閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

美人研究:女にとって容貌とは何か

井上章一河出書房新社、1991年)
ISBN:4309230202
評価:☆☆☆☆

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井上章一の『美人論』が出版され話題になったのは僕が大学学部在学中のことだったと思う。それまで、そして今もなおタブーの感が強い女性の美醜についての言説を、実証的な方法で歴史的に追ったきわめてユニークな著作である。
もともと僕自身、美人には大きなこだわりを持っていたので、この革命的な著作の視点および方法論には大きく影響された。
僕の美人へのこだわりはおそらく一番には父親の影響があるだろう。セミプロの画家でもあった父はとかく女性の美醜を口にする人だったのだ。「あの人はブスだけど仕事は丁寧で信頼できる人だ」などと言うことを平気で言う人だったのである。母はこうした父の態度をひどく軽蔑していて、父がこのようなことを口にするたびに激しく反応していたものである。
さて美醜に対して人並み外れた「率直な」嗜好を示す父が選んだ母の容貌であるが、肉親を性的な観点からとらえることには大きな抵抗を感じるのであるがあえて言うと、小柄ではあるがかなりかわいらしい顔立ちだった。おそらく「かわいいかわいい」といわれながら大人になったに違いない。
僕はこうした父の影響をもろに受けた上、自身が自意識過剰の上、女性に人気がなかったために、思春期をすぎるころから猛烈な美人志向となってしまった。高嶺の花で終わる場合が多かったが好きになる女性はことごとく世間的な意味でも美人であった。不細工な女に好かれて付き合うよりも、たとえ片思いに終わったにせよ、美人との恋愛を夢見たいとずっと考えてきたのである。女性にもてないというコンプレックスの反作用として、美人へのこだわりは加速度的に高まった。

妻もその容貌の美しさに惹かれたのである。若いころの妻の写真を見ると本当に信じがたいほど美しい。周りにも「妻は顔で選んだ」と公言している。その結果の結婚が幸せなものであるかどうかはかなり微妙、なのではあるが、これは妻が美人であるからうまくいかなかったというよりも、こちらが甲斐性なしであることが大きな原因だ。パートナーを美醜で選んだことについては後悔はまったくしていない。

美人は存在するだけでその場の空気を華やいだものにし、周囲の人間を快活にさせる力を持っている。美人の効用は大きい。
しかし美人が己の美しさを認めること、美女の「社会的効用」、「価値」を公言することは、現代の日本の文化風土ではかなり難しいことだ。この『美人研究』は8人の美女(うち6名は匿名)に井上がインタビューをすることで、それぞれの「美人意識」のライフヒストリーを記録したものである。現代の日本の社会において美人であることはどういう意味を持つのか、どういった影響を本人の人格形成の上にもたらすのかが、井上の率直な問いかけによって明らかになっていく。実際、女優やモデルなどの公然と自分の美を売り物にしている特殊例をのぞき、日常の中で美人に己の美人意識を認めさせるのは至難の技だ。僕の場合、美人に対峙するとまずその人の美貌を率直に賞賛した上で(この時点でいやな顔をされることも多い)、彼女に自分が美人であることを認める言説をさせたい強い衝動にかられる。美人が己の美を意識しつつも「私はそんなにきれいじゃない。ほかにもっと美しい人はたくさんいる」といった類の偽りの謙遜言説をすることに、大きな偽善と「公憤」めいたいらだちを感じてしまうのである。
また逆に自分が美人であることを言葉の上で認める美人のいさぎよさには大きな好感を抱く。自分の妻が「私は美人だから、云々」と己の美を認めた発言をはじめてしたときのあの「感動」にもにた満足感はいったいなんなのか!?

井上の著作ではわずか8人の美人のインタビューしか掲載されておらず、これは井上も求めるとおり美人意識のライフヒストリーの分析のためのサンプルとしてははなはだ不十分である。しかしわずか8名とはいえ、井上の執拗且つ巧みな誘導による、自己の美人意識の告白は、そこに日常では隠蔽された美醜差別の価値観が表出せざるえないだけに、実にスリリングであった。