閑人手帖

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劇団青春座 井生定巳氏へのインタビュー覚書(2019/08/13)

劇団青春座のFBページに、井生定巳さんの訃報が掲載されていました。謹んでお悔やみ申し上げます。

 

井生さんには2019年、生涯学習総合センター事務室にて、私たちの研究グループのインタビューにご協力いただきました。北九州で長きにわたりアマチュア演劇を牽引し、劇団青春座の三代目代表として、その情熱と驚くべきエネルギーで劇団を支え続けてこられた井生さん。インタビューでは、ご自身の生い立ちから演劇との出会い、そして地域に根ざした演劇活動への深い愛情と、損得を超えた純粋な思いを、飾らない言葉で語ってくださいました。

そのお話の端々から感じられたのは、演劇という場を通じて多くの人々と喜びを分かち合いたいという真摯な願いと、およそ75年にも及ぶ劇団の歴史を背負ってこられた方の、揺るぎない信念と温かなお人柄でした。

井生さんの演劇へのひたむきな姿勢、そして地域文化への多大な貢献に改めて深い敬意を表するとともに、その貴重なご経験やお考えを少しでも多くの方にお伝えできればと、当時のインタビュー記事をここに再掲載させていただきます。

井生定巳さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

【注記】この記事は2019年に行ったインタビューを元にしており、内容は当時のものである。

生涯学習総合センター事務室にて。 井生定巳(劇団青春座代表)1940年生まれ。 劇団青春座WEB https://www.seishunza.com/

1945年10月に活動を開始し、来年2020年に75周年を迎える北九州市のアマチュア劇団、青春座の代表を務める井生定巳氏へのインタビューの覚書である。

おそらくこれほど長い期間にわたって継続的に活動を行なっているアマチュア劇団は日本には存在しないだろう。《地域素人演劇の包括的研究》グループの調査の一環として、研究グループメンバーの五島朋子氏とともにインタビューを行なった。井生定巳氏は1975年以降、座の代表を務めている。座の代表としては三代目に当たる。

研究グループのメンバーで、地芝居や歌舞伎の研究者の舘野太朗の名言に「芸能は三代、演劇は一代」というのがある。地域芸能は後継者を持ち世代を超えて継承されるけれど、演劇は継承が難しく、主宰者一代きりで途絶えてしまうことが多いことを指している。青春座は75年の歴史を持ち、井生定巳氏は代表としては三代目だ。アマチュア演劇としてはこうした世代継承が行われるケースは極めてまれだろう。今回のインタビューでは、青春座の副代表の和田正人氏も同席していただき、お話を伺った。井生定巳氏は今年度をもって代表を退き、以後は和田正人氏が青春座を引き継ぐことになっていると言う。

75年の歴史、年に三回の公演活動と1500人の観客動員、公演パンフレットやウェブの記述の充実ぶりから、劇団青春座はアマチュア劇団といえどもプロの劇団に準ずる組織体ではないかと思っていたのだけれど、実際に話を伺ってみるとそんなことはない。大学卒業後の1970年から劇団に所属し、75年以降代表を務める井生定巳氏の驚異的な熱意があってこそなんとか今日まで続いてきたのだ。そして九州のアマチュア演劇界の重鎮とも言える井生定巳氏だが、実際にお話を伺うと、私が抱いていたイメージとは異なり、非常に実直でバランス感覚に優れた方だと感じた。演劇に対する姿勢も自然体で、真摯なものという印象を受けた。芸術表現としての演劇へのこだわりや演劇活動を通した自己顕示欲はほとんど感じられない。しかし地域社会の中で演劇を根付かせ、出来るだけ多くの人と演劇の喜びを共有したいという思いはある。

井生定巳氏のインタビューの前に、五月の公演で挨拶した時の印象や公演パンフレットやネット上での青春座および井生定巳氏についての記事を読んで(新聞などの一般メディアにもかなり取り上げられている)、私には井生定巳氏と青春座について自分なりに思い描いたイメージがあった。

井生定巳氏は1940年生まれで1960年の安保闘争の年に早稲田大学教育学部に入学。早稲田では劇団木霊に所属。大学を5年で卒業し、1965年に北九州に戻り、兄の健志が当時代表を務めていた劇団青春座に入団。地元では印刷会社の経営者でもあった。

私が井生定巳氏について事前に抱いていたイメージは、例えば、小倉の裕福な旧家のご出身で、知的な活動をされている方なのではないか、といったものであった。当時、北九州から東京の早稲田大学に進学するというのは相当異色だったに違いない。これには何か特別な理由があったのではないだろうか。1940年生まれは、赤門塾の長谷川宏と同年だ。初期の劇団青春座の上演演目は新劇の影響が濃厚で、詩人の同人団体を母体としている。60年代の早稲田の学生演劇も新劇系が主流だったはずだ。当時の時代背景から、もしかしたら北九州の左翼的な知的サークルと繋がりがあり、学生運動などの影響を受けた文化活動の中に身を置かれていたのではないか、などと想像していた。赤門塾の長谷川宏の活動の雰囲気には全共闘運動の名残があるが、長谷川と同年代のおそらく青春座と井生定巳氏もそうした文化のなかにあり、彼らの活動もその影響のもとにあったのではないだろうか。劇団青春座も、地元の名士である氏の様々な活動の一つという側面があるのだろうか、などと考えていた。

インタビューに同行した五島さんは現在の青春座の運営体制についてどちらかといえば焦点をあてたインタビューにしたかったようだが、私は戦後すぐの青春座の状況や60-70年代の北九州の組合主導の演劇団体との関わりなど過去のエピソードへの関心が強かった。インタビューは2時間越えとなったが、結局は井生定巳氏の生い立ちから始まる彼と劇団の過去についての話が多くなった。そしてインタビューで聞いた話の内容は、私が事前に思い描いていた井生定巳氏・青春座のイメージとはかなり異なるものだった。

そもそも私には戦後の素人演劇は当時の左翼文化活動と親和性があり、その影響のもとに行われていたという思い込みがあった。井生定巳氏は1960年の安保闘争の年に早稲田に入り、演劇活動をしていたのだから、当然そうした左翼文化のもとにあったと考えていたのだ。ところが話を聞いてみると全然そんな雰囲気はないのだ。時代が時代だったので国会デモには二、三回行った。しかし彼が私たちに話したのはそのデモの渦中でシュプレヒコールを上げたことではなく、デモ参加者目当てのおにぎりの売り子からおにぎりを買って食べた話だった。あとは樺美智子の追悼集会が早稲田の大隈講堂でもあり、そこにも一応足を運んで「泣いた」という話。当時の学生左翼運動は、その後の彼の思想行動に大きな影響をもたらした感じはない。学生運動が盛んだった時代にあって、井生さんご自身は比較的政治とは距離を置く、一般的な学生の一人だったのかもしれない。

そもそも彼は小倉の旧家の出ではない。漁師の息子だ。兄弟は七人で、うち一人が女性。井生定巳氏は六男だ。昭和20年、彼が五歳の時に父親が亡くなっていて、井生氏には父については葬式の記憶しかないと言う。戦争から戻ってきた歳の離れた長男、次男が漁師を継いで家族を養うことになった。兄弟のなかで大学に進学したのは井生定巳氏一人だけだった。当時大学進学といえば国立大学の九州大学ということになるが、井生定巳氏が早稲田大学に進学したのは理数系科目が全くできなかったため国立大学には合格できず、私立大学で名前を知っていたのが早稲田と慶応だけだったからとのこと。早稲田なら名前を聞いたことがあるということで、家計を担っていた兄に進学を許可されたと言う。兄は是が非でも自分の稼ぎで弟を大学に行かせてやりたいと言う心意気を持っていたそうだ。

入学後、膨大なサークルの新入生勧誘ビラからたまたま劇団木霊のものが目に留まる。演劇はそれまで幼少期に祖母に連れられて旅回り劇団の公演を観に行ったことがあったくらいだったと言う。木霊のビラには「未経験者歓迎」とあった。それでなんとなく部室を訪ねた。三日で「こりゃかなわん」と思ってやめようと思ったが、先輩にラーメンを奢ってもらってそれで三ヶ月はその恩に応えるため辛抱して在籍しようと思ったらしい。結局は在学中、劇団木霊が彼の居場所になる。当時、劇団木霊の同輩は20名ほどで、劇団全体では八〇名ほどの部員がいたそうだ。隣の部室には何年か上の鈴木忠志がいたそうだ。ただし井生定巳氏は鈴木忠志の芝居には興味がなくて観に行ったことはなかったとのこと。劇団木霊では当時新劇系の作品の上演が多かったが、八十名の団員がいると全員が俳優として舞台に立つことはできない。井生定巳氏はもっぱら裏方で舞台美術の製作などを主にやっていた。

井生定巳氏が大学に入学し、劇団木霊に入った年に、偶然、地元で働いていた定巳氏の上の兄の健志氏が劇団青春座に入座した。兄の健志氏もそれまでは演劇とはほぼ無縁の生活を送っていたのだが。

井生定巳氏は大学には五年在籍した。教育学部を選んだのは教員志望だったからだそうだが、演劇活動をやっていると教職課程の単位を取ることは難しい。井生定巳氏曰く、それでもなんとか頑張って教職の単位も取っていたのだけれど、教育実習の時期に劇団木霊の九州公演ツアーを行ったので教育実習ができず、結局教職資格を取れなかったとのことだ。大学を留年については、「大学の総長に、『北九州から早稲田で勉強しに来ているのは君だけだから、悪いけどもう一年だけ大学に残ってくれ』と頼まれたもんでどうしようもないんや」と母親に説明したそうだ。

東京での就職活動でいくつもの企業を受けるが採用されず、劇団木馬座に採用が決まったがその待遇のひどさを知って憤った母親に「そんなとこに就職せんと、北九州に戻って来い」と言われ、北九州に帰郷する。これが1965年(昭和40年)。北九州の地元で就職活動を行い最初はホテルに勤務していたが、その後は兄が創業した印刷会社で働くようになった。また帰郷した年の年末から、兄の健志が2代目の代表をやっていた劇団青春座に入る。兄の健志は劇団代表だったが、クリエイティブな方面ではなく、金銭管理などの運営面を任されていたとのこと。井生定巳氏が劇団加入の頃からそれまで新劇系の作品の上演が主だった劇団の方向性が変わる。一つは1963年に北九州のアマチュア劇団に声がけして北九州演劇協会を設立して、合同公演を1973年まで六回にわたって行った。青春座がこの北九州演劇協会の核となった。当時の北九州アマチュア劇団の多くは企業別の職場演劇であり、青春座のような職場によらない団体は少数派だった。職場によらない団体による演劇は当時自立演劇と呼ばれていたそうだ。職場演劇は左翼系組合演劇というよりは、企業が社員レクリエーションの一環としてやっていたサークルのようなものだったらしい。この職場演劇は1970年代後半には消滅してしまう。

このほか上演作品としては新劇系のものから、郷土を取材した《郷土シリーズ》、当時の社会の問題を取り上げた《社会派路線》、そして子供たちを対象とする《児童劇》の三つの路線が中心となっていく。児童劇は第二次ベビーブームで子供が多かったこと、子供への教育熱が高かったことを背景に60-70年代にはおやこ劇場といった観劇団体の活動が盛んだったこともあり、今よりもはるかに多数の観客を動員することができた。アマチュア劇団である青春座が児童劇にまで手を出したのは、観客動員を見込んでのことだったという。現在は青春座では児童劇は単発的にしかやっていない。

1975年に兄の健志が市会議員となったことをきっかけに、井生定巳氏が三代目の劇団青春座の代表となる。劇団員の基本は「いかによりよい社会人となるか」ということだそうだ。これは演劇によって人間的に成長して、社会人としても活躍できるようになるということではなくて、真面目に普段働いていて、周囲の人間の信頼を得ておかないと、演劇の稽古で残業を断るとか、公演の時にチケットを買ってもらうとかしてもらえないから、ということらしい。アマチュアとして演劇を続けていくためには、社会人としても真っ当である必要があるというのが井生定巳氏の根本なのだ。

井生定巳氏が代表となって以降、年に二、三回の定期公演の実施、九州のアマチュア劇団ネットワークの核としての活動、北九州演劇祭の企画への参加など、劇団青春座は安定した活動で北九州のアマチュア演劇界でその存在感を増してきたのだが、井生定巳氏の話を聞く限り、演劇界の中で権力を拡大したいといった野心も、芸術表現の追求といった面での野心も全く感じられないのだ。

青春座は事業としては全く成立していない。むしろ主宰者である井生定巳氏の金銭・労力面の持ち出しでなんとか成立している。氏が経営されていた印刷会社は、その後事業を閉じられたそうだが、公演を行うにあたっては当然会場費などの諸経費必要になるのだが、それはチケット収入、広告収入、そしておそらくなんらかの補助金、さらに井生定巳氏の持ち出しでなんとかまかなっている感じだ。広告も大企業からは基本的には頼らない方針とのことだった。団員にチケットノルマはない。そもそも団員といっても、公演ごとに出演者とスタッフを募集して集まってきた人を「団員」としているだけで、活動会費などは一切徴収しないのだ。会費も取らないのだからまさに「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった感じなのだろうと思う。だいたい一回の公演に40-60人ぐらいが参加するらしいが、レギュラー的に青春座に参加するメンバーは20人ぐらいとのことだ。

金銭、労力ともに持ち出しとなりながら、井生定巳氏が青春座の運営に情熱を注いできたのは、やはり演劇を通じた集団での活動になんとも言えぬ喜びがあったからだと、私には思えた。上演作品の芸術的な成果ももちろん大切にされていたと思うが、それ以上に、青春座が第一に目指しているのは、演劇という場を通じて多くの人々が集い、共同作業の中に居場所と喜びを見出すことにあるように、私には感じられた。

このあまりに素朴で真っ当な演劇のあり方は、私にとってはちょっと衝撃的で、心打たれるものがあった。ちょっと信じられないような気がするが、その活動規模と活動実績に対する名声にも関わらず、井生定巳氏の青春座への係りには損得といった功利的価値観が感じられないのだ。そしてこうしたあり方で75年にわたって持続的に演劇活動が行われてきたことにも驚いた。「遊び」として演劇が、それとして自立した意味を持っている。ある意味、演劇の本質的なものがそこにあるような気さえした。