閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

トワイライト

重松清(文春文庫、2005年)
トワイライト (文春文庫)
評価:☆☆☆★

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1970年代後半に東京郊外のニュータウンの小学校を卒業した同級生が、卒業式の際に埋めたタイプカプセルを掘り起こすために、何十年ぶりに再会する。
子ども時代というのはそれ自体が黄金時代なのだが、70年代後半は高度成長期で日本社会がエネルギーに満ちていた時代でもあり、大阪万博はその勢いを象徴するものだった。そして開発がはじまったばかりの「ニュータウン」も、若い家族の流入で活気づいていた。

登場人物の世代は僕より何年か年上、作者である重松清の世代と重なる。幼すぎて万博の記憶はないけれど、この小説の70年代ニュータウンの描写は、小学生の頃、狭いアパートから神戸郊外に新しく建築され、その交通手段の不便さゆえに「陸の孤島」と住民たち自身によっても自嘲された団地群に引っ越し、団地の建設とともに設立された小学校へ転校した僕自身の経験・記憶と重なる部分が多い。

未来への希望に満ちていた輝かしい70年代が、暗く灰色の現在と対照される。空家だらけで子どもの姿ひとつない郊外ニュータウンの団地群の陰鬱な現状、不況でのリストラであえぐはたらきざかりの男たち、家庭崩壊など。ラストにはかすかな希望が描かれるけれども、物語の骨格は、一組の夫婦、リストラ間近の男性、予備校教師の女性のそれぞれの希望がどんどん無惨に裏切られ、崩壊へ駆け落ちていく過程を描くマゾ的な物語である。

物語の仕掛けの設定の作り方は巧みだけど、近年の重松作品は物語を劇的に動かすための仕掛けのあざとさが鼻につくようになり、「人工的」「つくりもの」の雰囲気が濃厚になってきたように思う。現実に取材したというより、頭の中で作り上げたような登場人物の言動にひっかかることが多くなってきた。シニカルな子ども、過度に自己批評的な登場人物等々、物語進行の道具のような、陰影のある人物造型がだんだん薄れてきて、性格描写が類型化しつつあるように思う。

このところ夫婦関係崩壊の話ばかり読んでいるような気がする。妻がこの手の話を読むと、こちらの現実でもすらすらとその方向に進んでしまいそうで怖い。『トワイライト』も読了次第破棄。