閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

人情噺小判一両

昨年ク・ナウカの上演でみた,宇野信夫作『巷談宵宮雨』は傑作だと思ったのだが,今日の『人情噺小判一両』は作品,演出ともに現代の芝居としてはかなりつらい作品であると思った.話の展開からして,現代人の感覚ではかなり無理があるのである.


菊五郎演じる笊屋が凧を盗んで折檻される子どもをかばってやる.その父親は落ちぶれた浪人侍で,父子の境遇に同情した笊屋は,父が固持するのもかまわず,自分が父の形見として持っていた一両小判を子どもに恵んでやる.その始終を見ていた吉右衛門演じるお侍は,笊屋の温情に感激し,笊屋を料理屋でもてなす.すると笊屋は「影で芝居をみるみてぇに人の善行を喜ぶなんて趣味が悪い.そんな偽善じゃなくて,あんたがあの浪人に直接声をかけて力づけてやるべきだ」と正論を吐き,侍もそれに同意.
そして二人で浪人宅に行くと,浪人は行きずりの町人風情に情けをかけられたことを恥じて自害していた.

この状況を恥じてガキを残して死ななきゃならない浪人の気持ちというのが理解不能.少なくとも現代の聴衆には説明不足であるように思う.かけた善意が悲劇を生むというパラドックスが劇の核なのだが,それにしては台詞が空虚で軽い.この手の話を中途半端な写実的演技でやられると役者が本当に大根に見えてしまう(子役がどうしようもなく下手なのは仕方ないとして).
せっかくの『京鹿子二人道成寺』の美しい余韻をうちけすような後味の悪い結末.こんな凡作を敢えて今プログラムに組み入れるのにいったいどういう意味があるのだろうか?