召すまま こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆★
2019/05/18 前進座 三世瀬川如犀   佐倉義民伝 国立劇場 2600 ☆☆☆☆★
2019/05/19 劇団青春座 橋下和子 馬淵理麻 おっさんラプソディー 北九州芸術劇場 3000 ☆☆☆
2019/05/22 カクシンハン 木村龍之介 木村龍之介 ハムレット×SHIBUYA ギャラリー・ルデコ 0 ☆☆☆☆
2019/05/24 少年王者舘 天野天街 天野天街 1001 新国立劇場 3078 ☆☆☆☆☆
2019/05/25 かんじゅく座 鯨エマ 鯨エマ 方舟は飛沫をあげて 中野ザ・ポケット 3500 ☆☆☆☆
2019/05/27 立本夏山 ガルシーア・ロルカ 上田晃之 ジプシー歌集 喫茶茶会記 3000 ☆☆
2019/05/30 ゴキブリコンビナート Dr.エクアドル Dr.エクアドル 膿を感じる時 北千住BUoY 3000 ☆☆☆☆☆
2019/06/01 THEATRE MOMENTS シェイクスピア 佐川大輔 #マクベス 調布市せんがわ劇場 4500 ☆☆☆☆★
2019/06/07 新国立劇場 アイスキュロス/ロバート・アイク 上村聡史 オレステイア 新国立劇場中劇場 3500 ☆☆★
2019/06/08 劇団唐組 唐十郎 久保井研 ジャガーの眼 新宿花園神社 3000 ☆☆☆☆☆
2019/06/13 ラッパ屋 鈴木聡 鈴木聡 2.8次元 紀伊國屋ホール 5500 ☆☆☆☆☆
2019/06/16 平原演劇祭 孤丘座 高野流 高野竜 鷹の井戸、鷹の風呂 葛生 0 ☆☆☆☆★
2019/06/21 FUKAIPRODUCE羽衣 糸井幸之介 糸井幸之介 ピロートーキングブルース 本多劇場 4000 ☆☆☆
2019/06/26 青年団国際演劇交流プロジェクト2019 ジャン・ランベール=ヴィルド ジャン・ランベール=ヴィルド ジャン×Keitaの隊長退屈男 アトリエ春風舎 0 ☆☆☆★
2019/06/29 愛希れいか、成河、古川雄大、田代万里生 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイ 小池修一郎 エリザベート 帝国劇場 5000 ☆☆☆☆★
2019/06/30 文学座 テネシー・ウィリアムズ 高橋正徳 ガラスの動物園 東京芸術劇場シアターウェスト 6000 ☆☆☆☆☆
2019/07/06 劇団ともしび座 永井愛 三嶋友美 こんにちは、母さん 郡上市総合文化センター 1500 ☆☆☆
2019/07/07 ハラプロジェクト     一 舞踊劇鬼の月「黒塚」より
二 新作スーパーコミック歌舞伎「足助版鈴ヶ森」
農村舞台寶榮座 2000 ☆☆☆☆
2019/07/09 青年団+韓国芸術総合学校+リモージュ国立演劇センター付属演劇学校 平田オリザ 平田オリザ その森の奥 こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆★
2019/08/11 劇団青春座 源祥子 井生定巳 おばちゃんGlowing Up ! 北九州芸術劇場 3000 ☆☆☆☆
2019/08/11 劇団華     浅草三兄弟、籠釣瓶舞踊劇 宝劇場 1900 ☆☆☆☆
2019/08/12 うずめ劇場 ジャン・ラシーヌ ペーター・ゲスナー フェードル 若松逆水浜 2000 ☆☆☆☆☆
2019/08/13 うずめ劇場 マリヴォー ペーター・ゲスナー 贋の侍女 北九州芸術劇場 2000 ☆☆☆
2019/08/14 花總まり井上芳雄、成河、涼風真世 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイ 小池修一郎 エリザベート 帝国劇場 9000 ☆☆☆☆
2019/08/18 ゲッコーパレード ゲーテ 黒田瑞仁 ファウスト 旧加藤家住宅 3500 ☆☆☆☆
2019/08/22 岡崎藝術座 神里雄大 神里雄大 バルパライソの長い坂をくだる話 ゲーテ・インスティトゥート東京 3500 ☆☆☆
2019/08/23 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』 東京芸術劇場シアターイース 4200 ☆☆☆☆★
2019/08/23 平原演劇祭 のあんじー 太宰治 高野竜 カチコミ訴え 女の決闘 港区霞町教会 1000 ☆☆☆☆★
2019/08/28 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第二部『1986年:メビウスの輪 東京芸術劇場シアターイース 5250 ☆☆☆☆
2019/08/28 DULL-COLORED POP 谷賢一 谷賢一 福島三部作 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』 東京芸術劇場シアターイース 5250 ☆☆☆☆★
2019/09/01 黒谷白山神社若連中     川北長治 黒谷白山神社 0 ☆☆☆☆☆
2019/09/14 iaku 横山拓也 横山拓也 あつい胸さわぎ こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆☆☆
2019/09/14   和田尚久 山口貴義 成城マドモアゼル アトリエ第Q芸術 0 ☆☆☆☆
2019/09/15 劇団メリーゴーランド 平野華子、俵 ゆり 平野華子、俵 ゆり 誘惑のクミンシード 文化シャッターBXホール 4300 ☆☆☆★
2019/09/21 前進座 朱 海青 鵜山仁 ちひろー私、絵と結婚するのー なかのZERO 小ホール 5600 ☆☆☆★
2019/10/03 劇団チョコレートケーキ 古川健 日澤雄介 治天ノ君 東京芸術劇場シアターウエス 4000 ☆☆☆☆☆
2019/10/11 市原佐都子(Q) 市原佐都子(Q) 市原佐都子(Q) バッコスの信女─ホルスタインの雌 愛知県芸術劇場小ホール 3000 ☆☆☆☆★
2019/10/12 劇団クセックACT ハロルド・ピンター 深沢伸友 家族の声、もしくは ギャラリーブランカ 3000 ☆☆☆★
2019/10/13 劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール イェツェ・バーテラーン イェツェ・バーテラーン ものがたりのものがたり 名古屋市芸術創造センター 3500 ☆☆☆☆
2019/10/20 横浜いずみ歌舞伎 竹田出雲   菅原伝授手習鑑 テアトルフォンテ 0 ☆☆☆☆
2019/10/21 デューダ・パイヴァ カンパニー デューダ・パイヴァ、ナンシー・ブラック ナンシー・ブラック BLIND 東京芸術劇場シアターイース 4500 ☆☆☆
2019/10/24 シャウビューネ劇場 エドゥアール・ルイ トーマス・オスターマイアー 暴力の歴史 東京芸術劇場プレイハウス 5000 ☆☆☆☆★
2019/10/25 前進座 真山青果 中橋耕史 鼠小僧次郎吉 新国立劇場中劇場 6000 ☆☆☆★
2019/11/02 ゲッコーパレード ブレヒト 黒田瑞仁 リンドバークたちの飛行 宮城野納豆製造所 4000 ☆☆☆☆☆
2019/11/09 笑の内閣 高間響 髭だるマン ただしヤクザを除く こまばアゴラ劇場 0 ☆☆☆☆
2019/11/09 ハチス企画 ラガルス 蜂巣もも まさに世界の終わり アトリエ春風社 0 ☆☆☆
2019/11/17 新国立劇場 デイヴィッド・グレッグ 瀬戸山美咲 あの出来事 新国立劇場 6000 ☆☆☆
2019/11/21 鳥公園 西尾佳織 西尾佳織 終わりにする、一人と一人が丘 東京芸術劇場シアターイース 3500 ☆☆☆★
2019/11/22 壁なき演劇センター チェーホフ 杉山剛志 ワーニャ伯父さん シアタートラム 4000 ☆☆☆
2019/11/23 平原演劇祭・孤丘座 高野竜 高野竜 アラル海鳥瞰図 Arakawa dust bunny 3000 ☆☆☆☆★
2019/11/23 SPAC 久保田梓美 宮城聡 マハーバーラタ 池袋西口公園 3000 ☆☆☆☆
2019/11/24 平原演劇祭・孤丘座 高野竜 高野竜 アラル海鳥瞰図 Arakawa dust bunny 2500 ☆☆☆☆☆
2019/11/24 京浜協同劇団 伊賀山昌三/三遊亭円朝 藤井康雄/護柔一 結婚の申込/死神 スペース京浜 2500 ☆☆☆☆
2019/11/28 Julia Perazzini Julia Perazzini Julia Perazzini Holes & Hills Ménagerie de Verre 25 euro ☆☆☆★
11/29 Ana Rita Teodoro Ana Rita Teodoro   Fofo Théâtre de la Cité Internationale 11 euro ☆★
11/30 Château de Chantilly     Alice et le mènage enchanté Grandes écuries du Château Chantilly 21 euro ☆★
11/30 Guillaume Vincent Guillaume Vincent Guillaume Vincent Mille et une nuits Odéon Théâtre de l'Europe 0 ☆☆☆☆
2019/12/02 Arnaud Hoedt, Jérôme Piron Dominique Bréda, Arnaud Pirault, Clément Thirion Dominique Bréda, Arnaud Pirault, Clément Thirion La Convivialité : la faute de l'orthographe Théâtre Tristan Corbière 30 euro ☆☆☆☆☆
2019/12/03 Crazy Horse           ☆☆☆☆
2019/12/04 Benjamin Lazar Verdi Benjamin Lazard Traviata Cinéma le Balzac 0 ☆☆☆☆★
2019/12/05 Opéra de Paris Albert Reinmann, Shakespeare Calixto Bieito Lear Palais Garnier 75 euro ☆☆☆☆
2019/12/05   Stefan Kaegi Stefan Kaegi Granma. Les trombones de La Havane La Commune 29 euro ☆☆☆☆★
2019/12/06   Jean Racine
Antonin Artaud
Frank Castorf Bajazet - En considérant le Théâtre et la peste MC93 29 euro ☆☆☆☆☆
2019/12/14 国立劇場 近松半二   近江源氏先陣館:盛綱陣屋 国立劇場 4800 ☆☆☆☆
2019/12/14 国立劇場 チャールズ・チャップリン 大和田文雄 蝙蝠の安さん 国立劇場 0 ☆☆☆☆
2019/12/15 SPAC ブレヒト 渡辺敬彦 RITA&RICO 静岡芸術劇場 0 ☆☆
2019/12/20 libido メーテルリンク 岩沢哲野 青い鳥 こまばアゴラ劇場 0 ☆☆
2019/12/22 ウイングキッズリーダーズ 平田大一 比屋根秀斗 オヤケアカハチ 石垣市民会館 3000 ☆☆☆★
2019/12/24 演劇集団円 メーテルリンク 阿部初美 青い鳥 シアターΧ 4500 ☆☆☆☆☆
2019/12/24 堀企画 平田オリザ 堀夏子 トウキョウノート アトリエ春風舎 0 ☆☆☆☆★
2019/12/25 世田谷シルク メーテルリンク 堀川炎 青い鳥 シアタートラム 3900 ☆☆☆★
2019/12/26 平原演劇祭 高野竜 高野竜 歳末ロシア・ナイト 烏森住区センター 6000 ☆☆☆☆★

平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

 

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2020/4/5(日) 11:00-16:00
場所:多摩川左岸 是政橋下
1000円+投げ銭
出演:
武田さや、空風ナギ、アンジー、栗栖のあ、ひなた、もえ、夏水、青木祥子

「詩とは何か」(もえ)「ねむりながらゆすれ」(ひなた)
ブルーサンダー」(夏水、詩:暁方ミセイ)
「河原のかはたれ」(全員)

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高野竜が主催する平原演劇祭は一年に6、7回の公演を行うが、ここ数年は春の公演は西武多摩川線の終点、是政駅の近くにある小さな喫茶店豆喫茶でこを借り切って行われるのが常だった。

今年は喫茶店内ではなく、多摩川の是政橋の下での野外劇となったのは、コロナウイルスの問題があったからである。高野竜が公演場所の変更の決断をしたのは2月前半で、横浜停泊のクルーズ船でのコロナウイルス感染が問題になりはじめた頃だった。

この頃は日本でのコロナウイルス感染は、クルーズ船を除いてはごく散発的な感染者しか確認されておらず、高野竜のこの判断を私は「それにしても、野外劇に変更しなければならないようなものなのかな」と私は思っていた。多摩川河川敷、是政橋の下で演劇上演が行われるはこれがおそらく初めてだったはずで、役所等の許可を取るのはいろいろとたらい回しされかなり大変だったようだ。

結果的に高野の判断は正しかった。いや日本のコロナウイルス状況は高野が想像していた以上に進んでいたかもしれない。

東京は週末は「不急不要の外出自粛」の要請が出ていた。東京都がこうした要請をするよりずっと前から、私は3/15(日)にフランスから帰国して以降、自主的に外出をしないようにしていたのだが、この平原演劇祭だけは行かずにはいられない。

今回の公演は、大学生の武田さやと空風なぎがメンバーの一年限りの劇団、孤丘座の解散公演だった。昨年の3/31に立ち上がった高野竜と二人の女子大生俳優の一年劇団は、今回の公演も含め8回(!)の公演を行ったが、この七回の公演のいずれもいわゆる普通の劇場とは異なる特殊な環境で行われた。もともと高野竜の平原演劇祭では劇場ではない場を利用した公演が主なのだが、孤丘座の公演はとりわけ平原演劇祭の野外公演の可能性を追求するものとなった。洞窟や真夜中の山の中、崖の下といった演者にとっても、観客にとっても過酷な場所での公演が多かった。若い女性の二人が、高野竜のどうかしている演劇によくも一年間、脱落することなく付き合ったことだと思う。私は自分の体調不良や仕事の都合などで、残念ながら孤丘座の公演をいくつか見逃している。

しかし高野と空風なぎ・武田さやの一年の活動の集成となる今回の公演だけは何としてでも見にいかなければならないと思っていた。空風、武田の最終公演であるだけでなく、のあ、アンジー、ひなた、夏水、青木祥子といった最近の平原演劇祭のスターが勢揃いする公演でもあった。

「自粛要請」は出ているが、「外出禁止令」は出ていない。コロナウイルス感染拡大の状況から東京都のロックダウンは必至だと私は考えていて、平原演劇祭の日よりまえにロックダウンが宣言されることを恐れていた。幸いロックダウンは発令されなかった。

ロックダウンは発令されていないとはいえ、感染拡大には当然配慮しなくてはならない。私の家から是政までは22キロほどの距離があるが、今回は半月以上の引きこもり生活の運動不足の解消もかねて、自転車で現地まで行くことにした。6段変速のママチャリで80分ほどで到着した。東京の西側は平坦で坂道があまりないので疲労はそうでもない(と思っていたのだけれど、翌日に一気に疲労がやってきて身体が重かった)。

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平原演劇祭の広報はほぼツィッター頼みだ。上演によっては観客が数人ということもたびたびある。今回は東京のはずれのかなりへんぴな場所での野外劇で、さらに「外出自粛要請」期間中ということでどれくらいの観客が来るのかなと思ったら、河原の橋の下には30人ほどの人が集まった。変わった場所でゲリラ的に独創的な公演を行うということで、平原演劇祭の認知度も高まっているのかもしれない。

野外劇上演となった今回の平原演劇祭だが、会場となった河川敷には仮設舞台も客席も用意されていない。風が吹き抜ける是政橋の橋の下の空間全体が公演会場となり、観客は俳優の動きに合わせてぞろぞろと移動する。30人ほどの観客の半数は若い女性で、半数はおっさんだ。

開演前の挨拶で平原演劇祭主催の高野竜が「これからは野外劇がどんどん盛んに行われるようになるような気がします」といったことを言っていたが、高野竜ほど野外劇の可能性を突き詰め、上演空間の特性を引き出すような戯曲を書き、演出し、公演を行うことのできる演劇人はそうそういないだろう。

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演劇祭は現役女子高生によるモノローグ劇「詩とは何か」から始まった。是政で「詩とは何か」が上演されるのはこれが九回目になる。毎年演者は変わるので主人公を演じる高校生女優も今回のもえが九代目となる。ただし野外でこの演目が上演されるのは今回が初めてだ。

高校に通うのをやめてしまった一人ぼっちの女子高生が家の近所の高台から駅前の広場の様子を望遠鏡で眺める。駅前広場にはいつも同じナンパ師がいて、ひっきりなしに女性に声をかけている。しかしめったに成功しない。女子高生はこのさえないナンパ師がなぜか気になって、いつもその様子を望遠鏡越しに追っていたが、ある日、彼が啞であることに気づいてショックを受ける。ジェスチャーと筆談で彼はナンパを続けていたのだ。望遠鏡で数百メートル離れた高台からこっそり彼を見ていたのに、彼がこちらを向き、手を降って挨拶をしたような気がした。

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高野竜は優れたモノローグ作品を何編も書いているが、そのなかでも現役女子高生劇「詩とは何か」は鉱物の結晶のような美しさを感じさせる傑作だ。思春期の女性に特有のはかなくさ、うつろいやすさ、不安定さがもたらすきらめきが、「詩とは何か」には凝縮されているような気がする。「詩とは何か」を他者の前で演じきったあと、高校生の女優は思春期のある段階を終え、次の段階の女性へと変貌していくように思える。「詩とは何か」はその変貌の様子を上演の過程で目の当たりにすることができる作品だ。

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野外劇の「詩と何か」は、橋の下の空間を広く使って演じられた。最初はコンクリートの橋脚の壁をバックに始まったのだが、そこから周りを囲む観客に分け入り、どんどん橋桁のしたの河原を移動していく。演者と観客、そして是政橋したの広い河川敷が、すばらしい演劇的空間を作り出していた。

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もえの「詩とは何か」は、シームレスにひなたの「ねむりながらゆすれ」に引き継がれた。「詩とは何か」を語り終え、河原に置かれた椅子に横たわるもえに向かってひなたは遠くから駆けより、語りかける。

「ねむりながらゆすれ」も女優一人によるモノローグ劇だが、4人の年齢、国籍の異なる人物の語りからなり、東欧のモルドバルーマニアの東にある国家)にある沿ドニエストル地域の独立問題という大半の日本人にはなじみのない事柄が語られていることもあって、上演中は内容がほとんど理解できなかった。先程mixiに高野竜が公開してる戯曲を参照して、ようやく何がどのように語られていたのかが何となく理解できた。

芝居の内容はほとんど理解できなかったのだが、すらりとした体型の長身女優のひなたが、河原を駆け回り、時折河原の地面に身を投げ出し、服や手を泥だらけにしながら、4人の人物へと化身していくさまを、風景とともに楽しんだ。高野竜の戯曲は「詩劇」と称するにふさわしい文学性の高い美しいテクストなのだけれど、平原演劇祭で上演される際には高野は自作のことばが明瞭に観客に伝わることを重視していない。テクストに書かれたメッセージの内容よりも、ある風景のなかで、俳優の身体を通して、彼の書いた言葉が発声されるという状況が重要であり、それが上演の場所を異世界に変容させる。変容させるというよりは、戯曲、俳優、観客の存在によって、作品が上演されている土地が内包している潜在的な世界を呼び出すという感じかもしれない。面白みの乏しい散文的風景に内在する驚異の豊饒さを、平原演劇祭は浮かび上がらせる。俳優により声という実態を持つことで戯曲のテクストは、土地の魔法を引き出す呪文のように機能する。俳優は呪文を伝える神官のようであるし、観客はそこでたち現れる不思議な世界に取り込まれ、風景の一部となる。

ひなたの「ねむりながらゆすれ」の終演後、観客たちは橋脚の向こう側、是政橋の中央部、多摩川の流れのそばに誘導された。川のそばで観客を待っていたは、夏水である。

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夏水がやったのは、暁方ミセイの詩集『ブルーサンダー』を歩きながら朗読するというものだった。歩きながら詩を読み上げる彼女に、観客がぞろぞろついて行くだけなのだが、その歩くルートが河川敷の未知なき道をかきわけてというかなり過酷なものだった。夏水はときおり立ち止まることもあるけれど、基本的には観客を気にすることなくマイペースで歩きながら、次々と詩を静かに読み上げる。しかしとにかく道が悪い。ごつごつとした河原の石の上、水浸しになったドロの上や急斜面の土手、雑草の生い茂るなかなど、道なき道を進んでいくのだから、片手に詩集を持ち、息を切らさずに平然と読むのは実はかなり大変なのかもしれない。

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観客には若い人もいたが、運動不足のおっさんもいて、夏水を追いかけるのはかなりの難行だった。30人近くの観客がいたので、この歩行詩の行軍は難路ゆえに必然的にばらけてしまい、詩のテクストの内容を味わうどころではなかった。暁方ミセイの詩はかなり難解といってよく、言葉の連ねに意味を辿ろうとすると、さっと逃げていってしまうようなところがある。是政橋を通行する車の走行音や河原に吹く風の音、そして南武線を通過する列車の通過音で、朗読の声はしばしば妨げられた。南武線には詩集のタイトルである貨物列車の「ブルーサンダー」が朗読中に通過したが。夏水はそんなことを気にかけている様子はみられない。

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こうした歩行詩はなんと一時間近く続いたのだ。一時間近く、時折小雨のぱらつくなか、寒い思いをしながら無造作で殺風景な多摩川河川敷を、女優が語る詩の言葉の断片を追いかけながら歩き回った。さすがにあの荒野を一時間歩いて疲労した。詩の内容はほとんど理解することはできなかったが、詩の世界は存分に体感できたように思う。

歩行詩のあとに昼飯・トイレ休憩が入った。私は是政駅前のコンビニで買ったおにぎりとせんべいを橋桁の下の斜めになったところに座って食べた。川からコンビニまでは歩いて10分ほどだったので、午後の部の開始前にコンビニに寄ってトイレもすませておく。

午後の部が始まったのは午後1時40分頃だったと思う。午前の部はモノローグ劇2本と詩の朗読という単独の俳優によるパフォーマンスだったが、午後は全員が出演する「河原のかはたれ」という演目一本だった。

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この「河原のかはたれ」も平原演劇祭ならではの破天荒な怪作多摩川河川敷の開放的な空間をダイナミックに利用した壮大な作品だった。外枠は俳優が自分自身を演じる私的な語りである。その自分自身を演じる俳優たちの会話を外枠にして、そのなかに既存のメジャー作品の自由で奇抜な引用・パロディを挿入するという破天荒なコラージュだった。

外枠となる俳優たちの私的な語りは、俳優たちが素の状態で即興的にやられているような自然さで提示される。その内容も俳優たちのリアルの生活と結びついたものだ。この素の状態と映画の場面のパロディというあからさまな虚構のコントラストの大きさが愉快だ。

しかし上演時には私が俳優たちの「素の語り」だと思っていた台詞が、実は事前にしっかりテキストとして書き込まれたものであり、俳優たちは脚本に記されていた「自分」を演じていたことが、後で台本を購入して読んだときにわかって「やられた!」と思った。

さらにそのリアリティに満ちた語りの内容も虚構だったことが、さらにそのあとに判明して、二度「やられた!」と思う。高野竜の作品を何年も見ているのに、また私はだまされてしまった。

私的な語りのパートで、ともに大学4年の孤丘座の武田さやと空風なぎは自分たちの卒論のことを話す。イエイツの「骨の夢」を卒論とするさやはその内容を的確にレジュメしてみせる。空風ナギは「うないをとめ」の伝承を卒論とし、この伝承をもとにした謡曲の一節を朗唱する。私は本気で彼女たちふたりがこれらの作品を卒論の題材にしていると信じてしまったのだ。それくらいリアルなやりとりだったのである。

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 引用された作品すべてを私は把握していない。最初は平原演劇祭では古典といっていい『ジョジョの奇妙な冒険』からの引用だったらしい。これは私はわからないかったが他の人のツィートを読んで知った。私がわかったのは映画『復活の日』、『OK牧場の決闘』、『下妻物語』ぐらいだ。他にもあるに違いにない。

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およそこれらの作品の本格的なパスティーシュなど再現不可能な状況と俳優を使って、それらを強引につないで不可解で奇怪で混沌としたファルスを成立させてしまうのが高野竜の平原演劇祭のすごいところだ。無茶苦茶すぎてなにがなんだかよくわからない。でも面白い。

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この破天荒でエネルギーに満ちたファルスが是政橋の河川敷の空間で展開する。こんなに壮大で自由で突き抜けたスペクタクルを他のどこで見ることができるだろうか。

公演当日は風が強く、時折小雨が降る寒い日だった。多摩川の水はどろっと濁っている。俳優たちは河川敷の地面に転がり泥だらけになり、そして冷たそうな河のなかに入って行った。その勇ましさには「おおっ」と感嘆の声を上げてしまう。

過酷な上演状況のなかでもがくように演じる彼女たちが話す言葉は広い河原で必ずしも明瞭に聞こえない。しかしその身体と声は、俳優たちを見守る観客の存在とともに多摩川の風景と一体化し、広大な彼方の世界への連続を感じさせるものだった。

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最後は出演者全員による合唱で終わり。壮大なスケールの猛烈にばかばかしいファルスの幕切れにふさわしい牧歌的で学芸会的な終わり方だ。

孤丘座のふたりは、一年前はまあどこにでもいそうな女子大生という感じだった。この二人が一年間、高野竜のあまりに独創的で特殊な演劇を完走したことはおおいにたたえたい。彼女たちが望んだことだとはいえ、よくこんな無茶苦茶な演劇活動を脱落せず一年間持ち越えたものだと思う。高野竜はよくもここまでボロボロになりながら一年間責任をもって孤丘座の活動を全うしたなあと思う。

今回野外劇となったのは、コロナウイルス感染拡大という三ヶ月前には誰もが想定しなかった事態ゆえだが、このおかげで孤丘座は祝祭感に満ちた破格のフィナーレを迎えることができた。