1996年に弘前劇場との合同公演のために書き下ろした作品。
東北のとある大学の人体寄生虫研究室が舞台である。芝居は寄生虫に対するレクチャーの場面からはじまる。寄生されたかたつむりの映像が大写しになる。それからしばらくすると寄生虫を食べるという話題に移行する。私は今回、観劇の前に食事をすませていていた。この手の話は大丈夫のつもりだったのだけれど、この話題のときは情景が頭に浮かんでしまいちょっと気持ち悪かった。
人体寄生虫の研究室なので、研究員たちはみな寄生虫に対する愛に満ちている。ただ一人、その研究室に最近、東京からやってきた寄生虫学者の妻だけが違和感を表明する。しかし妻は寄生虫だけに対して拒否感を持っていたのではなかった。寄生虫研究のために、東京での職を捨て、東北の大学に赴任した夫、そして都会育ちの自分がどうしても馴染むことができない雪深い東北の町も、彼女は受け入れることができていなかった。その拒否は強いものではない。緩やかで弱々しいものなのだが、実は根深く深刻なものであることに彼女は気付き始めている。
研究者たちのマニアックでユーモラスな寄生虫談議が、徐々に地方と東京、原発汚染の渦中にある福島と東京、妻と夫のあいだの関係性の物語へと重なっていく。この寄生されるものと寄生するものという暗喩の重ねあわせは、この作品では明示的過ぎていて、技巧的で不自然に感じられるところはあったけれど、台詞のやりとりにはやはり洗練された見事な名人芸があった。とりわけ最後の場、寄生虫フタゴムシの説明のときに、夫婦のあいだの乖離がはっきりとわかっていく展開がいい。その乖離が明らかになっていくに従い、静かに悲しみと切望が舞台に漂う。終幕時、長めの溶暗がもたらす余韻がとても美しく感じられた。
山内健司が白板にフタゴムシの絵を描き始めたとき、客席の後ろの方から「あっ、フタゴムシ!」という小さな声があがった。たぶん目黒寄生虫博物館の初代館長の娘さん(といってもかなりのお年のかた)だと思う。初代館長はフタゴムシが好きだったというエピソードがアフタートークで紹介されていた。