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宮代町郷土資料館へはこれまでは東武動物公園駅から30分ほどかけて歩くか、車ないしタクシーを使って行っていたのだが、今回は東武動物公園駅の一つ手前の姫宮駅から宮代町循環バスを使って行った。料金は100円。乗客は私一人だった。
郷土資料館は西原自然の森という小さな公園内にある。この小さな公園の敷地はこのあたりの名主だった斎藤家のもので、敷地内の竹林と雑木林は齋藤家の屋敷林だったと、宮代町の広報誌 にあった。敷地内には明治時代の建築である旧斎藤家住宅のほか、よその場所からここに移築された平原演劇祭の会場となっている築200年の旧加藤家住宅、かつて小学校だった旧進修館、復元された縄文式住居、そして郷土資料館がある。
平原演劇祭の開催の広報はこの2、3年は、X(twitter)の平原演劇祭の公式アカウント か主催の高野竜さんのアカウント での告知が頼りである。上演が天候に左右されることが多い野外公演が多く、また高野さんの体調や出演者の都合で急に公演が中止になったりすることがちょくちょくあるため、このところ平原演劇祭の観客動員数は常連のみの一桁という回が多かった。今回の『平文(ヘヴン)』の告知もそんなに積極的に行っていなかったし、演目も地味なのでどれくらいの観客が集まるのだろうかとちょっと心配していた。しかし上演会場である旧加藤家住宅に入ると、たくさん観客がいてちょっと驚いた。観客数は21名だったそうだ。会場が宮代町の施設ということで、町の広報誌で上演が告知されていたのだろうか。観客の年齢層は小学生ぐらいから老人まで幅広い。
今回の上演演目は、宮代町にある和戸教会の創設に関わる内容だったため、周りの人たちが話しているのを聞いていると、どうやら教会関係の人たちがやって来ているようだった。和戸教会は埼玉県で最も古いキリスト教教会だそうだ。今回出演する二人の平原演劇祭の常連俳優、パウロ北條風知、フランシスカ角智恵子は、いずれもキリスト者だ。ただ和戸教会はプロテスタントの教会だが、北條も角もカトリック信徒である。戯曲自体はかなり前に書いたらしいが、演じる俳優が見つからなくて上演されないまま寝かせたあった戯曲だと聞いた。題材的にキリスト者の俳優が演じるべきものだと高野は考えていたのか。
旧加藤家住宅での上演のときは、いつもは屋内の畳の部屋で上演が行われ、観客も畳に座って見ていた。今回は畳間ではなく、入り口の土間に接した板張りの玄関が上演の場となった。能形式で演じられたのは、この板間の上手を能の本舞台、下手を橋がかりに見立てたからだろう、であることに今気づく。観客席は土間を挟んで向かい側にある。
上演前日はかなり暑かったのだが、上演当日は、幸い曇りがちの空で、気温がそれほど高くなかったのが助かった。木造藁葺き屋根で、風が通り抜ける構造で、一見、涼しげに思えるが、この構造の家でも気温が30度を超えるとやはり暑い。冷房はもちろんない。
一度、旧加藤家住宅で8月にあった公演を見に行ったことがあるのだが、このときはあまりに暑すぎて芝居に集中できなかった。今回、畳敷きの部屋で公演できなかったのは、旧加藤家住宅の老朽化が進み、その保護のためだと言う。畳敷きの部屋に大勢入って、ドタバタやられては困るということらしい。
和戸教会の「縁起」については、公演終了後、家に帰ってからネットで検索したところ、宮代町図書館のデジタル郷土資料 にかなり詳しく書かれてあった。
最初に下手側の旧加藤家住宅の入り口から登場し、上手側の玄関の板の間に上って語り始めるのはフランシスカ角智恵子で、彼女は「和戸村の上層農民で元の名主であり、養蚕業を営んでいた小島九右衛門」を演じる。
小島九右衛門の口からこの時期の日本の養蚕業の状況、なぜ日本の生糸が世界的に知られるようになったかなどの蘊蓄が語られる。小島は輸出用蚕卵紙(さんらんし)販売のために横浜に出たが、そこで胸を病みヘボンと出会う。ヘボンは、ヘボン式ローマ字によって知られている人物だが、医師でもあったのだ。そしてアメリカの長老派宣教師でもあった。ヘボンは1859年(安政6)来日、横浜に住み、医療・教育活動を展開する。小島はヘボンの施療を受けたことがきっかけで、キリスト教を知るのである。
宮代町デジタル郷土資料の『宮代町史 』には以下のように記されている。
小島九右衛門は、輸出用蚕卵紙(さんらんし)販売のために横浜に出たが、胸を病みヘボンの施療院にて治療を受けるうちにキリスト教と出会い、やがてバラを紹介されて明治八年六月、横浜海岸教会にて先述した日本基督公会の設立者バラから受洗した。九右衛門は、同年秋に漢訳聖書を携えて帰郷、郷里にて伝道を開始した。 九右衛門をヘボンやバラに紹介したのは後に和戸教会設立の際に、信徒として九右衛門とともに尽力した和戸村の医師篠原大同であった(明治十三年三月二十六日付「七一雑報」)。大同は、後述するように、和戸村の医師として教会での医療伝道を中心に明治初期の地方医療にも貢献したが、彼の医学上の師は「平文先生」こと横浜施療院のヘボンであった。彼が明治八年五月、小島九右衛門にヘボンとバラのことを告げたことが九右衛門キリスト教入信の契機とされている。
『平文』でも、ヘボンが登場する。平文はこの劇では白い繭(?)で顔が覆われ、奇妙な格好をした異形の人物だ。『平文』という劇のタイトルは、宣教師・医師ヘボンだけでなく、「天国」heavenも掛けていることはあきらかだ。
『平文」は二部構成になっていて、第一部は九右衛門と平文(ヘボン)との対話になっている。平文のこの白繭仮面は目を塞いでいるらしく、平文の入退場は手探りで行われた。なぜ平文がこの扮装と仮面となったのかはよくわからない。宮代町への福音が、海外の未知の世からやってきた得体の知れない異人からもたらされたことを強調するためだろうか。
第二部は、和戸教会の建築に携わった大工小菅幸之助と小島九右衛門の対話となる。小菅は、さきほどまで平文を演じていたパウロ北條風知が演じる。6月の募集告知では3名の俳優を募集していたので、高野は平文と別の俳優が小菅を演じることを想定していたのかもしれない。ただキリスト者の俳優の三人目を見つけることができず、北條が二役を演じることになったのか。
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ヘボンと知り合い、キリスト教を和戸にもとらしたのは九右衛門だったが、信徒の総代(?)は大工の小菅幸之助が引き受けることになった経緯が上演される。 戯曲のもとになった資料は、宮代町史の記述だろう。そこで当事者たちが行っていたかもしれない台詞が肉付けされた歴史場面再現ドラマだった。台詞のなかに出てくる固有名詞や地名などは、観客として来ていた和戸教会関係者にはなじみのものもあったらしく、「○○のことだよね」と小さな声で話しているのが聞こえた。
能仕立ての謡曲風の台詞回しと所作はトリッキーではあったけれど、郷土史を取材した平原演劇祭の原点のような素朴で誠実な芝居だった。キリスト者の信徒の俳優がやったことで説得力があった。観客のかたも喜ばれているような感じだった。
ちなみに北條とは、2022年のクリスマスに、宝生能楽堂で上演されたヘルマン・ホイヴェルス作のキリスト教能の会場で会ったときには、プロテスタントの改革派の信者だと言っていたのだが、最近、カトリックに改宗したらしい。「おお、理論派から感覚派に転向したのか?」と聞くと、「理論付けできる情報ではなく象徴の奥行に依るものが信仰だと解釈している」ため、改革派にとどまることが厳しくなってカトリックになったそうだ。角は祖母の代から三代にわたるカトリックだが、角自身は熱心な信者ではなく、教会にもあまり足を運んでいないとのこと。
現在の和戸教会は、明治期にあった場所から少し離れた場所に建てられているそうだ。旧和戸教会のステンドグラスと写真が宮代町郷土資料館に展示されているとのことで、それらを見学してから、公演会場を後にした。