閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

演出家の仕事

演出家の仕事 (岩波新書)

演出家の仕事 (岩波新書)


評価:☆☆☆☆

                                                      • -

この夏まで新国立劇場の芸術監督の職にあった演出家、栗山民也のエッセイ。演出家の仕事の実際を体系的に記述する演出家論ではなく、七つの大きなトピックをもとに、演出家の仕事を自由に多面的に、そして内省的に描き出す「絵画的」な演出家論である。
第一章は「「聞く」力」。芝居作りにおける受容力、他者の声に耳を傾け、その関係の中で自己を表現していくことの重要性を述べる。
第二章は「戯曲を読む」。演出家としての戯曲をどのような方法で読み込んで行くのか、そしてテクストからどういった過程で具体的な舞台の姿を描き出していくのかが書かれている。
第三章「稽古場から」では、稽古場で俳優との関わりのなかで芝居が徐々に立ち上がっていく様子が語られる。
第四章「「時代の記憶:に向き合う」では、作品の背景にある政治的・社会的現実と演劇人がどのように向き合うことが可能かという問題について栗山氏の実践と理念が記されている。
第五章「世界の演劇人と出会う」では、栗山氏がこれまで訪ね印象的だった欧米の演劇界の先進的状況が報告され、そしてそれに対する日本の演劇状況の貧困が浮き彫りにされる。新国立劇場演劇監督として世界の演劇人と交流を持ち、作品を共同製作したことの意義が説明される。
第六章「俳優とはなんだろう」では、日本における俳優養成システムの欠如について問題提起し、新国立劇場芸術監督として栗山氏がとりくんだ俳優養成システムについて記されている。
第七章「演出家になるまで」は、短いが味わい深い演劇個人史である。演劇人としての自分が成立するまでの過程がてらいなく記されている。
付録としてこの秋に世田谷パブリックシアターで上演された井上ひさしの新作『ロマンス』の演出日記が収録されている。初日の65日前からの記述だが、この時点ではチェーホフの詳細な年譜が完成しただけで、戯曲は一字も存在していない。今回『ロマンス』では無事初日が開いたが、戯曲が完全に上がったのは初日の三日前(!!!)だった。井上戯曲の演出に何作品も携わっている栗山氏としてはそれほど驚くべき事態ではないのかもしれないけれど、やはり『ロマンス』でも井上ひさしの遅筆は現場を苦しめていたのだ。部分部分で上がってくる戯曲をもとに徐々に舞台を作っていって、トータルプランを作ることができるのは初日の三日前とは。役者も大変だが、演出家もすごい。こういう仕事ができるからこそ、栗山氏はプロの演出家として重宝されるのだろう。

栗山民也氏の舞台はこれまでいくつか見たことがあるが、外見同様、派手なけれんのない、戯曲が提示する世界を尊重した堅実な舞台という印象が強い。はっとするような斬新な仕掛けはないけれど、戯曲が発する声を丁寧に聞き取ってバランスのよい舞台を作る演出家というのが僕の印象だ。このエッセイからも、舞台からの印象同様、訥々とした穏やかな文体は彼の演劇に対する強靭な誠実さが伝わってくる。淡々とした記述の中に感じ取られる、一つの舞台を作り上げるにあたっての、演出家の仕事の幅の広さと奥行きの深さに、そして栗山氏の演劇に対する思いの豊かさに、じんわりとした感動を覚えた。