三条会
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夏の野外劇vol.3 『三条会の「真夏の夜の夢」』
- 原作:W・シェイクスピア
- 演出:関美能留
- 出演:大川潤子、榊原毅、立崎真紀子、橋口久男、中村岳人、渡部友一郎/大高浩一、桜内結う、鈴木史朗(A.C.O.A.)/江戸川卍丸(劇団上田)、小菅紘史(第七劇場)、征矢かおる(文学座)、中島愛子、山田裕子(第七劇場)
- 劇場:千葉公園内 特設野外劇場
- 上演時間:1時間30分
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円形のつるつるした光沢の白い床のほぼ素舞台。中央に三角錐のオブジェがあるだけ。役者はその周りをぐるぐる回りながら演技を行う。客席は正面、左右の三方。
三条会版の『夏の夜の夢』だけに、グロテスクで濃厚で異形な悪夢の世界を見せてくれるかと思えば、上演時間は1時間半とコンパクトに刈り込まれていたけれども、これまで観た三条会の公演の中ではもっとも原作に忠実な演出だった。三条会らしいえぐみが乏しくて物足りない感じもあったのだが、演出家の関美能留の堅実なテクスト解釈によって、原作の核となる祝祭的な雰囲気がきっちり表現された楽しい舞台だった。演出ノートに記されているように、特権的な主人公のいない群集劇としての性格が強調されている。
三条会らしいら独創的なギミックも楽しむことのできる舞台だった。登場人物のなかで貴族たちはそれぞれ色の異なる鮮やかな原色のポロシャツとポロシャツと同色でそろえられたズボンないしスカートを身に着けている。ポロシャツのなぜか背中には背番号が貼り付けられていた。原色の衣装の貴族の若者たちが、ドロップキャンディーのようにくるくると舞台を回りながら、恋の狂騒を再現する。
ロバになったボトムのグロテスクで滑稽な表象はこれまで見たことのなかったアイディアだった。全般に夏の暑さに酔いしれ、浮かれきったような気分、深刻さのない軽やかな喜劇性が強調されていた。
貴族の若者、妖精の王と王妃、そして町人たちによる劇中劇という三つの世界の恋のエピソードが明確に対比され、混乱してしまった世界が夜の終わりとともに、調和のある平和な世界へと収斂していくことがはっきりと見て取れる演出だったように思う。
デフォルメが強烈ないつもの三条会の舞台を見たときも感じることだが、デフォルメの強度が比較的弱い今日のような舞台でも、関美能留の提示する解釈はテクストの核となるメッセージを明瞭に抽出しているように思える。僕は今日の『夏の夜の夢』を見て、この作品の物語性の希薄さに改めて認識した。この芝居で象徴的なかたちで描き出され、再現されているのは、中世以後のヨーロッパの演劇でしばしば表されている一つの世界観である。停滞の中で次第に疲弊し、機能不全をきたしてきた社会システムを、そのシステムを支えてる価値体系を完全に転倒させ、混乱させることによって、いったんリセットする。定期的にリセットすることによって、社会の秩序はまた新たな生命力を獲得し、安定した世界が再構築される。この再生のための世界の混乱に寄与するのが祝祭であり、演劇は「さかさまの世界」の導入のための一つの重要な装置だった。中世フランスには『葉陰の劇』やファルス、聖史劇、そして「阿呆祭」などの演劇的習俗が知られているが、シェイクスピアの『夏の夜の夢』もおそらく本来、こうした「安定した世界の再生」を祈願する祝祭的機能を持った芝居であり、その芝居の内容自体が当時の人々が持っていた世界の「周期的な破壊と再生」という考え方を反映したものであったように思う。
これまで読みかじった演劇史の教科書の記述の断片をくっつけたような感想になってしまったけれど、「三条会の真夏の夜の夢」公演は僕にとって、まさにこの芝居が持っていた上記に述べたような性格を強く想起させる公演だった。