閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2024/03/14 MODE『うちの子は』@上野ストアハウス

MODE『うちの子は』

作:ジョエル・ポムラ

翻訳:石井惠

演出:松本修

美術:松本修

音響:藤田赤目

照明:大野道乃

会場:上野ストアハウス

企画・制作:MODE

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久々に会心のフランス現代演劇作品の舞台を見た、という感じだった。ポムラの戯曲はこんな風にやるのか、こんな風にやって欲しかったんだな、という自分の頭のなかに漠然とあった舞台のイメージが具現化されたような上演だった。

 

横山義志さん曰く、今フランス演劇で何が一番面白い?と聞かれたら、まず名前が挙がるのがジョエル・ポムラ Joël Pommerat (1963-)だと言う。パリ在住の女優の竹中香子さんもポムラを絶賛したし、他にもフランス演劇関係者でポムラを推す知人がいた。ポムラは間違いなく現代フランス演劇を代表する演劇人の一人だろう。

ポムラの作品は2作品が翻訳され、刊行されている。演劇人としてのポムラの特長は、この刊本の巻末にある横山義志さんによる解題に的確に記されている。

ポムラは演出・演劇・舞台装置・照明・音響……といった舞台の要素すべてを「エクリチュール」とみなし、それらがそろってはじめて一つの作品になると考えている。[…]それ(=戯曲)はあくまで舞台の一要素を抜き出したものにすぎない。

ポムラの戯曲では、上演の状況を示すト書きの記述は簡素で最小限にとどめられ、言葉だけがごろっと無造作に投げ出されたような印象がある。ポムラのカンパニーは2011年にSPACに招聘され『時の商人』の公演が行われるはずだったが、東日本大震災およびその影響によりその公演は中止となり、その後、来日公演は実現していない。

今回MODEが上演した『うちの子は』は、これまでせんがわ劇場で2回の上演があった(そのうち1回はリーディング公演)。このうち二回目の公演についてはこのブログに感想を残している。

 

otium.hateblo.jp

 

松本祐子演出によるこの公演は私はあまり高く評価できなかった。強力かつ繊細な緊張のなかにある親子関係のリアリティが細心の注意で反映されている脚本を、松本佑子の演出は、新劇的なスタイルによって情緒的な型に流し込み、わかりやすいものに変形してしまったように感じてしまったからだ。

『うちの子は Cet enfant』(2003)は、上記刊本の横山さんの解題によると、フランス北西部のノルマディー地方の福祉施設でのインタビューや俳優たちの個人的な体験談に取材して書かれた作品である。10のエピソードはいずれも、おそらくあまり裕福でない階層の家庭での、ギクシャクとしてうまくいっていない親子関係の殺伐とした情景を抜き出したようなある種のドキュメンタリー性がある。

各エピソードの素材は現実の取材から取られたものだろうが、その戯曲化にあたっては巧みな抽象化、普遍化が行われている。実際舞台上で展開するさまざまな親子の相克は様子は、フランスととある地域のとある家庭特有のものではなく、日本の私たちの現実にもみられうるものだろう。一つのエピソードを除いて、登場人物に固有名は現れない。

MODEの松本修演出版では、妊娠している若い女性による彼女のパートナーへの悲痛な願いが込められた一人語りが最初と最後に別の俳優のペアによって上演された。オリジナルの戯曲ではこのエピソードでは冒頭でしか上演されない。生まれ来る子供ために理想的な母親になる決意を述べていた彼女の言葉は、彼女を慈しんで育ててくれなかった自分の母親への呪詛へと代わり、最後は悲痛な祈りの言葉のように幸福への願望を語る。恋人の男性は黙って微笑みながら彼女に寄り添うが、その姿はあまりに無力で頼りないように見える。

冒頭でこれから語り、演じらられる幸福であるとは言えないさまざまな鬱屈を抱えた親子関係のケースが予告される。その後、連続して提示されるシーケンスでは、打開策の見えない状況のなかで溺れそうにながらもがいている親子の姿が生々しく描き出され、見ていて息苦しさを感じる。あまりにもやりきれないリアルな悪夢の情景のあいだの暗転は、そうした暗い現実にアイロニカルに重なる牧歌的で平和なBGMによってつながれる。

機能不全のいびつな親子関係ばかりが再現されるが、そもそも完全に機能している家族なんて本当にあるのだろうか、と『うちの子は』で提示されるさまざまなケースを見ているうちに思ってしまう。昨年、大学の戯曲講読の授業でこの作品を学生たちと読んだことがあった。学生たちのなかにはあのなかのエピソードと自分の親子関係を重ねた者が数名いた。私自身、親として自分の子供との関係を思い浮かべ、身につまされるような場面はあった。あらゆる親は初心者であり、子供の成長とともに親としてのありかたを模索していく。とある社会における理想的な家族のモデルはあったほうがいいように思う。その理想的なモデルを模倣できる「恵まれた」環境にない家族が実際には多かったとしても。模倣できる家庭はいくぶんかの欺瞞とひきかえに、家族的幸せの幻想に浸ることができるだろう。貧困はおそらくこの理想的家族モデルを遂行する上での大きな障害の一つだ。多数派が中流である現代都市社会において、理想的家族モデルを遂行しがたい孤立した都市の貧困世帯には、モデルとなり得るおそらく幸福な家族像は存在しない。

『うちの子は』では「出口なし」の閉塞状況にある親子関係のケースが生々しく再現されるが、その場面は演劇的に変換されることで普遍性と抽象性を獲得した。俳優が現代社会の犠牲者のひとがたとなり、役割を演じるという約束事を明示することで、これらの悲劇は寓話となって提示されている。9人の俳優たちが最初と最後に演じられる「妊娠している女」のエピソードを含む11のシーケンスで複数の役柄を演じる。各シーケンスの冒頭では、これから演じられる人物の属性(性別と年齢)が予告される。役柄の性別は踏襲されていたが、俳優が演じる役柄の年齢は必ずしも俳優の年齢とは重ならない。舞台はほぼ素舞台でパイプ椅子が使われるぐらい。舞台中央は高さ20センチほどの段があり、その段によって舞台前方の「演技場」と広報の待機場が区切られている。客席通路に俳優が登場する場もあった。

「役作り」については演出家が主導するかたちではなく、俳優たちとの共同作業によって個々の俳優たちがそれぞれの演じ方を工夫したようだが、その人物造形の前提として戯曲のテクストの読み込みは徹底的に行われていることが感じられた舞台だった。

11のシーケンスのうち、エドワード・ボンドの『ジャケット』に着想を得たとある場面9は唯一、固有名を持つ登場人物が現れる場だ。変死のため遺体収容所に安置された自分の息子と見なされる遺体の確認を行う母親の葛藤を描くエピソードなのだが、極度の不安と混乱のため執拗な台詞の反復、そして「笑い」の演技が必要なこの場は、いわゆるリアリズム演技ではどうにもうまく処理しがたい難しいシーンだ。この場に巧みな緩急を用い流れを作り、母親の恐怖と狂気に観客を同調させていく芝居の作り方のみごとさに感嘆した。

第11場はオリジナルにはないものだ。冒頭に演じられた「妊娠ししている若い女」の場が、違う男女の俳優の組み合わせで再び上演される。わかりやすくしすぎる、説明的過ぎるエピローグであるかもしれない。しかし私はこの反復されたエピソード、まだ生まれていない子供への語りが最後にもう一度提示されることが、いびつで不全な親子関係で苦しむ人々の存在へのやるせなさの表明とともに、控えめなエールであるようにも思え、溜息と安堵の息が混じったような息を吐き、重苦しい悲痛さと同時に大きな感動を覚えたのだった。