閑人手帖

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平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

平原演劇祭2020 一年劇団・孤丘座解散野外劇「奉納 人生は長いのだろう #橋の下演劇」」

 

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2020/4/5(日) 11:00-16:00
場所:多摩川左岸 是政橋下
1000円+投げ銭
出演:
武田さや、空風ナギ、アンジー、栗栖のあ、ひなた、もえ、夏水、青木祥子

「詩とは何か」(もえ)「ねむりながらゆすれ」(ひなた)
ブルーサンダー」(夏水、詩:暁方ミセイ)
「河原のかはたれ」(全員)

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高野竜が主催する平原演劇祭は一年に6、7回の公演を行うが、ここ数年は春の公演は西武多摩川線の終点、是政駅の近くにある小さな喫茶店豆喫茶でこを借り切って行われるのが常だった。

今年は喫茶店内ではなく、多摩川の是政橋の下での野外劇となったのは、コロナウイルスの問題があったからである。高野竜が公演場所の変更の決断をしたのは2月前半で、横浜停泊のクルーズ船でのコロナウイルス感染が問題になりはじめた頃だった。

この頃は日本でのコロナウイルス感染は、クルーズ船を除いてはごく散発的な感染者しか確認されておらず、高野竜のこの判断を私は「それにしても、野外劇に変更しなければならないようなものなのかな」と私は思っていた。多摩川河川敷、是政橋の下で演劇上演が行われるはこれがおそらく初めてだったはずで、役所等の許可を取るのはいろいろとたらい回しされかなり大変だったようだ。

結果的に高野の判断は正しかった。いや日本のコロナウイルス状況は高野が想像していた以上に進んでいたかもしれない。

東京は週末は「不急不要の外出自粛」の要請が出ていた。東京都がこうした要請をするよりずっと前から、私は3/15(日)にフランスから帰国して以降、自主的に外出をしないようにしていたのだが、この平原演劇祭だけは行かずにはいられない。

今回の公演は、大学生の武田さやと空風なぎがメンバーの一年限りの劇団、孤丘座の解散公演だった。昨年の3/31に立ち上がった高野竜と二人の女子大生俳優の一年劇団は、今回の公演も含め8回(!)の公演を行ったが、この七回の公演のいずれもいわゆる普通の劇場とは異なる特殊な環境で行われた。もともと高野竜の平原演劇祭では劇場ではない場を利用した公演が主なのだが、孤丘座の公演はとりわけ平原演劇祭の野外公演の可能性を追求するものとなった。洞窟や真夜中の山の中、崖の下といった演者にとっても、観客にとっても過酷な場所での公演が多かった。若い女性の二人が、高野竜のどうかしている演劇によくも一年間、脱落することなく付き合ったことだと思う。私は自分の体調不良や仕事の都合などで、残念ながら孤丘座の公演をいくつか見逃している。

しかし高野と空風なぎ・武田さやの一年の活動の集成となる今回の公演だけは何としてでも見にいかなければならないと思っていた。空風、武田の最終公演であるだけでなく、のあ、アンジー、ひなた、夏水、青木祥子といった最近の平原演劇祭のスターが勢揃いする公演でもあった。

「自粛要請」は出ているが、「外出禁止令」は出ていない。コロナウイルス感染拡大の状況から東京都のロックダウンは必至だと私は考えていて、平原演劇祭の日よりまえにロックダウンが宣言されることを恐れていた。幸いロックダウンは発令されなかった。

ロックダウンは発令されていないとはいえ、感染拡大には当然配慮しなくてはならない。私の家から是政までは22キロほどの距離があるが、今回は半月以上の引きこもり生活の運動不足の解消もかねて、自転車で現地まで行くことにした。6段変速のママチャリで80分ほどで到着した。東京の西側は平坦で坂道があまりないので疲労はそうでもない(と思っていたのだけれど、翌日に一気に疲労がやってきて身体が重かった)。

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平原演劇祭の広報はほぼツィッター頼みだ。上演によっては観客が数人ということもたびたびある。今回は東京のはずれのかなりへんぴな場所での野外劇で、さらに「外出自粛要請」期間中ということでどれくらいの観客が来るのかなと思ったら、河原の橋の下には30人ほどの人が集まった。変わった場所でゲリラ的に独創的な公演を行うということで、平原演劇祭の認知度も高まっているのかもしれない。

野外劇上演となった今回の平原演劇祭だが、会場となった河川敷には仮設舞台も客席も用意されていない。風が吹き抜ける是政橋の橋の下の空間全体が公演会場となり、観客は俳優の動きに合わせてぞろぞろと移動する。30人ほどの観客の半数は若い女性で、半数はおっさんだ。

開演前の挨拶で平原演劇祭主催の高野竜が「これからは野外劇がどんどん盛んに行われるようになるような気がします」といったことを言っていたが、高野竜ほど野外劇の可能性を突き詰め、上演空間の特性を引き出すような戯曲を書き、演出し、公演を行うことのできる演劇人はそうそういないだろう。

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演劇祭は現役女子高生によるモノローグ劇「詩とは何か」から始まった。是政で「詩とは何か」が上演されるのはこれが九回目になる。毎年演者は変わるので主人公を演じる高校生女優も今回のもえが九代目となる。ただし野外でこの演目が上演されるのは今回が初めてだ。

高校に通うのをやめてしまった一人ぼっちの女子高生が家の近所の高台から駅前の広場の様子を望遠鏡で眺める。駅前広場にはいつも同じナンパ師がいて、ひっきりなしに女性に声をかけている。しかしめったに成功しない。女子高生はこのさえないナンパ師がなぜか気になって、いつもその様子を望遠鏡越しに追っていたが、ある日、彼が啞であることに気づいてショックを受ける。ジェスチャーと筆談で彼はナンパを続けていたのだ。望遠鏡で数百メートル離れた高台からこっそり彼を見ていたのに、彼がこちらを向き、手を降って挨拶をしたような気がした。

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高野竜は優れたモノローグ作品を何編も書いているが、そのなかでも現役女子高生劇「詩とは何か」は鉱物の結晶のような美しさを感じさせる傑作だ。思春期の女性に特有のはかなくさ、うつろいやすさ、不安定さがもたらすきらめきが、「詩とは何か」には凝縮されているような気がする。「詩とは何か」を他者の前で演じきったあと、高校生の女優は思春期のある段階を終え、次の段階の女性へと変貌していくように思える。「詩とは何か」はその変貌の様子を上演の過程で目の当たりにすることができる作品だ。

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野外劇の「詩と何か」は、橋の下の空間を広く使って演じられた。最初はコンクリートの橋脚の壁をバックに始まったのだが、そこから周りを囲む観客に分け入り、どんどん橋桁のしたの河原を移動していく。演者と観客、そして是政橋したの広い河川敷が、すばらしい演劇的空間を作り出していた。

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もえの「詩とは何か」は、シームレスにひなたの「ねむりながらゆすれ」に引き継がれた。「詩とは何か」を語り終え、河原に置かれた椅子に横たわるもえに向かってひなたは遠くから駆けより、語りかける。

「ねむりながらゆすれ」も女優一人によるモノローグ劇だが、4人の年齢、国籍の異なる人物の語りからなり、東欧のモルドバルーマニアの東にある国家)にある沿ドニエストル地域の独立問題という大半の日本人にはなじみのない事柄が語られていることもあって、上演中は内容がほとんど理解できなかった。先程mixiに高野竜が公開してる戯曲を参照して、ようやく何がどのように語られていたのかが何となく理解できた。

芝居の内容はほとんど理解できなかったのだが、すらりとした体型の長身女優のひなたが、河原を駆け回り、時折河原の地面に身を投げ出し、服や手を泥だらけにしながら、4人の人物へと化身していくさまを、風景とともに楽しんだ。高野竜の戯曲は「詩劇」と称するにふさわしい文学性の高い美しいテクストなのだけれど、平原演劇祭で上演される際には高野は自作のことばが明瞭に観客に伝わることを重視していない。テクストに書かれたメッセージの内容よりも、ある風景のなかで、俳優の身体を通して、彼の書いた言葉が発声されるという状況が重要であり、それが上演の場所を異世界に変容させる。変容させるというよりは、戯曲、俳優、観客の存在によって、作品が上演されている土地が内包している潜在的な世界を呼び出すという感じかもしれない。面白みの乏しい散文的風景に内在する驚異の豊饒さを、平原演劇祭は浮かび上がらせる。俳優により声という実態を持つことで戯曲のテクストは、土地の魔法を引き出す呪文のように機能する。俳優は呪文を伝える神官のようであるし、観客はそこでたち現れる不思議な世界に取り込まれ、風景の一部となる。

ひなたの「ねむりながらゆすれ」の終演後、観客たちは橋脚の向こう側、是政橋の中央部、多摩川の流れのそばに誘導された。川のそばで観客を待っていたは、夏水である。

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夏水がやったのは、暁方ミセイの詩集『ブルーサンダー』を歩きながら朗読するというものだった。歩きながら詩を読み上げる彼女に、観客がぞろぞろついて行くだけなのだが、その歩くルートが河川敷の未知なき道をかきわけてというかなり過酷なものだった。夏水はときおり立ち止まることもあるけれど、基本的には観客を気にすることなくマイペースで歩きながら、次々と詩を静かに読み上げる。しかしとにかく道が悪い。ごつごつとした河原の石の上、水浸しになったドロの上や急斜面の土手、雑草の生い茂るなかなど、道なき道を進んでいくのだから、片手に詩集を持ち、息を切らさずに平然と読むのは実はかなり大変なのかもしれない。

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観客には若い人もいたが、運動不足のおっさんもいて、夏水を追いかけるのはかなりの難行だった。30人近くの観客がいたので、この歩行詩の行軍は難路ゆえに必然的にばらけてしまい、詩のテクストの内容を味わうどころではなかった。暁方ミセイの詩はかなり難解といってよく、言葉の連ねに意味を辿ろうとすると、さっと逃げていってしまうようなところがある。是政橋を通行する車の走行音や河原に吹く風の音、そして南武線を通過する列車の通過音で、朗読の声はしばしば妨げられた。南武線には詩集のタイトルである貨物列車の「ブルーサンダー」が朗読中に通過したが。夏水はそんなことを気にかけている様子はみられない。

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こうした歩行詩はなんと一時間近く続いたのだ。一時間近く、時折小雨のぱらつくなか、寒い思いをしながら無造作で殺風景な多摩川河川敷を、女優が語る詩の言葉の断片を追いかけながら歩き回った。さすがにあの荒野を一時間歩いて疲労した。詩の内容はほとんど理解することはできなかったが、詩の世界は存分に体感できたように思う。

歩行詩のあとに昼飯・トイレ休憩が入った。私は是政駅前のコンビニで買ったおにぎりとせんべいを橋桁の下の斜めになったところに座って食べた。川からコンビニまでは歩いて10分ほどだったので、午後の部の開始前にコンビニに寄ってトイレもすませておく。

午後の部が始まったのは午後1時40分頃だったと思う。午前の部はモノローグ劇2本と詩の朗読という単独の俳優によるパフォーマンスだったが、午後は全員が出演する「河原のかはたれ」という演目一本だった。

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この「河原のかはたれ」も平原演劇祭ならではの破天荒な怪作多摩川河川敷の開放的な空間をダイナミックに利用した壮大な作品だった。外枠は俳優が自分自身を演じる私的な語りである。その自分自身を演じる俳優たちの会話を外枠にして、そのなかに既存のメジャー作品の自由で奇抜な引用・パロディを挿入するという破天荒なコラージュだった。

外枠となる俳優たちの私的な語りは、俳優たちが素の状態で即興的にやられているような自然さで提示される。その内容も俳優たちのリアルの生活と結びついたものだ。この素の状態と映画の場面のパロディというあからさまな虚構のコントラストの大きさが愉快だ。

しかし上演時には私が俳優たちの「素の語り」だと思っていた台詞が、実は事前にしっかりテキストとして書き込まれたものであり、俳優たちは脚本に記されていた「自分」を演じていたことが、後で台本を購入して読んだときにわかって「やられた!」と思った。

さらにそのリアリティに満ちた語りの内容も虚構だったことが、さらにそのあとに判明して、二度「やられた!」と思う。高野竜の作品を何年も見ているのに、また私はだまされてしまった。

私的な語りのパートで、ともに大学4年の孤丘座の武田さやと空風なぎは自分たちの卒論のことを話す。イエイツの「骨の夢」を卒論とするさやはその内容を的確にレジュメしてみせる。空風ナギは「うないをとめ」の伝承を卒論とし、この伝承をもとにした謡曲の一節を朗唱する。私は本気で彼女たちふたりがこれらの作品を卒論の題材にしていると信じてしまったのだ。それくらいリアルなやりとりだったのである。

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 引用された作品すべてを私は把握していない。最初は平原演劇祭では古典といっていい『ジョジョの奇妙な冒険』からの引用だったらしい。これは私はわからないかったが他の人のツィートを読んで知った。私がわかったのは映画『復活の日』、『OK牧場の決闘』、『下妻物語』ぐらいだ。他にもあるに違いにない。

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およそこれらの作品の本格的なパスティーシュなど再現不可能な状況と俳優を使って、それらを強引につないで不可解で奇怪で混沌としたファルスを成立させてしまうのが高野竜の平原演劇祭のすごいところだ。無茶苦茶すぎてなにがなんだかよくわからない。でも面白い。

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この破天荒でエネルギーに満ちたファルスが是政橋の河川敷の空間で展開する。こんなに壮大で自由で突き抜けたスペクタクルを他のどこで見ることができるだろうか。

公演当日は風が強く、時折小雨が降る寒い日だった。多摩川の水はどろっと濁っている。俳優たちは河川敷の地面に転がり泥だらけになり、そして冷たそうな河のなかに入って行った。その勇ましさには「おおっ」と感嘆の声を上げてしまう。

過酷な上演状況のなかでもがくように演じる彼女たちが話す言葉は広い河原で必ずしも明瞭に聞こえない。しかしその身体と声は、俳優たちを見守る観客の存在とともに多摩川の風景と一体化し、広大な彼方の世界への連続を感じさせるものだった。

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最後は出演者全員による合唱で終わり。壮大なスケールの猛烈にばかばかしいファルスの幕切れにふさわしい牧歌的で学芸会的な終わり方だ。

孤丘座のふたりは、一年前はまあどこにでもいそうな女子大生という感じだった。この二人が一年間、高野竜のあまりに独創的で特殊な演劇を完走したことはおおいにたたえたい。彼女たちが望んだことだとはいえ、よくこんな無茶苦茶な演劇活動を脱落せず一年間持ち越えたものだと思う。高野竜はよくもここまでボロボロになりながら一年間責任をもって孤丘座の活動を全うしたなあと思う。

今回野外劇となったのは、コロナウイルス感染拡大という三ヶ月前には誰もが想定しなかった事態ゆえだが、このおかげで孤丘座は祝祭感に満ちた破格のフィナーレを迎えることができた。