閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2022/03/27 第48回赤門塾演劇祭

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 埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で毎年三月の最終週の週末に行われている演劇祭を見に行った。この演劇祭は赤門塾が開塾して5年目の1975年に始まった。演劇祭の開始以来、塾に通う小・中学生の子供だけでなく、塾のOB・OGを中心とする大人による上演も行われていることがこの演劇祭の特徴だ。赤門塾演劇祭については、この三月に発刊された日比野啓編『「地域市民演劇」の現在」(森話社)に寄稿している。

 

 新型コロナ・ウイルスが日本でも確認されたあとに開催された2020年の第46回は現役塾生である小・中学生の部だけの上演となり、観客もごく少数の塾関係者と出演者の家族に限られた。翌2021年の第47回は小・中学生の部に加え、塾のOB・OGを中心とする大人の部の上演も行われたが、出演者の人数、観客の数も少人数に絞られ、恒例となっている演劇祭後の懇談会は開かれなかった。47回の様子は、このブログにリポートを残している。

 

 

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 今年も感染対策のため、演目ごとに観客の入れ替えが行われ、各演目の観客定員を19名とする事前予約制で、演劇祭は実施された。演劇祭終了後の懇談会は出演者と少数の赤門塾演劇祭演劇祭関係者のみで、例年より小規模で行われた。

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 上演会場は学校の教室の半分ほどの広さの赤門塾教室である。塾教室は、演劇祭の準備から終了までは、机や椅子はもちろん、本棚や天井の蛍光灯まで撤去され、舞台装置が設置される劇場となっている。新型コロナ以前の2018年、2019年の演劇祭を私は見ているが、そのときは客席側には櫓が組まれて、二層構造になっていて、毎回50名以上の観客で超満員だった。小・中学生の部と大人の部を合わせると上演時間は3時間を超える長丁場となるので、ぎゅうぎゅう詰めの空間で床に座っての観劇は肥満の私には実はかなりつらいところがあった。満員の観客の活気が減じてしまったのは残念ではあるが、今回は客席が19席限定ということで、ゆったりした空間で見られたのはありがたかった。また赤門塾演劇祭は「上演中の出入り自由」「飲食自由」だったのだけれど、これも新型コロナ対策で今回はそうなっていなかった。

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 演劇祭の日程は3/25(金)、26(土)、27(日)の三日間だが、上に書いたように今回は演目ごとに事前予約・入れ替え制だった。私は最終日の3/27(日)の午後に、小学生の部2作品、中学生の部1作品、高校生以上の部1作品の計4演目を続けて見た。子供の部の芝居3作品は、いずれもこれまで赤門塾演劇祭で取りあげられたことのある作品とのこと。

 

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 最初の演目は小一から小五の子供8名が出演する『四人の陽気な泥棒たち』(作者不詳)だった。上演時間は15分ほど。四人の村人が貧しさから抜け出すために泥棒となるのだが、いずれも根は善人のため、泥棒稼業が身につかない。ついいいことをしてしまう。通りすがりの見知らぬ女性に赤ん坊を託された親分は、赤ん坊をあやしているうちに結局、改心して役人に自首してしまう。役人に連れられて舞台を退場する親分に、子分の一人が「かしらぁ」と足を踏み出し、右手を差し出しながら呼びかける台詞で幕切れ。最後の幕切れの台詞のタイミングが遅くなってしまったが、その時間のずれがかえってこの決め台詞を印象的なものにしていた。今年は泥棒の親分役の最年長の五年生にリードされてか、マスクをつけての芝居にもかかわらず低学年の子も明瞭で大きな声で台詞を話せていた。この芝居はこれまで赤門塾演劇祭では小学校高学年が演じていたそうで、台詞の量もかなり多いのだが、今回は小学三年生四人を中心とするメンバーで上演された。恥ずかしがらずにしっかりと芝居を観客に見せる、という気概が伝わってきて、芝居として愉しんで見ることができた。泥棒たちが一斉に行う大げさで様式的な動作とお洒落な着物のがらが可愛らしかった。カーテンコールでは緊張が解けて、子供同士でふざけあったりしていたのがまた可愛らしい。

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 二つ目の演目は平松仙吉作の『ジャンヌ・ダルク』で、小6が5名、小1と小2が2名ずつの9名で上演された。これは赤門塾演劇祭の初期のころに何回か上演されていた作品だ。児童劇でジャンヌ・ダルクという組み合わせが意外で、脚本を演劇博物館で探したところ、『五年生の学校劇』小学館、1966年にこの作品が掲載されているのを見つけた。20分ほどの短い劇作品だが、神の存在と死についての密度の高い台詞劇だった。ト書きが、非常に詳細で本格的な演出指示がされているのにも驚いた。先ほどグーグルで検索してみると、作者の平松仙吉は平松星童の名前で自由律俳句の俳人としても活動した人で、児童劇のみならず、劇団つみき座、パルチ座という前衛劇団でも活動していた演劇人だったようだ。作品は火あぶりの処刑の前日のジャンヌの葛藤を描き出すものだった。囚われのジャンヌを「百姓娘」と見なすろう番は、冷徹な態度で、神学的・哲学的な問いを投げかける。神の声を聞き、神に選ばれし者のはずのジャンヌは、ろう番の問いと火あぶりによる死への恐怖から、神の存在への確信が揺らぎ、迷いが生じているように、私には見えた。

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幼いジャンヌの妹たちが、劇の冒頭と最後で唱える「ねえちゃんはほんとに神さまの声を聞いたの?」という音楽的なルフランが、ジャンヌが人であるからこその迷いを美しく浮かび上がらせていた。神の存在と死、そして奇跡をめぐる神学的問答であり、その密度の高い言葉のやりとりはフランス演劇を連想させた。台詞の量は多く、その語り口は棒読みで、子供たちの動きも固い。俳優の出入りも唐突な感じだ。しかしその生硬さが中世の写本挿絵を思わせた。『ジャンヌ・ダルク』は金・土・日の三日間上演されたが、初日の金曜日の公演は、主役のジャンヌ役の子供がすっぽかしていなかったそうだ。高校生・大学生・社会人の部の出演者のひとりがかつてジャンヌ・ダルク役を演じたことがあるということで、急遽、台本を持ってジャンヌを演じたとのこと。

 三番目の演目、『水ききん』(作者不詳)は中学生9名と大学生1名での上演だった。演劇を演じさせるとなると思春期前期の中学生をのせるのは一番難しいだろう。現在の赤門塾塾長であり、演劇祭をとりしきる長谷川優さんによれば、あまり乗り気でなさそうな子供たちとコミュニケーションをとって説得し、なんとか芝居へ持ってくる過程は大変だけれども、そこが面白いところでもあると言っていたが。今年の中学生はのりがよく、声もよく出ていた。筋立ては極めてシンプルな芝居だった。日照りによる水ききんで苦しんでいる村が舞台だ。登場人物は村の若い衆である。高台にある神宮池を決壊させれば、あふれ出た池の水で村の田は潤うはずなのだが、神宮池の土手を崩した者は目が潰れてしまうという言い伝えがあり、村の大人たちはひたすら雨乞いをやるばかり。若い衆も、村の大人たちを非難するものの、神宮池の田たたりを恐れ、土手を決壊させることを躊躇している。そこに村の娘がやってきて、若者たちに土手を壊すように促す。若い衆は土手を壊すことを決意する。ごく単純な筋立てながら、タブーを破って新しい世界を手にしようとする村の若い衆に、それを演じている思春期前期の子供たちの姿が重なる。あまりのあっけない筋立てにあきれたけれど、おわってみると「いい芝居」に思えてきた。この芝居も俳優たちの着物姿が可愛らしい。仮装することで他者の存在を引き受け、それを演じ、見て貰うことに心浮き立ち、喜んでいる様子が伝わってきた。仮装の楽しさとそれがもたらす解放感を感じ取ることのできる芝居だった。上演時間は二〇分ほどった。

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 『水ききん』がおわった後、15分ほどの休憩時間が入った。この休憩時間のあいだに、高校生・大学生・社会人による『The Mousetrap』(アガサ・クリスティ作)の舞台設営が行われた。『The Mousetrap』は、ロンドンの劇場で1952年以来、2020年3月の新型コロナによる公演中断までロングラン公演が行われた有名な作品だ。とはいうもの、海外ミステリーに関心が薄い私はこの作品のことを赤門塾演劇祭のこの公演まで知らなかったのだが、ミステリーで犯人がわかっていては興ざめなので、知らないまま見られてかえってよかった。登場人物は8名で、そのなかのひとりが、逃走中の連続殺人犯だ。彼らは豪雪で外との連絡が遮断された山中のゲストハウスで一晩過ごすことになる。赤門塾演劇祭でこの作品が上演されるのは今回がはじめてだ。キャストは高校生が3名、大学生が1名、社会人が4名だが、社会人の出演者もおそらくまだ二〇代で若い。赤門塾演劇祭でこういう商業演劇的な娯楽作品が上演されることは珍しい。舞台の背景は緑色の幕で覆っただけだが、暖房機やテーブル、椅子、ドアなどの調度品はかなり丁寧に作り込まれている。

 

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 ゲストハウスにやってくる訪問者がことごとくあやしい。これらのエキセントリックなキャラクターを、俳優がそれぞれ工夫をこらして表現していた。誇張された、いわゆる芝居くさい演技の面白さを楽しむ芝居だった。俳優たち自身もそうした演技や役作りを楽しんでいる様子が伝わってきた。衣装もそれぞれのキャラクターを象徴するものになっている。私の後ろに座っていた就学前の子供の観客も喜んで見ていた。

 俳優へのスポットの当て方や様々なタイプの照明の切り替え、扉の開け閉め、窓を開けたときの外の音、ラジオのボリューム等などの音響にも神経が使われていた。奇矯な登場人物の提示のパートは楽しかったが、刑事がゲストハウスに入ってきて尋問を行う中盤は、単調でだれてしまった。この作品で刑事は大量の台詞で展開を進めていかなければならない難しい役柄だ。刑事役の台詞は明瞭でスピードもあったが、他の役柄に比べて、この刑事役はカリカチュアが弱い感じがした。たたみかけて展開を推し進めていくようなのりが若干乏しかったように思う。

 

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 『The Mousetrap』の開演は午後3時、終演は午後5時すぎだったように思う。終演後は、上演会場をもとの塾の教室空間に戻さなくてはならない。これが大変な作業なのだ。出演者のみならず、片付けの応援にやってきた数名のOB・OGの20名ほどで、一気に片付けが行われる。まず仮設舞台や客席、舞台用の照明や電源を撤去し、それを長谷川家住宅の三階にある物置まで運ぶ。そして演劇祭の稽古・本番中に三階の物置などに待避させていた塾教室の様々な機材(蛍光灯、机、椅子、本棚)、ピアノ、大量の本を、半地下の塾教室まで下ろし、元の教室の状態に復帰させる。

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 重い荷物を大量に三階と半地下の教室のあいだで移動させなければならない重労働だ。この撤収作業の手際のよさは驚嘆ものだ。ずるずるとやっていてはいつまでたっても終わらない類いの作業なので、20数名が分業体制で集中して一気に行う。作業時間は九〇分ほどかかる。よくも毎回、こんな面倒なことをやっているものだと半ば呆れ、そして感心してしまう。演劇祭のときほど大がかりではないが、五月と十一月に教室を会場にして行われる赤門塾文化祭でも同じような作業が行われるのだ。

 正確には演劇祭終了後は、公演会場だった塾教室で懇談会が行われるため、塾教室状態の再現ではなく、懇談会で食事がしやすいような机と椅子の配置となる。今年は新型コロナ感染予防対策ということもあり、懇談会の参加者は出演者と演劇祭スタッフ中心に30名ほど。食事はバイキング形式で、長谷川宅のリビングのテーブルに並んでいる料理を各自が皿にとり、それを会場まで持っていて食べるという形となった。

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 この料理は新秋津の駅の近くで和食店をやっている、赤門塾創立者の長谷川宏氏の娘さんが作ったもので、とても美味しい。懇談会は19時前からはじまった。皆がひととおり食事を取り、場が落ちついたころを見計らって、参席者全員が赤門塾演劇祭について感想を述べることになる。子供から大人まで、全員が演劇祭について何か語らなくてはならないのだ。30名ほどいたので、一人数分としてもかなりの時間がかかるが、全員が何かを語るというのも赤門塾恒例なのだ。形式的・儀礼的な褒め言葉ではなく、よくなかったところを含め率直に感想を語ることがここでは求められる。私ももちろん演劇祭の感想を述べた。途中、議論になって、15分ぐらいたってしまうこともあった。私は21時半ごろに退出したが、懇談会はその後も続けられた。

 なぜ、他者を演じることは楽しいのだろうか? それを見てみたい観客がいるのはなぜか、観客が演じられるものを見て楽しいのはなぜか? そしてなぜ演劇は演じる喜びだけでは自足することはなく、それを見る他者の存在が必要とされるのだろうか?こういった根源的で素朴な問いが、赤門塾演劇祭を見ていると、いつも湧き上がってくる。