石神井東中学演劇部OBOGと有志によって結成された劇団サム、今年は10周年で、今回の公演が第11回公演となる。今回も石神井東中学演劇部との共演となった。7/27(日)と8/2(土)の二回の公演だったが、私が見に行った8/2(土)の公演は予約で満席という盛況だった。会場の練馬区立生涯学習センターのホールの座席数は300席である。おそらく2回の公演で500人以上の動員はあったのではないだろうか。公演前日の8/1の夜のxの投稿で、8/2の公演が満席になったことが投稿されて、自分が予約していたかどうか不確かだったのでちょっと焦る。予約はしていた。開場時間が13時だったのに、開演時間が13時だと勘違いしていて、12時半ちょっと前に会場につくと、「満席」のわりには人がいないので「あれ?」と思う。13時直前になっても受付が始まらないので、「どうなっているんだ?」とちょっとイライラしていたら、開演時間は13時半だった。ホールの入り口に入場待ちの長い行列ができているのに、劇団サムのスタッフたちの高揚感と緊張感が伝わってきた。やはり演劇公演は満員の客席から見たい。

劇団サムによる演目上演の前に、石神井東中学演劇部の現役部員たちの公演がある。7/27と私が見に行った8/2では演目が異なっていて、私が見に行った8/2に上演されたのは山﨑伊知郎作『となりのエーミール』だった。作者の山﨑伊知郎は中学演劇の指導者で、今回の公演を見に来ていた。中学校内のダンス・コンクールで、「ハリマ」(名前は違ったかもしれない)という女の子がグループ・リーダーに立候補する。しかし先生たちは、ハリマさんがリーダーとなったことに懸念を抱いている。ダンス・スクールに通う彼女のダンス技術は確かなものだったが、完璧主義者であるために、彼女は周りに対して厳しくなってしまうことがあって、そのためクラスの他の子どもたちからは孤立していた存在だったからだ。周囲の生徒たちは彼女を、ヘルマン・ヘッセの小説『少年の日の思い出』に登場する、プライドが高く嫌味な少年「エーミール」になぞらえて、「エーミール」というあだ名で呼んでいった。ヘッセの『少年の日の思い出』は中学一年の国語教科書に採択されいる短編小説で、中学生の多くにはなじみの作品とのことだ。案の定、高いレベルのものを求めるハリマさんの高圧的な物言いはダンス・グループの他のメンバーの反発を招くが、彼女にはどうすればいいのかわからないし、先生たちも介入しがたい状況になる。劇中劇で『少年の日の思い出』の抜粋が上演され、それがハリマさんの状況と重ねられる。最終的には彼女の苦難は乗り越えられ、ダンス・コンクールを迎えることになるのだが。上演時間50分の中学演劇としてはフルサイズの公演だった。舞台に登場する出演者数は20名を超え、裏方まで含めると30名近くが参加した公演だった。石神井東中学演劇部は今でも人気部活のようだ。演劇部というと女の子が多いイメージがあるが、石神井東中学演劇部の場合、男子の比率も半分近くある。これはそのOBOG劇団の劇団サムも同様である。中学一年生の部員も多数いた。つい数ヶ月間まで小学生だった彼ら、彼女らが、学校外の施設で、大勢の観客を前に演じる気持はどんなものだっただろう。演劇的状況とは「AがBを演じ、それをCが見ているということ」とアメリカの演劇評論家のエリック・ベントリーは言った。中学演劇で演じる中学生たちを見ていると、自分が自分以外の何者かを演じること、そしてそれを観客という他者の前にさらすことから得られる解放感や、この一連の行為に内在する教育力について考えてしまう。『となりのエーミール』は、国語教材の「少年の日の思い出」の劇中劇パートはあるが、現実の中学校の生活のシミュラークルでもある。この劇では、学校が一般社会のミニチュアであり、学校という制度の枠組みのなかで子どもたちが「社会化」される状況が提示されているともいえる。大人の観客としてこの芝居を見ていると、十代前半の子どもに学校が驚くほどの負荷を与えていることに気づいた。組織のなかで「ハリマ」さん的な立場の人はいる。そして大人の社会でも、「ハリマ」さんが集団と折り合いをつけ、方向付けしていくことは、時に非常に難しいことだ。中学生が主人公の作品なので、リアルな中学生が演じるのが最も説得力がある。また先生役の生徒たちも、いかにも先生っぽい人物を記号的に表現していたのがよかった。発声の不安定さや最後に見せ場となるはずのダンスシーンの躍動感やキレは今ひとつだったが、ある種のリアリズム演劇として、面白く見ることが出来たし、見た後で学校と言う集団の特性について考えさせるいい芝居だった。終演後のカーテンコールでは、この公演に関わっていた出演者全員と裏方、約30名が全員挨拶をした。拍手を浴びた彼らは大きな達成感と悦びを得たに違いない。
休憩をはさんで劇団サムによる上演となった。今回はまず『お化け屋敷』(笹沢茶々丸作)という15分ほどの短編戯曲が上演され、続いて『おへその不在』(池亀三太作)が上演された。前者の演出は劇団主催の田代卓、後者の演出は、田代卓の教え子であり、石神井東中学演劇部の部長でもあった今泉古乃美である。劇団サムの公演になると、さすがに中学生とは俳優の練度が違う。仕事や学校の傍らの演劇活動とはいえ、中学卒業後も演劇部の同志たちと芝居をやりたいと集まってきた人たちなので、声の通りかた(発声)や表情、動きがやはり「プロ」っぽくなるのだ。私は2017年夏に行われた劇団サムの第2回公演以来、ほぼ毎年一回のペースで行われる劇団サムの公演を9回見ている常連観客なので、劇団サムの公演の出演者の何人かには見覚えがある。中学校だけでほぼ生活が完結してしまう中学生の部員とは異なり、劇団サムのメンバーは、劇団とは別の学校や仕事などの世界をメインフィールドとしている。そうした外側の世界での経験と年齢による成長、変化がサムの俳優たちの姿形や演技に反映されているのが、劇団サムを定点観察している観客として興味深い。当然、公演ごとの劇団サムのありかたの変化も感じ取っている。
『お化け屋敷』が始まり、劇の外枠を担うストーリーテラー役の今泉さんが舞台に登場し、発声するだけで、さっと劇場の空気が変わり、演劇の時間が始まる。『お化け屋敷』はそのタイトルが示す通り、コメディ/ホラーものだった。とあるお化け屋敷の控え室が舞台である。筋書きはシンプルで展開もすぐに読めてしまうものだったが、俳優たちのお化けメイクとお化け芝居が秀逸で、俳優たちもそのコスプレを楽しんで演じている感じがある。演技のテンポや幕外から聞こえてくる叫び声などの音響のタイミングも適確で、完成度の高い舞台だった。小さな子供の観客などは本当に怖がったかもしれない。
さて今回の公演の《本編》となる『おへその不在』である。『おへその不在』の作者の池亀三太は2006年に旗揚げされた《ぬいぐるみハンター》の主宰で、2018-22年まで王子小劇場の芸術監督も務めていた人物だ。『おへその不在』は2019年に下北沢のOFF・OFFシアターで上演され、YouTube上に上演映像も上がっている。 https://youtu.be/kIYhJwT8RGI
劇団サムの公演演目としては、『おへその不在』は異色の選択と言えるかもしれない。劇団サムは中学演劇部を母胎としていて、その後も中学演劇の指導者である田代卓さんが演出を担当していたこともあって、その上演作品は基本的に中学・高校演劇で取りあげられる作品、あるいはその系譜にある作家の作品が中心だったのだ。例外は私が見た中では、2022年9月に上演された清水邦夫作『楽屋』だろう。https://otium.hateblo.jp/entry/2022/09/26/033952
『おへその不在』は劇団サムが手がけるはじめての小劇場系の作品ということなる。今作の演出は田代卓さんではなくて、今泉古乃美さんだ。劇団10年目を迎えたサムが、新しい方向を足を踏み入れようとするマニフェストのような選択である。『おへその不在』は、葬儀屋に勤める長女、ぼたもち屋で修行中の次女、高校生で合唱コンクールを控えている三女の三人姉妹(親は登場しない、いないようだ)を中心に、エキセントリックな人びとが登場するちょっとシュールな不条理ドタバタ喜劇だ。その場での思いつき、あるいは夢の場面が連鎖していくようにストーリーが展開していく、捉えどころのない物語だった。上演時間は90分ほどだったと思う。 正直なところ、不条理喜劇としては特に面白い戯曲とは思わなかった。小劇場演劇は2000年代からけっこう見に行っているのであるが、「面白さ」の感性には世代差があるように感じてしまう。小劇場の場合、観客と作り手の年代層が重なる場合が多い。演者とともに観客層も年を取っていく。10年のスパンで演劇活動を続ける劇団は少ないので、気がつくと観客も小劇場通いをやめてしまう。『おへその不在』もいかにも小劇場(あるいは学生演劇)が目の前の観客を意識して創ったような作品で、それを受容する客層の幅は広くないように思った。突発的なギャグの切れ味は抜群で、客席から何度も笑いが起こっていた。一方で、物語全体としては、そのシュールで連鎖的な展開に、好みが分かれる部分もあるかもしれない。私自身は、個々の面白いシーンが、作品全体の大きなうねりにどう繋がっていくのかを掴むのに少し難しさを感じた。しかし、こうした挑戦的な戯曲に劇団が取り組んだこと自体に、大きな意味があるのだと思う。
俳優陣では常連の次女役中村かのんさんやぼたもち屋娘の福澤茉莉花さんのはじけた演技のコメディエンヌぶりは可愛らしく、楽しかったし、今回の公演では男性陣の俳優のがんばりが印象に残った。なぞのぼたもち屋の師匠を演じた河野雅大さんの怪しさ満点の怪演ぶりや、猫田茂雄さんの脱力感と爆発・崩壊が共存するエキセントリックで思い切った表現がよかった。
あと、三女のまるこ役の小森萌以さんが、素朴な魅力にあふれていて役柄に合っていたのがよかった。それぞれの俳優が自分の役柄を楽しげに演じているのはよかったが、全体のバランスというか色調は、若干バラバラでまとまりに欠けているようにも感じた。
これまで劇団サムは田代卓先生の指導のもと、中学演劇の延長戦上で公演を行い、そのその制約と精神性をOBOGたちが引き受け、発展させることで独自の演劇環境を作り出した。しかし団員たちが成長することで、これまでの無難で健全な主題の演劇とは別の演劇世界に足を踏み出したくなるというのはよくわかる。成長した彼らが生きているリアリティともっと直接つながるような表現を求めたくなるかもしれない。しかしそこでどのような作品を選択するかが問題になってくるだろう。基本、アマチュア演劇なのだから、劇団の中核メンバーがやりたいものをやればいいのであるが、劇団サムの場合、団員を結びつけているのは「石神井東中学演劇部」での体験であり、田代卓先生というカリスマ的指導者なのだ。これまでは先生が選択した作品を、先生の言うまま上演すればよかった。新しい世代が中心となり、劇団の新たな方向性を模索していく中で、これまで大切にしてきた「石神井東中学演劇部」というルーツをどう継承し、発展させていくのか。それは、他の多くのアマチュア劇団にはない、劇団サムならではの豊かさであり、同時に大きなテーマになっていくのかもしれない。若い劇団員にとっては、時に難しい舵取りを迫られることもあるかもしれないが、その過程も含めて、劇団サムの新しい物語になっていくのだと思う。田代卓先生のあと、劇団サムとはなにか、そしてそこでどういうかたちで活動が可能であり、どういう演目を選択すべきであるかを、劇団の主要メンバーで話し合い、考えなくてはならない時期に来ているともいえる。
劇団サムが結成された頃、科研費のグループ研究で、地域素人演劇の研究を行っていた私は、中学演劇部を母胎とする劇団サムが継続的に10年間、公演を続けていくことができれば、きわめてユニークなアマチュア演劇活動の事例になるのではないかと思っていた。中学を退職されていた石神井東中演劇部の元顧問で、劇団サム主宰の田代卓先生にそのようなことを言うと、「いやあ、さすがに10年は無理でしょう」とおっしゃっていた。しかし10年続いてしまった!活動継続にあたっては団員たちの求心力が弱まり難しい時期はあったとは思うが、それを乗り越えて10年間継続的に公演を打ち続けることができたのはすごいことだと思う。 劇団の運営も10年目を迎えた今年から徐々に変わっているようだ。これまでは石神井東中学演劇部顧問の田代卓先生が中心になって劇団を引っ張ってきたが、田代先生が演劇部顧問時代に部長だった今泉古乃美さんを核に劇団が引き継がれつつあるようだ。今泉さんは、現在、東京都の中学校の教員をされているとのこと。中学校勤務と言う多忙な業務のなか、高校生から社会人までのさまざまなモチベーションと状況の団員たちを率いて、公演を作っていくのはさぞかし大変な作業に違いない。しかしこのユニークな演劇文化が、後継者を得て、次世代に継承されるのは素晴らしいことだ。劇団サムは参加者の多くにとっては、自分たちの青春の原点であり、拠り所として立ち帰るふるさとのようなものになっていると思う。この演劇のふるさと、同窓会としての演劇が、今後、どのように継承され、変わっていくのかを、私は今後も観客として見守っていきたい。
