

















【作】コナー・マクファーソン
【翻訳】髙田曜子 【演出】桐山知也
【出演】 伊勢佳世 上村 聡 田中穂先 長谷川朝晴 山崎 一
【劇場】下北沢ザ・スズナリ
【上演時間】2時間
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アイルランドの劇作家コナー・マクファーソンの『The Weir 堰』は、2021年9月に上演された劇団昴の舞台が印象に残っている。東武東上線の大山駅近くにある小さな劇場での公演だった。まだコロナ禍のさなかにあり、本当にひっそりと身をよせあって芝居を観た感じだった。先ほどネットで確認すると、演出は小笠原響だった。当時の私は小笠原響のことを知らなかったが、終演後、夜の道を、しみじみと芝居の余韻を味わいながら歩いたことを覚えている。
劇壇ガルバの公演は今回が初見である。アイルランド演劇は私の大好物なのだが、昴の公演の印象がよかっただけに、かえって見に行くかどうか迷った。私が信頼しているとあるシアターゴアーの方の絶賛を知り、チケットを急遽予約した。
劇壇ガルバの『The Weir 堰』、絶品だった。見に行ってよかった。この種の芝居が好きなひとなら大満足すること間違いなしの、芝居のツボを「わかっている」舞台だった。下戸の私がこんな表現をするのもなんだが、熟成がほどよく進んだウィスキーをじっくりと味わうような舞台になっていた。
舞台はアイルランドの田舎町のパブである。強い風の音が聞こえる。パブの常連客二人とバーテンがいつものようにたわいのないやり取りをグダグダとしていると、ダブリンからこの町に引っ越してきた美しい女性を伴って、地元出身の不動産屋がパブに入ってくる。この女性が住むことになる空き家の話題から、三人の男たちがそれぞれ、嘘か本当かわからない、妖精や亡霊が登場するいかにもアイルランドらしい幻想譚を語りはじめる。酒を飲みながらの三人の語りは、図らずもダブリンから来た女の語りを引き出すことになる。女は、この土地に移り住む契機となった悲しい出来事を語りはじめる。こうして4人の人物の「語り」が劇中劇のように提示されていく。強い風の吹く夜、薄暗いパブでの語りのなかで、ここに集う人々が抱える孤独や後悔、喪失が浮かび上がってくる。
この町に設置された「堰」は語りのなかで言及されるが、これはメタファーでもある。堰にせき止められ、よどんでいた水が、堰の決壊とともに一気に放出されるように、ダブリンの女が抱えていた深い悲しみと後悔があふれ出す。語りは彼女を解放する。パブの常連たちは女の語りを静かに受け止める。その優しさが、パブを寂しいけれど、あたたかい場所として満たしていく。
まず各俳優の語りの技術が素晴らしい。かなり長い一人語りであり、これがしっかりできていないとこの作品は成立しない。その語りは細部まで精緻にコントロールされ、観客を語りの世界に引き込んでいく。照明と音響も語りと連動して、絶妙のハーモニーを作り出していた。私だけでなく、周囲の観客が語りの世界にすーっと引き込まれていくのを客席で感じた。私たちがあのアイルランドの夜のパブに居合わせているかのような、そんな芝居だった。
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始まって数分で、主演のロザムンド・パイクの俳優としての卓越した能力に引き込まれてしまう。恐るべき演技力だ。そして脚本も素晴らしい。
まだ一月始めだが、この作品は今年見た舞台のベストに入るのは確実な傑作。以下、作品の内容に踏み込んだことも書いているのでご注意を。
100分を超えるこの作品で彼女は常にステージに立ち、話し続けている。法曹キャリアの頂点に立つフェミニストの判事であり、一人息子を溺愛する母親でもあるジェシカの視点から、劇的世界は形作られる。彼女はあまりに、どうしようもないほど、誠実なフェミニストであり、判事であり、妻であり、母親であった。
狂騒的であわただしい日常に振り回されるADHD的な彼女のキャラクターがクローズアップされた喜劇的前半から、後半は一気に緊迫し、最後まで息を呑む展開となる。倫理的な正義感と職業的良心、そして親子関係の情愛のあいだの葛藤を厳しく突きつけられる圧倒的なドラマだった。
性的同意、相手へのセックス了承の確認がこのドラマの重大なポイントとなる。セックスする前に、相手に同意の確認を取ること。今では互いの安全と安心のためのマナーとなっているようだが、自分の子供にこうした性に関わる話題を語ることができるだろうか?ジェシカはジェシカなりに伝えていた。しかしそれは結果的に十分なものではなかった。
性は極めてデリケートな問題である。性によって成立した関係であるからこそ、なお一層、親子の間でセックスについて踏み込んだ会話をすることは、《普通は》難しいのではないか?親子だからこそ、性の話からは目を逸らしていたい。むしろ、性というものを意識化させてしまうと、家族であることが難しくなってしまうような気さえ私にはする。
親子というのはそれほどわかり合えているわけではないし、なんでも話せるというわけではない。肉親だからなんでも話せるなんて嘘ではないか?むしろ肉親だからこそ話しにくいこと、話せないことは多い。性は、少なくとも私にとってはそうした話題の一つだ。性によってしか成立しない家族内における逆説的なタブーである。
私はエロ話、猥談の類は個人的には大好きなのだが、自分や身近な人たちの性に関わる体験を話したり、聞いたりすることには非常に大きな抵抗感がある。いわんや家族ならなおさらだ。性は淫靡で恥ずかしく、自分の欲望を晒すやましさがあるからこそ、素晴らしいものであるという感覚も強い。
この作品を見ると、自分の子供が性加害者となってしまったとき、自分はどう対応できるだろうかと考えざるを得ない。おそらく自分がジェシカの立場だったとき、倫理的に正しい道を選択できる人は少ないだろう。これは性的な問題に限らず、自分がこれまで見知ったいくつかの事例からしてそう思う。
自分はどうか?これはいいカッコではなく、私はそれで身近な人間が傷つくことになったとしても、正しい道を選択するだろう。欺瞞を抱えながら生きることの方が、私にははるかにしんどいことだから。しかしそれが人として本当に正しいかどうかはわからない。自分だけ正しく美しい選択をして、他の人たちを苦しめるのは単なる独善ではないかという考え方もある。欺瞞を抱えつつ生きるというのは、それはそれで大変しんどいことなのだから。
そうした問いを投げかける作品だった。
埼玉県の宮代町郷土資料館の敷地内に、30年ほど前に移築されたという「旧加藤家住宅」での上演だった。ここは2001年から始まる平原演劇祭の原点とも言える場所であり、長きにわたる上演活動の拠点でもあった。私もこの会場での上演には、これまで何度も立ち会っている。
その旧加藤家住宅での公演が、今回で最後になるという。建造物保護のため、来月からは不特定多数が出入りするイベント等での使用ができなくなるからだと聞いた。 今回の公演予告は、平原演劇祭としてはかなり早めの5月になされていた。「平原演劇祭ウォッチャー」を自認する私としては、この演劇祭のシンボルともいえる旧加藤家住宅での最終公演には、なんとしても立ち会わなければならないと思った。
上演演目は二編。一編は昨年9月にも上演された『平文(ヘブン)』、もう一編は宮代町出身の英文学者・島村盛助の訳による、J.M.シング作『海へ騎りゆく者たち』だ。 この島村訳は大正10年(1921)のもので、シングの翻訳として著名な松村みね子(片山広子)のものより早い。ネットを検索してみると、主宰の高野竜さんが2018年の時点でこの翻訳に言及していたことがわかる。
【速報】
旧加藤家住宅 最 終 公 演 は
11/24(月祝)
「平文」(再演)
シング「海へ騎り行く人々」(島村盛助訳、本邦初演)
に決まりました!!#平原演劇祭 pic.twitter.com/OYN4CmNtGG
— 竜 РЮ Афанасий 🇺🇦 (@yappata2) 2025年5月15日
観客は10人ほどであった。
最初に上演されたのは『平文』。出演者は昨年の公演にも出演した北條風知と角智恵子に加え、なかでの語りは高野竜の妻である高野幹子が行った。ここしばらく体調が優れない様子の高野も、一応なんとか挨拶と締めの語りを行う。 『平文』は、宮代町にある埼玉県最古の教会「和戸キリスト教会」が設立されるまでの経緯を劇化した作品だ。この教会の歴史については、和戸教会のウェブページにも詳述されている。

上演会場は、埼玉県の宮代町郷土資料館の敷地内に、30年ほど前に移築されたという「旧加藤家住宅」だ。ここは2001年から始まる平原演劇祭の原点とも言える場所であり、長きにわたる上演活動の拠点でもあった。私もこの会場での上演には、これまで何度も立ち会っている。
その旧加藤家住宅での公演が、今回で最後になるという。建造物保護のため、来月からは不特定多数が出入りするイベント等での使用ができなくなるからだと聞いた。 今回の公演予告は、平原演劇祭としてはかなり早めの5月になされていた。「平原演劇祭ウォッチャー」を自認する私としては、この演劇祭のシンボルともいえる旧加藤家住宅での最終公演には、なんとしても立ち会わなければならないと思った。
上演演目は二編。一編は昨年9月にも上演された『平文(ヘブン)』、もう一編は宮代町出身の英文学者・島村盛助の訳による、J.M.シング作『海へ騎りゆく者たち』だ。 この島村訳は大正10年(1921)のもので、シングの翻訳として著名な松村みね子(片山広子)のものより早い。ネットを検索してみると、主宰の高野竜さんが2018年の時点でこの翻訳に言及していたことがわかる。
【今日の驚き】
— 竜 РЮ Афанасий 🇺🇦 (@yappata2) 2018年6月13日
我が宮代町の島村盛助氏だが、シング「海へ行く騎手」のどうやら本邦初訳を(松村みね子に先んじて)やってたらしい。まじかよ。そんなん上演するよ俺!(゜д゜) pic.twitter.com/n0ndYmux7N

観客は10人ほどであった。
最初に上演された『平文(ヘブン)』の出演者は、昨年の公演に出演した北條風知と角智恵子、これに加え、なかでの語りは高野竜の妻である高野幹子が行った。ここしばらく鬱病のためか、気力/体力が落ちている高野も一応なんとか挨拶と締めの語りを行う。『平文』は宮代町にある埼玉県最古の教会「和戸キリスト教会」が設立されるまでの経緯を劇化した作品だ。この教会の歴史については、和戸教会のウェブページに記されている。

初演を昨年見ている私には、再演となる今回はやはり内容が入りやすかった。 形式的には「能」のパロディになっている。暴落した蚕・絹糸の交渉で横浜へ行った宮代町の名主が、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンと出会い、キリスト教を知って地元に伝えるまでを「能」のように演じ、その後の教会建築までを写実と様式が入り混じる「狂言」風に演じて見せる。明治の混乱期、人々がキリスト教に感じたであろう希望がどのようなものであったのかを描き出す芝居であった。 上演は、かつて実際に蚕の飼育が行われていた土間に接する玄関にて行われた。40分ほどの作品である。


休憩を挟み、今度は住宅の縁側で、J.M.シングの『海へ騎りゆく者たち』が上演された。 この上演がなかなかの難物であった。始まってから20分ほどは、老婆を演じているらしい青木、可愛らしい王子様のような服装の杉原、仮面を被った角の3人がいったい何を演じているのか、さっぱりわからなかった。 角が一人で数役を演じていることは察せられたが、人物の区別がつかず、仮面での演じ分けも曖昧である。「マイコー」など外国人風の名前が聞こえてくるが、なぜ唐突にカタカナ名の人物が出てくるのかも分からない。20分ほど戸惑いながら、ただ眺めていた。

ようやくそれがアイルランドの劇作家、シングの『海へ騎りゆく者たち』であることに気づいたのは、公演予告にあった演目名を思い出したからである。シングが大好きな作家であり、私は戯曲の内容を知っていたので、アラン諸島で漁に出た男たちが次々と遭難死し、それを嘆く女たちの話だと理解して舞台展開を追うことができるようになった。


しかしこれは、原作を知らなければ最後まで何が行われているのか、何の話なのか、ちんぷんかんぷんだったのではないか。なんという独りよがりの芝居公演だろう。 ま、それでいいのだけれど。 晩秋の夕暮れ、古民家の庭に柔らかい陽光が注ぐなか、訳の分からないものを見てぼんやり過ごす。これはこれで、悪くない時間の過ごし方ではないかとも思う。
実は今日上演されたシングの翻訳が、宮代町出身の英文学者、島村盛助によるものだったことに気づいたのは、上演終了後の帰宅途中だった。


古民家の前に建っている郷土資料館に島村の業績の展示があったことを思い出す。和戸教会の最初の建物にあったステンドグラスも郷土資料館に展示してある。
古民家の前に建っている郷土資料館に、島村の業績に関する展示があったことを思い出す。そういえば、和戸教会の最初の建物にあったステンドグラスも郷土資料館に展示してある。
今日の2本の公演は、平原演劇祭の原点である宮代町、そしてこれまで21年にわたって平原演劇祭の上演に協力してくれた宮代町郷土資料館に捧げられた、オマージュになっていたことに終演後、だいぶたってからようやく気づく。高野竜らしい、そして平原演劇祭にふさわしい感謝の気持ちの表明ではないか。
私もここで見た平原演劇祭の公演のことを、このレポートを書きながら思い返した。

岸本さんは「アミューズメントパークで行われているアトラクションとスタッフの関係性は、そのアトラクションやエリア全体の世界観を言葉での説明ではなく、その世界観の住人としての演劇を行うことで感覚的にテーマパークのお客さまに伝えており、そのアトラクションとスタッフの関係性を、美術作品と役者に置き換え、パークではなくハウスで行うのでテーマハウスとした」と話す。(『吉祥寺経済新聞』
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平原演劇祭の高野竜さんが出演するということで見に行った《テーマハウス》だが、リニューアル工事が予定されている古ぼけた民家を会場とするインスタレーション・アートのようなものだった。各部屋では展示された作品にちなんだ演劇的パフォーマンスも行われるという。場所は吉祥寺駅からバスで20分というかなり行きにくい場所である。率直に言ってかなりどうしようもない、唖然とするようなアート・イベントではあった。
チケット予約のときから悪い予感はあった。11時から19時までがオープン時間(うち13-14時までは休憩)とあったが、予約するときに訪問時間を指定しなくてはならない。それが二〇分単位となっている。演劇的パフォーマンスがあるというのに20分?とまず思った。しかも予約時刻が15時だった場合は15時20分までに退室せねばならず、仮に予約者が遅れて15時15分に到着した場合は、5分後には退室しなければならないとある。数部屋で展示/パフォーマンスが行われるとあるのに、20分で鑑賞を完結させることができるのかどうか疑問に思った。そもそも演劇的パフォーマンスである限り、一定時間以上、その場でパフォーマンスに立ち合わなければならないと思うのだが、各パフォーマンスの上演内容も時間もわからないのだ。なおこの20分退場制については、パフォーマーにもしっかりと伝えられていなかったようだ。私は20分枠二コマをとりあえず予約した。ちなみに料金は20分一コマ1000円だった。

会場はけっこう不便なところにある。Google mapの指示に従って、私は吉祥寺駅からバスに乗った。20分ぐらいは乗車したと思う。会場はごくふつうの古びた一軒家だった。私は15時に予約していた。14時50分ごろに会場に到着すると、入り口にいたこの《テーマハウス》の企画/演出の岸本悠生氏から、「今、入れませんので、待っててください。14時55分になれば案内できます」と言われる。
「待つって、この家に前で?」
「近くにコンビニがありますので、そこででも」
暑かったのでコンビニで5分ほど時間を潰した。
《テーマハウス》入場時には、岸本氏からA4一枚の企画概要を記したプリントを渡されて、
「ここに書いてあるとおりなんで、適当に各部屋を回って下さい。中にいる俳優に話しかけたりしても構いません」というごく短い説明があった。
文字フォントが4ポイントぐらいか?、老眼の私には厳しい大きさだ。まあ、若いからこの手の気づかいがないのはしかたない。

40分の「制限時間」なので、せめて高野竜さんのパフォーマンスだけはちゃんと見ておきたいと思った。とりあえず入ってすぐ左手にある扉を開くとそこは脱衣場とユニットバスだった。風呂桶にはうらぶれたおっさんが座っていてぎょっとする。高野竜さんだった。
「お客さん入りました」という建物入り口で岸本氏の声が聞こえた。
高野さんがテクストを読み始める。長編小説の途中からだ。ニューヨークの地下の暗渠を探索していると、骨があってうんぬんという話だ。



風呂場なので冷房もない。暑い。こんな暑くて息苦しい場所で、浴槽にはめ込まれたような姿勢でひたすら小説を読みあげる高野竜さんとマンツーマンというのは、濃厚すぎる。高野さんはひたすら読んでいる。脱衣場には写真のような抽象画が吊されていたが、どおってことのない作品ではないか。高温多湿の浴室での高野さんのエンドレスの朗読とこの抽象画の組み合わせ。15分ほど聞いていたのだが、語りの内容は全然頭に入って来ない。若い女性二人組が入ってきたのを幸いに、この浴室部屋から出た。

一階のもう一つ部屋、おそらくキッチンだったところには、上の写真にあるようなついたて状オブジェがどーんと置かれていた。高野さんは「圧巻だ!」と称賛していたが、私には何がすばらしいのかわからない。「圧巻???」という感じ。この部屋にはパフォーマはいなかった。
展示ではこれが圧巻。環境を際立たせる能力があるというかキッチンに合っている。齋藤美帆さん。演者なし。 pic.twitter.com/Oz2FWDpLEx
— 竜 РЮ Афанасий 🇺🇦 (@yappata2) 2025年8月9日
狭い階段を上がって二階に上ると、二階には四つの展示スペースがあった。


最初の部屋には、林の田舎道を描いた具象画とがあり、その前で佇むラフなかっこうをした男性がいた。彼がどうやらパフォーマーらしい。最初は四つの部屋を黙って回ったのだが、せっかく遠くまでやってきて2000円払っているのに、とりたてておもしろみもないインスタレーションを見ただけで帰るのはバカみたいだと思い、この男性に話しかけてみた。
「なにやってるんですか、ここで?」
「いやあ、朝の散歩を」
「あの林の道を散歩しているという体ですか?」
「……」
「なんか面白いことやって、びっくりさせてくださいよ」
「……」
彼は困惑していた。観客に話しかけられることは想定していなかったのか。
二番目の部屋では、細長いスチール(?)でできたオブジェが二つ並べてあって女性がそこでうろうろと動き回っている。

「何をしているですか?」
「掃除です」
「このオブジェはなんですか?」
「あ、それは椅子なんですよ。ちょうど列車が出たところで。それでホームにある椅子を」
「椅子だったら、ここに私が座ってもかまいませんか?」
「あ、大丈夫ですよ」
大丈夫じゃないだろう。ちょっと座りかけたら、そのオブジェが大きくたわんだ。
三つ目の部屋では写真のような絵画が壁面にあり、その前で小柄な女性が跪いてなにかを組み立てるような動作をしている。


「何をしているんですか?」
「積み木を組み立てているんです」
「積み木なんてないじゃないですか?」
「いや、ありますよ、ほら」
「あなたは子どもという体なんですか?何歳ですか?」
「10歳です」
「なるほど」
彼女はせっせと見えない積み木を組み立てる動作をしていた。


四つめの部屋には戸棚のような場所に写真のような女性が無表情に座っていた。絵はカラフルな抽象画だ。私が絵の前に立つと、彼女は戸棚から身を起こし、私の横で絵を眺めたあと「ほう、これは○○だ」とかなんか言って、また戸棚に戻った。
彼女に「いったいなんと言っていたのですか?」と尋ねたけれど、彼女は私に視線を返すこともなければ、返事もしてくれない。そういうキャラクターとなっているのだろう。
会場に入るときにくれた「当パン」には、「テーマパークの仕組みであるコンセプトを元に製作された事物とその事物のコンセプトに沿った世界観を演じるキャストという仕組み」を展示会に転用したとあるが、展示されている作品のメッセージもそれを具現しているとうキャストも、私には意味不明だった。
こうやって写真入りでその様子を記述すると面白そうに思えるかもしれないが、企画者の意図通りに面白いと思えるようなものではない。メタ的な観点から批評すると面白いともいえるが、これは企画者、作家、パフォーマーにとっては本意ではないだろう。
東京ディズニーランドやUSJの仕組みを転用し、美術の社会教育を目的とていると「当パン」にあった。つまり前衛芸術のテーマパーク化、それゆえ企画タイトルが「テーマハウス」となっている。
しかし実際の展示は、ディズニー、USJなどのテーマパークに寄せたというよりは、やる気の乏しい高校の文化祭のお化け屋敷といったかんじの粗っぽい、素朴なインスタレーション・アートだった。こういう表現が表現としてごろっと無造作に、ある種の確信をもって投げ出されているというのは、ホラーっぽいとも言える。まさにお化け屋敷。しかし「展示」されていたもので、最も私をギョッとさせたのは、蒸し暑い浴室で朗読する高野竜さんだ。あれはびっくりする。

結果的には、そのつきぬけたひどさゆえに記憶に残るアート・イベントでもあった。清々しいほどひどいというか。私は私なりに楽しむことができたので、よしとしたい。こういう見世物は滅多に見られるものではない。
のあんじー×まぼろし🐼ぽいぽい『 サイケ人形の家 』
🐼🩷 告知 🩷🐼
— のあんじー🌰🥕 (@noangie0804) 2025年6月27日
のあんじー×まぼろし🐼ポイポイ#のぱんじー
『 サイケ 人形の家 』
原作 - ヘンリック・イプセン
時 - 8/2(土) 19:30-21:00
於 - ART SPACE BAR BUENA
1000円+1D+投げ銭
パンダと一緒にイプセンをやります!呑みながら観れるバーでの芝居です🍸Psychedelicに溺れよう🐼 pic.twitter.com/v5JZXztz33

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野外劇女性デュオ・ユニット、のあんじーは今回はパンダの着ぐるみのパフォーマー、まぼろし🐼ぽいぽいとの共演だった。明示された演目はイプセンの『人形の家』だが、これと平行して、演目として明示されないサブテクストとして岸田國士の『命を弄ぶ男ふたり』も上演に組み込まれていた。複数のテクストを合成して上演するのは、のあんじーがよくつかうスタイルだ。



会場は今回は野外ではなく大久保駅近くにある30平米ほどの広さのバーだった。上演はバーカウンターのなかを含む、バーの空間全体で行われる。最後は野外に出て終演だった。観客は15名ぐらいだったように思う。



「サイケ」とはあったが、今回はのあんじーとしては案外ふつうに戯曲が上演されたように思う。一幕と二幕の部分は上演されず、バーのカウンターのなかにいるのあが両手に手袋型の人形をつけて、この二体の手袋人形を対話させるかたちで説明する。この説明はかなり雑で、あんじーがときおり突っ込みをいれていた。この二体の手袋人形の名前は「修養」と「解放」らしい。何かほのめかしがあるのかもしれないが、よくわからない。そもそも会場には着ぐるみパンダだけでなく、大小様々な大きさの大量のぬいぐるみが置いてあって、上演中に《タランチュラ》が流れたら、観客は自分の好みの人形を取って、人形を踊らせるようにという指示があった。実際には上演中に3回ほど《タランチュラ》舞踊の場面があった。

そもそもなんでこんなにぬいぐるみがあるのかと思っていたのだが、さきほどxでのあんじーおよび平原演劇祭の常連観客のひとり、三上昭芸さんのtweetで上演作品が『人形の家』なのでそれに合わせてということだというのがわかった。
『人形の家』とのことで、人形がしゃべっていて面白かった。このバーのロケーションで人形って、なかなかインパクトのある組み合わせだなと思った。#のあんじー#まぼろしパンダポイポイ#のぱんじー pic.twitter.com/OLIOhHGnYe
— 三上昭芸 (@akimikami) 2025年8月4日
バー店内での上演中は、のあんじーの二人は店内を移動しながら、『人形の家』三幕の場面の抜粋と観客たちには題名を知らされないままの『命を弄ぶ男ふたり』を語るのだけど、パンダは特に劇にはからまない。パンダはパンダで店内を移動し、なぜか店内に置かれているミシンを操作したりしている。ミシンもわざわざ持ってきたのだから、劇の内容とはなんらかの関係はあるのだろうが、その関係はよくわかない。まぼろし🐼ぽいぽい が共演している理由もよくわからない。まぼろし🐼ぽいぽい は、かなり巨大で、圧迫感がある。薄汚れていて、なぜ洗わないのだろう?と思っていたのだが、薄汚れ、うち捨てられた感じも含めて、まぼろし🐼ぽいぽい みたいだ。このパンダは空風ナギの誕生祭にもそういえばいあように思う。
『人形の家』ではないテクストも演じられているなあと思って聞いていたのだが、それが『命を弄ぶ男ふたり』とわかったのは、これまで読んだり、舞台で何回か見ていた作品だからだ。ただもしかするとこれ以外のテクストも混じっていたかもしれない。『人形の家』の三幕と『命を弄ぶ男ふたり』はシームレスに接合されていた。『人形の家』の語りは、ノラとヘルメルの二人の会話に集約されていて、クロクスタやリンデ夫人は登場しない。


なぜこの2作品が合成されることになったのかについてはわからない。上演会場が大久保駅の近くで、総武線の線路沿いだったから『命を弄ぶ男ふたり』もということになったのだろうが、これが『人形の家』三幕の内容とどう結びつくのか。のあんじーなりのロジックはある可能性もあるが、『命を弄ぶ男ふたり』については観客には告知されていないので、要は『人形の家』を別のテクストで分断して、観客を戸惑わせ、混乱させたかっただけという気もする。戸惑わせたほうが面白いだろ、みたいな。40分ほど上演があったところで休憩が入る。
「休憩は間が持たない。苦手だ」とのとあんじーが言っていたが、休憩中も演者が観客と一緒にいたら、そりゃ落ち着かないだろう。手持ち無沙汰の15分ほどの休憩が入る。
休憩後は、のあがヘルメルを見限り、自立を決意する場面だ。このクライマックスがこんなに長い台詞があったとは。のあんじーの二人は稽古時間も限られていただろうに、よく台詞がはいるものだと思う。こののあんじー版『サイケ 人形の家』が思いのほかオーソドックスな上演であることは、下の映像を見るとわかるだろう。
このあと、上演の場は店外になる。総武線沿いの線路に沿い、大久保駅の改札までぞろぞろと移動する。ここで演じられていたのは、もっぱら『命を弄ぶ男ふたり』だったように思う。



パンダの着ぐるみは大久保駅の改札付近に待機していた。町中にでるとこのまぼろし🐼ぽいぽい の存在感はかなり強烈だ。ゴミ袋のようなものに入れられたぬいぐるみを路上で撒き散らす。そのまわりでのあんじーの二人のパフォーマンス。改札から出てきた通りがかりの人は、不審げな目でその様子を横目で見つつ、さささっと足早に去って行く。駅前のネパール料理屋の店員たちは面白そうに眺めていた。
https://youtube.com/shorts/zQFZo4dmas4?si=G1-50COhDtUT0uBl

今回の公演の「サイケ」の部分は、このまぼろし🐼ぽいぽい の存在によってもたらされたといってもいいかもしれない。とにかく底知れぬ不気味さ、不可解さがある。歪んだポップさと可愛さで、そこはかとなく不気味でグロテスクだった。これはのあんじーのあらゆるスペクタクルもそうではあるが。さらにこのパフォーマンスに集まってくる観客たちも、かなりどうかしているわけで、異様なオーラが発せられていた。
終演後はバーに戻り、のあんじーとまぼろし🐼ぽいぽい の今後の公演の告知などがだらだらとあった。どういう意図かよくわからないが、のあの提唱でバーでの上演中、パンダが縫っていたシーツらしき布を観客全員が被るというなぞの儀式も行われた。

今回ののあんじーの公演、悪くはないけど、いまひとつ切れ味のよさを感じない。上演のスタイルがパターン化してきていて、展開が予定調和っぽくなっているのが気になる。この方向でマンネリなるとしんどいかも、とちょっと思う。ただ若い二人なので、今後、何らかの突破口を見つけて、驚かせてくれることを規定している。



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女性4名の古楽ユニット、アンサンブル・ポエジア・アモローザの第三回公演を聴きに行った。昨年の第2回公演のレビューは以下にある。
今回は16世紀末から17世紀中頃にかけてのイタリアの女性作曲家が中心のプログラムだったが、私が知っていたのはジューリオ・カッチーニの《愛しい私のアマリッリ》だけで、他は作曲者名も曲も知らなかった。正直なところ、イタリア初期バロックの声楽曲は自分から積極的に聞くことはないジャンルだ。複数の旋律が絡み合い、音のテクスチャをうねるように織りなすルネサンス期のポリフォニーに比べると、通奏低音の上に単旋律の歌声を展開させるバロックのモノディ様式は、言葉を音楽に乗せて伝えるものだけに、歌詞の意味が理解できないと退屈に感じられてしまう。初期バロックに限らず、17世紀以降の歌曲は歌詞の意味が理解できていないと、その面白さを味わい、楽しむことは難しいように思う。
アンサンブル・ポエジア・アモローザ(以降EPAと記す)の当日パンフレットには、歌曲の歌詞が原文と対訳で掲載されている。その訳はすべてEPAのメンバーによってこのコンサートのためになされたものだ(高橋美千子訳が8曲、EPA訳が2曲、佐藤亜紀子訳が1曲)。この翻訳のクオリティの高さは特筆に値する。私はイタリア語はできないので、ラテン語とフランス語の知識を頼りにイタリア語の歌詞の内容を検討することしかできないのだが。演奏中に歌詞の原文テクストとその意味を確認することができることで、楽曲とパフォーマンスをより深く楽しむことができる。

演奏メンバーのコルネット奏者、上野訓子によるA4の用紙三ページにわたる解説も充実した読み応えのある内容だった。一般的にはほぼ知られていないイタリア・バロックの女性作曲家たちとその歌曲の紹介文には、楽曲の解説と作曲者についてのエピソードの紹介とともに、コンサート企画者、そして演奏者として彼女たちの存在と作品にどのように向き合い、何を感じ取っていたのかが伸びやかな文体で率直に記されている。この解説で紹介されていた16-17世紀のフェッラーラ公の宮廷で活動していたコンチェルト・デッレ・ドンネ(Concerto delle donne)という女性アンサンブルについては、その情景が目に浮かぶような生き生きとした筆致で書かれていた。
会場は昨年と同じ新大久保にある日本福音ルーテル東京教会の礼拝堂だった。この礼拝堂は天井が高く、響きがいい。
最初に歌われたマッダレーナ・カズラーナ作曲の「おお夜よ、空よ、海よ、岸よ、山々よ」O notte, o ciel, o mar, o piaggie, o monti が歌い始められたとたん、高橋美千子の歌声の圧倒的なボリューム感にガツンと大きな衝撃を受ける。あの力強さ、表現の豊かさ。異なる時空へと聴衆を導くコンサートの幕開けの宣言のような堂々たる歌曲であった。切なく苦しい恋の嘆き、田園の軽やかで遊戯的な恋、そしてキリストとマリアに捧げられた賛歌など、定型的な主題と修辞が連なるこれらの歌曲に内在するドラマを、高橋美千子の歌唱は見事に引き出し、鮮やかに浮き彫りにする。官能的な愛と神への愛の表現の源は同一の精神性であるように思われる。バロックのイタリア歌曲では、エモーショナルであることとスピリチュアルであることが共存しているのだ。言わずもがなのことではあるが、高橋美千子のように、ことばと音楽と身体が有機的に結びついた複合的で豊かなパフォーマンスができる歌手はそうそういない。歌声の豊かさと歌唱テクニックだけでなく、表情や動き、安定感のあるポーズなど、ステージ上の饒舌なパフォーマンスは歌詞の内容が憑依したアレゴリーのようでもある。飲み込まれてしまいそうな怖ささえ感じるときがある。
EPAではコルネットが編成に加わっているのが大きな特徴である。演奏で使われているバロック期のコルネットは細長い棒状のオーボエのような形状だが、cornettoとは「小さなホルン(角笛)」なので奏者の唇で音を出す金管楽器の一種だ。ただし響きは柔らかくて、金管の重厚さと木管の軽やかさの両方を兼ね備えたような音色だ。重さはあるけれど、可愛らしいというか。このコルネットが、高橋のエモーショナルな歌声と絡みあうのが、実に心地良く、快感なのだ。

EPAの音楽はソプラノ、コルネット、ヴィオラ・ダ・ガンバ、テオルボという小編成ながら、そこから紡ぎ出される密度の高い音楽は、曲線を基調とする細々とした装飾で埋め尽くされた重厚かつ華麗なイタリア・バロック様式の建築を想起させた。
今回のプログラムは、まさに16-17世紀のイタリアで活躍していた女性作曲家・演奏家への共感と愛に満ちたオマージュであり、21世紀日本の四人の女性演奏家によって、現代ではほぼ忘れられたイタリア・バロックの輝かしい女性音楽家たちが召還されたようなコンサートだった。私を含め、観客の多くは、新大久保の教会礼拝堂で、バロック期のイタリアの宮廷ホールにいるような気分を味わうことができたのではないだろうか。
このユニットは年に一回、公演を行う。年に一回しか聴けないのであれば、毎年聴きに来るべきコンサートだと思う。
劇団青春座のFBページに、井生定巳さんの訃報が掲載されていました。謹んでお悔やみ申し上げます。

井生さんには2019年、生涯学習総合センター事務室にて、私たちの研究グループのインタビューにご協力いただきました。北九州で長きにわたりアマチュア演劇を牽引し、劇団青春座の三代目代表として、その情熱と驚くべきエネルギーで劇団を支え続けてこられた井生さん。インタビューでは、ご自身の生い立ちから演劇との出会い、そして地域に根ざした演劇活動への深い愛情と、損得を超えた純粋な思いを、飾らない言葉で語ってくださいました。
そのお話の端々から感じられたのは、演劇という場を通じて多くの人々と喜びを分かち合いたいという真摯な願いと、およそ75年にも及ぶ劇団の歴史を背負ってこられた方の、揺るぎない信念と温かなお人柄でした。
井生さんの演劇へのひたむきな姿勢、そして地域文化への多大な貢献に改めて深い敬意を表するとともに、その貴重なご経験やお考えを少しでも多くの方にお伝えできればと、当時のインタビュー記事をここに再掲載させていただきます。
井生定巳さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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