- 出演:のあんじー(栗栖のあ・アンジー)、猫道(猫道一家)、空風ナギ
- 会場:チャンドラ・スーリヤ(南林間)
- 2023年11月18日(土)18時〜20時45分
--------------
空風ナギは平原演劇祭の常連だった女優で、特に2019年から2020年にかけては武田さやと二人で孤丘座というユニット名で、高野竜とともに8回の野外劇公演を行った。新型コロナの世界的流行がはじまり、多くの人々が自宅に蟄居することを強いられた2020年4月に孤丘座の解散公演が行われ、それ以来、平原演劇祭が企画する特異な野外劇に果敢に挑む特殊女優から、「普通の女子大生」に戻ったのだと私は思っていた。確か2020年度は彼女の大学卒業年度だったと思う。
その孤丘座最終公演以来、平原演劇祭で彼女の姿を見ることはなかったのだけど、今年の二月に行われたのあんじーの栗栖のあの大失恋回復祈願公演(この公演後も長らくの間、のあは失恋の痛手をひきずり、ボロボロの状態だったようだが)のとき、久々に空風ナギに会った。そのときは彼女は出演者ではなく、観客として客席に座っていた。三年ぶりで、マスク姿だったため、最初は私は彼女に気づかなかった。大学の演劇科に学士入学し、演劇活動を再開するつもりだ、とそのとき、話してくれた。
大学時代にあまりにも特異で過酷だった平原演劇祭に深くコミットしてしまった彼女は、それゆえに私は演劇から離れてしまったのだと思っていた。実際、平原演劇祭に関わった女優でいなくなってしまった人は少なくない。一度大学を卒業した後、演劇科のある大学に学士入学したと聞いて、今度はいったいどんな演劇を彼女は目指すのだろうかと少し興味を持った。
演劇生活再出発企画として自分自身で「生誕祭」という公演をたちあげのには少し「おお」と驚いたし、そこにはのあんじーも参加するということだったので、告知が出ると私はすぐに予約を申し込んだ。
公演会場は小田急線の中央林間駅からさらに一駅行ったところにある南林間駅近くのネパール料理屋だった。下北沢で名取事務所の公演を見た後、南林間に向かったが、これが思っていたより遠くだった。町田、相模大野よりさらにかなたにある。
開演予定時刻の18時ちょっと前に会場についた。小さなネパール料理レストランに30人くらいの観客がいたのではないだろうか。観客の年齢層の幅は広くて、出演者と同世代の20代の人たちから、60過ぎのおっさん、おばさんまで。おすすめだというダルバード定食を注文したが、人が密集していてテーブルの上は他の人の注文で塞がっている。果たして食べられるのかどうかちょっと心配になる。
18時10分ぐらいにオープニング。ナギさんとパンダ、それから白布頭巾をかぶった人が出てきてグダグダと歌ったり、踊ったりして、強引に始めてしまうというかんじで。
オープニングのあと、最初にパフォーマンスを行ったのは、のあんじーである。ふたりで漫談風の自己紹介のようなことをやってから、岡本かの子の「星」の上演にすっと移る。漫談から本編への移行のしかたは落語を思わせる。のあんじー目当ての観客もいたようだが、このひきこみかたは手慣れたものだ。あらかじめ用意してあった卵をガラスの容器にいれ、それを二人の上腕部に挟む。卵が落ちないように、二人は身体をくっつけたまま、「星」のテクストを交互に語り始めた。「星」は岡本かの子がエジプトを旅行した際に見た星空について書かれた短いエッセイだ。センチメンタルで美しい詩的な文章である。あんじーの髪型と化粧は、テクストに合わせクレオパトラ風(?)になっているようだ。
単にテクストを朗読するのではなく、卵を使って、不動の状態で交互に語るという発想がおもしろい。のあんじーは野外劇ユニットで動きながら語るのが基本だが、ここではあえて動かないように自らを縛っている。岡本かの子の詩的なテクストの朗読の途中で、栗栖のあがクリスチャンとして旧約聖書のエピソードを強引に入れ込んでいくという仕掛けもよかった。この聖書解説に熱が入り、のあは身体を動かしはじめ、卵が落ちそうになる。その対応にあわてふためくあんじーの様子を観客が笑う。
余韻をもたらす最後の朗読のためもうまい。のあんじーは観客の反応をコントロールする術を心得ている。上演時間は35分くらいだったように思う。終演後、茹で玉子が観客に配られた。
のあんじーにつづいて、猫道一家の猫道のパフォーマンスが行われた。反復されるBGMに乗せて語られるリズミカルで私的で詩的な語りだった。このスタイルのパフォーマンスを「スポークンワード」と本人は読んでいる。ラップよりは、語りの要素が強い。そして語りのことばは詩的であり、物語的だ。フランスのslamはこれに近いと思う。
私が猫道のパフォーマンスを見るのはこれが初めてだったが、とても気に入ってしまった。自らの体験を歌うものが3曲、そして「失恋電気」という過去の失恋の体験ゾーンに入るとそこに電力が生じ、当事者が感電してしまうというナンセンスが1曲。私小説的な曲は、体験をslam化して、再構成することで、客観的で自虐的な笑いと文学性を獲得している。そして朗唱のリズムや力強さも印象的だった。言葉も動きもキレがあってかっこいい。日本語でのこの主のパフォーマンスを見たのは初めてだったのでとても新鮮だった。彼の公演はまた見てみたい。
個性的で印象的なパフォーマンスが二つ続いたあとに、生誕祭の主役の空風ナギの演目である。すでに行われた二つのパフォーマンスの強さに果たして彼女が対抗できるのかどうか、実はちょっと心配になった。主役の彼女がしょぼいものをやるわけにはいかない。彼女も自ら、自らのためのイベントを企画し、そしてこの二組の強烈なゲストを呼んだからには、相当な覚悟で挑んだはずである。私の心配は杞憂だった。空風ナギのパフォーマンスは、前の二つのパフォーマンスに対抗できる力強さを持っていた。いやむしろ、前の二つの演目との相乗効果で、さらにパワーアップしていたかもしれない。
それは数百枚の紙に書かれた彼女の自分史のエピソードの赤裸々な断章的告白だった。そこで告白されたのは、他人との関係性の構築で常に傷つき続けた自分のすがたである。自己愛に流されることなく、欺瞞に逃げる誘惑を退け、彼女は自意識と徹底的に向き合う。30分以上にわたってその告白は続いた。彼女はこの誕生日で新たに自分を産むと宣言する。その宣言は彼女の痛切な叫びであり、願いであるように思えた。