エイブルアート・オンステージ 日英共同公演
飛び石プロジェクト公演
http://www.ableart.org/AAonstage/tobiishiproject2007.html
- 舞台監督:松下清永+鴉屋、鈴木康郎+鴉屋
- 美術:杉山至+鴉屋
- 照明:関口裕二、菅橋友紀
- 衣装:川口知美
- 音響:牛川紀政
- 劇場:三軒茶屋 シアタートラム
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『Stepping Stones』
- 原作:マイケル・ケニー
- 構成・演出:ジョン・パルマー
- 演出助手:わたなべなおこ
- 翻訳:スージー鈴木節子、わたなべなおこ
- 出演:宮本昌子、香村回人、乙川正純、大西友子、山崎阿弥
- 音楽:片岡裕介
- 上演時間:50分
- 評価:☆☆☆★
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『血の婚礼」
- 原作:フェデリコ・ガルシア・ロルカ
- 原作翻訳:広田敦郎
- 翻案・演出:ジェニー・シーレイ Jenny Sealey
- 演出助手:柏木陽
- 出演:新井恵二、廣川麻子、原田紀行、高橋美貴、ジョニー・ドレイパー、酒井郁、福角幸子、米内山陽子、尾崎彰雄
- 上演時間:50分
- 評価:☆☆☆☆★
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
アゴラ劇場支援会員への無料招待公演だった。
エイブルアート・オンステージは身体障害者と健常者の俳優の共同製作のプロジェクトである。英国で障害者の劇団を主宰する二人の演出家を招いて、イギリス人現代作家による『Stepping Stones』とロルカのテクストに基づく『血の婚礼』の二作品が上演された。二演目とも役者は健常者と身体障害者(ダウン症、聾唖者、盲人、脳性麻痺など)の混成である。
こうした試みはどうしても、公演自体の質とは別の文脈で語られがちである。もちろんそうした作品の外側にある文脈も含めて「公演」だと思うのだが、普段身体障害者の問題にほとんど積極的な関心を持っていない僕としては、やはり一つの「作品」として公演を見てみることを心がけた。
つまり「身体障害というハンディキャップがあるにも関わらず、それをがんばって克服して感動的な舞台を作っている」といった先入観を徹底的に取り除いた上で、芝居を観るように心がけた。できればその障害という積極的に属性を利用した、観客のあり方に激しくゆさぶりをかけるような作品を期待しつつ。2作品とも一時間ほどの長さだった。
一作目の『Stepping Stones』は、「自分探し」もののバリエーションのようだった。台詞はごくわずかしかない。物語自体は曖昧としていてよくわからないところもあったのだが(実ちょっと眠っていたりもして)、女の子が家を飛び出して色々な場所を訪ね歩き、そこで様々な人と会って成長していく、というお話に見えた。舞踊色の強い幻想的な作品だった。最初のうちは、仲間内の「お遊戯」的な舞台だなと思っていたのだけれど、この演出家(ジャン・パルマー)は詩的なイメージに富む視覚表現を作ることに長けている。背景にある枯れ木を組み合わせて作った一本の樹木を中心に、春夏秋冬の移ろいの表現がとても美しい。とりわけ大きな白い布を使った川の表現、その白い布で舞台一面を覆うことで表した雪の表現が印象的だった。ダウン症の男性が役者として出ていたが、ダウン症独特の子供っぽい笑顔も舞台表現として効果的に使用していた。ピアニカや打楽器を使った生演奏の音楽も叙情的なイメージに広がりを与えていた。
二作目のロルカの『血の婚礼』はさらによかった。この芝居には聾唖者、視覚障害者、脳性麻痺障害者と健常者の役者が出演している。芝居の時代を現代に移し、固有名詞のある登場人物名は日本人のものとなっていたが、黒を基調としたフォーマルな衣装、抽象的な舞台美術ゆえ、無国籍風の舞台となっていた。極めてスタイリッシュな舞台だった。
主人公の「花嫁」は聾唖者が演じる。台詞には常に手話が伴う。その手話も日本手話とイギリス手話が混交している。台詞のほとんどは日本語だが、メイドを演じるのは英国人女優であり、彼女の台詞だけはほとんど英語である。手話は、その大きな動きゆえに、日本語の台詞の舞踊的な注釈になっているように見えた。この動きの面白さが、ドラマ作りの中でうまく組み込まれていた。身体的制限がもたらす不自由さが生み出したコミュニケーション手段の多様性は、ドラマの象徴的性格を高めている。
恋人と息子を失ったときの聾唖者の二人の女優の激しい慟哭は、彼女たちがそれまで、静寂のなか手話という身体言語を用いていただけに、より一層痛切な悲壮感に満ちているように感じられた。
こうした身体的言語表現の特性を生かした演出以外にも、キスシーンでの濃厚で生々しいエロティシズムも印象に残る。その官能性はおそらく、障害者が舞台上で性を演じることの意外性によって増幅されているのだけれども、演出家はそういったことも計算済みであるように思えた。
役者の属性を適切に生かしドラマを作り上げた、非常に優れた舞台だと僕は思った。
アフタートークで二人の演出家の話を聞く。
二作目の演出家、ジェニー・シーレイは聾者で、元々は一作目の演出家ジョン・パルマー(彼は健常者)のもとで活動していたが、芸術観の違いにより、10年前に彼と袂を分かったという。パルマーが知的障害者との活動に関心を持っていたのに対し、シーレイは知的障害でない障害者が中心の演劇作りを目指した。この10年、二人は別々の障害者劇団を主宰し、それぞれ活動を続けてきた言う。パルマー演出のダウン症男性の使い方のうまさは、確かに彼のこうした志向を裏付けるものであるように思う。知的遅滞のある役者の表現に彼は可能性を見いだしているのだ。シーレイの志向はより前衛的に思える。障害という属性を積極的に生かした、技巧的で知的な芝居作りを目指しているように思えた。