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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

『炎 アンサンディ』

  • 作:ワジディ・ムワワド Wajidi Mouawad
  • 翻訳:藤井慎太郎
  • 演出:上村聡史
  • 美術:長田佳代子
  • 照明:沢田祐二
  • 音響:加藤温
  • 衣装:半田悦子
  • ヘアメイク:川端富生
  • アクション:渥美博
  • 映像:猪爪尚紀
  • 演出助手:千田恵子
  • 舞台監督:大柿俊朗
  • 出演:麻実れい/栗田桃子/小柳友中村彰男那須佐代子/中嶋しゅう/岡本健一
  • 劇場:三軒茶屋 シアタートラム
  • 上演時間:3時間15分
  • 評価:☆☆☆★

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 現在と過去の二つの時間が平行して提示される。現在はカナダのモントリオール、ジャンヌとシモンという双子の姉弟の時間である。生涯の最後の五年間、沈黙のなかにいた母親の遺言書に従い、彼らは自分たちの父と兄を探す旅にでかけ、母親が語らなかった彼女の前半生を辿っていく。彼らの旅を導くのは、彼らの母の友人であった公証人、エルミルである。

 過去は二人の母親、ナワルがモントリオールに移住する前の時間だ。彼女は中東のとある村で生まれ、そこで恋をして息子を産んだ。宗教勢力間のすさまじい紛争のなかで、彼女の愛は翻弄され、蹂躙される。過去の時間では、無慈悲で壮絶な歴史のなかを彷徨する彼女の悲劇的な前半生が提示される。この二つの時間が重なりあったとき、ある重大な秘密が明らかにされる。究極の憎悪と愛が結びついたとき、運命がもたらした苛酷な炎に翻弄され続けたナウルにようやく静けさがおとずれる、その荒ぶる魂は落ち着きを手にする。

 堂々たる叙事詩的スケールとダイナミックな展開を持つ驚異的な脚本だ。私は数年前にこの戯曲の映画版であるヴィルヌーヴ監督『灼熱の魂』を見ている。原作戯曲の上演時間は四時間ほどかかるといういが、『灼熱の魂』では大幅な改変を加え、ほぼ同じ設定とプロットを維持しながら131分の尺に収めていた。今回の舞台は正味三時間の上演時間だったので、おそらく原作から削っている部分はかなりあるに違いない。映画版の印象とはかなり異なる作品になっていた。

 モントリオールと中東地域を行き来する話なので、当然写実的な舞台で上演することはできない。精妙なマチエールが施された黒い床の張り出し舞台で、舞台装置はほとんど使われていない。観客は三方から舞台を取り囲むかたちになっている。ときおり背景に布が広がり、そこに映像が映し出される。また床には人が出入りできる程度の穴があけられていて(通常はふたでふさがれている)、そこから人やオブジェの出入りがある。詩的かつ警句的な台詞が散りばめられている。優れて象徴的な作品であり、抽象的な舞台装置、主人公ナワルと公証人エルフル以外の人物が一人複数役を演じる演出も、作品の象徴性を引き出すものとなっていた。

 普遍的な悲劇の構造を持つ象徴的な作品とはいえ、心理的にも地理的にも歴史的にも日本のわれわれの現実から遠い中東の悲劇を日本人が演じることへの違和感は払拭できなかった。 俳優のなかでもっとも多くの役柄を演じ分けなければならなかった中村彰男の芝居は、過剰に記号的に思え、私には作品の雰囲気と合っているようには思えなかった。安っぽいコントに見えてしまうところも。麻実れいは17歳の少女から60過ぎで死んだ老女までを演じる。堂々たる存在感を持つ素晴らしい俳優ではあるけれど、この作品では若干芝居が仰々しく感じた。栗田桃子、中島しゅう、那須佐代子は、堅実で巧い。俳優のなかで圧倒的に強い印象を残したのは、「兄」であり「父」でもあるニハッドを演じた岡本健一だった。狂殺人・拷問の機械と化したニハッドの狂気を説得力ある奇矯さで岡本は見事に演じる。記号的に演じても、納得できる演技とできない演技がある。この役柄を岡本のように演じることのできる俳優は多くはない。

 ダイナミックな展開の脚本はやはり圧巻だ。しかし映画版より長い分、説明的な台詞が多いように感じた。 個人的には元戯曲を大幅に改編し、二時間強に収めた映画版のほうが詩的で余韻が深いように感じた。実質的に4幕に分かれた展開は、一定の重みを保ったまま、ほぼ同じペースでじりじりと進んで行く感じで、うねるようなスピード感を感じた映画版と異なる。

 クオリティの高い舞台ではあったけれど、自分がこの作品に対して持っていたイメージと実際の舞台の食い違いを、自分の中でうまく折り合いを付けることができず、物足りなさを感じた。見たときの精神状態もよくなかった。もう一度見れば異なった感想を持つかも知れない。