閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2023/03/27 第49回赤門塾演劇祭

 

毎年三月第四週の週末に、埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で行われる赤門塾演劇祭に行ってきた。今回でなんと49回目の開催となる。第47回、48回のレポートは以下に記している。

otium.hateblo.jp

otium.hateblo.jp

今年は10名の小学生(小二から小六)による『山火事のとき』(瀬田隆三郎作)、中学生11名と小学生1名による『八十八話』(山本太郎作)、そして小学生、高校生、大学生、社会人による『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)の三作品が上演された。

三作品すべて見に行くつもりだったが、開演時間を勘違いしていたため、小学生の部は見ることができなかったのは残念だった。

会場は塾の教室で広さは、学校の教室の半分ほどの広さ。客席は50席ほどで、小学生の部と中学生の部は予約制になっていた。客席は超満員の状態。通常、赤門塾OB・OGの部が最後に上演されるのだけれど、今年は取りの演目は中学生が主体の「八十八ばなし」になっていた。おそらく舞台装置の入替や片付けの都合があったためだろう。

OB・OG+小学生の部の『ゴドーを待ちながら』は意外な選択だった。サミュエル・ベケットの不条理劇というのはこれまでの赤門塾演劇祭にはなかった趣味であるし、またOB+OGの部は出演したい人も例年多いはずなので、登場人物が多い群像劇的な作品が選ばれることが多かったからだ。2020年は『どん底』の上演が予定されていたが新型コロナのため、公演中止となり、21年は感染対策のため、登場人物が二人の井上ひさし『父と暮らせば』が上演された。しかし昨年はアガサ・クリスティ『The Mousetrap』という登場人物がかなり多い芝居だった。しかし今年は新型コロナへの警戒は昨年より大幅に緩和されているにもかかわらず、登場人物5人の『ゴドーを待ちながら』である。

私が赤門塾演劇祭を見るようになった2018年が『ジョン・シルバー 愛の乞食』、19年がワイルダー『わが町』、20年『どん底』(試演会のみ)、21年『父と暮らせば』、22年『The Mousetrap』、そして23年が『ゴドーを待ちながら』ということで、毎年まったく異なる雰囲気の作品が選ばれている。作品選択の理由を、主宰・演出の長谷川優さんに聞いてみたいところだ。

これまで上演してきた作品とはかなり肌合いが異なる不条理演劇の傑作『ゴドーを待ちながら』は、赤門塾演劇祭にとっては大きな挑戦だったようで、開演前の前説で長谷川優さんが苦笑いしながら「一昨日、昨日と上演したのですが、『わけがわからない』という感想が多くて」と言っていた。私の目から見ても、俳優たちは苦戦しているなという感じはあった。かみ合わない台詞の連鎖をどう処理したものか模索しているように見えた。長谷川優さんの演出は、トリッキーな仕掛けは使わず、戯曲を丁寧に読み取って、その読解から立ち現れる世界をできるだけ、素直に、誠実に舞台化しようというものだ。『ゴドーを待ちながら』もある意味、非常に正統的でオーソドックスな『ゴドー』だったように思う。最初の場面から誰が見ても『ゴドー』の上演であることが一目瞭然だ。

ウラジーミルとエストラゴンの二人の人物の対比がよかった。ウラジーミルを演じたのは高校一年生の男の子、おそらく赤門塾演劇祭に出演するのは今回が初めてだ。それでいきなり主役なのだから大抜擢である。エストラゴンを演じた俳優は大学生の女性で、彼女はここ数年の赤門塾演劇祭で重要な役を演じている名優だ。ウラジーミルが不機嫌そうな無表情であるのに対し、エストラゴンは丸顔で愛嬌があり、くるくると表情が変わる饒舌な芝居だ。ゴツゴツとまるっこい感じのぺあになっていた。分厚い唇がめくれたウラジーミル役の俳優の、憮然とした表情が可愛らしかった。

俳優の衣装はいずれもよくできていた。ボロボロにほつれた具合などディテイルにも凝っている。ラッキー役の俳優のテクノ風の音楽に合わせたダンスは秀逸で、ダンスシーンでは、客席から大きな笑いがわき上がった。ダンスの動きもきっちり決まっていて、キレがあった。

ナンセンスな会話の連鎖の処理には苦労しているように見えた。『ゴドーを待ちながら』の登場人物はいずれも俳優・観客の感情移入を拒むような奇矯で非現実的な人物だ。意味ありげだが、意味不明でとりとめのない会話で、観客をひっぱっていくのは難しい。『ゴドーを待ちながら』はある種の詩劇であり、言葉の飛躍は詩として提示されなくてならない。全般的に会話のやりとりはギクシャクとした感じで、この作品にふさわしいリズムをつかみきれていない。単調に陥り、私は最後のほう、落ちてしまった。

ただゴドーの言葉をウラジーミルとエストラゴンに告げる少年の語りの場面は、この作品の詩情はしっかりと表現されていた。

11人の中学生と小学生1名による『八十八ばなし』(山本太郎)は思いのほか面白い舞台だった。実は今年の赤門塾演劇祭では、『ゴドーを待ちながら』より、この中学生による劇のほうが私は面白かった。

思春期前期の中学生に演劇を上演させるというのはかなりやっかいなことだと思う。赤門塾がそういう塾だということはわかって塾に来ているはずだけれど、とはいっても演劇をやりたくて赤門塾に入った子供は例外的だろうし、皆が皆、赤門塾演劇祭を通して演劇好きになるとも限らない。赤門塾演劇祭の中学生演劇は、演劇部の生徒による学校演劇とはまったく異なるものだ。

『八十八ばなし』は民話風の不条理劇だ。主要登場人物の名前が八十八で、この八十八どもは、みなろくでなしだ。それぞれ、ばくち八十八、分別八十八、外道八十八、百姓八十八、盗人八十八と呼ばれている。ばくち八十八の殺害の首謀者である分別八十八のしれっとした悪党ぶりはさまになっていた。その他の役者の大半は、棒立ちで棒読み台詞だったが、その不器用な演技が、かえって、この民話風劇の不条理な笑いを引き出していて、観客席からは何度も笑い声が聞こえた。私も何回も笑った。いまどきの中学生が、民話的虚構を演じるちぐはぐさが、笑いの仕掛けとして機能していた。なんとなくやる気のなさげな、恥ずかしそうにやってるところがいい。可愛らしい着物と舞台化粧は、彼らが異なる世界の人物となるためには、必要な道具立てであったことがわかる。