人形芝居燕屋
http://www.geocities.jp/tsubame1961/enmoku/grim.html
『グリム童話』より
- 脚本・演出・出演:くすのき燕
- 美術:益子淳、くすのき燕
- 劇場:新宿 芸能花伝舎
- 上演時間:60分
- 評価:☆☆☆☆
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二月に見たシアター・トライアングルの『Four Seasons』(http://d.hatena.ne.jp/camin/20090208/)の作者・演者のくすのき燕氏によるひとり人形芝居ということで、見に行くのを楽しみにしていた。娘と息子の三人で見にいくつもりだったのだけれど、娘が体調を崩したので、四歳の息子と二人で見に行った。息子と二人でお芝居を観るのはこれがはじめてだ。
上演時間は約一時間。大小二つの古くてぼろぼろのトランクから『グリム童話』から「いばら姫」、「赤ずきん」、そして「漁師とその妻」の三編の物語が演じられる。演者は燕氏ひとりである。オープニングとエンディングにウクレレ、上演中は主にハーモニカで音楽をつける。
「いばら姫」と「赤ずきん」という誰もが知っている二編の物語は、フォークやナイフ、ワイン栓抜きなどの食器を人物に見立てた「オブジェクト・シアター」というやり方で演じられる。計算された軽妙洒脱な語り口と巧みでユーモラスな動きによって、はじまって間もなく食器たちに命が吹き込まれる。筒井康隆の小説、『虚構船団』の後半部では文房具が擬人化され、文房具を「人物」としてみなし感情移入することを読者は強いられるのだが、オブジェクト・シアターでは演劇のかたちで同じことが行われるのだ。子供たちが遊びのなかでごく自然にやっている「見立て」を徹底して行うことで、既知の物語に新しい別の次元が開かれる。テクスト・レジがとても巧みだと思った。ひょうひょうとした軽みがあって、リズムがある。四歳の息子は入り込めるかどうかちょっと心配だったけれど、嬉しそうな顔をして喜んで見ていた。
3本目の作品は、前2作に比べるとあまり知られていない「漁師とその妻」という話は、食器の見立てではなく、人形を使って演じられた。3本目をちょっとマイナーな話にして、かつオーソドックスな人形劇で行うところに、バランス感覚、構成力のよさを感じる。二本、食器芝居を見た後、人形が出てくるとちょっとほっとするのだ。お話しは何でも願いを叶えてくれる大魚に、漁師の妻の欲望は肥大し、要求がどんどんエスカレートしていくが、最後は元のまずしくつつましい状態に戻ってしまうというお話し。夫の漁師は貧しい二人だけの生活の平穏が戻ってきたことを喜ぶが、妻は涙を流し続けるという最後。帰宅後、娘にこの話をすると、学校の道徳の時間にこの話を読んだという。劇行為の繰り返しが効果的に使われたシンプルな作りの話。ごろっとした人形造形、特に表情の作りが可愛らしかった。人形の動きが直線的でぶっきらぼうなのが、お話しの内容とマッチして、ユーモラスな効果を生み出していた。台詞の作り方、そのやりとりのリズムなどにも丁寧な工夫が感じられた。
全部で一時間休憩なしの舞台だったが、息子は集中力を切らすことなく、芝居を楽しんでいたようだ。よく反応していた。
趣向をこらした洒落た演出の人形芝居だった。同じ演出家・演者による他のタイプの演出、物語もまた見てみたい。
今日は子供向きの演目にもかかわらず、四〇人ほどの客の2/3以上は大人だった。プークの公演の客席の雰囲気との違いにちょっと戸惑う。
息子はかなりのやんちゃ坊主なのだけれど、お姉ちゃんがいないとまったく意気地がない。物怖じして子供スペースの畳桟敷になかなか座ろうとしない。結局、僕がたたみ桟敷の端っこに座り、息子は僕の膝に座って舞台を見た。
「いばら姫」には中世のフランス文学に現れるモチーフが再現される。食器を用意されていなかった妖精が怒って呪いをかけるという場面は、13世紀のお芝居にも別のかたちで登場する。いばらよって固く閉ざされた城に、若者が姫を求めて冒険するという構造は、やはり13世紀に書かれた寓意文学の傑作『バラ物語』を強く連想させるものだ。『バラ物語』では城の中に幽閉された「恋人」はバラのつぼみである。