閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2024/10/20 平原演劇祭「岩にせかるる浅川の」 #なまずツアー@埼玉県吉川市

 

なまずの里として売り出している埼玉県吉川市での《なまず演劇》の企画は、そもそもは私のtwitter上でのつぶやきを平原演劇祭主宰の高野竜さんが見たことから始まったらしい。

youtubeで群馬県の雷電神社のそばにあるなまず料理屋の映像をたまたま見て、大学院生の頃、指導教授に連れて行ってもらった新大久保のなまず料理屋のことを思い出し、その流れでネットを検索したところ、埼玉県吉川市のなまず情報に行き着いた。

発端となったyoutubeの映像はこれである。

youtu.be

 そしてネット検索して出てきたのがこのサイト。

saitamabiyori.com

 指導教授に大学院生の頃、何回か連れて行ってもらった新大久保の「なまず家」は2008年に閉店してしまった。大宮にある寺の住職であり、破格の酒乱だった指導教授は、こういった類いの店によく連れて行ってくれたのだが、なまず料理はその珍しさとおいしさゆえに特に記憶に残っている。

e-food.jp

5/25に下のポストをtwitterにするとすぐに高野竜さんから反応があり、5月のうちに取材をすませ、7月には上演台本を書き上げたようだ。

7月終わりに高野さんから「10月中になまず芝居をやりたのだが日程は大丈夫だろうか?俳優は確保しています」という連絡があった。台本にはなんと私の台詞も一言だけだがある。この時点で私は自分が上記のツィートをしていたことを忘れていた。まさか私のツィート一言で高野さんが上演を企画し、台本を書くとは思っていなかった。ただなまずは食べたい。私の台詞もあるとなれば、この公演はなんとしても行かなければならないと思い、10/20になまず芝居をやってくれるようお願いした。

そして10/20(日)の平原演劇祭 #なまずツアーでは、5/25に私がtwitterで投稿した内容が実現されていたのであった! 願えばそれを劇作家が叶えてくれる! 自分がルイ14世になった気分だ。そして高野さんはモリエールだ。高野竜さん、ありがとうございました。

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2024/10/13 平原演劇祭 #埋設演劇「ヴェネツィアの死」@高幡不動万願寺歩道橋左岸側

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この埋没演劇は9月1日(日)に上演される予定だったが、台風の接近により、10月13日(日)に延期されたものだ。実際には9月1日の午後、台風の速度は遅く、上演会場の浅川周辺は曇りだったが、公演は中止となった。ただし、出演者と観客有志で穴掘りの予行練習のみが行われた。その報告は以下のリンクにある。

togetter.com


13日、出演予定の青木祥子は体調不良のため欠席。彼女が出演する予定だった別役実の『いかけしごむ』は、小林敬が急遽一人で上演することになった。

京王線・高幡不動駅の改札で出演者が出迎えるという告知が当日Twitterで流れていた。しかし、改札付近にはそれらしい気配はなかった。探していると、モノレール駅から来たぼのぼのさんが声をかけてくれた。二人で駅周辺を捜索したところ、駅構内のキオスクでサングラスをかけた小林敬を発見した。彼は我々を見てニヤニヤしていた。もう一人の出演者、星ヒナコはモノレール駅の改札と勘違いし、集合時間に10分遅れて到着した。

この日の観客は私とぼのぼのさん、そしてすでに会場で待っていたmelさんの3名であった。河原では15人ほどの団体がバーベキューを楽しんでいた。その横で、我々は小林敬を生き埋めにするための穴を掘り始めた。埋設演劇である以上、出演者は埋まらなければならない。本来なら青木も一緒に埋められる予定だったが、体調不良のため小林一人が埋まることになった。

人を埋める穴を掘るのはかなりの重労働であると聞くが、確かに実際やってみると土が思ったより重くて大変だった。柔らかい河原の土でも3~4人で掘るのは一苦労だった。

出演者の星ヒナコの友人3名が見に来るはずなのだが、12時集合を午後2時集合と勘違いしてしまったと言う。穴を掘ったり、観劇まかないのおにぎり飯を食べているうちに13時を過ぎていたので、その3人の観客の到着を待ってから開演することになる。まかない飯のおにぎりの具はいくらと燻製したいぶりたくわんで、塩味の加減が絶妙で美味しかった。平原演劇祭の飯はいつも美味しい。埋設される小林敬はおにぎりは食べずに穴の横に佇んでいた。

「おにぎり、美味しいですよ。食べないんですか?」と聞くと、終演後に食べるという。やはり演劇とはいえ埋設されるため、ナーバスになっていたのだろうか。

14時前、星ヒナコの友人3名が到着。全員、美術大学の学生だった。予定より2時間遅れで公演が始まった。

今回の公演はジョジョ劇+小林敬による別役実劇だった。小林は河原に埋められて準備完了。「ヴェニツィアの死」は、ジョジョの第6部らしい。私は原作は読んでいない。これまで人見知りしていたような感じでおとなしかった星が、芝居がはじまったとたん人格が豹変して、激しいテンションでジョジョ劇を演じ始めた。

youtube.com

ギアッチョ : フランスのパリってよぉ、英語ではパリスって言うんだが、みんなはフランス語通りパリって呼ぶ。でもヴェネツィアはみんなベニスって英語で呼ぶんだよぉ。ベニスの商人とかベニスに死すとかよぉ〜。
なんでッ!?ヴェネツィアに死すってタイトルじゃあ ねぇんだよぉお!!ナメてんのかぁ!?イタリア語で呼べイタリア語でッ!!チクショオーッ!!ムカつくんじゃ!!コケにしやがってぇ!ボケがッ!!

ジョジョ劇と別役実劇のつながりはまったくわからない。はじめ数分間、星がフルスロットルで台詞をがなりたてたあと、その激しさとは対照的なのっそりとしたかんじで、地面に埋まった小林敬の芝居が始まった。地面埋設の人物は、そういえばベケットの『しあわせな日々』がそうだった。別役を通じて、ベケットへのオマージュでもあるのだろうか。埋まることはあらかじめ決まっていたが、別役の『いかけしごむ』を選択したのは演者である小林であるように思った。本来ならこの芝居は青木と小林の二人芝居になるはずだった。しかし青木の急病のため、小林は急遽、これを一晩で一人芝居に組み直したと言う。

私は上演された芝居が、別役実の「イカケシゴム」という作品であることは、上演終了後に小林から聞いて知ったのだが、上演中は平原演劇祭らしからぬ、きっちりと組み立てられた芝居だなと思ってみていた。だいたい平原演劇祭は特異な上演環境に気を取られてしまって、台詞に対する注意が散漫になり、ゆるゆるのおじやみたいな芝居に飲み込まれてしまうことが多いのだ。それが小林敬の芝居は、観客への即興的な呼びかけを取り入れながら、台詞をちゃんと聞かせ、戯曲の面白さを観客に伝えようとしていた。一人芝居としてうまくアレンジされていて、違和感はなかった。

小林の埋設芝居の最後には大型のMONO消しゴムが大量にばらまかれるという演出があった。小林は、平原演劇祭の野外での埋設という設定を最大限生かせるような演目と演出を考えたのだろう。特異な上演状況を生かして、結果的に戯曲の内容、雰囲気に適合した上演を行っていたことに感嘆する。これで彼が主宰する劇団小林組の公演への好奇心もそそられた。



kobagumi.net


www.youtube.com

小林敬の一人芝居「イカケシゴム」が終わると、再び星ヒナコが登場し、ジョジョ劇「ヴェネツィアの死」の後編がはじまる。小林は穴から出て、ジョジョ劇の登場人物となった。

youtube.com

カオスとエネルギーに満ちたハイテンションでの激しい銃撃戦が行われ、何がなんやらわからない。上演時間はトータルで1時間ほどだった。


 

 

2024/09/16 平原演劇祭 『平文(ヘヴン)』(移築民家と「アタラシイ」ゲキ19)

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宮代町郷土資料館へはこれまでは東武動物公園駅から30分ほどかけて歩くか、車ないしタクシーを使って行っていたのだが、今回は東武動物公園駅の一つ手前の姫宮駅から宮代町循環バスを使って行った。料金は100円。乗客は私一人だった。

郷土資料館は西原自然の森という小さな公園内にある。この小さな公園の敷地はこのあたりの名主だった斎藤家のもので、敷地内の竹林と雑木林は齋藤家の屋敷林だったと、宮代町の広報誌にあった。敷地内には明治時代の建築である旧斎藤家住宅のほか、よその場所からここに移築された平原演劇祭の会場となっている築200年の旧加藤家住宅、かつて小学校だった旧進修館、復元された縄文式住居、そして郷土資料館がある。

平原演劇祭の開催の広報はこの2、3年は、X(twitter)の平原演劇祭の公式アカウントか主催の高野竜さんのアカウントでの告知が頼りである。上演が天候に左右されることが多い野外公演が多く、また高野さんの体調や出演者の都合で急に公演が中止になったりすることがちょくちょくあるため、このところ平原演劇祭の観客動員数は常連のみの一桁という回が多かった。今回の『平文(ヘヴン)』の告知もそんなに積極的に行っていなかったし、演目も地味なのでどれくらいの観客が集まるのだろうかとちょっと心配していた。しかし上演会場である旧加藤家住宅に入ると、たくさん観客がいてちょっと驚いた。観客数は21名だったそうだ。会場が宮代町の施設ということで、町の広報誌で上演が告知されていたのだろうか。観客の年齢層は小学生ぐらいから老人まで幅広い。

今回の上演演目は、宮代町にある和戸教会の創設に関わる内容だったため、周りの人たちが話しているのを聞いていると、どうやら教会関係の人たちがやって来ているようだった。和戸教会は埼玉県で最も古いキリスト教教会だそうだ。今回出演する二人の平原演劇祭の常連俳優、パウロ北條風知、フランシスカ角智恵子は、いずれもキリスト者だ。ただ和戸教会はプロテスタントの教会だが、北條も角もカトリック信徒である。戯曲自体はかなり前に書いたらしいが、演じる俳優が見つからなくて上演されないまま寝かせたあった戯曲だと聞いた。題材的にキリスト者の俳優が演じるべきものだと高野は考えていたのか。

旧加藤家住宅での上演のときは、いつもは屋内の畳の部屋で上演が行われ、観客も畳に座って見ていた。今回は畳間ではなく、入り口の土間に接した板張りの玄関が上演の場となった。能形式で演じられたのは、この板間の上手を能の本舞台、下手を橋がかりに見立てたからだろう、であることに今気づく。観客席は土間を挟んで向かい側にある。

上演前日はかなり暑かったのだが、上演当日は、幸い曇りがちの空で、気温がそれほど高くなかったのが助かった。木造藁葺き屋根で、風が通り抜ける構造で、一見、涼しげに思えるが、この構造の家でも気温が30度を超えるとやはり暑い。冷房はもちろんない。

一度、旧加藤家住宅で8月にあった公演を見に行ったことがあるのだが、このときはあまりに暑すぎて芝居に集中できなかった。今回、畳敷きの部屋で公演できなかったのは、旧加藤家住宅の老朽化が進み、その保護のためだと言う。畳敷きの部屋に大勢入って、ドタバタやられては困るということらしい。

和戸教会の「縁起」については、公演終了後、家に帰ってからネットで検索したところ、宮代町図書館のデジタル郷土資料にかなり詳しく書かれてあった。

最初に下手側の旧加藤家住宅の入り口から登場し、上手側の玄関の板の間に上って語り始めるのはフランシスカ角智恵子で、彼女は「和戸村の上層農民で元の名主であり、養蚕業を営んでいた小島九右衛門」を演じる。

小島九右衛門の口からこの時期の日本の養蚕業の状況、なぜ日本の生糸が世界的に知られるようになったかなどの蘊蓄が語られる。小島は輸出用蚕卵紙(さんらんし)販売のために横浜に出たが、そこで胸を病みヘボンと出会う。ヘボンは、ヘボン式ローマ字によって知られている人物だが、医師でもあったのだ。そしてアメリカの長老派宣教師でもあった。ヘボンは1859年(安政6)来日、横浜に住み、医療・教育活動を展開する。小島はヘボンの施療を受けたことがきっかけで、キリスト教を知るのである。

宮代町デジタル郷土資料の『宮代町史』には以下のように記されている。

小島九右衛門は、輸出用蚕卵紙(さんらんし)販売のために横浜に出たが、胸を病みヘボンの施療院にて治療を受けるうちにキリスト教と出会い、やがてバラを紹介されて明治八年六月、横浜海岸教会にて先述した日本基督公会の設立者バラから受洗した。九右衛門は、同年秋に漢訳聖書を携えて帰郷、郷里にて伝道を開始した。
 九右衛門をヘボンやバラに紹介したのは後に和戸教会設立の際に、信徒として九右衛門とともに尽力した和戸村の医師篠原大同であった(明治十三年三月二十六日付「七一雑報」)。大同は、後述するように、和戸村の医師として教会での医療伝道を中心に明治初期の地方医療にも貢献したが、彼の医学上の師は「平文先生」こと横浜施療院のヘボンであった。彼が明治八年五月、小島九右衛門にヘボンとバラのことを告げたことが九右衛門キリスト教入信の契機とされている。

『平文』でも、ヘボンが登場する。平文はこの劇では白い繭(?)で顔が覆われ、奇妙な格好をした異形の人物だ。『平文』という劇のタイトルは、宣教師・医師ヘボンだけでなく、「天国」heavenも掛けていることはあきらかだ。

『平文」は二部構成になっていて、第一部は九右衛門と平文(ヘボン)との対話になっている。平文のこの白繭仮面は目を塞いでいるらしく、平文の入退場は手探りで行われた。なぜ平文がこの扮装と仮面となったのかはよくわからない。宮代町への福音が、海外の未知の世からやってきた得体の知れない異人からもたらされたことを強調するためだろうか。

第二部は、和戸教会の建築に携わった大工小菅幸之助と小島九右衛門の対話となる。小菅は、さきほどまで平文を演じていたパウロ北條風知が演じる。6月の募集告知では3名の俳優を募集していたので、高野は平文と別の俳優が小菅を演じることを想定していたのかもしれない。ただキリスト者の俳優の三人目を見つけることができず、北條が二役を演じることになったのか。

youtu.be

 

ヘボンと知り合い、キリスト教を和戸にもとらしたのは九右衛門だったが、信徒の総代(?)は大工の小菅幸之助が引き受けることになった経緯が上演される。戯曲のもとになった資料は、宮代町史の記述だろう。そこで当事者たちが行っていたかもしれない台詞が肉付けされた歴史場面再現ドラマだった。台詞のなかに出てくる固有名詞や地名などは、観客として来ていた和戸教会関係者にはなじみのものもあったらしく、「○○のことだよね」と小さな声で話しているのが聞こえた。

能仕立ての謡曲風の台詞回しと所作はトリッキーではあったけれど、郷土史を取材した平原演劇祭の原点のような素朴で誠実な芝居だった。キリスト者の信徒の俳優がやったことで説得力があった。観客のかたも喜ばれているような感じだった。

ちなみに北條とは、2022年のクリスマスに、宝生能楽堂で上演されたヘルマン・ホイヴェルス作のキリスト教能の会場で会ったときには、プロテスタントの改革派の信者だと言っていたのだが、最近、カトリックに改宗したらしい。「おお、理論派から感覚派に転向したのか?」と聞くと、「理論付けできる情報ではなく象徴の奥行に依るものが信仰だと解釈している」ため、改革派にとどまることが厳しくなってカトリックになったそうだ。角は祖母の代から三代にわたるカトリックだが、角自身は熱心な信者ではなく、教会にもあまり足を運んでいないとのこと。

現在の和戸教会は、明治期にあった場所から少し離れた場所に建てられているそうだ。旧和戸教会のステンドグラスと写真が宮代町郷土資料館に展示されているとのことで、それらを見学してから、公演会場を後にした。



 

2024/07/28 劇団サム第10回公演『少年ラヂオ』@練馬区立生涯学習センター

gekidansam.com

劇団サム 第10回公演

作:成井豊+隅部雅則(初演:2006年 演劇集団キャラメルボックス)

演出:田代卓

 

練馬区立石神井東中学校演劇部

『謎の大捜査線〜ハーメルンの笛が聞こえる』(作:藤原正文、演出:田代卓)
『才能屋』

会場:練馬区立生涯学習センター

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2016年夏に旗揚げ公演を行った練馬区立石神井東中学演劇部のOB・OGたちによる劇団、劇団サムの第10回公演を見に行った。会場はいつもの練馬区立生涯学習センター。今回は7/28(日)に一回、8/3(土)に二回公演を行う。私が見に行ったのは7/28(日)の公演で、この日は劇団サムの『少年ラヂオ』の前に、石神井東中学演劇部による30分ほどの短編劇、2篇の公演もあった。

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2024/06/05 Ensemble Poesia Amorosa "Piangete occhi 流れよ わが涙〜17世紀イタリアの宗教的な歌"@日本福音ルーテル東京教会

Ensemble Poesia Amorosa "Piangete occhi 流れよ わが涙〜17世紀イタリアの宗教的な歌"@日本福音ルーテル東京教会

  • 高橋美千子(ソプラノ)、上野訓子(コルネット)、頼田麗(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、佐藤亜紀子(テオルボ)

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パリを拠点にフランスと日本で活動するソプラノ歌手、高橋美千子さんが出演するコンサートを久々に聞きに行くことができた。会場は新大久保のコリアンタウンの雑踏のなかにある日本福音ルーテル教会。観客は250人ぐらいいただろうか。天井が高く、ちょうどいい感じで反響がある会場で、今回の古楽器と歌手の編成のコンサート会場として適した場所だと思った。

コルネット、ヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボにソプラノというちょっと変わった編成のアンサブル・ポエジア・アモローザのコンサートは今回が2回目とのこと。2023年に行われた1回目のコンサートは私は聞きに行けていない。16-17世紀のイタリア音楽をレパートリーとするグループだ。

今回は「17世紀イタリアの宗教的な歌」がテーマで、聖母マリアについての歌曲がプログラムの軸となっていた。A4、2ページのコンサート・プログラムの解説の内容は、プログラムの意図と楽曲の特徴が的確に記述されていて、コンサート全体の枠組みを明瞭に示していた。バランスの取れた記述内容で、内容の精度も長さもこれぐらいが適切だろう。ラテン語、イタリア語の歌詞の対訳があるのもよかった。とりわけ今回のプログラムが、歌だけでなく、テクストのメッセージも味わうものだっただけに。高橋美千子による翻訳の訳文も、原文の内容を正確に伝えるだけでなく、わかりやすくかつ優雅で魅力的なテクストになっていた。

コンサートの2曲目のサンチェスの《聖母の嘆き、スターバト・マーテル》、休憩のあとの2曲目、モンテヴェルディの《聖母の嘆き アリアンナの嘆きによる》、そしてコンサートの末尾に歌われたメールラ《子守歌による宗教的カンツォネッタ》の三曲がプログラムの軸であり、この周辺に器楽曲や小規模な宗教的楽曲が配置される。

導入となった器楽曲のあと、サンチェスの《聖母の嘆き「悲しみ母は立ちつくす」》で高橋美千子が歌い出した途端、そのエモーショナルで力強い歌唱とダイナミックで演劇的な表現力に、体中に電流が走ったような、しびれるような感動がわき上がった。歌詞は、ラテン語のStabat Materである。中世やルネサンスの聖歌は荘厳な美しさが魅力であるが、その音楽は人間的な情感はとぼしく「非人間的」なよそよそしさがある。歌詞がラテン語であることも、その音楽表現の硬質さをさらに強めているが、それとひきかけえに天上の神の世界の崇高さも感じさせてくれる。

サンチェスの《聖母の嘆き「悲しみ母は立ちつくす」》は歌詞こそラテン語のStabat Materではあるが、その音楽はことばの意味と情感と結びついた、この時代のイタリアで誕生した新しい様式、バロック様式である。高橋美千子の歌唱と演劇的ともいえるパフォーマンスは、そうしたテクストの内容と一体化したイタリア・バロック様式特有音音楽表現のありかたを鮮やかに具現したものだった。彼女の歌によって、確かに息子であるイエスの死を慟哭するマリアの悲痛な姿が浮かびあがってくるのだ。聖書の崇高な世界の住人ではなく、我々と同じ感情を持つ人間的な人物としてのマリアが現れる。

休憩後に歌われたモンテヴェルディの《聖母の嘆き》も私には衝撃的だった。この曲は、モンテヴェルディのオペラのなかの楽曲《アリアンナの嘆き》の旋律を利用した《替え歌》である。《アリアンナの嘆き》は、アテナイの英雄、テーセウスに捨てられたクレタ島の姫、アリアンナの失恋の慟哭が歌われているのだが、それがイエスの死を嘆くマリアの慟哭に置き換えられている。古代ギリシアの神話的世界の世俗的なエピソードが、その悲劇性を引き継ぎながらピエタの情景に移し替えられているのである。サンチェスでは歌詞はラテン語のStabat Materであったが、モンテヴェルディではイタリア語のオリジナルの歌詞になっていた。宗教的主題は、世俗語によるドラマティックな形式で、より人間的で身近なものへとなっている。当然、高橋美千子が行ったような演劇的でエモーショナルなスタイルでパフォーマンスが行われてこそ、この歌のドラマは効果的に引き出されるだろう。

コンサートの掉尾を飾るメールラの《子守歌による宗教的カンツォネッタ》では、聖母マリアは赤子をあやす母として表象される。Fa la ninna nana na「寝んねしな」というルフランで終わる歌詞が、次第にイエスの死を悼むピエタへと変わっていく。その展開にマリナの悲しみの情景が浮かびあがる。高橋の歌唱はその移り変わりを丁寧に伝えるもので、キリスト者ではない私にさえ大きな感動を覚えた。

イタリア初期バロック歌曲によるStabat Mater dolorosa、「悲しみの聖母は立ちつくす」という主題のバリエーションの豊かさを堪能できた知的な仕掛けのある興味深いプログラムだった。解説や歌詞対訳で、コンサート・プログラムの外枠を、聴衆も演奏者と共有できた。さらにこれらの歌曲を、歌詞の内容を咀嚼した上で、演劇的に提示した高橋美千子のパフォーマンスには圧倒的な力強さと美しさがあった。詩と音楽に内在する演劇性が見事に引き出された表現であり、プログラムになっていた。
久々に心から素晴らしいと思えるような音楽体験を得ることができた。

2024/05/26 平原演劇祭 #五月夢の国(後半) 国木田独歩「武蔵野/鹿狩り/郊外」

このところ主宰高野竜の衰弱もあって屋内公演が続いていた平原演劇祭だが、この5月には久々に野外遠足演劇の上演があった。 #五月夢の国(後半)の公演があった5/26は最高気温25度のほどよい暑さの晴天だった。雑草が生い茂る道なき道を進み、藪の中の木陰で夏水による「武蔵野」朗読を聞いた後、神社境内で高野竜の「鹿狩り」の朗読を聞く。それからまた雑草の生い茂る湿地帯を抜けて、新幹線と新交通システムの高架の横の道を移動しつつ、のあんじーによる「郊外」の上演を見た。

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2024/05/19 平原演劇祭 みんなのへいげん5月うまれ生誕祭@石神井公園駅Space BAHARA

 

  • 日時:2024/05/19(日)14時開場、18時半閉場
  • 料金:2000円+投げ銭
  • 出演:栗栖のあ、青木祥子、夏水
  • 会場:石神井公園駅 Space Bahara
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高野竜主催の平原演劇祭のスピンオフ、「みんなのへいげん」の公演、会場は西武池袋線石神井公園駅の近くの商業ビルの最上階にあるレンタルスペースであった。企画及び出演は平原演劇祭上演の三人の女優、栗栖のあ、青木祥子、夏水の三名で、高野竜は戯曲を提供しただけでこの公演の企画や演出には関わっていないようだ。

twitter上に掲示された「ちらし」では14時開場となっていた。チラシには「開演」時間を記すのが普通だと思うのだが、開演時間の記載はない。14時開演だと思い込んでいた私は13時半過ぎに会場に着くと、「まだ準備中です。開場は14時からですから」と追い出されてしまった。会場となるレンタルスペースは、商業ビルの5階にあった。入り口は鉄扉で、通常の居住者用のマンションと同様のものだ。屋上階に上る階段のところで会場まで時間を潰すことにする。14時の開場前に私以外に三人のおっさん観客が会場にやってきた。

14時になり会場に入ったが、準備はまだ終わってなかった。観客は平原演劇祭の常連観客おっさん4名と高野夫妻の計6名だった。

レンタルスペースの広さは30平米くらいあるだろうか。かなり広々としていて、天井も高い。眺めのいいテラスもある。まだ新しくてきれいだ。

広いキッチン付きで、四人用のテーブルが四台、そしてレンタルスペースのウェブページを見ると椅子が30脚あるらしい。石神井公園駅というロケーションが少々ネックであるが、この広さ、この設備、このきれいさで、丸一日借りて2万円は安いと思った。

高野竜の旧作と新作の上演があるらしいが、観客が入場後もテーブルのセッティングが続けられている。上演そのものよりも、「誕生会」というイベントの枠組みがどうやらメインプログラムであることに気づく。平原演劇祭主宰の高野竜の誕生日は数日前だったが、今日の出演者三名もみな5月生まれということで、今日のイベントが企画されたのだ。誕生日プレゼントっぽいものを持ってこようかと行く前にちらっと思ったのだが、私は結局何も持って来なかった。おっさん観客のうちの一人はお酒を持ってきていた。えらい。
出演者三名はメイドカフェのコスプレをしていた。平原演劇祭では飯が出ることが度々あるが、軽いスナック程度のものが多い。今回の飯はボリュームたっぷりで、本格的な飯である。豚汁、ハンバーグ、サラダ、鯛飯など、いずれも出演者三名がこのレンタルスペースのキッチンで作ったものらしい。大量のポテトチップスも。

食卓の準備が終わったあと、「本番」が始まった。まずメイド・コスプレ三人娘によるアニメの主題歌に合わせたダンス。これはかなり刺激的だった。。すごくはじけていて楽しそうに踊っている三人の可愛さの圧力が強烈だった。「これはすごいものを私は見てしまっているのでは」。私は言葉を失ってしまった。


www.youtube.com

オープニングのダンスのあとは、一本目の演目がはじまった。チラシ上では「オバハンクラブの無法者」となっていたが、実際に上演・朗読されたのは椋鳩十の「大造じいさんとガン」だったようだ。Wikipediaに概要がある。聞いているときに椋鳩十っぽい話だなと思っていたのだが、終演後に観客のひとりから「ああ、なつかしいですね、この話」という指摘があった。いくつかの小学生の国語教科書に掲載されていたそうだが、私は記憶がない。ご飯を食べながら見る。

一本目の上演が終わると休憩。進行はゆるゆるだ。カラオケ大会があったのはこの幕間だったと思う。人前で歌うのは照れくさくて、最初に誰が歌うのかは譲り合いになった。栗栖のあが最初にAmazing Graceを歌った。それに引き続き、夏水と青木が歌う。観客の一人も歌った。私は歌おうかどうしようか迷ったが、結局歌わず。二本目の演目『さすらいの姫君』の上演はカラオケの後だったように思う。『さすらいの姫君』は、高野によると2009年に上演された旧作だと言う。しかしその冒頭部で語られる、コノシロ(コハダのこと)を焼いた匂いが人を火葬した匂いと似ている、というエピソードは私は記憶があった。私が平原演劇祭に通うようになったのは2010年からだが、そのころに平原演劇祭で宮代町のコノシロ(身代)神社の縁起に関わる高野さんの芝居を見ているのだ。コノシロの伝説は日本各地にあるという話もそのときに高野さんの語りから聞いたことを思い出した。そのときの上演演目が今日、コスプレ三人娘によって上演された「さすらいの姫君」という題名だったかどうかは定かではない。
伝説の概要については以下のウェブページに記されていた。

adeac.jp

 

「さすらいの姫君」は、コノシロのおかげで命拾いした姫が時空をさすらう話だ(と思う)。平原演劇祭どうよう、「みんなのへいげん」も演じられる、語られる内容よりも、演じられる状況と空間、俳優の存在のほうに気を取られてしまって、テクストの中身はうやむやになってしまう。

会場の外の風景、聞こえてくる飛行機の音、西武池袋線の電車の走る音を背景に、メイドのコスプレの三人娘の口から発せられる古語の台詞が重なっていく。俳優の身体と声、空間のコンビネーションが作り出す空気のなかに、鯛飯を食べながら、身を委ねる不思議で心地良い時間。平原演劇祭、みんなのへいげんは、民俗学的でアヴァンギャルドだ。

二本目の演目が終わったあとはぐだぐだとゆるい時間が過ぎていった。生誕祭なのでケーキも食べた。三人娘のダンスで公演は締めくくられた。

観客数が少なかったこともあり、食べ物が大量に残った。残った食べ物は、ラップで包んだり、ビニール袋に入れて持ち帰ることに。私は豚汁を持ち帰った。後片付けが終わったのが午後6時前だった。
高野竜さんは今日は見ているだけだったが、体力を消耗したらしく、最後のほうは長椅子の上で気を失っていた。

 

 

 

 

2024/03/22 第50回赤門塾演劇祭

 

 

 




 在野のヘーゲル研究者、哲学者の長谷川宏が所沢市の住宅街に地域の小中学生を対象とした学習塾、赤門塾を開設したのは1970年だった。赤門塾は2020年に50周年となったが、塾が開設された数年後からはじまった赤門塾演劇祭も今回で第50回目の開催となった。赤門塾の運営はもう大分前に長谷川宏から、その息子の長谷川優に移管している。個人経営の小さな私塾が半世紀以上にわたって存続しているのも稀有だと思うが、その私塾が毎年三月最終週の週末に行う演劇祭というイベントも半世紀にわたる長い期間、ずっと続いているというのは驚異的なことだ。そもそも演劇祭を定期的に開催している塾は赤門塾くらいだろう。

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2024/03/14 MODE『うちの子は』@上野ストアハウス

MODE『うちの子は』

作:ジョエル・ポムラ

翻訳:石井惠

演出:松本修

美術:松本修

音響:藤田赤目

照明:大野道乃

会場:上野ストアハウス

企画・制作:MODE

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久々に会心のフランス現代演劇作品の舞台を見た、という感じだった。ポムラの戯曲はこんな風にやるのか、こんな風にやって欲しかったんだな、という自分の頭のなかに漠然とあった舞台のイメージが具現化されたような上演だった。

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2023/11/18 空風ナギ生誕祭@チャンドラ・スーリヤ

  • 出演:のあんじー(栗栖のあ・アンジー)、猫道(猫道一家)、空風ナギ
  • 会場:チャンドラ・スーリヤ(南林間)
  • 2023年11月18日(土)18時〜20時45分

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空風ナギは平原演劇祭の常連だった女優で、特に2019年から2020年にかけては武田さやと二人で孤丘座というユニット名で、高野竜とともに8回の野外劇公演を行った。新型コロナの世界的流行がはじまり、多くの人々が自宅に蟄居することを強いられた2020年4月に孤丘座の解散公演が行われ、それ以来、平原演劇祭が企画する特異な野外劇に果敢に挑む特殊女優から、「普通の女子大生」に戻ったのだと私は思っていた。確か2020年度は彼女の大学卒業年度だったと思う。

otium.hateblo.jp

その孤丘座最終公演以来、平原演劇祭で彼女の姿を見ることはなかったのだけど、今年の二月に行われたのあんじーの栗栖のあの大失恋回復祈願公演(この公演後も長らくの間、のあは失恋の痛手をひきずり、ボロボロの状態だったようだが)のとき、久々に空風ナギに会った。そのときは彼女は出演者ではなく、観客として客席に座っていた。三年ぶりで、マスク姿だったため、最初は私は彼女に気づかなかった。大学の演劇科に学士入学し、演劇活動を再開するつもりだ、とそのとき、話してくれた。

大学時代にあまりにも特異で過酷だった平原演劇祭に深くコミットしてしまった彼女は、それゆえに私は演劇から離れてしまったのだと思っていた。実際、平原演劇祭に関わった女優でいなくなってしまった人は少なくない。一度大学を卒業した後、演劇科のある大学に学士入学したと聞いて、今度はいったいどんな演劇を彼女は目指すのだろうかと少し興味を持った。

演劇生活再出発企画として自分自身で「生誕祭」という公演をたちあげのには少し「おお」と驚いたし、そこにはのあんじーも参加するということだったので、告知が出ると私はすぐに予約を申し込んだ。

公演会場は小田急線の中央林間駅からさらに一駅行ったところにある南林間駅近くのネパール料理屋だった。下北沢で名取事務所の公演を見た後、南林間に向かったが、これが思っていたより遠くだった。町田、相模大野よりさらにかなたにある。

開演予定時刻の18時ちょっと前に会場についた。小さなネパール料理レストランに30人くらいの観客がいたのではないだろうか。観客の年齢層の幅は広くて、出演者と同世代の20代の人たちから、60過ぎのおっさん、おばさんまで。おすすめだというダルバード定食を注文したが、人が密集していてテーブルの上は他の人の注文で塞がっている。果たして食べられるのかどうかちょっと心配になる。

18時10分ぐらいにオープニング。ナギさんとパンダ、それから白布頭巾をかぶった人が出てきてグダグダと歌ったり、踊ったりして、強引に始めてしまうというかんじで。

オープニングのあと、最初にパフォーマンスを行ったのは、のあんじーである。ふたりで漫談風の自己紹介のようなことをやってから、岡本かの子の「」の上演にすっと移る。漫談から本編への移行のしかたは落語を思わせる。のあんじー目当ての観客もいたようだが、このひきこみかたは手慣れたものだ。あらかじめ用意してあった卵をガラスの容器にいれ、それを二人の上腕部に挟む。卵が落ちないように、二人は身体をくっつけたまま、「星」のテクストを交互に語り始めた。「星」は岡本かの子がエジプトを旅行した際に見た星空について書かれた短いエッセイだ。センチメンタルで美しい詩的な文章である。あんじーの髪型と化粧は、テクストに合わせクレオパトラ風(?)になっているようだ。

単にテクストを朗読するのではなく、卵を使って、不動の状態で交互に語るという発想がおもしろい。のあんじーは野外劇ユニットで動きながら語るのが基本だが、ここではあえて動かないように自らを縛っている。岡本かの子の詩的なテクストの朗読の途中で、栗栖のあがクリスチャンとして旧約聖書のエピソードを強引に入れ込んでいくという仕掛けもよかった。この聖書解説に熱が入り、のあは身体を動かしはじめ、卵が落ちそうになる。その対応にあわてふためくあんじーの様子を観客が笑う。
余韻をもたらす最後の朗読のためもうまい。のあんじーは観客の反応をコントロールする術を心得ている。上演時間は35分くらいだったように思う。終演後、茹で玉子が観客に配られた。

のあんじーにつづいて、猫道一家の猫道のパフォーマンスが行われた。反復されるBGMに乗せて語られるリズミカルで私的で詩的な語りだった。このスタイルのパフォーマンスを「スポークンワード」と本人は読んでいる。ラップよりは、語りの要素が強い。そして語りのことばは詩的であり、物語的だ。フランスのslamはこれに近いと思う。

私が猫道のパフォーマンスを見るのはこれが初めてだったが、とても気に入ってしまった。自らの体験を歌うものが3曲、そして「失恋電気」という過去の失恋の体験ゾーンに入るとそこに電力が生じ、当事者が感電してしまうというナンセンスが1曲。私小説的な曲は、体験をslam化して、再構成することで、客観的で自虐的な笑いと文学性を獲得している。そして朗唱のリズムや力強さも印象的だった。言葉も動きもキレがあってかっこいい。日本語でのこの主のパフォーマンスを見たのは初めてだったのでとても新鮮だった。彼の公演はまた見てみたい。

個性的で印象的なパフォーマンスが二つ続いたあとに、生誕祭の主役の空風ナギの演目である。すでに行われた二つのパフォーマンスの強さに果たして彼女が対抗できるのかどうか、実はちょっと心配になった。主役の彼女がしょぼいものをやるわけにはいかない。彼女も自ら、自らのためのイベントを企画し、そしてこの二組の強烈なゲストを呼んだからには、相当な覚悟で挑んだはずである。私の心配は杞憂だった。空風ナギのパフォーマンスは、前の二つのパフォーマンスに対抗できる力強さを持っていた。いやむしろ、前の二つの演目との相乗効果で、さらにパワーアップしていたかもしれない。

それは数百枚の紙に書かれた彼女の自分史のエピソードの赤裸々な断章的告白だった。そこで告白されたのは、他人との関係性の構築で常に傷つき続けた自分のすがたである。自己愛に流されることなく、欺瞞に逃げる誘惑を退け、彼女は自意識と徹底的に向き合う。30分以上にわたってその告白は続いた。彼女はこの誕生日で新たに自分を産むと宣言する。その宣言は彼女の痛切な叫びであり、願いであるように思えた。