閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

異形の愛 Geek Love

阿部一徳のちょっといい話してあげるvol.8

  • 作:キャサリン・ダン Katherine Dunn
  • 訳:柳下毅一郎
  • 演出・出演:阿部一徳
  • ギター:岩田浩史
  • 構成・脚色:高橋經啓
  • 劇場:東中野 スペースRAFT
  • 上演時間:1時間45分
  • 評価:☆☆☆☆★
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ク・ナウカ所属の俳優,阿部一徳のひとり語りのシリーズの第八弾.僕の観劇は今日がはじめて.1947年生まれのアメリカの小説家,キャサリン・ダンの『異形の愛』を再構成したテクストの朗読を暗唱で,ギター伴奏とともに行う.

移動サーカス団の奇形の兄弟姉妹とその父母の濃密な愛憎が回想のかたちで述べられる.その関係のあまりの濃厚さゆえにか,家族は最終的に悲劇的な形で崩壊してしまう.その崩壊はこの家族の極端ないびつを思うと,物語当初からすでに宿命的に予言されていたように思える.語り手はやはり奇形を抱える一人娘に,家族の年代記をひっそりと託す.
一時間四十五分,ギター伴奏とともに語り下す.即興的なギター伴奏が物語の情感を効果的に増幅させる.家族の崩壊の場面以後,一つ一つディテイルをたどることで濃厚すぎる家族の記憶を辿る言葉の連なりの哀しさに猛烈に感情移入してしまう.
グロテスクな悪趣味を,美しい叙情に劇的に転換させるという定型に沿ったつくりだったけれど,この「定型」に自分がめろめろに弱いことを再認識.
アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』の暗黒版.ティム・バートンによる映画化の構想があるようだけど,いかにもティム・バートン臭い好素材.バートンによる映像化もぜひ見てみたい.

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阿部一徳の今回の公演形式は,「ひとり芝居」というよりは,語り物文芸の系譜に属するパフォーマンスのように僕は思った.役者の身体的表現は最小限に抑えられ,即興的な響きのギター伴奏に乗せた声色や表情の変化だけで物語が語られていく.彼の映像的な語り口は,観客の想像力を刺激する.観客も漫然と舞台を眺めているだけでは物語を味わうことはできない.彼の口調の挑発に反応し,それぞれが思い思いの絵を頭の中で描いていく.この公演の余韻の深さはこうした演者と観客とのインタープレイの中で熟成されていく.狭めの部屋,暗めの照明はこうした反応を活性化させるための「装置」として機能する.
「芸」のスタイルとしては斬新さはない.公演が始まってすぐ僕は幼い頃寝床で父親から毎晩のように聞いたお話の体験を思い出した.公演から何日かたった今,僕はあの「語り芸」に中世フランスの放浪の楽士ジョングルールの技芸を連想した.十三世紀,まだ多人数の役者で演じる演劇作品がフランスで本格的に制作される以前,アーサー王物語群や武勲詩,聖者伝などあらゆる文芸作品はジョングルールと呼ばれる旅芸人によって口演されるのが常だった.現存するこれらのテクストの端々には,当時のジョングルールの口演の状況の痕跡が記されている.貴族の館から館へ,中世都市の町辻から待ち辻へ,ジョングルールは移動しつつ様々な物語を人々に語った.100年以上にわたるこうした口演の伝統の中で,ジョングルールの語り芸も独自の洗練を遂げたのではないだろうか? 阿部一徳のパフォーマンスの中に僕は遠い中世の過去から続く一人語り芸の伝統の末裔を見たような気がした.
中世フランスのジョングルールの芸は,多人数の役者によって演じる演劇というジャンルの台頭とともに衰退していく.やがて物語は印刷され,「読書」という形で受容されるようになる.十九世紀ごろまでこれらの「物語」は,個人の黙読ではなく,家族などの小さい集団の中で読み聞かれたことのほうが多かったはずだ.しかし「語り物文芸」のプロフェッショナルであるジョングルールの至芸は,フランスにおいては十四世紀以降断絶してしまうのである.