閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2025/03/30 第51回赤門塾演劇祭(「米つくり」「まっかかの長者」「ジャガーの眼」)

埼玉県所沢市と東京都東村山市の境、JR武蔵野線から歩いて15分ほどのところに赤門塾はある。近所の小中学生を対象とした小さな学習塾だが、開校は1970年で50年以上の歴史がある。初代の「塾長」は在野の哲学者の長谷川宏だ。この塾の開塾については『朝日新聞」のこの記事に書かれている。

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現在、塾の運営は、長谷川宏の次男の長谷川優氏に引き継がれている。この塾では単に勉強を教えるだけでなく、さまざまなユニークな文化的活動が行われているのだが、1973年以来、新型コロナで中止になった年を除き、継続的に毎年三月末の週末に行われているのが赤門塾演劇祭だ。この演劇祭には、塾の現役生徒である小中学生だけでなく、かつての塾生たちや塾には通っていなかったが、長谷川宏が主宰するいくつかの勉強会や読書会に参加した大人たちによる演劇の上演も行われる。

私がはじめてこの演劇祭を見に行ったのは、2018年の第44回だった。このときのことは、以下のブログで報告している。

【劇評】【レポート】驚異の地域アマチュア演劇祭 – @theatrum-wl on Tumblr

赤門塾演劇祭を知ったのは、私が世話役を務めている「古典戯曲を読む会@東京」の参加者からの紹介がきっかけだった。その人は赤門塾と縁があり、この年の演劇祭の出演者でもあった。彼は「塾の同窓会的な集まりで、村芝居のような雰囲気ですが、大人たちが本気で芝居に取り組んでいる、不思議な演劇祭ですよ」と教えてくれた。興味を持って訪れたその年の「大人の部」の演目は唐十郎の『愛の乞食』だった。手作り感あふれる舞台で繰り広げられる荒削りで力強い芝居に、アングラ演劇の原点をつきつけられたような気がして、私は大きな衝撃を受けた。以来、この演劇祭を毎年訪れている。また7年前のこの演劇祭がきっかけとなり、私は長谷川宏さんのご自宅で二ヶ月に一度ほど開かれる読書会にも参加するようになった。

演劇祭の上演演目は、過去の上演作品が再演されることはあるが、同じ演目が連続して上演されることはない。現役塾生が出演する小学生の部、中学生の部はもちろん、大人の部の出演者も毎年変わる。今年の大人の部の上演演目は、唐十郎『ジャガーの眼』だった。唐作品のなかでも人気のある作品だ。赤門塾演劇祭の大人の部で上演される作品のジャンルは様々だが、唐十郎作品はこれまで何度か上演されている。ただ『ジャガーの眼』を赤門塾で上演するのは今回が初めてだと思う。赤門塾は、私がはじめて演劇祭を見に行った7年前にはすでに運営主体は長谷川宏さんから優さんに移っていて、演劇祭の運営、演目と出演者の選定、演出も長谷川優さんが行っている。

演劇祭は三月最終週の金土日の三日間に開催されるが、私は今回は最終日の日曜日(30日)の公演を見に行った。予定では午後1時開演、終演は午後4時20分となっていたが、実際の終演時間は午後4時50分頃だった。

演劇祭第一部は小学生の部で、小二から小六の15名の小学生たちが出演者だった。演目は作者不詳の『米つくり』。開演13時の40分前に会場に入ると、私は二番目の観客だった。上演直前の小学生の俳優たちは緊張と興奮のなかにあって、閉じた幕の向こう側はかなり騒がしい。ときどき幕から顔を出したり、幕から飛び出して会場内を走り回るこどももいた。

公演会場はふだんは塾の教室なのだが、椅子や机、本棚、黒板など普段、塾で使っている器材はすべて取り払われられ、塾教室に隣接している長谷川宅3階の倉庫に運ばれる。そして倉庫からは演劇祭会場設営の器材、照明や音響・照明の操作席となる二階席を作るための櫓、カーテン、衣装などが一階に運び降ろされる。三日間の上演のために毎年、膨大な労力を使って演劇祭会場がその都度、作られるのだ。舞台は間口が5-6メートルくらい、奥行きが3メートルくらい。下手が楽屋となる長谷川宅につながっている。客席の前方2/3は平場で、入って右手が俳優たちが出入りする「花道」となる。後ろ側には三段の客席と二階席。二階席は音響、照明の操作席でもある。上演時間が四時間近いと長いので、私のようなデブのおっさんには平土間席はしんどい。今回、開演より早く会場に来たのは段差のある席に座りたかったからだ。階段席の一番前、上手側に座った。客席は満席になった。たぶん70名くらいは入っていると思う。塾生の保護者の他、出番の終わった出演者たち、そして出演者とは関係のない私のような観客もいて、客層はかなり多様だ。狭いスペースにぎゅうぎゅう詰めになるので、観劇環境はかなりきつい。この窮屈さも、演劇祭の楽しさ、非日常感の一つでもあるのだけど。

第一部の『米つくり』は、小学2年生から6年生まで15名が出演していたが、中心人物は主に6年生が務めていた。タイトルからなんとなく江戸時代あたりの話を想像していたのだが、実際は縄文から弥生時代へと移り変わる、超古代の日本列島における米作りの起源が舞台だった。出演した子供たちは皆、古代人風の衣装を身にまとい、しっかり舞台化粧もしている。こうしたコスプレ的な変身は芝居をする楽しみの中でもかなり大きな要素だろう。似非古代人姿の子供たちは可愛らしく、見ているだけで楽しい気分になる。

上演時間は15分ほど。他の村人に先駆けて米作りを始めた兄妹が、狩猟生活に固執し米作りを信用しない村人たちに追放され、妨害を受けるという筋立てだ。兄妹が築いた米倉は燃やされてしまうが、実は妹が種米を隠しており、それによって米作りが続いていくという結末だった。

村人役はギリシャ劇でいうコロスのような役割を担っていた。小学生にとって、自分の言葉ではない台詞を話し、自分ではない別の誰かを演じるのは簡単ではない。台詞は早口で棒読みだったが、そのぎこちなさが独特のリズムや様式感を生み出し、日常とは異なる演劇的な時空を作り上げていた。小学生の演劇をわざわざ見に行って面白いのかと思う人もいるかもしれないが、実際には出演者の子供たちと関係のない大人の観客である私が見ても十分に面白い。人前で「他者」を演じなければならない子供たちの緊張感が舞台から伝わってきて、その真摯な演技が魅力的で、引き込まれてしまうのだ。子供たちの舞台には、演劇が本来持っている原初的な魅力がぎゅっと詰まっているように思える。照明と音響は中学生と大学生が担当し、演出は子供も大人も長谷川優さんが手がけている。赤門塾演劇祭では、終演後に必ず役者紹介が行われる。こうした習慣はアングラ演劇、特に唐組の慣習を思わせる。長谷川宏さんには息子が二人、娘が二人いるが、その娘さんのどちらかは確か唐組にいたことがあるらしい。その影響もあるのだろうか。終演後の子供たちがほっとしてはしゃぐ姿も微笑ましい。演出の長谷川優さんは子供一人ひとりについて丁寧にコメントし、全員を褒めていた。こうした出演者への心配りの細やかさは毎回感心してしまう。

第二部では、中学生6人と小学生1人が生越嘉治作の『まっかっかの長者』を上演した。関西弁で展開される民話劇で、上演時間は30分ほどだった。「まっかっか」なのは、長者の鼻である。主人公は赤鼻をした強欲な長者で、村人たちが重い税に苦しんでいるにもかかわらず、自分の米倉を決して開放しようとはしない。にもかかかわらず、村人が自分に敬意を払わないことに長者は不満を抱いている。

この長者には、生き別れになった双子の弟がいた。ある日、長者の留守中にその弟が泥棒として長者宅へ忍び込むが、双子のため見た目がそっくりであり、長者の妻は泥棒を自分の夫だと勘違いしてしまう。弟の泥棒は米を村人たちに分け与えたため、村人から大いに感謝される。そして弟と入れ替わるように長者本人が家に戻ると、米を施した本人だと勘違いされ、村人たちに尊敬の念を示されることになる。この村人たちの敬意を受けて、長者もついに改心する、というのが物語の筋書きだった。

私は娘が中学時代に演劇部に入っていたこともあり、中学生の演劇がどういうものかを多少なりとも知っている。学校の部活動の一環として、一年を通して稽古を積み、コンクールや文化祭の舞台に立つ中学演劇とは、赤門塾でのそれは同じ中学生による演劇といっても異なる世界を持つ。赤門塾は学習塾であるため、その活動の中心には常に「勉強」がある。演劇祭に向けての稽古は二月ごろから始まり、塾生は原則全員が参加することになっているという。小学生の頃から赤門塾に通い演じることに慣れている生徒もいるが、そうでない生徒も当然いる。自意識が強く芽生え始める中学生を演劇に巻き込むことは、小学生を指導する以上にずっと難しいのではないかと思う。『まっかっかの長者』には思春期前期の中学生らしい不安定さが全体ににじみ出ていた上演だった。

俳優の台詞回しは棒読みだが、小学生演劇のときのような様式性は乏しい。人前で演じることへのためらいや戸惑いが、舞台上でちぐはぐさとなって現れていたように感じる。ただこの不安定さこそが、この年頃の子供たちの演劇ならではの魅力だとも感じた。また、小学生の芝居を観た直後だったために、中学生たちの身体的・精神的な成長がより鮮明に印象づけられた。子供から大人へと移り変わる中で、彼らの他者に対する接し方や関係性の変化が、演技や台詞のやりとりに自然ににじみ出ているように見えた。舞台上で交わされる関西弁のセリフもユーモラスでとぼけた味わいがあり、とても楽しい作品になっていた。前に長谷川優さんにインタビューしたとき、彼はむしろ自意識の虜となっていて自分の殻から抜け出そうとしない中学生を芝居に引き込み、ある種の解放をもたらすことに、面白さを感じると言っていた。終演後の役者紹介のときに、各俳優たちにかける言葉にも繊細な配慮を感じた。中学生の演劇には、演劇に内在する教育性を感じることができるように私は思う。

第三部『ジャガーの眼』は赤門塾の卒業生たちが出演している。ここでは、小中学生が半ば「無理矢理」に駆り立てられて演じる芝居とはまったく違う、別次元の演劇の楽しみがある。今回のキャストはなんと19名(!)。そのうち社会人が10名、大学生2名、高校生2名、中学生5名という構成だった。

私が初めて赤門塾演劇祭を見たときの第三部の演目は、唐十郎作の『愛の乞食』だった。赤門塾で唐作品を観るのは今回が二回目になるが、濃厚な詩情にあふれた台詞の奔流と、エネルギッシュで混沌とした筋立てという唐作品の特徴は、赤門塾の演劇スタイルによく合っていると感じる。第三部はフルサイズの公演で、上演時間は3回の休憩(最後の1回は舞台転換のため)を含めて2時間を超えた。座席は狭くてきちきちで、正直かなり窮屈だったのだが、心の底から赤門塾流のアングラ演劇の面白さを味わうことができた。

唐十郎の芝居は、詩的でアレゴリックな台詞が絡み合い、場面の飛躍も激しく、私はいつもまともに内容を理解できないでいる。今回の『ジャガーの眼』は、演じる俳優たちにとっても難解に感じられたようで、上演前には演出の優さんがフリップを使って作品解説を行った。優さん自身は、本当はこういう事前解説はあまりやりたくなかったようだが。

実際、寺山修司へのオマージュなども盛り込まれたこの作品は非常に錯綜している。私はこの『ジャガーの眼』をここ最近、何度か見ているにもかかわらず、特に最初の場面ではガチャガチャして何が何だかよくわからない。しかし、わからなくても観客を強引に作品世界へ引きずり込んでしまうところに、唐十郎の芝居の真骨頂がある

 

特に第二幕の「しんいち」と「くるみ」のデュオの場面――「ジャガーの眼」を希求するくるみが愛を強奪するシーンは本当に素晴らしかった。あれこそ唐十郎のロマンチシズムの極みだと思う。あのくるみの強さと美しさ。第一幕では頭が混乱して、やや戸惑いがあったのだが、この第二幕のシーンで一気に劇世界の混沌のなかに引きずり込まれて氏また

赤門塾版『ジャガーの眼』は、アングラ演劇の醍醐味を凝縮したような、実に充実した舞台だった。唐十郎の熱気あふれる詩的な台詞に圧倒され、狭い舞台で役者たちが忙しく出入りする際のドタバタ感や、どこかチグハグな独特の雰囲気にも心惹かれた。ドラマを盛り上げる音響や音楽、照明効果も見事だった。

赤門塾演劇祭の第三部は「本気の学芸会」とでも言うべきだろう。舞台美術は手作り感にあふれているが、演技や演出に「アマチュア」的な甘さは一切ない。作品に真正面からぶつかっていく演者たちの全力の姿勢が伝わり、その全力感が唐十郎作品の暑苦しいほどの熱気と絶妙にマッチし、迫力ある舞台を作り上げていた。まさにこれこそアングラというエネルギーを感じることのできる公演だった。