閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2025/08/04 前進座『張込み』『砂の器』《松本清張朗読劇シリーズ》@北とぴあドームホール

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前進座の公演は最優先で見るようにしているのだけれど、松本清張朗読劇はこれまで2023年6月に吉祥寺シアターで『或る「小倉日記」伝』一本だけしか見ていない。台本を手に持つ朗読劇は、演劇の本公演に比べるとその簡易版に過ぎない──そんな先入観から、無意識に優先順位を下げていたのかもしれない。このときの出演者は、柳生啓介さん、浜名実貴さん、中嶋宏太郎さんというSNSで交流のある俳優であり、前進座の俳優の中でも私が贔屓にしている方々だったことに加え、松本清張の芥川賞受賞作である『或る「小倉日記」伝』はとても好きな作品だったため、是が非でもという感じで見に行ったのだった。
 
この前進座版朗読劇『或る「小倉日記」伝』は、私が見る前に期待していたよりもはるかに素晴らしい舞台でだった。三人の演者の卓越した語りの技術、アンサンブルが作り出す緊張感に満ちた美しい舞台に、私は感動してボロボロ泣きながら見たのだった。作品自体も大好きな作品なのだが、上演作品としての完成度の高さが圧倒的だった。私はこれまでかなり多くのリーディング公演や朗読劇を見てきたが、完成度の点では前進座の松本清張朗読劇は他のものとは別格だと断言できる(もちろん、その場で初見でやるような即興性の高い朗読劇にも独自の魅力があることは言うまでもないのだが)。
 
今回は松本清張の初期の推理小説の傑作『張込み』と清張の代表作とされる『砂の器』の二本立てだった。会場は王子駅のそばにある北とぴあドームホール。元プラネタリウム劇場だった半円状のスペースで、すり鉢状の客席からはかなり急な角度で舞台を見下ろす感じになる。観客は100名ほどだった。高齢者が多い。上演時間は15分の休憩をはさみ2時間半だった。『砂の器』は長編小説なので、朗読劇版ではかなり圧縮されていることになる。 三人の俳優が、声色を巧みに使い分け、複数の登場人物を演じていく。声優の吹き替えのような過度なデフォルメはなく、あくまで抑制の効いた表現が、かえって観客の想像力を掻き立てる。客電は落とされるが、俳優たちを照らすスポットは柔らかい落ち着いたオレンジ色だ。朗読劇によっては、俳優たちが立って動き回るスタイルのものもあるが、前進座の松本清張朗読劇は、俳優が椅子に座り、マイクを通して語る静的なスタイルを貫いている。俳優を照らすのは柔らかいオレンジ色のスポットライトのみ。派手な動きを排する一方で、ラジオドラマのような効果音や、声にかけられるエコーなど、音響面の演出は緻密で豊かだ。
『張込み』は1955年、『砂の器』は1960年の作で、いずれも戦争の影を色濃く引きずり、貧しさが遍在していた高度成長期前の日本社会の様相が作品に投影されている。『張込み』は、逃走中の殺人犯が北九州に住むかつての恋人のもとを訪れるに違いないと確信した刑事が、既に別の男性の後妻となっていた元恋人の家の前にある宿で張込みを行う。そしてその刑事の読み通り、殺人犯は元恋人に会いにやって来た。再会の際に語られる二人が歩んできた、そしてそうならざるを得なかった厳しく、辛い人生が、胸を打つ。彼らもまた、当時あまたいたであろう、戦争という「災厄」のあと、よるべなき状態でもがきながら生きてきた被害者だったのだ。かつての恋人との束の間の再会、それは二人にとって選択可能だったつらい人生からの唯一の解放の夢の時間だった。クライマックスはもちろんかつての恋人同士の再会の場面だ。殺人犯とその元恋人と、その語らいに耳を澄ませる刑事のトライアングルの場面を、三人の俳優が情感豊かに声によって浮かびあがらせる。観客の私も刑事と一緒に、その痛切な愛の語らいにじっと聞き入った。
 
『砂の器』はかなり長い小説なので、朗読劇にするにはかなり大胆なテクストレジが必要となる。前進座松本清張朗読劇版では、上演時間は1時間15分ほどだったと思う。休憩後、三人の俳優は衣装を着替えていた。こうした細かいところにも配慮がある。松本清張朗読劇では、照明などによる視覚的な表現、身体的な動きによる演出は徹底的にコントロールされストイックに切り詰められている一方、音響的な面ではそのままラジオドラマとしても成立するレベルで配慮されている。「音声」だけでも十分に商品となる完成度なのだが、しかし俳優の身体が不要かといえばそんなことはない。ここで改めて思うのは、朗読劇における俳優の「身体」の意味だ。前進座の朗読劇は動きこそ少ないが、俳優の身体の有無は決定的に重要だ。その佇まいや微かな仕草が、観客の想像力を刺激し、物語の情景や人物を立ち上がらせるきっかけとなる。声と身体が一体となって、観客の頭の中に「その場にいないはずの誰か」を現出させる。これは名人芸の落語にも通じる体験かもしれない。
 
『砂の器』では、とりわけ浜名実貴さんの声による人物の表象の見事さに感嘆した。バーのマダムから始まり、子どもから老婆までの様々な年代の人物を浜名さんの声の芝居は、実に自然にかつ明確に表現していた。松本清張の代表作とされる『砂の器』も、ハンセン病差別の問題と戦前戦後の激動期をなんとかして生き抜かなければならなかった人間の悲痛な状況への共感が込められたドラマだ。作品発表当時の昭和三十年代には、この作品を読んで戦後の激動期を生き抜くためにやむを得ず行った自らの言動を思い起こし、心のうずきを感じた読者も多かったのではないか。90分の尺のなかに、不自然で説明不足の展開にならないよう台本は作られていた。むしろドラマ性はこの長さと朗読劇というシンプルな上演形態ゆえに凝縮されていたようにも思う。最初から最後までピンと張り詰めた緊張感のある上演だった。息を呑んで聞き入り、上演後にようやくふっと息がもれるような。
ところで松本清張は今ではどれほど読まれ、知られているのだろう。その作品はしばしばテレビドラマ化や映画化がされているので、それを通じて知っている若い世代もいるかもしれない。しかし司馬遼太郎ほどの認知度は今ではないように感じられる。私が中学生の頃、父の本棚には清張の文庫本がずらりと並び、片っ端から読んだものだ。『砂の器』に描かれた時代背景など、当時は全く想像もできていなかったが、それでも夢中になった。 当時読んだ清張の作品で一番印象が強いのは、彼が小説家として世に出るまでの苦難に満ちた生活を書いた自叙伝、『半生の記』である。1992年に亡くなった清張は、忘れられた作家では決してない。ただ、完全に「古典」として定着するには、まだ少し時間が熟成されていないのかもしれない。中途半端に歴史的であり、同時に現代的でもある。そんな過渡期にいる作家だからこそ、今、朗読劇というかたちで前進座が光を当てる意味がある。前進座の「松本清張朗読劇シリーズ」は、北九州市立松本清張記念館のプロデュースで2003年に始まり、毎年上演が続いているという。これほど質の高い朗読劇を通して、松本清張文学の遺産を次世代に継承していっくことの意義は大きい。一観客としてこの企画を追い続けたいし、一人でも多くの人にこの素晴らしい舞台が届くことを願っている。そしていつかは、小倉の松本清張記念館でこの公演に立ち会いたい。