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閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

宮沢章夫演出『光のない。(プロローグ?)』

『光のない。(プロローグ?)』は、東北大震災、そして原発事故後の福島のことが問題になっている劇らしい。今や欧州においては「フクシマ」は日本について語る上での重要なキーワードになっている。飛行機に乗ることができないというイェリネクが、ウィーンで遠い日本の「フクシマ」の悲劇について、奔放な詩的想像力を膨らませて一編の演劇的テクストを書くのは構わない。優れた詩人の直感力によって、その妄想的フクシマのイメージには、何らかの本質的真実が含まれていることは十分あり得る。しかし日本に住むわれわれが、芸術表現において「フクシマ」を語ろうとするとき、それはいくばくかの当事者としての責任を持って語らなくてはならないはずで、ヨーロッパ人が多かれ少なかれ興味本位で「フクシマ」を現代日本の象徴とみなし語るような感覚では、言及できないはずだ。 

 

宮澤の『光のない。(プロローグ?)』は、5人の女優によるテクスト朗読劇だった。おそらく震災被災者の死者の声を舞台上で語らせることを意識したのだろう、舞台は能舞台を模したものになっていて、台詞の音楽性、すり足の動きなど能を面合わせる演出が取り入れられていた。舞台は土っぽい素材でできているが、下手に橋がかりが設置され、演技場は上手、客席に張り出したかたちで正方形をしている。5人の女優はこの正方形の舞台のうえを幾何学模様を描くように縦横に動き回る。対話らしい箇所はほとんどない。「上演、失敗する」などいくつかの反復句を要所要所に挿入しながら、基本的にずっと朗読される。 

 

舞台の絵作りには才能を感じる。照明の使い方がとりわけ洗練されていて、絵画としての舞台、ビジュアル面の宮沢のセンスの良さについては認めざるを得ない。しかし80分ものあいだ、朗読一辺倒(しかもそのやり方は「マームとジプシー」の様式を、明らかに模倣したと思われる箇所もあった)で退屈だ。震災の被害者のとらえ方もこんなものでいいのだろうか? 宮沢は誰に対して何のためにこの作品を作ったのだろう? 震災被害という現実に、今、ここにその犠牲となった人間がいるテーマを扱っているにもかかわらず、この作品には表現者としての倫理、誠意、痛みを私は感じ取ることができない。気取った、お洒落な「前衛」的作品だ。この作品をフクシマの被災者に見せることはできるか? そしてその被災者の反応をまっすぐ受けとめる覚悟は演出家にあるのだろうか? 

 

日頃、震災やフクシマについては、私はあまり言及することはない。原発に賛成か反対かと二択を迫られれば、反対と答える。事故が起こった場合、コントロールできないようなものを保持し続けるなんて馬鹿げている。では原発を廃止することによる日本経済や社会の影響についてどう考えるのかと問われれば、私は答えることができない。それに原発を廃止するのであれば、原発で働く労働者たちの生活はどうすればいいのか、ということまで考えて反対を行わなければならないような気がする。さらに原発廃止云々の問題は、東京で電力を大量消費したうえで都市生活を送っているわれわれよりも、より当事者性が強い原発が設置されていて、原発に依存した生活を行っている現地の人たちの意見や考えが尊重されるべきではないかという気がする。

震災そのものについては未曾有の大災害であり、多くの人々の関心を集めるのは当然の社会的悲劇だとは思うのだけれど、震災による死をとりわけ特権的に扱うことには、正直、微妙な違和感を持っている。 私には結局よくわからないのだ。よくわからないゆえ、震災、フクシマについては安易に発言してはいけないような気がしている。報道やこれらを主題とした芸術作品を通して、間接的に向き合い、結論を出さないままもやもやを抱えながら考えている。