閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2024/03/22 第50回赤門塾演劇祭

 

 

 




 在野のヘーゲル研究者、哲学者の長谷川宏が所沢市の住宅街に地域の小中学生を対象とした学習塾、赤門塾を開設したのは1970年だった。赤門塾は2020年に50周年となったが、塾が開設された数年後からはじまった赤門塾演劇祭も今回で第50回目の開催となった。赤門塾の運営はもう大分前に長谷川宏から、その息子の長谷川優に移管している。個人経営の小さな私塾が半世紀以上にわたって存続しているのも稀有だと思うが、その私塾が毎年三月最終週の週末に行う演劇祭というイベントも半世紀にわたる長い期間、ずっと続いているというのは驚異的なことだ。そもそも演劇祭を定期的に開催している塾は赤門塾くらいだろう。

 

 私がはじめて赤門塾演劇祭を見たのは2018年の第44回だった。このときの様子はWebメディア『観客発信メディアWL』にレポートを投稿している。

https://www.tumblr.com/theatrum-wl/173166619826/%E5%8A%87%E8%A9%95%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E9%A9%9A%E7%95%B0%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E6%BC%94%E5%8A%87%E7%A5%AD

theatrum-wl.tumblr.com

 以後、開催が新型コロナのため中止となった2020年を除き、毎年私はこの演劇祭を見物している。2021年の第47回以降の観劇レポートはこのブログの以下の記事で報告している。

 

otium.hateblo.jp

 

otium.hateblo.jp

 

otium.hateblo.jp

 2021年の第47回以降の3回の赤門塾演劇祭は、新型コロナの感染対策もあり、事前予約定員制での開催だったが、今回の第50回は4年ぶりの定員フリー、事前予約なしの開催となった。会場はいつものとおり、赤門塾教室である。公演日は3月最終週の金土日の三日間だ。今回は初日の金曜日の公演を見に行った。初日のみ、夕方からの開演となる。開演時間は17時半だった。

 会場には17時ごろに到着。最近の3回は新型コロナ対策で定員制をとっており、客席の観客も余裕があったのだが、今回は予約なし定員なしなので早めにいい席を確保しておきたかった。赤門塾演劇祭では普段は塾の教室として使われている場所が劇場となる。千秋楽公演のあとにもとの塾の教室の仕様に戻さなくてはならない。この撤収作業には立ち会ったことがあるが、これが大変な労力が必要な作業なのだ。塾の教室は長谷川家の居宅とつながっている。塾の教室の机や椅子、本棚と本、ピアノなどは、演劇祭の期間はすべて居宅の三階にあるらしい物置に収納されている。教室には普段は天井から蛍光灯が何台か吊しているのだが、演劇祭の期間中は蛍光灯はすべて取り外され、舞台照明機材がその代わりに吊される。また音響や照明の操作のために、教室内に鉄パイプの櫓が設置される。千秋楽公演のあとは、教室で出演者や関係者が40名ほど集う懇親会が行われるので、公演が終了後、90分ほどの時間のあいだに三階から塾教室用機材を半地下の塾教室まで下ろし、それと入替で劇場仕様のための舞台装置や椅子、照明、櫓を組む鉄パイプなどが3階に運ばれるのだ。この作業は出演者だけでなく、赤門塾と関わりの深いOBOGも多数参加協力して、テキパキと行われる。私は撤収作業の様子しか見たことがないが、演劇公演の会場設営も相当な労力が必要に違いない。

 教室だった空間の前方1/4ぐらいが一段高くなっていて、舞台空間となる。舞台前方には二列ほどの平土間席で、そこに座るのは肥満おっさんの私にはきつい。3作品が上演されるが、一回の公演時間は4時間近くになることもある。その平土間席の後ろ側に折りたたみの式の背の低いパイプ椅子が二列あった。私はその前列中央に座った。観客は入れ替わりがあったが、おおむね30人くらいだった。

下手側の黒板には端正な文字で書かれた注意書きがある。出入り自由、飲食自由、トイレは長谷川宅のものを使用するなど。

最初の演目は小3、小4、小5,小6の8名の子供による『すばらしい少年コーラ』(粉川光一作)だった。8人のキャストのうち、小5が5名で、小3,小4、小6は一名ずつだ。『すばらしい少年コーラ』は私が最初に赤門塾演劇祭を見に行った2018年の第44回でも上演されている。小中学生の部の上演演目は、児童劇の名作が数年おきに繰り返し上演されることが多いようだ。

『すばらしい少年コーラ』の上演時間は30分ほど。舞台はアラビアのとある国である。ヌーマンは、長期の旅に出かける友人のアリ・コジャからオリーブ油の入った壺を託される。アリ・コジャが旅から戻って来るまでこの壺を預かって欲しいという要望をヌーマンは快諾する。ヌーマンはオリーブ油の入った壺の底に金貨が隠されていることを偶然知り、その金貨を自分のものにしてしまう。金貨を取り出したあと、新たにオリーブ油を壺に入れておいた。アリ・コジャは数年たったある日、戻ってきた。そして壺の返却をヌーマンに求める。壺の底に隠してあった金貨がなくなっていることに気づいたアリ・コジャは、ヌーマンに金貨の返却を求める。しかしヌーマンは金貨など知らない、壺を何年も預かっていたのに泥棒扱いするなんて、と激怒する。二人の諍いは裁判に委ねられることになったのだが、裁判官は二人のうちどちらが嘘を言っているのか知る術が無い。困った裁判官は、賢い少年として界隈で知られているコーラにこの諍いの判定を委ねる。コーラは壺のオリーブ油の酸化が進んでいないことから、ヌーマンが嘘をついていることを見抜く。本来ならヌーマンは盗みの罪で処罰されるはずだ。しかし少年コーラは大金を目の前にした人間の弱さを説き、金貨を返却すればヌーマンも悔い改めるだろうとして、処罰するような判決を下さなかった。

6年前に書いたこの作品の上演についてのレポートを読み直したが、上演の印象はほぼ変わらない。知らないよその子供たちが演じる児童劇を見て面白いものだろうか、と思う人もいるだろうが、これが案外見ていて楽しいし、面白い。もちろん自分の子供が出演していたらもっと面白いのだろうが。赤門塾演劇祭はOBOGが中心の手作りながら本格的な大人の部の公演が一番上演時間が長くて、見応えはあるのだが、現役の通塾生である小・中学生の部の上演もまたこの演劇祭の本質であると言える。子供たちは演劇祭のために塾に通っているわけではない。もちろんこの赤門塾という学習塾は他の塾とは異なり、ある種の共同体的雰囲気のなか、さまざまな課外活動が行われることは承知の上で入塾しているだろうし、演劇祭に出ているうちに演劇が好きになった子もいるだろうか。赤門塾演劇祭の小・中学生の部では、特に演劇とは関わりのない子供たちが演劇という集団的営為を通してどう変わっていくのか、演劇活動に内包する教育性がどのようなものであるかを、確認することができる。

小学生の子供たちの演技は、基本、無表情で棒読みだ。動きはあってもぎごちなくてギクシャクしている。登場人物になりきって演じるというわけにはいかない。小5ぐらいの高学年になるともしかすると「演じる」ことに照れがあるのかもしれない。そのぎごちなさ、記号的に手順をこなしていくような平板さに妙なおかしみがある。台詞のやりとりこそ平板だが、その応答のスピード、リズムには安定していて、見ていてダレた感じはしない。聡明なコーラ役を演じた子だけが、はつらつとした口調で台詞を発声していたことが、アクセントになっていた。コーラがある種の劇中劇として「裁判官」を演じていたときは、棒読みになっていたのは別人になっていることを意味する意図的な演出なのか、単にその部分は自信がなかったからなのか判然としなかった。劇を締めくくる最後の台詞はしっかりと決めていた。劇中劇的枠組みのなかで子供の演じる裁判官のほうが出来事の本質を把握し、大人よりもしっかりと人間への深い洞察を示す判決を示すという「逆さま」の世界が提示されているのがこの脚本の優れているところだ。

演劇の楽しみの一つには、扮装によって他者となることがあるだろう。『すばらしい少年コーラ』はほぼ素舞台で上演されるが、役者たちの衣装はアラビア風にしつらえられた手作りの舞台衣装だ。そして舞台用メイクもしている。小学生の子供たちは、こうした扮装で舞台に立っているだけで可愛らしい。

終演後のカーテンコールで長谷川優による役者紹介が行われる。この役者紹介は各役者の演技についてのコメント付き。緊張感から解放され、はしゃいでいる子供たちの様子が微笑ましい。やはり人前で舞台に立つというのは大変なことだ。なお赤門塾演劇祭は終了後に毎回必ず、稽古の様子や演劇祭の振り返りの座談会を収録した冊子が作られる。冊子に収録された長谷川優のレポートの詳細さは驚くべきものだ。出演者ひとりひとりについてコメントがある。赤門塾演劇祭は単なる塾のイベント、余興ではなく、子供たちの成長を見守るきわめて教育的営みなのだ。演劇作りのなかでどれほど濃密な時間を彼らが経験してきたのかをうかがい知ることができる。

小学生による第一部『すばらしい少年コーラ』のあとは、中学生が主体の『おんにょろ盛衰記』(木下順二)が上演された。出演者は12名で、そのうち一人だけが小3の女の子。彼女は助っ人として急遽出演することになったようだ。『おんにょろ盛衰記』の上演時間は1時間弱だったように思う。

『おんにょろ盛衰記』は1957年に発表された木下順二の民話劇で、赤門塾演劇祭ではこれまでに何回か上演されている。私が見るのは今回がはじめてだ。とある村のはずれに狼藉者のおんにょろが住んでいて、通りがかかる村人たちを暴力で脅して酒や金をせしめている。その村は虎狼と大蛇の脅威にも悩まされていた。村人たちは話し合って、おんにょろをおだてて虎狼と大蛇の退治をさせようとする。おんにょろが虎狼と大蛇を倒せば、村はもう怪物におびえることはなくなる。おんにょろが虎狼と大蛇に食われてしまえば、村から乱暴者を厄介払いできる。いずれにせよ、村にとって悪いことはない。おんにょろは村の老人の言葉にそそのかされて、まず虎狼を退治する。ついで大蛇も退治した。しかし村の二つの難儀を解決したおんにょろは村人たちの英雄とはならない。村人たちにとって三つ目の難儀、そして一番やっかいだったのは、おんにょろ自身だったのだ。村人たちにとって自分が歓迎されざる人物であることを知ったおんにょろはやるせない思いをかかえつつ村を去る。

『おんにょろ盛衰記』は木下順二の民話劇のなかでは、『夕鶴』に次いでよく知られた作品で、いろいろな団体に上演されている作品だと思う。物語自体は素朴な民話劇に思えるが、乱暴者のおんにょろが、なぜか息子と孫を怪物に食われ、おそらく悲しみのあまり頭がおかしくなっている老婆に対しては優しかったり、村人たちの共同体のエゴイズムの醜悪さが風刺されていたり、また村に尽くすことで村人たちとの関係や自分のふるまいを見直すおんにょろの変化や、結局、最終的には村人の共同体からの拒絶を受け入れざるを得ないおんにょろの悲哀など、観客へのいくつもの問いかけが埋め込まれたある意味非常に「教育的」なしかけが施された作品だ。最後の「おんにょろさまは、また戻ってくるだと」という台詞が芝居に余韻を残す。よくできた寓話劇ではあるが、教訓的、教育的、啓蒙的な意図、雰囲気があからさまであるのが、私にはちょっと鼻につくところがある。

中学生の部の演劇となると、子供の演劇とはいえ、あきらかに小学生の演劇とは違った雰囲気になる。中学生になると芝居で他者を演じることがどういうものかなんとなく理解できるようなっている。中学生は小学生と違って、他者になることができるのだ。先ほど『すばらしい少年コーラ』演じた小学生役者たちは、『おんにょろ盛衰記』では観客となり最前列の床面に座り、たいやきを食べながら観劇していた。

赤門塾演劇祭はどの部の演目も衣装とメイクはしっかりと作り込んである。芝居における衣装とメイクは、別の世界の人物になるぞ、という儀式の意味もあるのだ。『おんにょろ盛衰記』で最も重要な役柄はもちろんタイトルロールのおんにょろだ。おんにょろは体格のいい中学生が演じていたが、彼が舞台に登場した瞬間からその堂堂たるワイルドな風貌に「おっ!」と声を上げそうになった。最初はおんにょろが通りがかりの村人に乱暴狼藉を働く場面なのだが、小さい子供の観客がおびえて泣いてしまうほどの迫力だった。

おんにょろの「弱点」である老婆は男子中学生が演じていたが、そのとつとつとしたしゃべり方とよろよろとしたたよりない動きで、息子と孫のことを思い惚けてしまった老婆を上手に表現していた。九人いる村人たちは残念ながら声が小さくて、単調だった。民話調の疑似方言の台詞にも苦戦していたようだった。村人たちの議論は動きのないシーンということもあり、ボソボソとしたしゃべりに寝不足気味だった私はちょっと落ちてしまった。中学生は他者を他者として演じることができるようになる年代ではあるが、同時に自意識過剰の年代でもある。村人たちを演じた中学生は演技のバリアとなる自意識の壁をうまく突破することができなかったのかもしれない。助っ人としてただ一人の小学生として『おんにょろ盛衰記』に出演していた小3の女の子が台詞は少なかったものの、ずっとニコニコと楽しそうだったのも印象に残っている。

私が赤門塾演劇祭のことを知ったのは6年前、2018年だった。その後、毎年赤門塾演劇祭を見に行くだけでなく、長谷川宏さんが主宰する読書会にも二ヶ月に一度ほど参加するようになった。赤門塾演劇祭の小中学生の部を見たり、夏に信州の山奥で行われる完全自炊合宿などの行事を知ると、もしもっと早くこの塾の存在を知っていたら、自分の子供をこの塾に通わせたかったよなあと思う。もしこの塾に通っていたら、自分の子供たちはどのようになっていただろう、と想像してしまう。

第三部は高校生、大学生、社会人の赤門塾の現役塾生以外が中心の部だ。一人だけ中学生の出演者がいる。今回はシェクスピアの『夏の夜の夢』だった。この「大人の部」になると演劇に対する本気度が一気にあがる。衣装、照明、音響、舞台美術などすべて手作りだが、上演時間は2時間ごえのフルサイズであるし、役者たちもベテラン揃いだ。稽古は例年1月頃から、毎週日曜に行われる。同じ演目が数年ごとに繰り返し上演されることが多い小中学生の部とは違い、大人の部の上演演目は福田善之『真田風雲録』など何回か上演された作品もあるが、少なくともこの数年は毎年違う。それもかなり傾向と雰囲気が異なる作品が上演される。昨年はベケットの『ゴドーを待ちながら』だった。その前はアガサ・クリスティの『ねずみ取り』、さらにその前は井上ひさしの『父と暮らせば』だった。作品の選定は長谷川優さんが行う。毎年出てくれそうな人を頭に思い描いて演目を決めるとおっしゃっていたが、それにしてもこの数年の上演作はバラバラだ。シェイクスピア劇はかなり前に『ハムレット』、『リア王』など四大悲劇の上演はあったが、『夏の夜の夢』の上演はおそらく今回が初めてだと思う。妖精たちと若い恋人たちによる夢幻劇は、赤門塾演劇祭の上演演目としてはかなり異色であるように私には思えた。それだけにいったいどんな風にこの作品を演じるのだろうと好奇心に駆られた。

『夏の夜の夢』では先ほど『おんにょろ盛衰記』に出演していた中学生たちが観客となり前方の床席に座った。

赤門塾演劇祭版『夏の夜の夢』は13名のキャストでの上演だった。原作ではアテナイの貴族が7名、アテナイの職人たちが6名、妖精たちが7名なので、一人一役だと20名の俳優が必要となる。赤門塾演劇祭版では職人として登場するのはボトム役の1名だけで、他の職人たちは舞台上に登場しないというのが原作との大きな違いだ。職人たちの素人芝居は原作では重要ではあるが、最後の余興芝居のような扱いで、本筋にからむのはロバになったボトムだけだ。赤門塾版では職人の登場する場面が大幅にカットされ、ボトム以外の町人は舞台に登場しなくてもいいように処理されていた。

アテナイ公爵とその妻ヒポリタと妖精の王オーベロンと女王タイテーニアは、同じ男女の俳優によって上演されることがあるが、赤門塾版では別々の俳優による上演だった。ヒポリタを演じるのはこの『夏の夜の夢』に出演するただ一人の中学生の男子だった。女装し、化粧はしているけれど、カツラはかぶっておらず髪は丸坊主だ。ヒポリタの台詞は少なく、登場しているほとんどの場面ではすました顔で立っているだけなのだが、このヒポリタは舞台にいるだけで可笑しい。彼女以外の役柄はみな相応のそれっぽさがあるだけに、ヒポリタの異色性が際立った。ヒポリタが登場した途端、客席からは大きな笑いが起こった。ヒポリタは居心地が悪そうに目をパチパチさせている。『夏の夜の夢』も衣装とメイクがとてもよかった。貴族たちの衣装は古代ギリシア・ローマ風の白い長衣で統一されている。背景の書き割り幕は二種類用意されていた。貴族たちの館の場では、巨大な古代彫刻風の肖像画、森の場面では緑の葉と蔓がからみあう神秘的な森の背景画となる。妖精たちの奇抜なメイクと衣装は、森の背景画とうまく溶け込むような工夫があった。人ならぬ存在の妖精の世界のファンタジー感は、オリジナルの音楽・歌とダンスがによっても強調されていた。

上演時間は2時間を超えたが、展開にはリズムの緩急があり、もたつきは感じなかった。シェクスピア特有の修辞的台詞は、音楽的な台詞回しで、優雅な所作とともに語られた。個人的には町人たちの素人芝居の場面は大好きなのだが、この公演では脇筋で余興的な職人たちの場が大幅に省略されたのもよかったかもしれない。ボトム一人で演じられる職人の場は、アドリブ的に自由な翻案が施されていた。ライサンダー、ディミートリアスは高校生男子が、ハーミアとヘレナは大学生女子が演じている。役柄の年齢設定と重なる若い俳優たちの恋のやりとりは清々しく、見ていて気持ちがよかった。今回の『夏の夜の夢』は社会人の出演者が6名だったが、全体的に若い俳優たちの存在がフィーチャーされた公演だったように思う。終演は21時20分だった。

赤門塾演劇祭を見るといつも「なんで人は演劇をやるのだろう?」と思ってしまう。時間と労力、そしてお金もそれなりにかかっている。共同作業で作品を作っていくかていで濃密な共同体的関係が形作られる。創作過程で仲間の絆が強まり、さらに作品がかたちになっていくことの喜びはあるだろう。しかし演劇のやっかいなところは、そうやって仲間で作った作品を、誰かに見て貰わなければ、満足感が得られないというところだ。自分たちで作って、完成させるだけではだめなのだ。作ったものは誰かに見て貰わなければならない、上演という過程を経て、ようやく大きな喜びと満足を得ることができる。音楽や美術などの他の芸術ジャンルは、もちろん他者にその表現を享受されることで得られる喜びはあるだろうが、その創作自体に自足的満足感があるのだが、演劇はそうはいかない。

演劇を見るのは楽しいけれど、おそらく見るよりも自分でやってみて人に見せる方が、見るだけよりはるかに大きな満足感と喜びを得られるだろう。私もかつて何回か素人演劇の俳優となったことがあったが、上演前の台詞を覚えるつらさや上演直前の緊張感のあと、上演中の集中力、そして終了後の解放感と喜びは忘れられない麻薬的なものがあるような気がした。これではまともな社会生活を送れなくなってしまうと思い、自分では演じないようにしているのだが。

赤門塾演劇祭は、演劇の原点とも言えるような喜びに満ちている。赤門塾演劇祭に来旅に「演劇ってなぜこんなに楽しいのだろう?面白いのだろう?」という素朴な問いがわき上がる。