北京蝶々
北京蝶々ウェブサイト
- 作・演出:大塩哲史
- 演出:黒澤世莉(時間堂)
- 照明・音響:北京蝶々
- 美術:大塩哲史
- 出演:酒巻誉洋、田渕彰展、金子久美(aji)、菅野貴夫(時間堂)、帯金ゆかり、熊川ふみ(範宙遊泳)、森田祐吏、岡安慶子、木村キリコ(ミナモザ)
- 劇場:渋谷 ギャラリー・ルデコ
- 評価:☆☆☆★
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劇団初見。2008年に上演した「あなたの部品」の改訂版だが全面的に書き換えられているという。今作は時間堂の黒澤世莉氏が演出。
事故などで失った手足を補う義肢の製作と調製を行う義肢装具士のアトリエ兼診察室が舞台。義肢装具士にもとにやってくる患者とその周囲の人間たちの群像劇だった。身体の一部が欠損するという障害がもたらす鬱屈がリアルに表現されていた。演技の雰囲気や芝居のテンポは乾いていて情緒に訴えかけるようなあざとさは避けられているのだけれど、芝居が作り出すのっぺりとした無機質の空気は重苦しい。戯曲のディアローグは登場人物たちが抱える闇をさりげなく自然に描き出している。役者も適材適所という感じの役柄を担当している。演出上の細かい配慮、工夫が物語にしっかりとした輪郭を与え、ほどよい緩急で物語を進めていく。細部までよく練られ、丁寧に作られた作品のように思ったが、鑑賞後の後味はあまりよくない。どーんと気分が沈んだ。主題とその扱い方に微妙な違和感を感じたのだ。
会場のギャラリー・ル・デコは学校の教室ほどの広さだが天井が低く、大きな柱が何本かあって劇場としての環境はよくない。床の面を舞台にしてそれを客席が取り囲む感じで配置されていた。舞台としての制約の大きさを逆に利用して、空間をそのまま古ぼけたビルの一室にひっそりとあるアトリエ兼診察室に見立てていた。舞台袖はない。役者は自分の出番が終わると後側に移動し、マネキンの展示のようにポーズをとってじっと待機している。あたかもアトリエに展示されている数々の義足、義手のようだ。
後半の一部をのぞき、前方には机と椅子が置かれ、そこが義肢装具士の診察場所兼作業場に見立てられていた。後半の途中にその場に矢継ぎ早にいろいろな人物が訪れる幻想的な場面がある。義肢装具士の妄想か現実か夢か曖昧な場面である。そこでは椅子と机が取り除かれる。殺風景な空間をうまく利用し、融通無碍の舞台空間を作り出す手際に感心した。
主題にはひっかかりを感じる。劇中であまりにもリアルに生々しく、身体欠損障碍者の鬱屈、コンプレックスが表現されていたのでなおさらである。「障害者」というレッテルを貼られた人たちにどう接するのか、彼らをどう表現し、どう受けとめるのかはとてもデリケートな問題だと改めて思った。この戯曲自体は障害者を描くことを目的としたものではないのだが、しかしこの戯曲の文脈のなかでの身体欠損者の存在のありようにどこか釈然としないところがある。
障害なんて我々一人一人が持つ様々な属性の一つに過ぎない、ことさら気にするほうがおかしいという「言い方」もある。しかしこうした「言い方」には私はどこか欺瞞を感じる。そもそも障害者(現在では障碍者、障がい者と記述すべきという意見もあるようだが)という言い方である種の人々を呼ぶこと自体にすでに我々の「障害」に対する意識が現れているような気がする。「障害は不便だけど不幸ではない」という言葉は乙武氏のものだっただろうか。しかし「障害者と呼ばれる人たちが抱える不便は不幸なものである」という社会の見方があるのも歴然とした事実のように思う。ここで障害が不幸という言い方は適切ではない。ただ障害者がそれぞれその障害ゆえに抱えている不便と健常者が日常的に抱えうる不便を同じレベルで考えることは難しいように私は思う。また障害=不幸でないことは確かだが、障害があるからがゆえに自分が不幸であると考えている人も世の中には少なくないように思う。この芝居ではまさにそうした人々が抱えうる精神の鬱屈がリアルに表現されている。そこにひっかかりを感じる。
この芝居を観て感じた違和感については明確に言語化できていないところがあるのだが、「健常者」である我々が身体欠損の障害者が抱えているであろう鬱屈を作品として表現することは果たして許されるのだろうか、それが許されるとすればどのような場合なのだろうか、ということが思い浮かぶ。あるいは我々一人一人が抱えているであろう様々な「欠如」、「欠損」の比喩として、身体欠損障害者を引き合いに出すのは許されることなのだろうか、とか。しかし問題にすべきなのは戯曲よりむしろ私自身の障害者観であるかもしれない。
aji所属、客演の金子久美の美しさが衝撃的だった。仲間由紀恵と赤澤ムックを掛け合わせたような美貌。範宙遊泳の熊川ふみもくりくりした目がとても印象的で可愛らしい。