2023年2月に10年ぶりにケベックに行く。私にとっては2度目のケベックだ。予習もかねて、前から気になっていた韓国ドラマ『トッケビ』をNetflixで見始めた。このドラマの舞台がケベック市なのだ。『トッケビ』を見ていると、10年前にケベックに行ったときに会った韓国人のことを思い出した。以下の文章は2014年に書いたものだ。
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2013年7月末から8月にかけての3週間、私はケベック州政府が主催するフランス語教授法の研修に参加するため、モントリオールに滞在した。カナダのケベック州の人口は約800万人で、その8割はフランス語話者であり、州の公用語はフランス語である(カナダは州ごとに公用語が定められている)。モントリオールはケベック州最大の都市で、フランス語ではモンレアルと呼ばれる。研修はモントリオール大学で行われ、日本人6名、韓国人3名、ラオス人2名の給費研修生の他、自費参加のケベック人1名、他の州からやってきた英語話者のカナダ人5名が参加していた。研修生はいずれもフランス語教育に携わる人間だったが、教えている対象は大学だけでなく、高校、小学生など様々だった。
私は韓国映画のファン、とりわけ女優ペ・ドゥナの熱心なファンであり、韓国人指揮者のチョン・ミョンフンを崇拝しているのだけれど、韓国映画やチョン・ミョンフンの音楽を知るはるか前の高校の頃から何となく韓国に興味を持っていて、パリでの留学先でも韓国人と親しくなることが多かった。日本、とりわけネットの世界では、反日や嫌韓がグロテスクに強調されることが多いけれど、私がこれまで知り合った韓国人は、情が厚くて、人なつこい、好奇心旺盛、礼儀正しく、繊細な気遣いがある、はっきり意思表示するといった性質を持っている人が多かった。今回のモントリオール大学の研修で出会った韓国人の先生方も私が持っている韓国人イメージそのままの気持ちのよい人たちばかりで、研修中には数度にわたって一緒に外出し、食事をとった。今回の研修で親しくつきあった韓国人たちのなかでもとりわけ強い印象を残したのは、マリーさんだった。彼女は現在はカナダ国籍なので、正確に言えば韓国系カナダ人ということになる。15年ほど前に夫と子供二人でカナダに移住し、オンタリオ州にあるカナダ最大の都市、トロントに住んでいる。上の子供はもう働いていて、下の子供は高校生だとのこと。マリーさんの年齢はおそらく私と同じくらい、40代半ばかあるいはもうちょっと上ぐらいだと思う。研修ではよく発言し、質問する人だった。教室外で最初に彼女と話したのは、モントリオールの花火大会に出かけたときである。研修の授業中にモントリオールの花火大会の話が出て、そのときに彼女はクラス全員に花火大会へ一緒に出かけないかと提案したのだ。この花火大会には結局、日本人5名(私を含む)、韓国人1名、そしてマリーさんで一緒に行った。花火会場に行く前に、夕食を一緒にとったのだが、そのときの雑談で彼女が15年ほど前に家族でカナダに移住した移民一世であることを知った。
「カナダへの移住は、大きな決断だったでしょうね?」と尋ねたとき、
「いいえ。移住を決めたときには、私はそれが大きな決断だとは思っていませんでした」
と彼女はさらりと答えた。夫が移住を決めて、彼女も反対することなくそれに従ったと言う。自分には予想外だったこの返答に私はなぜか感動を覚えた。あとになって平田オリザの『その河をこえて、五月』という演劇作品を思い出した。日韓交流事業の記念公演として2002年に新国立劇場で初演されたこの作品は、ソウルの語学学校を舞台としている。韓国人と在日コリアン、日本人留学生とのコミュニケーションが描かれたこの作品では、当時の韓国の若い世代のカナダ移住について言及されていた。マリーさんがカナダに移住したのはちょうどこの作品が初演された時期と重なっている。
別の機会にマリーさんに再びカナダ移住について聞いてみた。
「あなたが移住したころ、韓国の若い世代のあいだでカナダ移住は一種の流行だったのですか?」
「そう、韓国では不況が続いていたので、カナダへの移住を私たちのように考える人は多かった。私たちは本当はアメリカに行きたかったのだけれど、アメリカはなかなか受け入れてくれそうになかったし」
「知り合いがカナダにいたのですか?」
「知り合いは誰一人いませんでした。でも何とかなるだろうと思っていた。実際にはカナダについてからのほうが大変だったけど。とにかく仕事を見つけるまでが本当に大変でした」
失礼な話なのだけれど、実は私は海外移民というと戦前、戦後の日系移民やパリにやってくる中国系、アラブ・アフリカ系移民のイメージが強くて、祖国では恵まれない貧困層の人たちが先進国の大都市に移住して活路を見出すというイメージがあった。もちろん経済的に成功して、裕福な生活を送っていれば、海外移住は考えないと思うのだが、韓国人や香港人のカナダ移住には、私の抱いていたステレオタイプとは異なる背景があるようだ。
マリーさんのフランス語は、他の韓国人とも異なる独特の訛りがあった。英語訛りでもない。ぺたぺたとした独特の響きで、ゆったりとこちらを説得するようなリズムがあって、私はその話し方が好きだった。授業中によく発言する人だったが、その独特の抑揚を持つフランス語を注意して聞いてみると、文法的に非常に正確なフランス語を彼女が話し、かつ語彙も豊かであることに気付いた。彼女はトロントで小学校の低学年の子供にフランス語を教えているというが、そのフランス語には教養が感じられた。
「あなたのフランス語は私の話すフランス語よりよっぽど正確だし、それに語彙も豊富ですね」
と聞くと、次のような答えが返ってきた。
「ありがとう。私は大学ではフランス文学を勉強していたのです。大学を出たあとは、日本にもこういった学校はあると思うのだけれど、通訳・翻訳者養成の学校に行っていました」
「結婚して、子供が生まれてから、フランス語の勉強を10年くらい中断していました。カナダに移住したとき、トロントは英語圏なので、英語を一緒懸命、勉強しましたが、フランス語の勉強も再開しました。私はフランス語のほうが好きなんです。一年ほど前から仕事としてフランス語を教えることができるようになって、本当に嬉しく思っています」
彼女の夫は経済学の研究者でカナダに移住する前は、大学の非常勤講師だったそうだ。韓国でも大学の常勤ポストを得るのは非常に難しく、それで韓国での研究者としての将来に見切りをつけて、カナダ移住を決意したとのこと。ただカナダでの職探しは想像していた以上に大変で、彼女の夫は現在、郵便局で働いているとのことだった。
研修期間中にモントリオール大学の書店で私は、モントリオール在住の韓国系ケベック人作家であるウーク・チョングの自伝的小説、『コリアン三部作』を偶然手に取った。在日コリアン二世の母を持つ彼は横浜の中華街で生まれたが、2歳のときに家族でカナダのケベック州に移住した。フランス語圏で教育を受けた彼の第一言語はフランス語となり、この小説もフランス語で書かれている。『コリアン三部作』の第二部のタイトルは「キムチ」であり、韓国との繋がりを失った彼が韓国系としてのアイデンティティのよりどころとしているのが家族の食卓に必ず上がっていたキムチであることが記されていた。私はマリーさんに尋ねてみた。
「キムチはトロントに住む今でも食卓に欠かせないですか?」
「私と夫にはキムチは不可欠。でも息子たちはそうでもない。なくても平気みたいです」
「息子さんもフランス語を勉強しているのですか?」
「上の息子はカナダに来たときには中学生だったので、英語を学ぶのが精一杯でフランス語は全然できない。今、高校生の下の息子はフランス語を勉強しているけれど、あまり熱心には学んでいない。モントリオールにある英語系大学、マギル大学の医学部に入るって言っているけれど、成績から考えると無理だろうな」
韓国からやってきた大学教員に、マリーさんがモントリオールの大学生を指しながら
「ねえ、韓国の学生たちも今はあんな感じで自由で楽しそうな学生生活を送っているかな? 私たちのころは、受験勉強ばかりで窮屈だった」
と聞いたことがあった。韓国の先生は、
「韓国は受験も大変だけど、学費も高いから、大学に入っても学生はバイトと勉強で本当に大変よ」
と答えていた。
研修中、韓国人同士は当然韓国語で話をするのだけれど、マリーさんは韓国人に話しかけるときも常にフランス語を使っていた。韓国人の先生もごく自然にフランス語で返す。こうしたやりとりを見ていたので、私は最初のうちはマリーさんが韓国語が不自由な二世ないし三世移民だと思っていた。3週間の研修の全プログラムが終了した日、私は韓国人グループにくっついてモントリオールの町を歩いて名残惜しんだ。マリーさんも一緒にいた。
マリーさんはそれまで韓国人ともずっとフランス語で話していたのだけれど、最後の夜の食事をベトナム料理屋で取っていたとき、気が抜けたのか韓国人グループは韓国語で雑談をはじめ、マリーさんも韓国語で会話していた。研修の全プログラムが終わった解放感と疲労で私はぼーっとしながら、韓国語の会話の音を聞いていた。マリーさんが後で気を使って
「ミキオ、ごめん。私たちはカナダのチップの習慣について話していたんだ。私は実はチップについては多く取りすぎだと感じている」
とフランス語で説明してくれた。