閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

雛がたり

百鬼ゆめひな
雛がたり-2012年3月22・23日調布市せんがわ劇場

  • 原案・潤色・美術・出演:飯田美千香
  • 脚本:岡本芳一
  • 照明:浅川環
  • 音構成:尾林真理
  • 特殊美術・舞台監督:渡辺数憲
  • 映像:渡邊世紀
  • 劇場:せんがわ劇場
  • 上演時間:75分
  • 評価:☆☆☆☆
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百鬼どんどろの岡本芳一の弟子の飯田美千香の公演。等身大の人形を用い、時に人形遣いが演者として自分が遣う人形と芝居を行うという形式。R15の芸術的な人形芝居である。百鬼どんどろは加藤暁子の『日本の人形劇』で紹介されているのを読んで一度見てみたかったのだけれど、舞台を見る機会のないまま、2010年に岡本芳一が死んでしまった。岡本の死後、弟子の飯田美千香が百鬼ゆめひなの屋号を名乗り、百鬼どんどろのスタイルを継承したとのこと。台詞はほとんど用いられない。音楽と所作のみで作られた象徴的で審美的な人形芝居だった。

舞台上演前に、渡邊世紀による短い映像ドキュメンタリーで百鬼どんどろとその継承者である百鬼ゆめひなの活動が紹介された。私は映像のかたちでも百鬼どんどろを見るのは初めてだったのだが、その土俗的な和風幻想美の世界は映像による短い場面を通してもインパクトのあるものだった。映像のためのスクリーンが上昇すると、舞台下手奥にひな壇とひな人形、上手側手前には少女の人形がまるで打ちひしがれたように俯せになっている。人形遣いは黒子としてその少女の人形を繰るのだが、時に仮面をかぶり少女の母親役を演じ、人形と無言の対話を行う。泉鏡花「雛がたり」と岡本かの子「狂童女の恋」を元に構成されたとパンフレットには記されていたが、舞台を見る限りではストーリーははっきりしない。

最初の二十分は人形の造形の妖艶な美しさ、おどろおどろしい独特の様式美の世界、そして何よりも人形遣いの操演の見事さに感嘆し、思わず身を乗り出して舞台を注視していた。人形に精霊が乗り移ったかのような動きの精妙さ、操作する人形遣いとの動きのコンビネーションの細やかさは驚くべきものだった。舞踊的な動きも実に滑らかで美しい。しかし脚本が弱い。場面場面でははっとさせるような幻想美が作り出されているのだが、構成力に乏しい脚本のため、それぞれのシークエンスが有機的につながり、ひとつの物語展開を観客に想起させるような世界が成立していないのだ。台詞のない芝居の場合、音楽が展開を作り出すのに大きく貢献するのだけれど、オペラなどを使った選曲構成もいまひとつ効果的ではなかった。私の印象としては、脚本は卓越した人形操演技術を披露するための枠組みに過ぎず(といっては書きすぎかもしれないが。最後の白無垢を身につけた人形を赤い布をまとった演者が包み込む場面は素晴らしかった)、その人形遣いの技術には大いに感嘆したけれど、ドラマとしての感動は薄かった。正直、上演前の映像で見た抜粋のほうが、実際の舞台より魅力的に感じられた。

等身大の人形との仮面を用いた一人演者の演技ということで、私はバーバラ村田の人形を使ったパントマイム+舞踊を連想した。人形操作の技術の洗練という点では百鬼ゆめひなはバーバラ村田より優れているように思ったけれども、各シークエンスを有機的に構成してある種の「物語」を観客に想起させるという点ではバーバラ村田のほうが優れているよう思った。ベースとなる技術やジャンルが違うし、それぞれの持ち味も異なるのでこういう比較は意味がないかもしれないけれど。
純粋に技術に感動することは人形劇に限らず、パントマイムやオペラ、あるいは普通の芝居でもあるのだけれど、演劇的な部分が技術的なインパクトを凌駕しない限り、作品としては広がりが期待できないような気がする。