閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。

マームとジプシー
http://mum-gypsy.com/archive/9.php

  • 作・演出:藤田貴大
  • 舞台監督:森山香緒梨
  • 照明:吉成陽子、富山貴之、山岡茉友子
  • 音響:角田里枝
  • 舞台美術:細川浩伸
  • 宣伝美術:本橋若子
  • 制作:林香菜
  • 出演:伊野香織 石井亮介 荻原綾 尾野島慎太朗 斎藤章子 高山玲子 成田亜佑美 波佐谷聡 召田実子 吉田聡
  • 上演時間:110分
  • 劇場:三鷹芸術文化センターほしのホール
  • 評価:☆☆☆☆
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道路拡張工事のため、百年前に建てられた「我が家」が解体されてしまう。その家で育った姉、弟、妹の三人の孫たちは今はそれぞれ別の場所に住んでいる。解体のはじまる日の朝、結婚した姉はプールに行く夫と子供を見送り、家で過ごす。東京で友人とアパートをシェアしている妹は、その日の朝、尋ねてきた彼氏(といってももう彼女はこの男と別れようと考えている)を玄関先で追い返す。この彼氏はひとりで解体される妹の実家へと向かう。地元に残って公務員をやっている弟は、解体現場で解体の様子を見守っている。

家の解体がはじまる日の朝の様子が、微妙に視線をずらしながら繰り返し繰り返し演じられ、そこから三人の兄弟がこの家に住んでいたとある日の記憶が浮かび上がり、またその場面も繰り返し再現される。弟と妹が百年前に建てられたこの古い家に、学校の友達を呼んだ日だ。妹はこの古い家に友達を呼ぶのが恥ずかしい。しかしやってきた妹の友達はこの古い家ならではの佇まいを大変気に入ったようだ。弟は女の同級生を呼ぶ。しかし彼女は家の前までやってきたものの、そのまま引き返してしまった。その彼女は今、解体される家の近所にある商店に嫁ぎ、かつて自分が入ることができなかった家の解体の様子を気にしている。

自分が生活した古い家屋の解体の場面から沸き上がる追憶、主題はあまりに陳腐で通俗的だ。マームとジプシーの作品で取り扱われる砂糖のたっぷり入ったミルクティのような濃厚なノスタルジアへの執着に辟易する人も多いようだが、私は二十台の人間がこのような追憶にこだわることへの若干の違和感を覚えながらも、今作ではその甘美に酔うことができた。セピア色を基調とする照明に照らされた抒情的な美しさに満ちた幻影のなかでのミニマル音楽的表現方法は、そのノスタルジックな主題と効果的に結びついている。執拗な情景の反復と登場人物たちの悲鳴のようなセリフまわし、そして演者たちが疲弊させるまで繰り返される舞踊は、遠ざかり、消え去っていく過去の記憶を、何とかして留め置こうとする切実な思い、空しいもがきを表している。

よりどころとしての家の喪失という普遍的主題にまつわる感傷を、あのエピソードの徹底した反復とそのずらし、音楽、踊りといった複合的な身体表現で増幅させれられると、ある種の催眠術的誘導効果で強引に心揺さぶられてしまう人は少なくないだろう。シンプルで洗練されたスペクタクルのセンスは素晴らしい。スモークのなかシルエットで浮かび上がる登場人物たちの場面とか、弟と姉が会場の両端の壁際に分かれて立ち、向き合った状態で口語にセリフを言う場面のヴィジュアルの美しさはとても印象的であるし、音楽の選曲と使い方も洒落ている。エピソードの薄片をミルフィーユのように重ね合わせ、ずらしていく構造の処理のたくみさが、視覚、聴覚面での工夫と有機的に結び付き、こちらの感覚を麻痺させ、コントロールする。スティーブ・ライヒなどのミニマル音楽の演奏をやはり連想させる、精巧で微妙な職人芸であり、並大抵の才能では再現できないように思う。

40年前に、まだ30代のころに両親の死によって田舎の家を手放した私の母、この3月に父親を亡くし、家の取り壊しによって帰省先を失った私の妻が、この作品を見ていたら堪らないものがあっただろう。そして震災によって家を失った人たちも想起せずにはいられない。

主題も手法も、俗情に露骨に訴えるようなあざとさも感じるけれど、表現者としての藤田貴大はこれらかずっと同じ位置に留まることはないはずだ。彼の作品同様、執拗な反復を少しずつずらすことで別の世界へと到達し、観客の期待の地平を裏切るような作品をいずれ発表するような気が私にはする。もうしばらくの間、藤田貴大の世界を追い続けて、その変化を私は見届けてみたい。