閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2023/11/18 空風ナギ生誕祭@チャンドラ・スーリヤ

  • 出演:のあんじー(栗栖のあ・アンジー)、猫道(猫道一家)、空風ナギ
  • 会場:チャンドラ・スーリヤ(南林間)
  • 2023年11月18日(土)18時〜20時45分

--------------

空風ナギは平原演劇祭の常連だった女優で、特に2019年から2020年にかけては武田さやと二人で孤丘座というユニット名で、高野竜とともに8回の野外劇公演を行った。新型コロナの世界的流行がはじまり、多くの人々が自宅に蟄居することを強いられた2020年4月に孤丘座の解散公演が行われ、それ以来、平原演劇祭が企画する特異な野外劇に果敢に挑む特殊女優から、「普通の女子大生」に戻ったのだと私は思っていた。確か2020年度は彼女の大学卒業年度だったと思う。

otium.hateblo.jp

その孤丘座最終公演以来、平原演劇祭で彼女の姿を見ることはなかったのだけど、今年の二月に行われたのあんじーの栗栖のあの大失恋回復祈願公演(この公演後も長らくの間、のあは失恋の痛手をひきずり、ボロボロの状態だったようだが)のとき、久々に空風ナギに会った。そのときは彼女は出演者ではなく、観客として客席に座っていた。三年ぶりで、マスク姿だったため、最初は私は彼女に気づかなかった。大学の演劇科に学士入学し、演劇活動を再開するつもりだ、とそのとき、話してくれた。

大学時代にあまりにも特異で過酷だった平原演劇祭に深くコミットしてしまった彼女は、それゆえに私は演劇から離れてしまったのだと思っていた。実際、平原演劇祭に関わった女優でいなくなってしまった人は少なくない。一度大学を卒業した後、演劇科のある大学に学士入学したと聞いて、今度はいったいどんな演劇を彼女は目指すのだろうかと少し興味を持った。

演劇生活再出発企画として自分自身で「生誕祭」という公演をたちあげのには少し「おお」と驚いたし、そこにはのあんじーも参加するということだったので、告知が出ると私はすぐに予約を申し込んだ。

公演会場は小田急線の中央林間駅からさらに一駅行ったところにある南林間駅近くのネパール料理屋だった。下北沢で名取事務所の公演を見た後、南林間に向かったが、これが思っていたより遠くだった。町田、相模大野よりさらにかなたにある。

開演予定時刻の18時ちょっと前に会場についた。小さなネパール料理レストランに30人くらいの観客がいたのではないだろうか。観客の年齢層の幅は広くて、出演者と同世代の20代の人たちから、60過ぎのおっさん、おばさんまで。おすすめだというダルバード定食を注文したが、人が密集していてテーブルの上は他の人の注文で塞がっている。果たして食べられるのかどうかちょっと心配になる。

18時10分ぐらいにオープニング。ナギさんとパンダ、それから白布頭巾をかぶった人が出てきてグダグダと歌ったり、踊ったりして、強引に始めてしまうというかんじで。

オープニングのあと、最初にパフォーマンスを行ったのは、のあんじーである。ふたりで漫談風の自己紹介のようなことをやってから、岡本かの子の「」の上演にすっと移る。漫談から本編への移行のしかたは落語を思わせる。のあんじー目当ての観客もいたようだが、このひきこみかたは手慣れたものだ。あらかじめ用意してあった卵をガラスの容器にいれ、それを二人の上腕部に挟む。卵が落ちないように、二人は身体をくっつけたまま、「星」のテクストを交互に語り始めた。「星」は岡本かの子がエジプトを旅行した際に見た星空について書かれた短いエッセイだ。センチメンタルで美しい詩的な文章である。あんじーの髪型と化粧は、テクストに合わせクレオパトラ風(?)になっているようだ。

単にテクストを朗読するのではなく、卵を使って、不動の状態で交互に語るという発想がおもしろい。のあんじーは野外劇ユニットで動きながら語るのが基本だが、ここではあえて動かないように自らを縛っている。岡本かの子の詩的なテクストの朗読の途中で、栗栖のあがクリスチャンとして旧約聖書のエピソードを強引に入れ込んでいくという仕掛けもよかった。この聖書解説に熱が入り、のあは身体を動かしはじめ、卵が落ちそうになる。その対応にあわてふためくあんじーの様子を観客が笑う。
余韻をもたらす最後の朗読のためもうまい。のあんじーは観客の反応をコントロールする術を心得ている。上演時間は35分くらいだったように思う。終演後、茹で玉子が観客に配られた。

のあんじーにつづいて、猫道一家の猫道のパフォーマンスが行われた。反復されるBGMに乗せて語られるリズミカルで私的で詩的な語りだった。このスタイルのパフォーマンスを「スポークンワード」と本人は読んでいる。ラップよりは、語りの要素が強い。そして語りのことばは詩的であり、物語的だ。フランスのslamはこれに近いと思う。

私が猫道のパフォーマンスを見るのはこれが初めてだったが、とても気に入ってしまった。自らの体験を歌うものが3曲、そして「失恋電気」という過去の失恋の体験ゾーンに入るとそこに電力が生じ、当事者が感電してしまうというナンセンスが1曲。私小説的な曲は、体験をslam化して、再構成することで、客観的で自虐的な笑いと文学性を獲得している。そして朗唱のリズムや力強さも印象的だった。言葉も動きもキレがあってかっこいい。日本語でのこの主のパフォーマンスを見たのは初めてだったのでとても新鮮だった。彼の公演はまた見てみたい。

個性的で印象的なパフォーマンスが二つ続いたあとに、生誕祭の主役の空風ナギの演目である。すでに行われた二つのパフォーマンスの強さに果たして彼女が対抗できるのかどうか、実はちょっと心配になった。主役の彼女がしょぼいものをやるわけにはいかない。彼女も自ら、自らのためのイベントを企画し、そしてこの二組の強烈なゲストを呼んだからには、相当な覚悟で挑んだはずである。私の心配は杞憂だった。空風ナギのパフォーマンスは、前の二つのパフォーマンスに対抗できる力強さを持っていた。いやむしろ、前の二つの演目との相乗効果で、さらにパワーアップしていたかもしれない。

それは数百枚の紙に書かれた彼女の自分史のエピソードの赤裸々な断章的告白だった。そこで告白されたのは、他人との関係性の構築で常に傷つき続けた自分のすがたである。自己愛に流されることなく、欺瞞に逃げる誘惑を退け、彼女は自意識と徹底的に向き合う。30分以上にわたってその告白は続いた。彼女はこの誕生日で新たに自分を産むと宣言する。その宣言は彼女の痛切な叫びであり、願いであるように思えた。

 

2023/11/18 名取事務所『慈善家-フィランスロピスト』@下北沢『劇』小劇場

  • 2023年11月17日(金)~12月3日(日)

  • 劇場:下北沢「劇」小劇場

  • 作:ニコラス・ビヨン

  • 翻訳:吉原豊司

  • 美術:杉山至

  • 照明:桜井真澄

  • 演出:小笠原響

  • 出演:藤田宗久、鬼頭典子、加藤頼、荒木真有美、谷芙柚

  • 評価:☆☆☆☆☆

-----------------

芝居がはじまって数分で、おもしろい作品であることが確信できた。

感嘆し、唸らざるを得ない見事な戯曲、そしてその戯曲をテンポよく明瞭に提示する俳優の演技も素晴らしい。アメリカの製薬会社のスキャンダル事件の現実から敷衍された美術館を舞台とする台詞劇だった。

舞台はとある美術館の事務室である。背景の壁に横長の抽象画がかかっている。白地のキャンバスに粗い霧吹きで原色をちりばめたようなこの抽象画は、舞台の重心のような存在感があり、独立した美術作品としてもかなりいいものだと思う。三方の壁は二重になったむき出しの鉄筋で、密室であるはずの美術館事務所は視覚的には素通しになっている。

開演前、および劇中の暗転の「間」には、抽象画がスクリーンとなり、戯曲の題材となったサックラー一家の製薬スキャンダル事件についての解説が映し出される。製薬会社の成功で巨額の富を築いたサックラー一族は、オピオイドという極めて中毒性の高い麻薬性鎮痛剤の製造・販売によって告発され、非難されるが、その一方で世界中の美術館や学術機関に多大な寄付を行ってきたフィランソロピスト、慈善家でもあった。フィランソロピーはアメリカ社会では、企業のさまざまな社会的貢献活動や慈善的寄付行為などを指す。

カナダの劇作家ニコラス・ビヨンが名取事務所のために書き下ろしたこの新作戯曲では、美術界をゆるがしたこの大スキャンダルで、当事者たちがどのようなやりとりを行ったのかを再現する。

記号的ではあるが、しっかりとその細部まで構築された人物像を演じる俳優たちのメリハリのある台詞のやりとりによって、登場人物の個性や舞台の状況は明瞭に提示され、テンポ良くリズミカルに劇は進行していく。有機的に台詞が反応し合う俳優たちの演技のアンサンブルは緊密だ。優れた新劇の芝居のあの快ちよさによって、劇の展開にすっと引き込まれる。緊迫感がある重要なポイントではハンドパンのBGMが流れる。そのBGMによってぐっとその場面の緊張度が高まり、クローズアップされたような効果があった。

開演前および幕間の暗転中に、背景の抽象画をスクリーンにして映し出されるサックラー一家の製剤スキャンダルとフィランソピーについての事実が、その前面で俳優たちによって演劇的虚構として敷衍される対比の仕掛けがおもしろい。美に対する純粋な芸術的動機と造形芸術を通した真摯な社会的アクションと超金持ちブルジョワたちの虚栄と金銭のやりとりの道具である世俗的欲望の両面を抱えざるをえない美術館、美術界の欺瞞についての問いかけが劇中で行われる。

美術館の館長、顧問弁護士、そして若いインターン、美術館の理念に従い、正しく振る舞おうとするのは女性たちだ。美術館の理事長そして自分の製薬会社のスキャンダルから一族を守ろうとするフィランスロピストは、世の悪徳に流されるしたたかな悪人である。しかし実は社会や人間はそんな善悪の二項対立でなりたつような単純なものではないことが示される。一人の同じ人間が美しいこともすれば、醜いこともする。あるとき、ある面は善人であるものが、別のとき、別の機会にはおぞましい振る舞いをすることは普通にあることなのだ。たいていの人は、状況によって、悪いこともすれば、いいこともするのだ。

登場人物のなかで一番若い、女性のインターンの正義感には清々しい気持ちになるのだけど、彼女とてこの世の善悪のあいまいさからは自由ではない。一人の人間が、矛盾無く、一貫して正しく生きることの困難が提示される。

最後の最後まで劇作的仕掛けが効いている。

戯曲の見事さという点では今年見た演劇の中では随一の作品だった。

 

 

2023/09/24 平原演劇祭 #茄子演劇

#茄子演劇

  • 2024年9月24日(日〕18:00-20:00
  • 調布駅前たづくり 301号室
  • 出演:角智恵子、高野竜
  • 料金:1000円+投げ銭

久々に参加する平原演劇祭である。今回の公演の告知はいつも以上にひっそりと行われていたような感じがあった。このところ、〆切のある仕事に追われ立て込んでいたため、日付と開始時間、場所、そして#茄子 というキーワードだけ頭に入れて、会場に向かった。

会場となる調布駅前たづくりとは、正式名称が調布文化会館たづくりで、調布市立の立派な文化施設だった。平原演劇祭らしからぬ近代的な高層ビルだ。この場所を会場に平原演劇祭が行われるのは今回がはじめてのはずだ。調布市在住の平原演劇祭常連俳優がいて、そのつてで文化会館にある会議室を借りたとのこと。

調布は高野竜の居住地の埼玉県宮代町からかなり遠い。私の住む練馬区からもけっこう遠い。上演の場が上演される作品としばしば緊密なつながりを持っている平原演劇祭だが、今回、調布市にあるこの会場が上演会場になったのは特にそういう理由はなさそうだ。この建物の三階にある25平米ほどの会議室が上演会場だった。18時開演で、私が到着したのは17時50分頃。到着したときには観客は5名だったが、最終的には9名の観客が集まった。告知がごくささやかであったことを思うとよく集まったと思う。

ここしばらくは主宰の高野竜さんの衰弱が続いるため、公演回数こそ減ってはいないが、公演規模は縮小され、告知もtwitterの公式アカウントで気まぐれに行われるだけのことが多く、観客数は一桁のことが多い。高野竜さんとしては、出演者にできるだけギャラを出したいということである程度は観客は来て欲しいようだが、その一方で集客にはそれほど熱心ではなく、ごく少数の観客であっても誰か見に来る人がいればいいと思っているようでもある。今回の上演は敢えて告知は控えめにした、というようなことを言っていた。会場には今回の公演に関わる文献等が並べられていた。

正面の長机には鍋が置かれていて、このなかに入っている茄子を食べることになるのだろうなということは見当がつく。

前代未聞の #茄子演劇は、会議室内のモニタでスタジオジブリ作品で作画監督を努めていた高坂希太郎監督のアニメ映画、『茄子 アンダルシアの夏』(2003年)を全編見ることから始まった。47分の作品を最初から最後まで見た。映画公開時にはかなり大々的に宣伝されていたので、私はこの映画の存在は知っていたが、「茄子」を冒頭に置く奇妙なタイトルや、自転車競技という私がまったく関心を持っていないスポーツが題材の映画ということで、まったく関心が持てなかった。もちろん見たこともない。

とにかく47分最初から最後まで見る。アンダルシアの地を走る自転車レースの様子が、主人公である自転車レーサー、ぺぺを中心に丁寧に描かれてる。レースの展開と平行して、このレースを見守るぺぺの兄や親族、友人たちの様子も描かれる。綿密な自転車レースの描写とそのレースに出場している選手の家族や友人とのエピソードを平行して提示するスタイルは、昨年上映された映画『THE FIRST SLAM DUNK』を連想させた。「茄子」は、自転車レースが行われているアンダルシアの街道沿いでバル(酒場)のおやじが店で出すワインのつまみとして映画のなかに何度か登場するが、本筋とはからまない。「茄子」がこの映画のなかでどういう意味合いで出てくるのかはわからなかった。

映画の上映が終わると、竜さんのミニレクチャーがあり、この映画の原作が黒田硫黄のマンガ『茄子』であることを知る。ただし映画は『茄子』に収録されている一エピソードを敷衍したものとのこと。マンガ『茄子』は茄子をテーマとする連作短編集で、原作マンガでは「茄子」が主、自転車レースのエピソードのほうが従なのだ。映画自体は自転車競技に関心のない私もそこそこ楽しんで見ることができたのだが、#茄子演劇 だけにこの公演で重要なのは「茄子」である。映画のなかでバルのおやじが供する小ナスの漬物が、今回の平原演劇祭の出し物の核だった。ここで鍋に入っていた小ナスの漬物が、ぶどう酒と葡萄ジュースとともに観客たちに振る舞われた。

平原演劇祭で出される食べ物は常に美味しいが、パプリカも入っているこのスペインのナスの漬物も、ほどよい酸味と辛みがあって実に美味しかった。赤ちゃんのこぶしくらいの丸い小ナスは日本では流通していないもので、高野竜さんの奥さんが種をまいて育て、収穫したものなのだそうだ。茄子の種まきから今日の平原演劇祭は始まっていたのだ。二〇個ぐらい小ナス漬物が鍋のなかには入っていたが、9人の観客たちによって全部なくなってしまった。私は下戸なので葡萄ジュースと一緒に食べたが、この茄子の漬物はワインとよく合うらしい。

茄子を食べる時間が終わると、最近、何を思ったのか坊主頭にした角智恵子が、『ドン・キホーテ』にある食事場面の朗読を始めた。角は、ぬいぐるみを手に持ち、スパークリングワインを飲みながら、会場内をうろうろと移動し、立ったり、座ったり、寝転んだりしながら『ドン・キホーテ』を読んだ。

角の朗読のあいだに、高野竜の短いレクチャーが何回か挿入され、『茄子』と『ドン・キホーテ』のつながりの背景について語った。アニメ映画『茄子 アンダルシアの夏』の原作マンガ『茄子』のアンダルシアの茄子についてのエピソードにはネタ本があり、それはスペイン文学者の荻内勝之のエッセイ『ドン・キホーテの食卓』(新潮社、1987年)だと言う。なるほどそれで角は『ドン・キホーテ』の食卓場面を読んでいるのか。しかし『ドン・キホーテ』の食事場面には、実は茄子が食卓に上る場面はまったくないと言う。となるとなぜ「茄子」という話になる。

 

一昨年12月の崖転落による脳挫傷以来、ヘロヘロの状態が続く高野竜だが、この日の公演はときおり意識が遠のいているのではと思えるところはあったが、なんとか持ちこたえていた。この日の夜は調布市の花火大会が行われていて、上演中にたびたび、花火の音が聞こえてきた。

ドン・キホーテは作中では茄子を食べていない。にもかかわらず荻内勝之『ドン・キホーテの食卓』の第一章は「茄子から生まれた『ドン・キホーテ』」となっている。これは、いったいどういうことなのか?

古典的名作というのはおうおうにしてそういうものではあるが、『ドン・キホーテ』もその作品と主人公の知名度の高さにもかかわらず、その内容は実はほとんど知られてない物語のひとつだ。私は中学生ぐらいのときに、子供用にリライトされたものは読んだことがあるような気がする。大学生のときにちゃんと読んでみようと全訳版を手に取ったような気がするが、数十頁ぐらいしか読めなかったような気も。

『ドン・キホーテ』といえば中世の騎士道物語のパロディで、頭のおかしい老騎士ドン・キホーテが風車と戦う場面がある、くらいしか思い浮かばない。あとはあの雑然としたショッピング・センターのチェーンが、ドン・キホーテといえば一番なじみがある。バランシン版のバレエを大昔にパリ・オペラ座で見た経験もあったような気がする。いずれにせよ『ドン・キホーテ』についてのイメージは曖昧だ。

『ドン・キホーテ』の作者はセルバンテス(1547-1616、シェイクスピアの同時代人だったか)だが、『ドン・キホーテ』の設定では、この作品はラ・マンチャに住むアラビア人がアラビア語で書いたもので、それをセルバンテスが町の市場で買取り、アラビア語のできる青年の助けを借りて、スペイン語に翻訳したもの、となっているのだ。そして『ドン・キホーテ』の「真」の作者の名前も作中で言及され、それは「シデ・ハメテ・ベネンヘリ」、日本語に訳すと「茄子大好き先生」となると言う。

こういったことを高野さんは、角の朗読のあいまの短いレクチャー時間に、語った。高野が公演の中で語った内容や、騎士道物語の架空の「原典」作者としてモーロ人(アラビア人)を設定し、その名が「茄子」先生となった理由などについては、『ドン・キホーテの食卓』に記されていて、これらは意外性があって非常におもしろい。公演を見た翌日に派萩内勝之『ドン・キホーテの食卓』を呼んで、平原演劇祭の #茄子演劇の狙いがはっきり見えてきて、昨日の演劇体験はさらに興味深いものとなった。

最初に見たアニメ映画『茄子 アンダルシアの夏』で登場人物たちが食べる茄子は、マンガ『茄子』を経て、『ドン・キホーテ』の世界、茄子をイベリア半島にもたらしたアフリカを出自とする人たちにまでつながるのである。

 

otium.hateblo.jp

平原演劇祭ではしばしば上演される作品に登場する食べ物が観客に供される。食を出発点に、上演プログラムが組まれているように感じられることが多いが、今回の# 茄子演劇 も、着想の原点となったのはおそらく『ドン・キホーテの食卓』だろう。2017年のロシア革命一〇〇年祭として上演された『亡命ロシアナイト』は、平原の食事演劇のなかでも最も印象的なもの一つだが、そのときは1977年にソ連からアメリカ合衆国に亡命した2名の批評家によって書かれた『亡命ロシア料理』が上演の核となるテクストだった。平原では食卓を俳優が演じるだけでなく、その料理を作り、観客が食べるところまでプロデュースすることで、彼方にある別の土地、演劇的時空を出現させ、それを演者と観客が共有するのである。

スパークリング・ワインを飲みながら、『ドン・キホーテ』の食卓場面の朗読を続けていた角は、だんだん酔いが回って、ぐでぐでの状態になってしまった。もともと角は下戸とはいえないものの、酒はあまり飲めないのだと、twitterでつぶやいていた(もっともこの角のつぶやきも「演出」されたものである可能性もある)。最後は酔い潰れてしまうような形で、唐突に角は意識を失い、平原演劇祭の#茄子演劇は終演した。

 

 

 

2023/09/18 復活!演芸祭@東村山カフェブレッソン

  • 出演:お芝居デリバリーまりまり、出張お芝居ぷちまり、アイリッシュ・ラディッシュ
  • 場所:カフェブレッソン(東村山市久米川町4-34-15)
    日時:9月18日(月曜祝日)13時-14時40分
  • 演目:アイルランド・トラッド音楽、『北風と太陽』、『パパ、お月様取って!』、『ハーメルンの笛吹き隊』、『オレオレ詐欺撲滅演劇』

お芝居デリバリーまりまりを主宰する萩原ほたかとは知り合って10年ぐらいで、私が大衆演劇を見るようになったのは彼女のツィートがきっかけだった。彼女は当時、一見劇団の熱狂的な伝道師で、twitterでとかくいろんな人に、手当たり次第というかんじで、この劇団の公演を勧め、引き込もうとしていた。ほたかはかつては、演知る人ぞ知る著名な劇団のメンバーだった。その劇団を退団したあとは色々と紆余曲折を経たようだが、ここしばらくは亀山空という若者と「お芝居デリバリーまりまり」というユニットでさまざまな場所で演劇活動を行っている。
私は彼女のパートナーである亀山空の戯曲の公演には、これまで何回か見に行ったことはあったけれど、二人でやる「お芝居デリバリーまりまり」の公演を見に行ったことはなかった(ような気がする)。人付き合いや他者との距離のとりかたという点では極端といっていいほど不器用であるが、そうであるがゆえの純粋さや真摯さを持っているように思えるこの二人の演劇活動には、前から興味があっていつかその上演に立ち会いたいと思っていたのだが、昨日ようやくその機会を得た。

今回の公演は、お芝居デリバリーまりまりのほか、まりまりに触発された浜松の静岡文化芸術大学の学生たちによる移動劇ユニット《出張お芝居ぷちまり》、そしてこれも大学生ぐらいの若者たちによるアイルランド音楽のバンド、アイリッシュ・ラディッシュが共演し、東村山市のカフェで開催された。1時間40分ほどの時間に上演されたのは子供向けの短い芝居が三本、亀井空が書いた大人向けの短編戯曲『オレオレ詐欺撲滅演劇』で、これに加えアイリッシュ・ラビッシュによるミニライブがあった

観客は15名ほどで、その多くは若いお母さんと小さな子供たちだった。東村山駅から15分ほど歩いた場所にあるカフェでの、親密でアットホームな雰囲気のたのしい時間を過ごすことができた。

子供向け芝居はいずれも5分程度の短いもの。出張お芝居ぷちまりの二人はまだ学生というが、その動きはのびやかで美しく、小さな子供たちはすぐに彼女たちの作り出す世界に引き込まれていくのが見て取れた。アイリッシュ・ラビッシュを「笛吹き隊」とした『ハーメルンの笛吹き隊』は、会場にいる子供たちやその母親たちもその劇世界に引き込む楽しい演出があった。

亀山空の短編戯曲『オレオレ詐欺撲滅演劇』は、その余興じみたタイトルとは裏腹に、ユーモラスなやりとりのなかに、自分の存在のありかたへのとまどいと真面目な問いかけが浮かび上がる、亀山空を知っている人ならいかにも彼らしいと思えるような繊細で美しい作品だった。おちゃらけたタイトルで損をしているような感じもするけれど、見終わってみるとやはりこのタイトルがふさわしいような気もしてくる。

アイリッシュ・トラッドを演奏する若者たちは明朗で爽やかで、かつ今時の若者らしい繊細さも感じさせる爽やかな人たちだった。演奏も軽やかで、彼ら自身が音楽を楽しんでいることがよく伝わってきた。その雰囲気は観客の小さな子供たちにも伝わっているようにみえた。上演の最後は、彼らの演奏に会わせて大人も子供も踊った。

ささやかで、親密で、そして優しさに満ちた牧歌的な時間だった。互いへの慈しみが感じられるような心安らぐ時間であり、あるいは弱くて優しい人たちが世の中の荒々しさから一時の間避難するための小さな聖域のような公演だった。

萩原ほたかにとって、演劇表現とは、ギラギラとした自己顕示の場ではない。それはあまりに傷つきやすい自分を守るためのアジールだ。そして彼女は自分と同じように傷つきやすい人たちとこの小さなユートピアを共有しようとしている。彼女は演劇を通じて安住の地にたどり着いた。そして自分がたどり着いた安住の地は、彼女の周りにいる彼女と同じように不器用で繊細な人たちにも捧げられている。こんな場所を作り出すことができた彼女は演劇人としてなんて幸せな人なのだろう!そんなことを思った公演だった。

 

2023/09/18 のあんじー デス・ガイド演劇『変身』

出演:のあんじー(栗栖のあ&アンジー)@noangie0804

日時:2023/9/17(日)13時〜14時40分

場所:新世界まちなか案内所(スタート地点)〜SPACE★HOUSEのビル屋上(ゴール地点)
料金:2000円+投げ銭

4年前から活動している20代前半の同い年の女性二人のユニット、のあんじーの公演は2019年8月の第2回公演から追いかけているのだが、とりわけ昨年の「路地裏の舞台にようこそ2022」での移動劇『夜を旅した女』が私にとってはあまりにも衝撃的な演劇体験で、私は一気に彼女たちの演劇活動に引き込まれてしまった。釜ヶ崎を舞台とする黒岩重吾の初期風俗推理小説をベースとする移動劇『夜を旅した女』は、2022年に私が見た演劇作品のなかで圧倒的に印象的なもので、この公演についてはブログにレポートを記している。

平原演劇祭の高野竜の影響のもと、非劇場空間での上演活動をはじめたのあんじーだが、文学作品と個人的体験をベースにした作品を野外移動劇で行う彼女たちは、キッチュで粗っぽくいエネルギーに満ちた独自のスタイルを確立しつつある。

 

otium.hateblo.jp

今年の5月28日に六本木の喫茶「文喫」が、六本木アートナイトの深夜開催に合わせて行ったイベントで上演された、移動徘徊劇 #四象演劇『踊羅木偶』は、カフカの短編小説で言及されるなぞの生物「オドラテク」を探し求め、深夜1時から2時半にかけて六本木の街を疾走する痛快な野外移動演劇だった。これは2月に激しい失恋をした栗栖のあとこの3月に美大を卒業し、某大企業で働きはじめたアンジーが抱える苦しみと違和感が無防備に表明された優れた私演劇でもあった。スカした夜の六本木の町に、強引に割り込んで、場所を切り拓き、自分たちの居場所にしてしまう痛快な演劇だったが、この作品については時間がなくてレポートを残せていない。

昨年の『夜を旅した女』に引き続き、#路地裏の舞台にようこそ2023でも、のあんじーは野外劇の上演を行った。昨年は国道43号線、JR環状線の南側の通称「釜ヶ崎」一帯が野外移動劇の舞台となったが、今回の移動劇『変身』では釜ヶ崎から環状線を挟んで向こう側、新世界の繁華街の真ん中にある《新世界まちなか案内所》が出発点となった。彼女たちの出で立ちの姿は写真のとおり。栗栖のあはおばQのような唇メイクに黒帽子に黒上下の男装。アンジーは髪の毛を突っ立ていて、衣装は銀の「宇宙人」風(?)。
開演前に熱心なクリスチャンである栗栖のあが、この扮装で観客に生き生きと聖書の話をしている。

五月の六本木深夜徘徊劇ではカフカの短編小説「家のあるじとして気になること』をベースとしていたが、今回はカフカの『変身』がとりあげられていた。カフカ『変身』のおそらく全編が街中を移動しながら読み上げられた。『変身』に加え、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』も上演に組み込まれていた。この2作品のからみには当然何らかの意図があるはずなのだが、今のところ私にはそれがどういうからみなのかわからない。上演時間は1時間40分ほどだったが、晴天で33度の高温のなかを歩き回るのは体力的にかなりしんどかった。ずっと喋りっぱなしののあんじーの二人も、若いとはいえ相当きつかったようで、途中ポカリスエットで水分を補給しながらの炎天下移動演劇となった。暑さと人混みゆえか、幸い、昨年の『夜を旅した女』や5月の六本木での『踊羅木偶』のように全力疾走する場面がなかったのが助かった。失踪していたら私は倒れていたかもしれない。

観客は途中増減があったが、おおむね20名程度。#路地裏の舞台にようこそのスタッフ数名が上演中は常につきそい、一般の通行者たちの通路の確保などを行っていた。

《新世界まちなか案内所》からはじまり、最初のうちは新世界の通天閣近辺を回った。このあたりは繁華街で人が多い。大声でカフカのテクストを読みながら、徘徊する異装の若い女性二人とそれに付き従う20名ほどの集団は、通りがかりの人たちの注目をそれなりに集めはしたが、毒々しい新世界の賑わいのなかではあまり違和感がなく、意外に風景の溶け込んでしまったような感じもあった。

セルフ祭が開催中だった新世界市場のなかものあんじー移動野外劇は突っ切っていったが、セルフ祭の参加者自体がきてれつな格好をしている人ばかりなので、のあんじーの二人はそれにまぎれてしまった感があった。今回は炎天下での体力的にかなり過酷な行軍演劇ではあり、観光客で一杯の新世界の繁華街に切り込むという冒険はあったが、率直に述べれば、カフカの『変身』というテクストの選定、上演のなかで立ち寄った場所の意外性、そして街中演劇の「絵」としての面白さは、釜ヶ崎一帯を歩き回った昨年の『夜を旅した女』と比べると弱い。町自体のエネルギーが強烈で、のあんじーの二人が町の日常風景をむりやり切り崩していくというハプニング性が弱まっていた。新世界という場のどぎつさのなかでは、のあんじーの特異性が発揮し切れていないような気が私にはした

カフカの「変身」を選択した理由はあるはずだが、今回の上演の場やのあんじーとこのテクストの関わりというのが見えにくかったというのも、今回の公演に今ひとつ私が乗れなかった理由だ。さらに暑さによる体力消耗が大きかったというのもあるだろう。

環状線の線路と国道43号線を超え、賑わいのない釜ヶ崎の散文的な風景のなかでのほうがのあんじーの芝居が冴えていた。

空き地でのミュージカル場面、そしてハーメルンの笛吹きさながら、リコーダーを演奏しながら20名ほどの集団を狭い釜ヶ崎の路地裏へと先導していくルートの選択が秀逸だった。

エンディングは#路地裏の舞台にようこそ2023の会場のひとつであるSPACE★HOUSEのビルの屋上だった。この屋上からは釜ヶ崎一帯の風景を見下ろすことができる。エンディングでは赤い風船が空に向かって放たれた。地上の釜ヶ崎の風景と青空のなかに浮かぶ赤い風船の絵は詩的で美しかったが、のあんじー野外劇のエンディングとしては若干甘すぎるような気も私にはした。

 

2023/06/18 平原演劇祭2023 #餃子学会@宮代町進修館食堂

 

2021年の年末の崖転落事故以来、平原演劇祭主宰の高野竜さんは一気に衰弱してしまった。年齢は私とほぼ同じ50代半ばなのだが。公演ペースは依然、月に2回ぐらいのハイペースは維持されているものの、2023年に入ってからは、とにかく高野さんの身体機能の低下が著しいようだ。

©コオリヤマ氏のデザインのTシャツを今日は着ていった。そのTシャツに書いてある文句を見て、高野さんの奥さんがそれをもじり、「落ちる体力、減る体重」とつぶやいた。高野さんの健康状態について言っているのだ。

今回の餃子学会については、開催日が近づいても、現在、平原演劇祭のほぼ唯一の広報告知ツールであるTwitterの投稿があまりなかった。5月前半に予定されていた平原演劇祭が高野竜さんの体調悪化、入院のため、開催中止となった。#餃子学会についても実施されるのかどうか不安になったので、6月15日にtwitterで問い合わせた。

すると「やりますよw 私が倒れててもやりますよww」という返事がすぐに返ってきた。#餃子学会の会場の宮代町進修館は、数年前までの平原演劇祭の本拠地の一つといっていい場所で、これまで何回も足を運んでいる。宮代町のコミュニティセンターである進修館は、回廊のある半円状の独創的な設計の建築物だ。この会場の食堂で催された平原演劇祭で私が忘れられないのは、当時小学生だった娘といった2011年秋の「鰤の会」だ。私が参加した数多くの平原演劇祭のなかでも最も印象深い公演で、今回久々に進修館食堂を会場とする食事演劇が行われるということで、2011年の「鰤の会」のことを思い出した。

 

otium.hateblo.jp

「鰤の会」では、高野竜が大きな鰤を会場でさばき、それをみんなで食べた。あの頃は平原演劇祭に通い始めたばかりだった。娘は今、大学生となり、私も12年分、年を取った。そして竜さんももちろん年をとったのだけれど、この2年ほどのあいだに急速に衰弱してしまった。今日の竜さんもゆらゆら不安定に動きながら、何とか気力をふりしぼって会場にやってきたという様子を見ると、2011年の元気だった高野竜を思い浮かべてしまい、余計寂しい気持ちになった。

正午から開始すると告知されていたので、正午ちょっと前に進修館に到着したのだが、食堂は暗く、人がいない。もしかすると開始時刻を勘違いして、早く到着してしまったのかと思い、twitterを確認するが、やはり正午開始になっている。どうしたものかと進修館の敷地内をうろうろしていると、今日の出演者の最中さんがやって来た。そして正午10分ごろに高野さんがようやく現れた。赤野さんは進修館の事務所にフラフラとした足どりで向かい、食堂使用の手続きを行った。

今回の#餃子学会はそもそもtwitterでの告知があまり活発に行われていなかった。この様子では下手すると観客は私ひとりだけなのかもしれないと思ったのだが、実際には今回はここ2年ぐらいの平原演劇祭では一番盛況で、25名ほどの観客が参加した。しかしその観客の大半は、小学校低学年以下の子供とその親(父親も3名ほどいた)という平原演劇祭とはこれまで縁がなかったであろう人たちだった。

今日の餃子作りのイベントの餃子マスターは、高野さんの妹さんだ。数年前まで平原演劇祭で何回かお会いしたことがある。今日の親子連れ観客(?)は、平原演劇祭目当てではなく、高野さんの妹さん企画の親子餃子イベントということで集まった人たちだろう。twitterを見ると、「みんなのはらっぱ」という表現集団のメンバーが参加するとあったので、高野竜の妹さんがこのグループのメンバ—なのかもしれない。子供は乳児から小学校2年生ぐらいまで6−7名いた。

餃子作りは高野妹が中心となって行った。高野竜さんは、最初に「皮を作る班と餡を作る班に分けます」と説明するのが精一杯で、参加者が餃子作りに励んでいる時間の大半は食堂外にあるベンチで昏睡状態だった。

私はなんとなく餡班へ。今回の観客のなかでは、数少ない平原演劇祭常連観客なのだけど、他はほとんど親子連れなので、得体の知れないおじさんとして孤立している。まず大量のキャベツの千切りを作り、それを大鍋で短時間煮て、しなしなにする。あとはネギやニラ、調味料、ミンチと一緒にこねてこねて餡を作る。

皮班は小麦粉を捏ねて皮のもととなる棒状の練り物を作る。包むのは全員でやった。一部の餃子は海老と大葉入り。子供の握りこぶしぐらいある巨大餃子が大量に作られた。形状はばらばらだ。餃子を大勢で作ると楽しい。全部でいったい何個ぐらい作っただろうか?餃子の制作時間は1時間ぐらいかかったと思う。

餃子が大きいので焼くのがちょっと大変だった。まず餃子の皮のすべての面に焼き焦げをつけ、ちゃんと餡が熱せられるように、10分ぐらい蒸し焼きする。

餃子は自分で手作りするのが一番美味しいように私は思う。人気店の餃子よりも、なぜか家で手作りした自家製の餃子のほうがおいしく感じる。平原演劇祭の#餃子学会の手作り餃子も、見た目はバラバラで不格好ではあるが、味は絶品だった。ラー油と醤油、酢のタレにお好みで刻みニンニクを添え、さらにグリーンハリッサが、個人的には餃子の薬味として秀逸だった。巨大餃子なので三個食べるとお腹いっぱいになる。私は5個ぐらい食べてしまったが。他の参加者の方々も一人あたり3、4個は食べていたようだ。

意識を取り戻した高野竜が、ちょっと誇らしげに、そして照れくさそうに「これこそが平原演劇祭なんです」と3回ほど繰り返し言っていた。確かに新型コロナ以前の平原演劇祭では、食べ物がよく出ていて、その食べ物自体が「演劇」のプログラムの一つとなっていた。

餃子を一通り食べ終わった後、#餃子学会の締めくくりとして、最中さんが、きむらよしお作の絵本『

www.fukuinkan.co.jp

』(福音館書店)を、子供たちに時折話をふりながら、読んだ。

この絵本に出てくる餃子は、ついさっき、自分たちが作って、食べた手作り餃子とよく似ている。

餃子はすべて食べきることができなかったが、余った餃子はいくつかの袋に入れて、希望者が持ち帰った。私も数個持ち帰った。

後片付けが終わったのが午後4時半過ぎ。4時間超えの長時間食事イベントだった。

 

 

2023/03/27 第49回赤門塾演劇祭

 

毎年三月第四週の週末に、埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で行われる赤門塾演劇祭に行ってきた。今回でなんと49回目の開催となる。第47回、48回のレポートは以下に記している。

otium.hateblo.jp

otium.hateblo.jp

今年は10名の小学生(小二から小六)による『山火事のとき』(瀬田隆三郎作)、中学生11名と小学生1名による『八十八話』(山本太郎作)、そして小学生、高校生、大学生、社会人による『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)の三作品が上演された。

三作品すべて見に行くつもりだったが、開演時間を勘違いしていたため、小学生の部は見ることができなかったのは残念だった。

会場は塾の教室で広さは、学校の教室の半分ほどの広さ。客席は50席ほどで、小学生の部と中学生の部は予約制になっていた。客席は超満員の状態。通常、赤門塾OB・OGの部が最後に上演されるのだけれど、今年は取りの演目は中学生が主体の「八十八ばなし」になっていた。おそらく舞台装置の入替や片付けの都合があったためだろう。

OB・OG+小学生の部の『ゴドーを待ちながら』は意外な選択だった。サミュエル・ベケットの不条理劇というのはこれまでの赤門塾演劇祭にはなかった趣味であるし、またOB+OGの部は出演したい人も例年多いはずなので、登場人物が多い群像劇的な作品が選ばれることが多かったからだ。2020年は『どん底』の上演が予定されていたが新型コロナのため、公演中止となり、21年は感染対策のため、登場人物が二人の井上ひさし『父と暮らせば』が上演された。しかし昨年はアガサ・クリスティ『The Mousetrap』という登場人物がかなり多い芝居だった。しかし今年は新型コロナへの警戒は昨年より大幅に緩和されているにもかかわらず、登場人物5人の『ゴドーを待ちながら』である。

私が赤門塾演劇祭を見るようになった2018年が『ジョン・シルバー 愛の乞食』、19年がワイルダー『わが町』、20年『どん底』(試演会のみ)、21年『父と暮らせば』、22年『The Mousetrap』、そして23年が『ゴドーを待ちながら』ということで、毎年まったく異なる雰囲気の作品が選ばれている。作品選択の理由を、主宰・演出の長谷川優さんに聞いてみたいところだ。

これまで上演してきた作品とはかなり肌合いが異なる不条理演劇の傑作『ゴドーを待ちながら』は、赤門塾演劇祭にとっては大きな挑戦だったようで、開演前の前説で長谷川優さんが苦笑いしながら「一昨日、昨日と上演したのですが、『わけがわからない』という感想が多くて」と言っていた。私の目から見ても、俳優たちは苦戦しているなという感じはあった。かみ合わない台詞の連鎖をどう処理したものか模索しているように見えた。長谷川優さんの演出は、トリッキーな仕掛けは使わず、戯曲を丁寧に読み取って、その読解から立ち現れる世界をできるだけ、素直に、誠実に舞台化しようというものだ。『ゴドーを待ちながら』もある意味、非常に正統的でオーソドックスな『ゴドー』だったように思う。最初の場面から誰が見ても『ゴドー』の上演であることが一目瞭然だ。

ウラジーミルとエストラゴンの二人の人物の対比がよかった。ウラジーミルを演じたのは高校一年生の男の子、おそらく赤門塾演劇祭に出演するのは今回が初めてだ。それでいきなり主役なのだから大抜擢である。エストラゴンを演じた俳優は大学生の女性で、彼女はここ数年の赤門塾演劇祭で重要な役を演じている名優だ。ウラジーミルが不機嫌そうな無表情であるのに対し、エストラゴンは丸顔で愛嬌があり、くるくると表情が変わる饒舌な芝居だ。ゴツゴツとまるっこい感じのぺあになっていた。分厚い唇がめくれたウラジーミル役の俳優の、憮然とした表情が可愛らしかった。

俳優の衣装はいずれもよくできていた。ボロボロにほつれた具合などディテイルにも凝っている。ラッキー役の俳優のテクノ風の音楽に合わせたダンスは秀逸で、ダンスシーンでは、客席から大きな笑いがわき上がった。ダンスの動きもきっちり決まっていて、キレがあった。

ナンセンスな会話の連鎖の処理には苦労しているように見えた。『ゴドーを待ちながら』の登場人物はいずれも俳優・観客の感情移入を拒むような奇矯で非現実的な人物だ。意味ありげだが、意味不明でとりとめのない会話で、観客をひっぱっていくのは難しい。『ゴドーを待ちながら』はある種の詩劇であり、言葉の飛躍は詩として提示されなくてならない。全般的に会話のやりとりはギクシャクとした感じで、この作品にふさわしいリズムをつかみきれていない。単調に陥り、私は最後のほう、落ちてしまった。

ただゴドーの言葉をウラジーミルとエストラゴンに告げる少年の語りの場面は、この作品の詩情はしっかりと表現されていた。

11人の中学生と小学生1名による『八十八ばなし』(山本太郎)は思いのほか面白い舞台だった。実は今年の赤門塾演劇祭では、『ゴドーを待ちながら』より、この中学生による劇のほうが私は面白かった。

思春期前期の中学生に演劇を上演させるというのはかなりやっかいなことだと思う。赤門塾がそういう塾だということはわかって塾に来ているはずだけれど、とはいっても演劇をやりたくて赤門塾に入った子供は例外的だろうし、皆が皆、赤門塾演劇祭を通して演劇好きになるとも限らない。赤門塾演劇祭の中学生演劇は、演劇部の生徒による学校演劇とはまったく異なるものだ。

『八十八ばなし』は民話風の不条理劇だ。主要登場人物の名前が八十八で、この八十八どもは、みなろくでなしだ。それぞれ、ばくち八十八、分別八十八、外道八十八、百姓八十八、盗人八十八と呼ばれている。ばくち八十八の殺害の首謀者である分別八十八のしれっとした悪党ぶりはさまになっていた。その他の役者の大半は、棒立ちで棒読み台詞だったが、その不器用な演技が、かえって、この民話風劇の不条理な笑いを引き出していて、観客席からは何度も笑い声が聞こえた。私も何回も笑った。いまどきの中学生が、民話的虚構を演じるちぐはぐさが、笑いの仕掛けとして機能していた。なんとなくやる気のなさげな、恥ずかしそうにやってるところがいい。可愛らしい着物と舞台化粧は、彼らが異なる世界の人物となるためには、必要な道具立てであったことがわかる。

2023/02/05 劇団サム第8回公演『銀河旋律』

twitter.com

主宰:田代卓

演出:今泉古乃美

作:成井豊

出演:奈田裕哉、福澤茉莉花、岩崎かのん、岡嶋彩希、斉藤柚、森杏紗、市倉真実、尾又光俊、河野雅大

会場:練馬区立生涯学習センターホール

上演時間:60分

----------------------

石神井東中学校演劇部の卒業生が、かつて同校演劇部顧問の田代卓とともに結成した劇団サムの第8回公演は、キャラメルボックスの成井豊作の『銀河旋律』が上演された。劇団サムというとキャラメルボックスが私には思い浮かぶのだけど、成井作品の公演は今回が三回目だった。

8回目の公演となった今、劇団サムの最年長俳優は25歳になった。劇団サムは石神井東中学校演劇部顧問の田代卓が退職したあとに結成されたのだが、結成後も石神井東中学校演劇部卒業生の入団者が相次ぎ、現在では高校生から社会人の25歳までの29名のメンバーの大所帯となっている。高校演劇や大学の学生演劇、あるいはプロの劇団で演劇活動を続けている者もいるようだが、劇団サムはそうした「メインストリート」の演劇とはちがった場所で活動を継続している。学校の枠組みとは違った場所で、学校演劇的なカルチャーを維持したまま、ゆるやかに成長・変化し続けている劇団だ。

優れた中学演劇指導者だった田代卓が退職する前の2年間、私の娘がたまたま石神井東中学校演劇部に入ったことで、私は中学演劇の世界を知り、中学生が演じることによってこそ説得力と魅力を持ちうる演劇があることを知った。私は劇団サムは第2回公演から見続けている。年に一度ないし二度の公演は、あの頃、中学生、高校生だった子どもたちが、演劇とともに成長してく様子の確認の機会になっている。

稽古時間は中学校の部活の頃と比べると少なくなっていると思うのだけど、団員たちの経験と成長がその演技に深みをもたらしている。それはプロの劇団にあるうまさや味わいとは異なったもので、中学演劇の精神を、激動の思春期後期と青年期を経てもなお、しっかりと保持したまま、熟成させたような独自の魅力を放つようになった。古株の年長卒業生と中学を出たばかりの高校生が一緒に演劇を作っていくのは、簡単なことではないように思う。しかしこの学校演劇部をベースとする共同体のアンサンブルが作り出す雰囲気は、他の劇団にはみられないものだ。

第8回公演の当日パンフレットを見てまず目を引いたのは、演出が田代卓ではなく、田代の教え子の今泉古乃美になっていたことだ。劇団サムは良くも悪しくも、旧顧問である田代卓の先生としての指導力・権威のもとで、成立していた集団であり、これまで演出は田代が担当するのが常だった。今泉は劇団サムの制作面の要だったが、自身も中学校教員として勤務するようになり、劇団の活動を引き継ぎ、続けていこうという覚悟を決めたようだ。聞けば劇団サムで演出を担当するのは、これが二回目とのことだった。

『銀河旋律』は上演時間60分の短い作品だった。Wikipediaの記事によるとキャラメルボックスのハーフタイムシアターの嚆矢となった作品で、何度も再演を重ねた人気作だったようだ。『銀河旋律』は「タイムスリップ」もので、恋敵が過去に介入にしたことにより、現在の恋人の関係が消滅しそうになっていることに気づいた主人公が、自身もタイムトラベルで過去に介入することで現在の改変された状況を修正し、恋人との関係を取り戻そうとする物語だ。

再演を重ねた人気作で、高校演劇などでも頻繁に上演された作品だそうだが、脚本上の設定の仕掛けが強引すぎるように思った。例えば「過去を改変されたとき、当事者が突然めまいに襲われる」とか、「過去が改変された直後の一時間は、現在の記憶が維持される」とか、時間管理局という時間旅行センターの存在であるとか。藤子・F・不二雄の「少し不思議」なSF的を想起させる作品だが、生身の人間である俳優がこれを再現するとご都合主義の子供っぽいお話に思えてしまう。それでもこの作品が人気があるのは、失われつつある恋を取り戻そうとする主人公のけなげな奮闘ぶりに共感し、そのスリリングな展開に引き込まれる若者たちが多いからだろう。

戯曲のもう一つの大きな難点が、現在と過去のいくつかの時点を行き来する展開ではあるけれど、出てくる人物が同一なので、今展開している場ががいつ時点のことなのか、どういうタイミングで過去への介入が行われているのか、過去の改変の結果、現状がどうなってしまっているのかが錯綜していて、わかりにくいことだ。劇団サムの公演では、登場人物の服装を変えることで、どの時点の話しが展開してるのかを示そうとしていたようだったが、正直なところ、服装の違いが時の違いを示しているだろうことに私が気づいたのは見ていて大分たってからで、展開をしっかりと把握できないところがあった。舞台上の会話はテンポよく、発声も明瞭で、演技には細かい工夫はあったけれど、主要登場人物の声のトーン、リズムが似通っていたところもあり、単調で眠たくなってしまった箇所がいくつかあった。

前説で『銀河旋律』本編のタイムスリップねたが巧妙に組み込まれ、本編の予告編となっているのと同時に、観客への注意がコミカルに行われる趣向はよかった。主要登場人物の四名は、劇団サムの「ベテラン」が担当した。上に書いたようにプロの俳優とは質的に異なるうまさと味わいがあった。岩崎かのんは、前から印象に残る俳優の一人だった。今回は主役ではなかったけれど、明瞭な発声と、そしてとりわけその優雅が手の動きや表情の変化などの身体表現で、その存在感を示していた。福澤茉莉花はこの作品のヒロイン役にふさわしい愛らしさがある女優で、恋人との関係の変化への気付き生じる戸惑う様子などの心理表現がよかった。主人公の柿本を演じた奈田裕哉は、ぬぼーっとした感じの大男だが、どこかもっさりした雰囲気が人気アナウンサーの安住紳一郎を何となく思わせなくもない。量の多い台詞をちゃんとコントロールできていた。全体的に方眼紙のマス目を一つ一つ丁寧に塗りつぶしていくような、きっちりと組み立てられた芝居になっていた。

演じている最中の俳優からも、そしてカーテンコールでの俳優やスタッフたちの様子からも、演じることの喜び、仲間と集い、作品をつくることの楽しみが感じ取ることができるのが、見ていて気持ちがいい。

モントリオールのコリアン

 2023年2月に10年ぶりにケベックに行く。私にとっては2度目のケベックだ。予習もかねて、前から気になっていた韓国ドラマ『トッケビ』をNetflixで見始めた。このドラマの舞台がケベック市なのだ。『トッケビ』を見ていると、10年前にケベックに行ったときに会った韓国人のことを思い出した。以下の文章は2014年に書いたものだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。
 私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、マリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国系カナダ人ということになる。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。
 「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
 「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。
 別の機会にマリーさんに再びカナダ移住について聞いてみた。
 「あなたが移住したころ、韓国の若い世代のあいだでカナダ移住は一種の流行だったのですか?」
 「そう、韓国では不況が続いていたので、カナダへの移住を私たちのように考える人は多かった。私たちは本当はアメリカに行きたかったのだけれど、アメリカはなかなか受け入れてくれそうになかったし」
 「知り合いがカナダにいたのですか?」
 「知り合いは誰一人いませんでした。でも何とかなるだろうと思っていた。実際にはカナダについてからのほうが大変だったけど。とにかく仕事を見つけるまでが本当に大変でした」
 
 失礼な話なのだけれど、実は私は海外移民というと戦前、戦後の日系移民やパリにやってくる中国系、アラブ・アフリカ系移民のイメージが強くて、祖国では恵まれない貧困層の人たちが先進国の大都市に移住して活路を見出すというイメージがあった。もちろん経済的に成功して、裕福な生活を送っていれば、海外移住は考えないと思うのだが、韓国人や香港人のカナダ移住には、私の抱いていたステレオタイプとは異なる背景があるようだ。
 
 マリーさんのフランス語は、他の韓国人とも異なる独特の訛りがあった。英語訛りでもない。ぺたぺたとした独特の響きで、ゆったりとこちらを説得するようなリズムがあって、私はその話し方が好きだった。授業中によく発言する人だったが、その独特の抑揚を持つフランス語を注意して聞いてみると、文法的に非常に正確なフランス語を彼女が話し、かつ語彙も豊かであることに気付いた。彼女はトロントで小学校の低学年の子供にフランス語を教えているというが、そのフランス語には教養が感じられた。
 「あなたのフランス語は私の話すフランス語よりよっぽど正確だし、それに語彙も豊富ですね」
と聞くと、次のような答えが返ってきた。
 「ありがとう。私は大学ではフランス文学を勉強していたのです。大学を出たあとは、日本にもこういった学校はあると思うのだけれど、通訳・翻訳者養成の学校に行っていました」
 「結婚して、子供が生まれてから、フランス語の勉強を10年くらい中断していました。カナダに移住したとき、トロントは英語圏なので、英語を一緒懸命、勉強しましたが、フランス語の勉強も再開しました。私はフランス語のほうが好きなんです。一年ほど前から仕事としてフランス語を教えることができるようになって、本当に嬉しく思っています」
 彼女の夫は経済学の研究者でカナダに移住する前は、大学の非常勤講師だったそうだ。韓国でも大学の常勤ポストを得るのは非常に難しく、それで韓国での研究者としての将来に見切りをつけて、カナダ移住を決意したとのこと。ただカナダでの職探しは想像していた以上に大変で、彼女の夫は現在、郵便局で働いているとのことだった。
 
 研修期間中にモントリオール大学の書店で私は、モントリオール在住の韓国系ケベック人作家であるウーク・チョングの自伝的小説、『コリアン三部作』を偶然手に取った。在日コリアン二世の母を持つ彼は横浜の中華街で生まれたが、2歳のときに家族でカナダのケベック州に移住した。フランス語圏で教育を受けた彼の第一言語はフランス語となり、この小説もフランス語で書かれている。『コリアン三部作』の第二部のタイトルは「キムチ」であり、韓国との繋がりを失った彼が韓国系としてのアイデンティティのよりどころとしているのが家族の食卓に必ず上がっていたキムチであることが記されていた。私はマリーさんに尋ねてみた。
 「キムチはトロントに住む今でも食卓に欠かせないですか?」
 「私と夫にはキムチは不可欠。でも息子たちはそうでもない。なくても平気みたいです」
 「息子さんもフランス語を勉強しているのですか?」
 「上の息子はカナダに来たときには中学生だったので、英語を学ぶのが精一杯でフランス語は全然できない。今、高校生の下の息子はフランス語を勉強しているけれど、あまり熱心には学んでいない。モントリオールにある英語系大学、マギル大学の医学部に入るって言っているけれど、成績から考えると無理だろうな」
 
 韓国からやってきた大学教員に、マリーさんがモントリオールの大学生を指しながら
 「ねえ、韓国の学生たちも今はあんな感じで自由で楽しそうな学生生活を送っているかな? 私たちのころは、受験勉強ばかりで窮屈だった」
と聞いたことがあった。韓国の先生は、
 「韓国は受験も大変だけど、学費も高いから、大学に入っても学生はバイトと勉強で本当に大変よ」
と答えていた。
 
 研修中、韓国人同士は当然韓国語で話をするのだけれど、マリーさんは韓国人に話しかけるときも常にフランス語を使っていた。韓国人の先生もごく自然にフランス語で返す。こうしたやりとりを見ていたので、私は最初のうちはマリーさんが韓国語が不自由な二世ないし三世移民だと思っていた。3週間の研修の全プログラムが終了した日、私は韓国人グループにくっついてモントリオールの町を歩いて名残惜しんだ。マリーさんも一緒にいた。
 マリーさんはそれまで韓国人ともずっとフランス語で話していたのだけれど、最後の夜の食事をベトナム料理屋で取っていたとき、気が抜けたのか韓国人グループは韓国語で雑談をはじめ、マリーさんも韓国語で会話していた。研修の全プログラムが終わった解放感と疲労で私はぼーっとしながら、韓国語の会話の音を聞いていた。マリーさんが後で気を使って
 「ミキオ、ごめん。私たちはカナダのチップの習慣について話していたんだ。私は実はチップについては多く取りすぎだと感じている」
 とフランス語で説明してくれた。

2022/12/25 平原演劇祭2022第23部 #ロシア周辺ナイト

  • 日時:2022年12月25日(日)17時-19時半
  • 場所:目黒区烏森住区センター調理室
  • 演目:「わらのうし」 「天窓の麻」 「酋長の子」 ゼアマ(モルドバ料理)「ねむりながらゆすれ」
  • 出演:高野、ひなた、青木祥子、吉水恭子_____________________________________

平原演劇祭は高野竜個人によって企画・実現される芸能のようなものだ。いや芸能というよりは、前に既に書いたかもしれないが、小学校などで非公式の学校行事としてクラスで行われる「お楽しみ会」を私は想起する。「お楽しみ会」と言うと高野竜はもしかするとあまり愉快ではないかもしれないが。しかし日本の学校文化そのものに芸能的な性質があるのかもしれない。

  • 新型コロナ流行以降、平原演劇祭の開催はそれまでより頻繁になったが、とりわけ昨年末に高野が崖転落事故で脳挫傷の重症を負って以来、この2022年は二週間に一度のペースで公演を行っているのだから尋常ではない。ときに昏倒し、ときに嘔吐しても、高野はこの異常なペースでの公演に固執している。twitterでしばしば高野自身がつぶやいているが、高野は自分の活動期間がもうそれほど長くないことを覚悟しているのだ。2022年にはさらに大晦日に「まつもうで」演劇が予告されている。
  • 今回は水道橋の宝生能楽堂で能「キリストの復活」を見ていたため、平原演劇祭2022第23部の会場に着いたのは17時半だった。今回の上演はすべて一人語りだ。高野は数日前まで入院中だし、入院していないときもへばっていることが多いということで、高野から作品を割り振られた出演者がそれぞれ一人で稽古したものが上演された。高野が朗読したらしい最初の演目「わらのうし」は既に終わっていて、ひなたによる「天窓の麻」が上演中だった。
  • 「天窓の麻」は、『アラル海鳥瞰図』のなかの一エピソードだ。突然家を訪問してきた見知らぬ若い男性に、麻の苗を託された女性の語りだ。2019年11月に寒風にさらされる工場の廃墟のような場所で『アラル海鳥瞰図』が上演されたとき、「天空の麻」を演じていたのは誰だったか、思い出せない。ほぼ野外と言っていい2019年の上演のときと、屋内でひなたが演じるこの作品の雰囲気はまったく異なるものだった。

  • 黄昏時のような薄いオレンジの光に照らされて語るひなたが語る「天空の麻」は柔らかで穏やかに感じられた。「天空の麻」の語りが終わると、青木祥子がそのままシームレスに中央に現れて次の作品「酋長の子」を語り始めた。

  • 「酋長の子」は北海道出身の作家、長見義三(おさみぎぞう)によるアイヌの荒くれ者を主人公とする短編小説だ。この小説の内容はどういうわけか頭に残っていない。アイヌが「ロシア周辺ナイト」のテーマとどう関わっているのかも私にはわからなかった。

  • 「酋長の子」のあとは、食事タイムとなった。モルドヴァ料理のゼアマが振る舞われた。
  • ゼアマは鶏の手羽先と「もみじ」と呼ばれる脚先をぐつぐつと煮込み、そこに大量のレモン汁を注ぐ、というシンプルな料理だ。塩で味付けもしない。臭みは全然なかった。鶏から出るだしとレモン汁だけで、けっこういける。もっとも私はやはりちょっと塩を入れたくなった。そしてディルを散らすと見栄えも香りもよくなる。このゼアマは参席者はみな気に入ったようで、すぐになくなってしまった。
  • ゼアマの食事会のあとは、吉水恭子による「ねむりながらゆすれ」がはじまった。今回上演された戯曲ではこの作品が一番長かった。40分ぐらいあったように思う。モルドヴァで生まれ、その後、モルドヴァとロシアの支援のもとモルドヴァから独立しようとした沿ドニエストル共和国との戦争に巻き込まれ、どういう経緯か日本にたどり着き、その後、ウクライナでの農業事業に携わることになった女性の半世紀だ。四つの場面で構成される。
  • この作品はこれまで何度か私は見ている。最初に見たときは、トランスリトアニア戦争や沿ドニエストル共和国の存在を知らなかったし、各場でいったい何が起こっているのかまったく意味不明だった。今回はようやくすべてのエピソードがつながり、さまざまな苦難を経て、最後に故郷の黒土で幼少期の平安を取り戻す女性の姿が浮かび上がってきた。吉水恭子の語りは、各局面の主人公の年齢や状況、語りのテキストの性格の違いを、丁寧に語り分け、一人の人物を組み立てていた。
  • 観客は7名だったらしい。穏やかで仲間内の親密な空気に満ちたクリスマスの夜のイベントだった。